前方後円墳あるいは前方後方墳の前方部は周溝墓の通路が発達したもので、その前方部がやがて祭祀の場になった、との考えが現在の最有力説、本命であると思います。これに対して、前方部は主丘部への墓道に起源があり、前方後円墳が成立して以降は前方部の一方の隅角斜面を緩い勾配にして葬列の登り降りの便を図ったとする近藤説が対抗馬と位置づけられるでしょうか。以下、3つの論点を設定して考えてみたいと思います。
●論点① 「周溝墓の通路が発達して前方部になったのか」
見た目の形の変化をもって通路が前方部に発達したと考えるのは少々無理があると思います。そもそも墓の外側から内側の台状部に渡るために必要だから通路を設けたにもかかわらず、その通路を断ち切って溝を全周させてしまえば安全に周溝を渡ることができなくなります。なぜ本来の目的を放棄したのでしょうか。白石氏はこの通路を死者の世界と生者の世界をつなぐ通路としていますが、それであるならなおさら切断してしまうと両世界をつなぐことができなくなります。
論点②とも関係してきますが、祭祀場を設けるために通路を切断したのか、別の目的で通路を切断した跡がたまたま祭祀場として利用されるようになったのか。いずれにしても通路が前方部に発達したとする主張は、もっとも重要なポイントである通路が切断された理由に触れることはありません。数百年も続けてきた方形の台状部をわざわざ前方後方形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、要するに前方後方形にすることに意味があるのだと思います。方形から前方後方形への転換、同様に円形から前方後円形への転換。これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきでしょう。さらに、方形墓と円形墓がほぼ同じ時期に前方部を形成して、それぞれ前方後方形周溝墓、前方後円形周溝墓が成立したことも重要なポイントと言えます。
●論点② 「前方部は祭祀場であったのか」
上述の如く白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」とし、植田氏も「前方部は当初、棺のある後方部にのぼる通路だったものが、のちに祭祀場としてひろくなった」としますが、祭祀場が必要なら台状部に特別な区域として設ければよくて、わざわざ狭い細い通路を広げる必要もないし、論点①で触れたように溝を全周させてしまっては肝心の祭祀場に渡る道がなくなってしまいます。
都出氏は「3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場」、大塚氏は「前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点」と、いずれも前方部が祭祀の場所であったとします。前方部祭壇付加説の流れを踏襲するものと思われますが、その後の調査・研究の進展によって前方部に埋葬施設をもつ古い古墳がいくつも見つかっており、3世紀後半の築造とされる西殿塚古墳においても前方部の方形壇の下に埋葬施設があることが想定されています。祭祀の場に埋葬施設があることは考えにくいですね。
また、定型化された最初の前方後円墳とされ、3世紀後半に築造された箸墓古墳では葬送儀礼に用いたと考えられる吉備の特殊器台が見つかっていますが、その出土した場所は前方部ではなく後円部墳頂です。大和では箸墓古墳に続く中山大塚古墳、西殿塚古墳や葛本弁天塚古墳からも特殊器台、特殊壺が出ていますが、いずれも後円部からの出土です。中山大塚古墳にいたっては石室天井石の上面で破砕された状態で見つかっています。前方後円墳が成立した早い段階での古墳で葬送儀礼に用いられた特殊器台・特殊壺が前方部ではなく後円部から出土している事実は、古墳上での祭祀の場は前方部ではなく後円部にあったことを物語っています。
●論点③ 「前方部隅角の斜面は墓道なのか」
論点①では周溝墓の通路が発達して前方部になったわけではなく、論点②では前方部が祭祀場であった可能性は限りなく低いと考えました。最後に論点③として近藤氏の墓道起源説を考えます。墳丘に登るときに前方部の隅角の一方の斜面を登ったのかどうか、葬列の墓道として隅角を利用したのか否か。
下図は近藤氏によって加筆された西殿塚古墳の図ですが、氏はバチ型を形成する前方後円墳においてこの図の左側の隅角のように前方部の一方の隅角の勾配が緩くなっているケースが見られることから、この部分が墓道として設計されたと考えました。図の各所に「疲労」「努力」「困難」「至難」の語が書きこまれていますが、これは墳丘斜面を登るとした場合の難易度を表していて、勾配を基準として15度までが疲労、20度までが努力、25度までが困難、25度以上が至難となっています。
