2017年5月、愛知県名古屋市守山区にある志段味(しだみ)古墳群を訪ねた。現在は名古屋市教育委員会によって「歴史の里」として整備中であり、古墳の復元が進められている。以下は公式サイトからの転載です。
名古屋市内には、おおよそ200基の古墳が確認されていますが、市内で最も古墳が集中して残っているのが、名古屋市の北東端にある守山区上志段味です。上志段味は、岐阜県から愛知県へと流れる一級河川・庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。上志段味にある多くの古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ、国の史跡に指定されています。
志段味古墳群は尾張戸神社が鎮座する市内最高峰の東谷山の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘上に分布します。古墳群の範囲は東西1.7km・南北1kmです。
現在確認されている古墳の数は66基で、33基が現存しています。古墳の形(墳形)で分類すると前方後円墳が2基(現存は2基)、帆立貝式古墳が5基(現存は5基)、円墳が50基(現存は21基)、方墳が1基(現存は1基)、墳形不明のものが8基(現存は4基)です。大きさは長さが100mを超す前方後円墳から直径10m前後の円墳まで大小あります。
志段味古墳群では4世紀前半から7世紀にかけて、古墳が築かれない空白期間をはさみながらも長期にわたって古墳が造営されており、空白期間を境として、4世紀前半から中頃、5世紀中頃から6世紀前半、6世紀後半から7世紀の3つの時期に分けることができます。
志段味古墳群は、古墳時代の全時期を通して、規模・形の異なる様々な特色をもつ古墳が、狭い範囲の起伏の富んだ地形のうえに築かれており、「日本の古墳時代の縮図」と表現することができます。
公式サイトに掲載されたマップ。
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今回はこの古墳群の西側を徒歩でめぐったので順に紹介します。
古墳群の西端から北側を眺めると河岸段丘上に築かれたことがよくわかる。
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勝手塚古墳。6世紀初めの築造とされる全長55メートルの帆立貝式古墳。
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墳丘上に「勝手社」という神社がある。この古墳に限らず、古墳の上に神社が建っている場合が結構あるが、普通に考えると古墳の被葬者、あるいは被葬者と関係する人物を祀るために建てられた、ということになるだろう。代表的なものが出雲の神原神社である。今回は時間の関係で行けなかった古墳群東側の東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社は尾張戸神社古墳の墳丘上にあり、祭神はいずれも尾張氏の系譜につながるとされる天火明命、天香語山命(別名を高倉下命)、建稲種命の三柱である。尾張戸神社古墳にはおそらく尾張氏の有力者が葬られているのだろう。
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周濠および周堤がよくわかる。
大久手4号墳。形は不明となっている。
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調査の結果、古墳時代の須恵器や埴輪が出たものの、盛り土の大部分が江戸時代以降に盛られたことが判明しており、江戸時代の塚の可能性もあるとされている。
大久手3号墳。5世紀後半の築造とされる一辺14メートルの方墳。
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西大久手古墳。5世紀中頃の築造とされる全長37メートルの帆立貝式古墳。
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墳丘は大きく削られていて現在の高さは50cmほどである。南側のくびれ部付近から巫女形埴輪・鶏形埴輪・須恵器が、前方部の前面からは馬形埴輪が出土した。巫女形埴輪は東日本で最も古い人物埴輪とされている。
東大久手古墳。5世紀末の築造。全長39メートルの帆立貝式古墳。
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ここも削平が著しい。
大久手5号墳。5世紀後半の築造。全長38メートルの帆立貝式古墳。
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戦後の大久手池の拡張工事により後円部の南側が削られて古墳の半分が失われた。(1枚目の写真の左側、3枚目の写真の右側)
志段味大塚古墳。5世紀後半の築造。全長51メートルの帆立貝式古墳。
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発掘の結果、粘土槨と木棺直葬の2基の埋葬施設が見つかり、五鈴鏡・馬具・甲冑・帯金具・大刀・鉄鏃・革盾などが副葬品として出土した。墳丘からは円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪・水鳥形埴輪・須恵器・須恵器形土製品が見つかっている。歴史の里としての整備に伴い、葺石、埴輪列、埋葬施設などが復元されている。
しかし個人的にはこの復元方式は好きではない。神戸市垂水区にある五色塚古墳も同様の復元がなされているが、あまりにリアリティがなさすぎる。埴輪はこのように置いて並べられていたのだろうか。日本書紀では垂仁天皇の時に殉葬をやめて代わりに埴輪を立てたとあるが、殉葬の代わりであるなら置くのではなく埋めたのではないだろうか。立てて並べただけなら、風で倒れたり、割れたり、盗まれたり、ということが避けられないではないか。
墳丘頂上の埋葬施設。
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造り出し部の埴輪列。
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白鳥塚古墳。4世紀前半の築造。全長115メートルの前方後円墳。
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後円部から前方部を臨む。
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後円部頂上に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英がまかれ墳丘が飾られていたという。石英で白く輝いていた外観が白鳥塚の名称の由来となったと言われている。
くびれ部に復元された葺石。ところどころに石英がまかれている。
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後円部頂上に復元された石英。
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東谷山白鳥古墳。6世紀末~7世紀初めの築造。直径が17メートルの円墳。
古墳群の中で唯一、横穴式石室が完全な状態で残っていた。
