2019年9月に訪ねた愛知県春日井市にある味美古墳群は、二子山公園に集まる味美二子山古墳、白山神社古墳、御旅所古墳の3つの古墳と、県道102号を挟んだ西側に位置する味美春日山古墳から構成されています。かつてはドンドン塚と呼ばれた前方後円墳のほか、6基の円墳がありましたが開発によって滅失したとのことです。
春日井市の公式サイトから転載させていただきます。
右下が二子山古墳、その上が白山神社古墳、左側が御旅所古墳です。その真ん中にある小さな青い丸は「ハニワの館」です。
名鉄の味鋺駅で下車、線路沿いに北に歩いていくと数分で到着、国史跡の石碑が建っています。
後ろに見えるのが味美古墳群最大の味美二子山古墳。全長96mで盾型の周濠を持つ前方後円墳です。周濠に沿ってぐるりと一周することができます。
後円部の先端。
南側。前方部から見ると右手。
前方部の右隅。
前方部の縁。
北側。前方部から見ると左手。
後円部に戻ってきました。向こう側が石碑の位置です。
後円部に直径4~5mの窪みが確認されているものの、発掘調査が行われていないので埋葬施設は不明とのこと。ただし、周濠や古墳周辺は何度か調査が行われ、形象埴輪(馬形・人物・水鳥形)や円筒埴輪片、須恵器などが出土しています。これらの出土品などから築造時期は6世紀初頭とみられています。この出土品は公園内の「ハニワの館」に展示されています。
ハニワの館です。
この日は日差しが強く、気温もかなり高かったので冷房の効いた館内は心地よかったです。近所のお年寄りの憩いの場になっていました。
ハニワの館を挟んだ反対側に御旅所古墳があります。直径約31m、高さ約3mの円墳で、あとで見る白山神社(本殿は白山神社古墳の墳丘上)の西南約80メートルにあって、その白山神社から神輿渡御が行なわれる御旅所であったことから御旅所古墳の名になったそうです。
墳丘の登り口に鳥居が建っています。
墳丘上は平らに削られ、小さな祠が建っています。
墳丘の周囲、墳丘への登り道、そして墳丘上を取り囲むように石柱が建っています。
ご近所の町内会のお年寄りの皆さんが「還暦記念」や「初老記念」と称して個人名で建てられたものです。
この古墳の主体部も発掘調査が行なわれていませんが、公園整備が行なわれた際の調査で円筒埴輪や高坏形器台脚部などが検出されています。
二子山古墳、御旅所古墳と見て、最後に白山神社古墳を見学しました。公園に隣接する白山神社の境内にある全長86mの前方後円墳で前述の通り、社殿が墳丘上に建てられています。2007年に発掘調査が行われ、墳丘北西部のテラス面で円筒埴輪5〜6基おきに朝顔型埴輪を挟んだ埴輪列が検出されたそうです。また、周濠から形象埴輪(家型・人物)や須恵器が出土しました。これらの出土品や墳丘の形状から、5世紀末から6世紀初頭にかけての築造と考えられています。ただし、この古墳も主体部は調査されていません。特にここは主体部があると考えられる後円部には神社の社殿が建っているので、そもそも発掘することはできないでしょう。
白山神社。
鳥居をくぐって進むと古墳の前方部に突き当たります。
この階段を上がると社殿があります。つまりこの階段は墳丘へ登る階段でもあります。
階段右手にある説明板。
墳丘に登る前に古墳をぐるりと一周しました。古墳の南側、前方部から見て右側の周濠跡です。奥が前方部です。
奥は後円部です。
後円部の裏側。木々の間から墳丘上の社殿が見えます。
一周まわって正面にもどると、階段の両側が池になっています。周濠の名残りです。
墳丘へ登ると立派な拝殿と本殿がありました。
古墳の上に神社があるケースはこれまでも何度も見てきました。出雲の神原神社古墳、尾張の尾張戸神社古墳など、神社の祭神と古墳の被葬者に何らかの関係を見いだせることが多いのですが、今回の白山神社はその由緒によると、1659年に尾張国春部郡味鋺村白山薮(現在の名古屋市北区楠町5丁目)にあった白山神社が現在地に遷座した、とあります。また、もともとの祭神である菊理媛命は白山神社の総本社、石川県の白山比咩神社に祀られる白山比咩神と同一神と考えられているため、どうやらこの古墳群と関係がなさそうです。
もう少し時間があれば500mほど西にある味美春日山古墳も見たかったのですが、残念ながら3つの古墳に時間をかけ過ぎたので行けませんでした。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