(近藤義郎「前方部とは何か」より)
図をよく見ると右側のくびれ部付近の前方部斜面に「疲労」だけで登れる勾配があります。一方、近藤氏が墓道と想定した勾配の緩い左側の隅角は「疲労→努力→努力」となっており、明らかに前者の方が登りやすいのです(いずれも字が小さく見えにくいので赤丸で囲みました)。この点は藤田友治氏も指摘しています。それよりも何よりも、墳丘に直行して登ることを想定して疲労や努力としていますが、たとえば黄色の矢印のように前方部の左隅からくびれ部の上部に向かって斜めに登れば、距離は長くなるものの容易に登れるはずです。そんな痕跡は検出されていないと批判されそうですが、そもそも近藤氏が墓道とするルートも人が登り降りした痕跡が出ているわけではありません。
氏は『前方部とは何か』の中で、奈良県北葛城郡の馬見古墳群にあるナガレ山古墳においてくびれ部前方部寄りのところで「墳丘鞍部へ至る道路」あるいは「前方部平坦面へ至る道線」と考えられる埴輪列が検出されているとした和田晴吾氏の指摘を「根拠不十分」として一蹴します。ナガレ山古墳については藤田氏も指摘していますが、常識的に考えれば和田氏や藤田氏に軍配が上がるでしょう。
(復元されたナガレ山古墳の墳丘への通路)
(ナガレ山古墳に設置された説明板)
墓道起源説は弥生墳丘墓の突出部が葬列の墓道であったとして、それが前方後円墳に受け継がれたとするもので、その墓道のルートは前方部の勾配の緩い一方の隅角から前方部頂に登り、そこから後円部に向かって伸びる斜道を進み、さらには後円部頂に至る勾配を緩くした隆起斜道を登って埋葬施設に到達するというものです。前方後円墳が成立する段階でその設計思想が組み込まれていたとする点も含めて論理的かつ実証的に説かれていると思いますが、隅角が葬列の墓道として利用されたという点に今ひとつ納得感がありません。
以上のように3つの論点で考えてみましたが、周溝墓の通路が発達した前方部がやがて祭祀の場になったとする本命説、対抗馬である墓道起源説とも、素直に受け入れることができませんでした。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代吉備 第21集 『前方部とは何か』」 近藤義郎
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
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●論点① 「周溝墓の通路が発達して前方部になったのか」
見た目の形の変化をもって通路が前方部に発達したと考えるのは少々無理があると思います。そもそも墓の外側から内側の台状部に渡るために必要だから通路を設けたにもかかわらず、その通路を断ち切って溝を全周させてしまえば安全に周溝を渡ることができなくなります。なぜ本来の目的を放棄したのでしょうか。白石氏はこの通路を死者の世界と生者の世界をつなぐ通路としていますが、それであるならなおさら切断してしまうと両世界をつなぐことができなくなります。
論点②とも関係してきますが、祭祀場を設けるために通路を切断したのか、別の目的で通路を切断した跡がたまたま祭祀場として利用されるようになったのか。いずれにしても通路が前方部に発達したとする主張は、もっとも重要なポイントである通路が切断された理由に触れることはありません。数百年も続けてきた方形の台状部をわざわざ前方後方形にするということは、そこに何らかの意図や目的があったはずで、要するに前方後方形にすることに意味があるのだと思います。方形から前方後方形への転換、同様に円形から前方後円形への転換。これは形が変化したと考えるよりも、造墓思想の大転換があったと考えるべきでしょう。さらに、方形墓と円形墓がほぼ同じ時期に前方部を形成して、それぞれ前方後方形周溝墓、前方後円形周溝墓が成立したことも重要なポイントと言えます。
●論点② 「前方部は祭祀場であったのか」
上述の如く白石氏は「主丘部への通路を、死者の世界と生者の世界をつなぐ通路と解して、この部分が次第に祭祀・儀礼の場として重視されるようになった」とし、植田氏も「前方部は当初、棺のある後方部にのぼる通路だったものが、のちに祭祀場としてひろくなった」としますが、祭祀場が必要なら台状部に特別な区域として設ければよくて、わざわざ狭い細い通路を広げる必要もないし、論点①で触れたように溝を全周させてしまっては肝心の祭祀場に渡る道がなくなってしまいます。
