古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

熊野本宮大社(熊野実地踏査ツアー No.1)

2016年11月15日 | 実地踏査・古代史旅
2015年2月11~12日、いつもの仲間三人で神武東征と徐福伝説を訪ねる熊野ツアーを敢行。大阪から奈良県五条市を抜けて国道168号線を南下。途中、日本一高い吊り橋「谷瀬の吊り橋」にも立ち寄り、まずは熊野本宮大社を参拝。和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮大社は熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の中心、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮で、主祭神は家都美御子大神。この神は素戔嗚尊とされている。

神社公式サイトにある由緒・歴史は以下の通り。
熊野連山の三千六百峰を形成する、果無山脈。その山間を縫うが如く流れ、太平洋へと続く熊野川は、まさに熊野の大動脈です。この熊野川の中枢に、古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が、熊野本宮大社です。熊野本宮大社は過去「熊野坐神社」と号し、熊野の神と言えば本宮のことを表していたものと推測されます。
熊野坐大神の御鎮座の年代は文献に明白ではありませんが、神武東征以前には既に御鎮座になったと云われており、社殿は615年、第十代崇神天皇の時代に創建されたと『皇年代略記』や『神社縁起』に記されています。奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化により「熊野権現」と称し、神々に仏名を配するようになりました。熊野本宮大社は上・中・下社の三社から成るため、熊野三所権現と呼ばれています。また、十二殿に御祭神が鎮座ますことから、熊野十二社権現とも仰がれています。
平安当時、宇多法皇に始まる歴代法皇・上皇・女院の熊野御幸は百余度に及びました。幾度かの御幸に供奉した藤原定家が『明月記』の中で「感涙禁じ難し」と記しており 、困難な道を歩き御神前に詣でたことが、いかにありがたく、いかに御神徳が高かったかを窺い知ることができます。

1184年、第21代熊野別当に就任したのは、本宮・田辺を拠点とする田辺別当家の湛増でした。源平二氏の争乱に際し、湛増率いる熊野水軍が源氏側についたことにより、勝敗が決したと云われています。

※熊野別当・・・熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の統轄にあたった役職

南北朝から室町時代にかけては、皇族や貴族などの上流階級に代わり、武士や庶民の間に熊野信仰が広がりました。身分の貴賤や老若男女を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さゆえ、熊野には大勢の人々が競って参詣し「蟻の熊野詣」と呼ばれる現象を起こすまでに至りました。

なお残念なことではありますが、明治二十二年の未曽有の大水害により社殿のうち中・下社が倒壊し、現在地に上四杜のみお祀りすることとなりました。他八社は石祠として旧社地大斎原お祀りし、現在に至っております。


大鳥居。八咫烏の幟が印象的。私のプロフィールの写真はこのときに撮ったもの。


神仏習合の名残り、熊野大権現とある扁額。


拝殿。


本宮大社を参拝した後、国道を渡って熊野川へ出て、伊邪那美命の荒御魂がお祀りされている産田社へ。



その後、日本一の大鳥居のある大斎原へ。もとは熊野川の中洲になっていた場所で上記の歴史にある通り、明治22年まではここに本殿があった。




熊野本宮をあとにして熊野川沿いにさらに南下、このあとは熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社、徐福公園と盛りだくさんの1日となった。順に紹介していきます。



ヤマト王権 幻視行―熊野・大和・伊勢
桐村 英一郎,塚原 紘
方丈堂出版



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆尾張氏と丹波 | トップ | 熊野速玉大社(熊野実地踏査... »

コメントを投稿

実地踏査・古代史旅」カテゴリの最新記事