前稿では、越前国の式内社114社126座のうち『足羽社記略』に記載される40社44座の社名を紹介した上で、『足羽社記略』に登場する式内社17社から、敦賀郡の石田神社、丹生郡の兄子神社、雨夜神社、佐々牟志神社、麻氣神社、足羽郡の直野神社、分神社の7社について、その記載内容を簡単に確認した。本稿ではその後編として、今立郡の刀那神社、大野郡の國生大野神社、坂門一事主神社、荒嶋神社、坂井郡の毛谷神社、久米多神社、國神神社、絲前神社、大湊神社、英多神社の10社について確認していく。
刀那神社(今立郡)
継体天皇にまつわる旧跡に登場した「茨田」に書いたとおり、刀那神社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所に論社があるが、鯖江市によると上戸口町の刀那神社を式内社に比定している。しかし「其社ヲ尾花ノ森ト云」とあることや、茨田皇女がこの地で薨じたので社を建立して皇女の御霊を祀ったとする社伝からも尾花町の刀那神社(現在の禅定神社)の方が妥当であろう。
國生大野神社(大野郡)
「是乃大埜氏ノ神㚑也」とし、その大埜氏については「此命ノ大埜朝臣者是上毛埜下毛埜君ノ祖也」とする(「埜」はいずれも「野」と同じ)。此命とは豊城入彦命を指す。『記紀』によれば上毛野氏・下毛野氏の祖は豊城入彦命であるが、『新撰姓氏録』によると大野朝臣は「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也」とある。壬申の乱で活躍した大野君果安や東国征討で名を挙げた大野朝臣東人などを輩出した大野氏と大野郡をつなげたい意図が窺える。福井県神社庁によれば國生大埜神社の祭神は伊邪那美尊と大若生子命となっている。大若生子命は若生子村の名を冠することからこの土地の神であろう。
坂門一事主神社(大野郡)
『足羽社記略』では「坂門一事神社」と記し、坂田大俣王の御名代とした坂戸村(現在の大野市牛ヶ原)に鎮座する。福井県神社庁によれば神社名は坂門一言神社で、祭神は坂田大跨命と一言主命である。坂田大跨王は継体妃である広媛の父で、天神本紀で五部造として饒速日尊に随伴して降臨した坂戸造の祖神とする説もあるようだが定かではない。なお、「一言神」「一事神」「一言主神」「一事主神」など、文献によって異なる名称が用いられる。
荒嶋神社(大野郡)
荒嶋嶽の西麓、大野市佐開に鎮座する。荒嶋嶽は「継体安閑宣化欽明敏達朝廷棟梁之臣物部氏等ノ神㚑ノ坐ス山也」とするが、これらの天皇に仕えた物部氏は、物部麁鹿火、物部尾輿、物部守屋の3名の大連である。福井県神社庁によれば祭神は物部大連ノ霊と天津児屋根命となっているが、天津児屋根命は春日宮との合祀の結果であると思われる。「旧事紀云物部ノ荒山ノ連公ノ弟物部麻作ノ連ハ笑原ノ連ノ祖也」として、荒嶋嶽の麓にある和良比婦村の名称を笑原の訛であるとする。その真偽は定かではないが『足羽社記略』のところどころで物部氏を登場させることは大変興味深い。
毛谷神社(坂井郡)
足羽郡黒龍の項で紹介される。「中古故アツテ當郷櫻井ノ上ノ山ニ改メ祭ル」「今其麓ヲモ毛谷ト云」とあって「桜井ハ継体ノ御子椀子王ノ子櫻井王ナリ」とするが、桜井山の名が桜井王に由来するのかどうか、真偽はわからない。『延喜式』では坂井郡33坐に入っており、坂井郡高屋郷黒龍村毛谷の杜に創建された後に現在地の福井市毛矢に遷座、その後に裏手の櫻井山を寄進されたことが毛谷黒龍神社(現神社名)の由緒に記される。また、男大迹王による三大河の治水工事の際に高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱を祀る毛谷神社が創建され、その後に男大迹天皇が合祀されたとも記されるが『足羽社記略』はこのことに触れない。
久米多神社(坂井郡)