都出氏は「3世紀中葉になると各地に円墳の一方向に祭祀用の突起部を付設した前方後円墳の墳形に近いものが登場」、大塚氏は「前方部は主丘への一種の階段的な存在であり被葬者に一段と接近しえた神聖な場所で、祭祀や祈念を催すことのできる地点」と、いずれも前方部が祭祀の場所であったとします。前方部祭壇付加説の流れを踏襲するものと思われますが、その後の調査・研究の進展によって前方部に埋葬施設をもつ古い古墳がいくつも見つかっており、3世紀後半の築造とされる西殿塚古墳においても前方部の方形壇の下に埋葬施設があることが想定されています。祭祀の場に埋葬施設があることは考えにくいですね。
また、定型化された最初の前方後円墳とされ、3世紀後半に築造された箸墓古墳では葬送儀礼に用いたと考えられる吉備の特殊器台が見つかっていますが、その出土した場所は前方部ではなく後円部墳頂です。大和では箸墓古墳に続く中山大塚古墳、西殿塚古墳や葛本弁天塚古墳からも特殊器台、特殊壺が出ていますが、いずれも後円部からの出土です。中山大塚古墳にいたっては石室天井石の上面で破砕された状態で見つかっています。前方後円墳が成立した早い段階での古墳で葬送儀礼に用いられた特殊器台・特殊壺が前方部ではなく後円部から出土している事実は、古墳上での祭祀の場は前方部ではなく後円部にあったことを物語っています。
●論点③ 「前方部隅角の斜面は墓道なのか」
論点①では周溝墓の通路が発達して前方部になったわけではなく、論点②では前方部が祭祀場であった可能性は限りなく低いと考えました。最後に論点③として近藤氏の墓道起源説を考えます。墳丘に登るときに前方部の隅角の一方の斜面を登ったのかどうか、葬列の墓道として隅角を利用したのか否か。
下図は近藤氏によって加筆された西殿塚古墳の図ですが、氏はバチ型を形成する前方後円墳においてこの図の左側の隅角のように前方部の一方の隅角の勾配が緩くなっているケースが見られることから、この部分が墓道として設計されたと考えました。図の各所に「疲労」「努力」「困難」「至難」の語が書きこまれていますが、これは墳丘斜面を登るとした場合の難易度を表していて、勾配を基準として15度までが疲労、20度までが努力、25度までが困難、25度以上が至難となっています。
(近藤義郎「前方部とは何か」より)
図をよく見ると右側のくびれ部付近の前方部斜面に「疲労」だけで登れる勾配があります。一方、近藤氏が墓道と想定した勾配の緩い左側の隅角は「疲労→努力→努力」となっており、明らかに前者の方が登りやすいのです(いずれも字が小さく見えにくいので赤丸で囲みました)。この点は藤田友治氏も指摘しています。それよりも何よりも、墳丘に直行して登ることを想定して疲労や努力としていますが、たとえば黄色の矢印のように前方部の左隅からくびれ部の上部に向かって斜めに登れば、距離は長くなるものの容易に登れるはずです。そんな痕跡は検出されていないと批判されそうですが、そもそも近藤氏が墓道とするルートも人が登り降りした痕跡が出ているわけではありません。
氏は『前方部とは何か』の中で、奈良県北葛城郡の馬見古墳群にあるナガレ山古墳においてくびれ部前方部寄りのところで「墳丘鞍部へ至る道路」あるいは「前方部平坦面へ至る道線」と考えられる埴輪列が検出されているとした和田晴吾氏の指摘を「根拠不十分」として一蹴します。ナガレ山古墳については藤田氏も指摘していますが、常識的に考えれば和田氏や藤田氏に軍配が上がるでしょう。
(復元されたナガレ山古墳の墳丘への通路)
(ナガレ山古墳に設置された説明板)
墓道起源説は弥生墳丘墓の突出部が葬列の墓道であったとして、それが前方後円墳に受け継がれたとするもので、その墓道のルートは前方部の勾配の緩い一方の隅角から前方部頂に登り、そこから後円部に向かって伸びる斜道を進み、さらには後円部頂に至る勾配を緩くした隆起斜道を登って埋葬施設に到達するというものです。前方後円墳が成立する段階でその設計思想が組み込まれていたとする点も含めて論理的かつ実証的に説かれていると思いますが、隅角が葬列の墓道として利用されたという点に今ひとつ納得感がありません。
以上のように3つの論点で考えてみましたが、周溝墓の通路が発達した前方部がやがて祭祀の場になったとする本命説、対抗馬である墓道起源説とも、素直に受け入れることができませんでした。
(つづく)
<主な参考文献>
「古墳とヤマト政権」 白石太一郎
「前方後方墳の謎」 植田文雄
「古代吉備 第21集 『前方部とは何か』」 近藤義郎
「古代日本と神仙思想 三角縁神獣鏡と前方後円墳の謎を解く」 藤田友治
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