春日井市の公式サイトから転載させていただきます。
右下が二子山古墳、その上が白山神社古墳、左側が御旅所古墳です。その真ん中にある小さな青い丸は「ハニワの館」です。
名鉄の味鋺駅で下車、線路沿いに北に歩いていくと数分で到着、国史跡の石碑が建っています。
後ろに見えるのが味美古墳群最大の味美二子山古墳。全長96mで盾型の周濠を持つ前方後円墳です。周濠に沿ってぐるりと一周することができます。
後円部の先端。
南側。前方部から見ると右手。
前方部の右隅。
前方部の縁。
北側。前方部から見ると左手。
後円部に戻ってきました。向こう側が石碑の位置です。
後円部に直径4~5mの窪みが確認されているものの、発掘調査が行われていないので埋葬施設は不明とのこと。ただし、周濠や古墳周辺は何度か調査が行われ、形象埴輪(馬形・人物・水鳥形)や円筒埴輪片、須恵器などが出土しています。これらの出土品などから築造時期は6世紀初頭とみられています。この出土品は公園内の「ハニワの館」に展示されています。
ハニワの館です。
この日は日差しが強く、気温もかなり高かったので冷房の効いた館内は心地よかったです。近所のお年寄りの憩いの場になっていました。
ハニワの館を挟んだ反対側に御旅所古墳があります。直径約31m、高さ約3mの円墳で、あとで見る白山神社(本殿は白山神社古墳の墳丘上)の西南約80メートルにあって、その白山神社から神輿渡御が行なわれる御旅所であったことから御旅所古墳の名になったそうです。
墳丘の登り口に鳥居が建っています。
墳丘上は平らに削られ、小さな祠が建っています。
墳丘の周囲、墳丘への登り道、そして墳丘上を取り囲むように石柱が建っています。
ご近所の町内会のお年寄りの皆さんが「還暦記念」や「初老記念」と称して個人名で建てられたものです。
この古墳の主体部も発掘調査が行なわれていませんが、公園整備が行なわれた際の調査で円筒埴輪や高坏形器台脚部などが検出されています。
二子山古墳、御旅所古墳と見て、最後に白山神社古墳を見学しました。公園に隣接する白山神社の境内にある全長86mの前方後円墳で前述の通り、社殿が墳丘上に建てられています。2007年に発掘調査が行われ、墳丘北西部のテラス面で円筒埴輪5〜6基おきに朝顔型埴輪を挟んだ埴輪列が検出されたそうです。また、周濠から形象埴輪(家型・人物)や須恵器が出土しました。これらの出土品や墳丘の形状から、5世紀末から6世紀初頭にかけての築造と考えられています。ただし、この古墳も主体部は調査されていません。特にここは主体部があると考えられる後円部には神社の社殿が建っているので、そもそも発掘することはできないでしょう。
白山神社。
鳥居をくぐって進むと古墳の前方部に突き当たります。
この階段を上がると社殿があります。つまりこの階段は墳丘へ登る階段でもあります。
階段右手にある説明板。
墳丘に登る前に古墳をぐるりと一周しました。古墳の南側、前方部から見て右側の周濠跡です。奥が前方部です。
奥は後円部です。
後円部の裏側。木々の間から墳丘上の社殿が見えます。
一周まわって正面にもどると、階段の両側が池になっています。周濠の名残りです。
墳丘へ登ると立派な拝殿と本殿がありました。
古墳の上に神社があるケースはこれまでも何度も見てきました。出雲の神原神社古墳、尾張の尾張戸神社古墳など、神社の祭神と古墳の被葬者に何らかの関係を見いだせることが多いのですが、今回の白山神社はその由緒によると、1659年に尾張国春部郡味鋺村白山薮(現在の名古屋市北区楠町5丁目)にあった白山神社が現在地に遷座した、とあります。また、もともとの祭神である菊理媛命は白山神社の総本社、石川県の白山比咩神社に祀られる白山比咩神と同一神と考えられているため、どうやらこの古墳群と関係がなさそうです。
もう少し時間があれば500mほど西にある味美春日山古墳も見たかったのですが、残念ながら3つの古墳に時間をかけ過ぎたので行けませんでした。
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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~ | |
小嶋浩毅 | |
日比谷出版社 |
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