「山アリ陵山ト云フ」「久米田神社(上久米田山ニ有)」「是継体帝棟梁ノ臣大伴ノ大連ナランカ」とする。『越前国官社考』によると、陵山には神武東征の時に大伴連等の祖である道臣命と共に大和で兄宇迦斯を討った大久米命が葬られているらしい。福井県神社庁によれば久米田神社にはまさに大伴金村大連が祀られている。大伴金村は武烈天皇の後継として継体を推挙した重臣である。神社の所在地は坂井市丸岡町下久米田である。
國神神社(坂井郡)
「今丸岡ト云」「継体ノ子椀子王ノ故趾ナリ」「其神㚑ハ國神村ニアリ」「國神ノ神社是ナリ」とする。神社ホームページによると、所在地は坂井市丸岡町石城戸町で祭神は椀子皇子である。由緒には、男大迹王の意志を継ぎ、湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより国土開発の守護神として厚く崇められたと記される。三尾君堅拭の娘である倭媛の子で三国公・三国真人の祖とされることから、越前で影響力を持っていたと考えられる椀子皇子が、父継体の意志を継いだという話はさもありなん。
絲前神社(坂井郡)
「糸媛ノ神㚑ノ在ス処ナランカ」とする。糸媛は応神天皇の妃であるが、先述した通り、坂井郡に応神天皇の所縁があるとは考えにくい。福井県神社庁サイトに絲前神社や糸崎神社は見当たらないことから、現在では廃絶されている可能性がある。ただし、糸崎神社の別当寺といわれる糸崎寺の記録が残っていることから、現在の糸崎寺近辺に鎮座していたと思われる。
大湊神社(坂井郡)
「三尾君等ノ祖神也 今ハ雄嶋三尾大明神ト号ス」とある。神社ホームページによると祭神は三保大明神(三尾大明神)、事代主神、少彦名神、大物主神、三穂須々美神、天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、応神天皇とするが大物主神以降は天正年間、応神天皇は明治45年の合祀となっている。三尾大明神の名から三尾君との関係は窺えるものの、美保大明神あるいは事代主神からは出雲とのつながりも想定される。また「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナルノ功業ヲ封シ祭リ玉フ神是ナリ」とするが、神社ホームページや福井県神社庁サイトにこのことは記されない。鎮座地は坂井市三国町安島である。
英多神社(坂井郡)
『足羽社記略』の最後の項で、九頭龍川の流れについて荒嶋カ嶽から順に記載する中で「英田(アヤタ)を経」「遂ニ三國ニ至リ海ニ朝宗ス」と記載される。「今布施田ト云」「延喜式ニ英田神社コレ継体帝四代ノ孫薙波王ノ神社」とあることから、福井市布施田町にある熊野神社が英田神社に比定される。しかし、福井県神社庁サイトにそのことは記載されず、祭神は櫲樟日命(くすびのみこと)とする。この神は素戔嗚尊が天照大神の八尺瓊勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱である。九頭龍川河口付近には熊野神社が多く分布し、そのほとんどの祭神は櫲樟日命である。この事実は越前と出雲とのつながりを想定させてくれる。ところで、薙波王は敏達天皇の皇子である難波王の誤りであろうが、語呂合わせにもなっていないにも関わらず継体天皇との関係に言及するのはどうしてだろうか。
以上、前編・後編の2回に分けて『足羽社記略』において天皇家、とくに継体一族との関係性に言及している式内社17社について内容を確認してみた。どれもその内容や両者の関係性を確実に否定できるわけではないが、その根拠が史実として明確になっているものはなく、また、単なる語呂合わせの場合もあり、積極的に肯定できるものはひとつもないと言うのが正直な印象である。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国官社考」
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「玄松子の記憶」
