古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

◆天孫降臨(薩摩半島の野間岬)

2016年10月24日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 それにしても、天孫が降臨する場所がなぜ南九州であったのか。記紀編纂時、政権は大和にあった。そうであれば直接大和に降臨させても良かったのに、何故そうしなかったのか。大陸を出た天皇家の祖先が南九州に流れ着いたという伝承が消すに消せないものになっていたのだ。
 また書紀では、降臨した瓊々杵尊はその後、大山祇神(おおやまつみのかみ)の子である鹿葦津姫(かしつひめ)を娶る。姫は一夜で身蘢り、瓊々杵尊に国津神の子ではないかと疑われたため、その疑いを晴らそうと産屋に火をつけて火の中で三人の子を産んだという。この話は桜島、霧島、阿蘇など南九州の火を噴く火山を連想させ、天孫降臨の地がこの一帯であったことを暗示しているのではないか。
 瓊々杵尊は降臨のあと、「笠狭碕(かささのみさき)」に向かった。薩摩半島の野間岬と考えられているが、「笠狭碕」の場所は降臨の場所よりも重要である。先述したように、もともと大陸から海を渡ってやってきたとは言えないから天から峯に降りたことにしたので、降臨した場所はそもそも架空の場所である。しかし「笠狭碕」は実際に海を渡って到着した場所を表しているのではないだろうか。そして一般的には薩摩半島の野間岬であると言われている。江南地方から最も近い九州島の地が薩摩半島である。

 野間岬の南に坊津町がある。8世紀に入って新羅との関係が悪化したことから遣唐使船が朝鮮半島を経由しないルート(南路および南島路)を取るようになったが、この南島路の拠点が坊津であった。753年、鑑真和上が5度の渡航失敗の末にたどりついた場所でもある。この九州の南のはずれをわざわざ拠点にしたのは、当時すでに東シナ海を渡るための港がここにあったからであろう。また、この坊津は室町時代には倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ琉球や南方諸国との貿易拠点にもなった。鎖国時代には密貿易の拠点にもなったようだ。坊津のすぐ近くにはカツオの水揚げが全国有数規模を誇る枕崎の港もある。このあたりは古代より東シナ海を往来するときの一大拠点であった。
 また、野間岬の北、南さつま市金峰町に高橋貝塚がある。縄文晩期から弥生前期の遺跡で、牡蠣類の貝殻のほか、石器・土器・鉄製品に混じって貝製品が出土している。南島産のゴホウラ貝を加工した貝輪もあり南島との交流が伺われる。さらに北へ行くと市来貝塚がある。縄文時代後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡である。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式となっているが、この交流も船を使って行われた。
 要するに薩摩半島、とくに西側の野間岬の近辺は海を舞台に活動する海洋民族の拠点であったと言うことだ。そしてこの薩摩半島一帯に居住していた集団が薩摩隼人または阿多隼人と呼ばれた隼人族である。隼人は海洋民族であった。江南の地を離れ、東シナ海を集団で渡ってくる航海技術をもっていたのだから当然といえば当然であった。この一帯は8世紀に薩摩国が設置される以前、アタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。そして書紀には「吾田国の長屋の笠狭碕」と記されている。


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