古代日本国成立の物語

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神功皇后(その6 新羅征討③)

2018年02月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は吉備臣の祖である鴨別(かものわけ)に熊襲を討たせたあと、神の教えに従って新羅征討を決意する。そもそも神功皇后は仲哀天皇による熊襲征討を阻止して新羅を討たせようとしたにもかかわらず、皇后自らが熊襲を討たせたのはどうしてか。この疑問については「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」ですでに触れておいた。
 その後、荷持田村(のとりたのふれ)に住む羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)で討った。皇后が「熊鷲を取って心が安らかになった」と言ったので、この地を安(やす)と呼ぶようになった。荷持田村は現在の福岡県朝倉市秋月野鳥付近と考えられており、羽白熊鷲の墓とされる円墳が残されている。安は現在の福岡県朝倉郡筑前町であるが、筑前町は2005年に夜須町と三輪町が合併してできた町である。
 続いて山門県(やまとのあがた)で田油津媛(たぶらつひめ)を殺害した。この田油津媛については「景行天皇(その6 九州平定③)」で触れておいたが、景行天皇の九州征討のときに白旗を掲げて帰順を申し出た女首長である神夏磯媛(かむなつひめ)の後裔であろうと考えるのだが、先祖が景行天皇に忠誠を誓ったにもかかわらず二代あとの仲哀天皇のときには天皇家に敵対する勢力になっていたと書いたが、これは逆に考えた方がいいだろう。神功皇后は仲哀天皇を崩御に追い込んだあと、その天皇家側の勢力になっていた神夏磯媛の後裔を討ったのだ。

 こうして神功皇后は後顧の憂いを絶ったあと、いよいよ新羅出兵の準備を整えるのであるが、その過程で様々な不思議な現象が起こる。
 肥前国松浦県の小川のほとりで食事をしたとき、皇后は針をまげて釣針を作って飯粒を餌に、裳の糸を釣糸にして神意を伺う占いをして「私は西方の財(たから)の国を求めようと思うが、事を成すことができるなら河の魚よ、釣針を食え」と言って竿を上げると鮎がかかった。皇后は神の教えがその通りであることを知って西方を討とうと決意した。そして神田を定めて儺の河(那珂川)から水を引こうと溝を掘ったところ、大岩が塞がって溝を通すことができなかったので、武内宿禰を呼んで剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせて溝を通したいと願ったところ、急に雷が激しく鳴って大岩を踏み砕いて水を通すことができた。
 皇后は香椎宮に戻って髪を解いて「私は神祇の教えのもとに西方を討とう思う。もし霊験があるのなら頭を海水ですすいだときに髪がひとりでに二つに分かれますように」と言って海に入って頭をすすぐと髪はひとりでに分かれた。このあと皇后は分かれた髪を鬟(みずら)に結い上げ、群臣に向かって新羅征討の決意を表明すると一同が皇后に従った。
 数々の不思議な現象によって皇后の神性を表現することで新羅征討の成功を予感させ、さらに皇后が髪を鬟に結って男性に変身し、征討軍のリーダーとなって群臣をひとつにまとめるシーンは否が応でも気持ちを高める。仲哀天皇亡きあと、次の応神天皇が生まれるまでの中継ぎとして神功皇后が政権を担うに相応しいことを演出していると言える。

 その後も、軍兵が集まらないときに大三輪神社に刀・矛を祀ると軍兵が自然と集まり、さらに吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)、続いて磯鹿海人(しかのあま)の草(くさ)という人物に西方の国を確認させたあと、出発の吉日を占った。吾瓮は関門海峡に浮かぶ阿閉島、磯鹿は志賀島とされる。
 そして「和魂(にぎみたま)は王の身を守り、荒魂(あらみたま)は軍船を導く」という神の教えを受けて拝礼し、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭りの神主とした。皇后はこの教えに従って荒魂を招いて軍の先鋒とし、和魂を請じて船の守りとした。このときの神は表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神である。皇后が新羅から帰還したときに三神が軍に従ったと記される。
 とことん神の力を背負っているが、極めつけは臨月に入っていた皇后が石を腰に挟んで「事を成就して戻ってからこの地で生まれてほしい」と祈って新羅に向かい、新羅征討に2ケ月以上の期間を要した後に、ちょっと考えにくいことだが、結果はその祈りの通りになった。そうして生まれたのが応神天皇である。

 こうして仲哀天皇が崩御してから約8ケ月を経て、皇后軍は新羅へ向けて出発した。このときも風の神、波の神の力を得て一気に新羅に上陸し、あっという間に新羅王を降伏に追い込んだ。このときの書紀の記述は、先に挙げた新羅本紀の346年の記事「倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す」にまさに合致している。征討軍は大勝利を収めたのであるが、新羅が地図や戸籍を差し出して神功皇后の軍門に降ったことを聞いた高麗および百済も帰順を申し出た。これをもって三韓征伐と言われる。

 先述の通り、神功皇后は新羅から帰還して応神天皇を生んだ。時の人はその場所を宇瀰(うみ)と名付けた。現在の福岡県糟屋郡宇美町である。皇后は腰に石を挟んで出産を遅らせたのであるが、果たして本当だろうか。そもそも臨月に入っていつ生まれるかわからない状態で新羅まで出向くなど非現実的である。仲哀天皇崩御が2月5日、そして応神天皇誕生が12月14日で、その間に新羅征討がある。これは応神天皇が仲哀天皇の子であることを言わんがためのぎりぎりの設定で、あまりに出来過ぎている。応神天皇誕生を12月14日よりあとの日にしてしまうと万世一系が途絶えるだけでなく、神功皇后が不貞を働いたことを明かすことになってしまうのだ。つまり、この無理な設定は新羅からの帰国後に生まれた応神天皇の父親が仲哀天皇でないことを明かしているようなものではないだろうか。応神天皇の誕生についてはあらためて考えたい。

 さて、新羅からの帰国後、軍に従った表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が「わが荒魂を穴門の山田邑に祀りなさい」と言ったところ、穴門直(あたい)の先祖である践立(ほむたち)と津守連の先祖である田裳見(たもみ)宿禰が「神の居たいと思われるところを定めましょう」と申し出たので、践立を荒魂を祀る神主とし、穴門の山田邑に祠を立てた。この山田邑の祠は山口県下関市一の宮住吉にある住吉神社で、大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つとされるが、全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。そして田裳見宿禰を先祖とする津守氏は住吉大社の歴代宮司を務める氏族である。



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