(https://genbu.net/)
「國神神社Webサイト」
(http://www.kunigamijinja.jp/)
「大湊神社Webサイト」
(https://echizen-oshima.com/)
刀那神社(今立郡)
継体天皇にまつわる旧跡に登場した「茨田」に書いたとおり、刀那神社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所に論社があるが、鯖江市によると上戸口町の刀那神社を式内社に比定している。しかし「其社ヲ尾花ノ森ト云」とあることや、茨田皇女がこの地で薨じたので社を建立して皇女の御霊を祀ったとする社伝からも尾花町の刀那神社(現在の禅定神社)の方が妥当であろう。
國生大野神社(大野郡)
「是乃大埜氏ノ神㚑也」とし、その大埜氏については「此命ノ大埜朝臣者是上毛埜下毛埜君ノ祖也」とする(「埜」はいずれも「野」と同じ)。此命とは豊城入彦命を指す。『記紀』によれば上毛野氏・下毛野氏の祖は豊城入彦命であるが、『新撰姓氏録』によると大野朝臣は「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也」とある。壬申の乱で活躍した大野君果安や東国征討で名を挙げた大野朝臣東人などを輩出した大野氏と大野郡をつなげたい意図が窺える。福井県神社庁によれば國生大埜神社の祭神は伊邪那美尊と大若生子命となっている。大若生子命は若生子村の名を冠することからこの土地の神であろう。
坂門一事主神社(大野郡)
『足羽社記略』では「坂門一事神社」と記し、坂田大俣王の御名代とした坂戸村(現在の大野市牛ヶ原)に鎮座する。福井県神社庁によれば神社名は坂門一言神社で、祭神は坂田大跨命と一言主命である。坂田大跨王は継体妃である広媛の父で、天神本紀で五部造として饒速日尊に随伴して降臨した坂戸造の祖神とする説もあるようだが定かではない。なお、「一言神」「一事神」「一言主神」「一事主神」など、文献によって異なる名称が用いられる。
荒嶋神社(大野郡)
荒嶋嶽の西麓、大野市佐開に鎮座する。荒嶋嶽は「継体安閑宣化欽明敏達朝廷棟梁之臣物部氏等ノ神㚑ノ坐ス山也」とするが、これらの天皇に仕えた物部氏は、物部麁鹿火、物部尾輿、物部守屋の3名の大連である。福井県神社庁によれば祭神は物部大連ノ霊と天津児屋根命となっているが、天津児屋根命は春日宮との合祀の結果であると思われる。「旧事紀云物部ノ荒山ノ連公ノ弟物部麻作ノ連ハ笑原ノ連ノ祖也」として、荒嶋嶽の麓にある和良比婦村の名称を笑原の訛であるとする。その真偽は定かではないが『足羽社記略』のところどころで物部氏を登場させることは大変興味深い。
毛谷神社(坂井郡)
足羽郡黒龍の項で紹介される。「中古故アツテ當郷櫻井ノ上ノ山ニ改メ祭ル」「今其麓ヲモ毛谷ト云」とあって「桜井ハ継体ノ御子椀子王ノ子櫻井王ナリ」とするが、桜井山の名が桜井王に由来するのかどうか、真偽はわからない。『延喜式』では坂井郡33坐に入っており、坂井郡高屋郷黒龍村毛谷の杜に創建された後に現在地の福井市毛矢に遷座、その後に裏手の櫻井山を寄進されたことが毛谷黒龍神社(現神社名)の由緒に記される。また、男大迹王による三大河の治水工事の際に高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱を祀る毛谷神社が創建され、その後に男大迹天皇が合祀されたとも記されるが『足羽社記略』はこのことに触れない。
久米多神社(坂井郡)
「山アリ陵山ト云フ」「久米田神社(上久米田山ニ有)」「是継体帝棟梁ノ臣大伴ノ大連ナランカ」とする。『越前国官社考』によると、陵山には神武東征の時に大伴連等の祖である道臣命と共に大和で兄宇迦斯を討った大久米命が葬られているらしい。福井県神社庁によれば久米田神社にはまさに大伴金村大連が祀られている。大伴金村は武烈天皇の後継として継体を推挙した重臣である。神社の所在地は坂井市丸岡町下久米田である。
