オブサン古墳はチブサン古墳から歩いて5分ほど、チブサン古墳の北西約200mに位置する。6世紀後半の築造とされ、直径約22m、高さ約4mの突堤付き円墳である。埋葬主体部は巨石で造られた横穴式石室をもち、この石室は全長約8.5m、玄室・前室・羨道からなる複室構造で、前庭部を含めると16m以上に及ぶ。玄室部の壁面や仕切り石に赤色顔料で連続三角文などが描かれる装飾古墳であるが、その装飾は時間の経過とともに薄れてしまい、残念ながら肉眼では確認できなかった。ここもチブサン古墳と同様にすぐ近くにガイダンス施設があった。
オブサンは「産(うぶ)さん」が訛ったもので、安産の神様として古くから地域の人たちに信仰されている。また、西南戦争の際には薩摩軍が立てこもり、そのときの官軍の弾痕が残っている。
チブサン古墳から歩いていくと墳丘が見える。
南側から石室の開口部。
両側に伸びるのが突堤と言われる部分で、この構造をもった古墳を見るのは初めてだ。
石室の構造。
手前が前室、奥が玄室で扉の奥が石屋形。屍床(ししょう=遺体を横たえる床)を家形にしたもの。
玄室の石屋形。
石室内には玄室の石屋形と手前の両側、前室の両側と計5つの屍床が設けられている。つまり、あとから4つの遺体を追葬するためだ。王家一族の墓ということだ。
玄室の側壁(上が左側、下が右側)。
いずれにも装飾が確認できなかった。
ガイダンスにあった説明。
石室の構造図がわかりやすい。
同じくガイダンスに展示された閉塞石。
左が前室を塞いでいた閉塞石、右が玄室の閉塞石。前室の石には西南戦争時の弾痕(小さな丸い穴)が認められる。
このオブサン古墳の裏手を上がると、西福寺古墳群がある。
西福寺古墳群には円墳1基、方形周溝墓2基、石棺12基が保存されている。12号石棺はチブサン古墳のそばにあったやつだ。
古墳時代前期と推定される方形周溝墓。上の写真のいちばん奥に見える一段高くなった平らな墳丘がそれ。
古墳時代の方形周溝墓という言い方は違和感がある。2つ上の写真からもわかるように一段高くなった墳丘墓で周濠もある。それが前期とはいえ古墳時代のものであるというなら、まさに古墳そのものではないか。
様々な石棺があちこちに。ほかの地域から移設されたものもたくさんある。
それぞれの石棺には盛り土があったはずだが、すべて削平されていた。
オブサン古墳も含めてこの一帯を治めていた権力者の墓域ということだろう。実は上の方形周溝墓のすぐ向こうに山鹿市立博物館があるということをあとで知った。どうやら通常の見学者とは真逆のコースを辿ったようだ。
以上、6回にわたって九州車中泊ツアーで立ち寄った遺跡・古墳を紹介しました。
オブサンは「産(うぶ)さん」が訛ったもので、安産の神様として古くから地域の人たちに信仰されている。また、西南戦争の際には薩摩軍が立てこもり、そのときの官軍の弾痕が残っている。
チブサン古墳から歩いていくと墳丘が見える。
南側から石室の開口部。
両側に伸びるのが突堤と言われる部分で、この構造をもった古墳を見るのは初めてだ。
石室の構造。
手前が前室、奥が玄室で扉の奥が石屋形。屍床(ししょう=遺体を横たえる床)を家形にしたもの。
玄室の石屋形。
石室内には玄室の石屋形と手前の両側、前室の両側と計5つの屍床が設けられている。つまり、あとから4つの遺体を追葬するためだ。王家一族の墓ということだ。
玄室の側壁(上が左側、下が右側)。
いずれにも装飾が確認できなかった。
ガイダンスにあった説明。
石室の構造図がわかりやすい。
同じくガイダンスに展示された閉塞石。
左が前室を塞いでいた閉塞石、右が玄室の閉塞石。前室の石には西南戦争時の弾痕(小さな丸い穴)が認められる。
このオブサン古墳の裏手を上がると、西福寺古墳群がある。
西福寺古墳群には円墳1基、方形周溝墓2基、石棺12基が保存されている。12号石棺はチブサン古墳のそばにあったやつだ。
古墳時代前期と推定される方形周溝墓。上の写真のいちばん奥に見える一段高くなった平らな墳丘がそれ。
古墳時代の方形周溝墓という言い方は違和感がある。2つ上の写真からもわかるように一段高くなった墳丘墓で周濠もある。それが前期とはいえ古墳時代のものであるというなら、まさに古墳そのものではないか。
様々な石棺があちこちに。ほかの地域から移設されたものもたくさんある。
それぞれの石棺には盛り土があったはずだが、すべて削平されていた。
オブサン古墳も含めてこの一帯を治めていた権力者の墓域ということだろう。実は上の方形周溝墓のすぐ向こうに山鹿市立博物館があるということをあとで知った。どうやら通常の見学者とは真逆のコースを辿ったようだ。
以上、6回にわたって九州車中泊ツアーで立ち寄った遺跡・古墳を紹介しました。
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