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今回は古墳群の西側半分の踏査であったが、それだけでもこの古墳群が尾張の有力者一族の墓域であることが確認できた。次は尾張戸神社古墳のある東側半分、東谷山一帯をぜひとも訪ねてみたい。
名古屋市内には、おおよそ200基の古墳が確認されていますが、市内で最も古墳が集中して残っているのが、名古屋市の北東端にある守山区上志段味です。上志段味は、岐阜県から愛知県へと流れる一級河川・庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたります。上志段味にある多くの古墳はまとめて志段味古墳群と呼ばれ、国の史跡に指定されています。
志段味古墳群は尾張戸神社が鎮座する市内最高峰の東谷山の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘上に分布します。古墳群の範囲は東西1.7km・南北1kmです。
現在確認されている古墳の数は66基で、33基が現存しています。古墳の形(墳形)で分類すると前方後円墳が2基(現存は2基)、帆立貝式古墳が5基(現存は5基)、円墳が50基(現存は21基)、方墳が1基(現存は1基)、墳形不明のものが8基(現存は4基)です。大きさは長さが100mを超す前方後円墳から直径10m前後の円墳まで大小あります。
志段味古墳群では4世紀前半から7世紀にかけて、古墳が築かれない空白期間をはさみながらも長期にわたって古墳が造営されており、空白期間を境として、4世紀前半から中頃、5世紀中頃から6世紀前半、6世紀後半から7世紀の3つの時期に分けることができます。
志段味古墳群は、古墳時代の全時期を通して、規模・形の異なる様々な特色をもつ古墳が、狭い範囲の起伏の富んだ地形のうえに築かれており、「日本の古墳時代の縮図」と表現することができます。
公式サイトに掲載されたマップ。
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今回はこの古墳群の西側を徒歩でめぐったので順に紹介します。
古墳群の西端から北側を眺めると河岸段丘上に築かれたことがよくわかる。
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勝手塚古墳。6世紀初めの築造とされる全長55メートルの帆立貝式古墳。
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墳丘上に「勝手社」という神社がある。この古墳に限らず、古墳の上に神社が建っている場合が結構あるが、普通に考えると古墳の被葬者、あるいは被葬者と関係する人物を祀るために建てられた、ということになるだろう。代表的なものが出雲の神原神社である。今回は時間の関係で行けなかった古墳群東側の東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社は尾張戸神社古墳の墳丘上にあり、祭神はいずれも尾張氏の系譜につながるとされる天火明命、天香語山命(別名を高倉下命)、建稲種命の三柱である。尾張戸神社古墳にはおそらく尾張氏の有力者が葬られているのだろう。
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周濠および周堤がよくわかる。
大久手4号墳。形は不明となっている。
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調査の結果、古墳時代の須恵器や埴輪が出たものの、盛り土の大部分が江戸時代以降に盛られたことが判明しており、江戸時代の塚の可能性もあるとされている。
大久手3号墳。5世紀後半の築造とされる一辺14メートルの方墳。
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西大久手古墳。5世紀中頃の築造とされる全長37メートルの帆立貝式古墳。
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東大久手古墳。5世紀末の築造。全長39メートルの帆立貝式古墳。
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ここも削平が著しい。
大久手5号墳。5世紀後半の築造。全長38メートルの帆立貝式古墳。
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戦後の大久手池の拡張工事により後円部の南側が削られて古墳の半分が失われた。(1枚目の写真の左側、3枚目の写真の右側)
志段味大塚古墳。5世紀後半の築造。全長51メートルの帆立貝式古墳。
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発掘の結果、粘土槨と木棺直葬の2基の埋葬施設が見つかり、五鈴鏡・馬具・甲冑・帯金具・大刀・鉄鏃・革盾などが副葬品として出土した。墳丘からは円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・鶏形埴輪・水鳥形埴輪・須恵器・須恵器形土製品が見つかっている。歴史の里としての整備に伴い、葺石、埴輪列、埋葬施設などが復元されている。
しかし個人的にはこの復元方式は好きではない。神戸市垂水区にある五色塚古墳も同様の復元がなされているが、あまりにリアリティがなさすぎる。埴輪はこのように置いて並べられていたのだろうか。日本書紀では垂仁天皇の時に殉葬をやめて代わりに埴輪を立てたとあるが、殉葬の代わりであるなら置くのではなく埋めたのではないだろうか。立てて並べただけなら、風で倒れたり、割れたり、盗まれたり、ということが避けられないではないか。
墳丘頂上の埋葬施設。
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造り出し部の埴輪列。
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白鳥塚古墳。4世紀前半の築造。全長115メートルの前方後円墳。
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後円部から前方部を臨む。
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後円部頂上に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英がまかれ墳丘が飾られていたという。石英で白く輝いていた外観が白鳥塚の名称の由来となったと言われている。
くびれ部に復元された葺石。ところどころに石英がまかれている。
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後円部頂上に復元された石英。
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東谷山白鳥古墳。6世紀末~7世紀初めの築造。直径が17メートルの円墳。
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古墳群の中で唯一、横穴式石室が完全な状態で残っていた。
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