國神神社(坂井郡)
「今丸岡ト云」「継体ノ子椀子王ノ故趾ナリ」「其神㚑ハ國神村ニアリ」「國神ノ神社是ナリ」とする。神社ホームページによると、所在地は坂井市丸岡町石城戸町で祭神は椀子皇子である。由緒には、男大迹王の意志を継ぎ、湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより国土開発の守護神として厚く崇められたと記される。三尾君堅拭の娘である倭媛の子で三国公・三国真人の祖とされることから、越前で影響力を持っていたと考えられる椀子皇子が、父継体の意志を継いだという話はさもありなん。
絲前神社(坂井郡)
「糸媛ノ神㚑ノ在ス処ナランカ」とする。糸媛は応神天皇の妃であるが、先述した通り、坂井郡に応神天皇の所縁があるとは考えにくい。福井県神社庁サイトに絲前神社や糸崎神社は見当たらないことから、現在では廃絶されている可能性がある。ただし、糸崎神社の別当寺といわれる糸崎寺の記録が残っていることから、現在の糸崎寺近辺に鎮座していたと思われる。
大湊神社(坂井郡)
「三尾君等ノ祖神也 今ハ雄嶋三尾大明神ト号ス」とある。神社ホームページによると祭神は三保大明神(三尾大明神)、事代主神、少彦名神、大物主神、三穂須々美神、天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、応神天皇とするが大物主神以降は天正年間、応神天皇は明治45年の合祀となっている。三尾大明神の名から三尾君との関係は窺えるものの、美保大明神あるいは事代主神からは出雲とのつながりも想定される。また「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナルノ功業ヲ封シ祭リ玉フ神是ナリ」とするが、神社ホームページや福井県神社庁サイトにこのことは記されない。鎮座地は坂井市三国町安島である。
英多神社(坂井郡)
『足羽社記略』の最後の項で、九頭龍川の流れについて荒嶋カ嶽から順に記載する中で「英田(アヤタ)を経」「遂ニ三國ニ至リ海ニ朝宗ス」と記載される。「今布施田ト云」「延喜式ニ英田神社コレ継体帝四代ノ孫薙波王ノ神社」とあることから、福井市布施田町にある熊野神社が英田神社に比定される。しかし、福井県神社庁サイトにそのことは記載されず、祭神は櫲樟日命(くすびのみこと)とする。この神は素戔嗚尊が天照大神の八尺瓊勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱である。九頭龍川河口付近には熊野神社が多く分布し、そのほとんどの祭神は櫲樟日命である。この事実は越前と出雲とのつながりを想定させてくれる。ところで、薙波王は敏達天皇の皇子である難波王の誤りであろうが、語呂合わせにもなっていないにも関わらず継体天皇との関係に言及するのはどうしてだろうか。
以上、前編・後編の2回に分けて『足羽社記略』において天皇家、とくに継体一族との関係性に言及している式内社17社について内容を確認してみた。どれもその内容や両者の関係性を確実に否定できるわけではないが、その根拠が史実として明確になっているものはなく、また、単なる語呂合わせの場合もあり、積極的に肯定できるものはひとつもないと言うのが正直な印象である。
(つづく)
<参考文献等>
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国官社考」
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「玄松子の記憶」
(https://genbu.net/)
「國神神社Webサイト」
(http://www.kunigamijinja.jp/)
「大湊神社Webサイト」
(https://echizen-oshima.com/)