古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

檜原神社・相撲神社(葛城・纒向ツアー No.17)

2020年01月10日 | 実地踏査・古代史旅
 崇神天皇磯城瑞籬宮跡の次の目的地が檜原神社です。平等寺を抜けて進むと大神神社の拝殿横に出ました。せっかくなので境内への入口付近に自転車を停めて参拝することにしました。





 ここからの行き方を事前にGoogleストリートビューで調べてみて少し悩みました。というのも山の辺の道は大神神社を横切るように北上して檜原神社に通じているのですが、途中で人ひとりが通るのがやっと、という細い道になります。楽観的に考えれば人ひとり分の幅はあるので自転車でも行ける。ただ、ほかに通行人がいればかなりの迷惑をかけることになります。悲観的に考えれば引き返すことになりかねない。結局、その道を迂回することにしていったん西のJRの線路近くまで下ってから北上、茅原大墓古墳を過ぎたあたりで右に曲がっていくことにしました。

茅原大墓古墳。

前回来た時は墳丘に上ったので今回はパスしました。

 そして、この道を選択したことで大変なことになりました。右に曲がってまっすぐ行くと檜原神社があるのですが、その間の数百メートルが強烈な登り坂。とても自転車では上がれず、ずっと押し続けることに。これには参りました。

佐々木さん、そろそろガス欠か。


三輪山が拝めます。


ようやくたどり着いた檜原神社。


 檜原神社は大神神社の摂社で、祭神は天照大神若御魂神、伊弉諾尊・伊弉冊尊が配祀されています。第10代崇神天皇の時、天照大神を宮中に祀っていた(同床共殿)ところ、この神の勢いが強くて畏れ多く、共に住むことができなくなったため、天皇は皇女の豊鍬入姫命に託して倭の「笠縫邑」に祀らせました。その場所が檜原神社と言われています。
 さらにその後も理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在の伊勢の地に遷座したとされます。天照大神の伊勢への遷幸後もその跡地を尊崇し「元伊勢」として今に伝えられています。







 一時は石灯籠が二基あるだけのうらぶれた状況になったものの、昭和40年(1965年)に伊勢神宮の旧内宮外玉垣の東御門の古材を拝領して三つ鳥居が復元され、今日に至っているとのこと。その後、檜原神社境内整備50年記念として伊勢神宮の第62回式年遷宮古材を拝領して三つ鳥居が建て替えられました。

境内からは奈良盆地の向こう側の二上山が見えます。

二上山は奈良盆地のどこからでも見え、すぐにそれとわかります。古来、変わることがない景色です。

境内の前にある休憩処がお店を開けたところだったので少し休むことにしました。

こういうお店では甘酒がいいですね。

ここから再び山の辺の道に戻って相撲神社を目指します。途中、道を間違えてみかん山に入り込んでしまいました。


 日本書紀の垂仁天皇紀に、野見宿禰と当麻蹴速が日本最初の勅命天覧相撲を行ったことが記されます。日本の国技である相撲の発祥の地がこの相撲神社です。





この神社には社殿は無く、神社境内の中央に土俵跡、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに桧の木が4本植えられています。


土俵にはブルーシートが被せられています。

 相撲神社をさらに東に山を登っていくと大兵主神社(穴師坐兵主神社)があります。室町時代に穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社の3社が合祀された神社です。






拝殿のうしろに3つの本殿が並んでいるのがわかります。

 高い木々に囲まれた境内は朝の陽が地面まで届かず、しっとりとした空気に覆われて何とも言えない雰囲気がありました。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仏教伝来の地・海石榴市・磯... | トップ | 纒向日代宮跡・纒向珠城宮跡... »

コメントを投稿

実地踏査・古代史旅」カテゴリの最新記事