2017年11月1日から5日にかけて出かけた九州への車中泊ツアーで訪問した遺跡や古墳は、清原(せいばる)古墳群(江田船山古墳)、岩原横穴墓群、方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)、鞠池城跡、チブサン古墳・オブサン古墳・西福寺古墳群の5ケ所。まず清原古墳群を紹介したい。
清原古墳群は熊本県玉名郡和水(なごみ)町にあり、前方後円墳3基(江田船山古墳・塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳)、円墳1基(京塚古墳)からなる。前方後円墳3基は一括して国の史跡に指定されている。一帯は江田船山古墳公園として整備され、肥後民家村や歴史民俗資料館などがある。また、隣接して道の駅があり、今回はこの道の駅で車中泊をした翌朝に古墳群を見学したときの状況をレポートしたい。
清原古墳群の中で最も古く最も大きい前方後円墳が江田船山古墳である。5世紀後半の築造と推測され、全長は62メートル。盾形の周濠を持ち、豊富な副葬品が出土している。出土品の大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定された。とくに75文字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀は、埼玉県のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣とともに歴史の教科書に登場する有名な大刀だ。3年前に東京国立博物館で見学したことがある。出土品はこの銀錯銘大刀のほか、刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、鉄鏃類、土器類など92点に及ぶ。また、古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されていたようで、これらの石人は古墳のすぐそばにレプリカが並べれらていた。
後円部の正面から。周濠がきれいに復元されている。
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「史跡 船山古墳」の碑。
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左側の造出(つくりだし)部から後円部に登る階段の先に見える石棺保存室の入り口。
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扉にはこう書かれていました。
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おそるおそる扉を開けると、、、
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ガラス貼りの部屋に横口式家形石棺が保存されていました。
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部屋の中が暖かいからだろう、ガラスの内側は結露がいっぱいで中がよく見えない。3枚のガラスの下にあるハンドルは手動のワイパーを上下に動かすためのもの。両端のは故障で動かず、真ん中のワイパーだけが動かすことができた。ここに銀錯銘大刀が置かれていたのだ。
墳丘全体を左側から。
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手前の説明を順に。
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1873年(明治6年)、地元の池田佐十が「夢のお告げ」を受けて丘を掘ったところ石棺が出土したことから古墳であることがわかり、これが貴重な遺物発見の端緒となった。池田佐十は数多くの貴重で豪華な遺物を発見し保管していたが、明治政府はそれらの遺物を当時の金額で90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移したという。貴重な遺物を掘り当てた池田佐十なる人物も凄いが、それよりもそれらの遺物が散逸しないようにまとめて買い取った当時の政府の慧眼に拍手だ。
もっとも貴重な副葬品である銀錯銘大刀には次のような銘文が刻まれていた。
台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无□弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練□十振三寸上好□刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也
「台」を「治」と読み替え、判別できない文字(□)を類推して妥当と思われる文字をあてはめたのが次の文章で、現在ではこれがもっとも有力とされている。
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
「獲□□□鹵大王」の部分は、1978年に埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文から「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王=雄略天皇)」とする説が有力となった。その結果、現在では江田船山古墳の銀錯銘大刀の銘文は次のように解釈されるようになった。
天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇)の世に、典曹(文章を司る仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安である。
ちなみに、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文はこちら。
<表>
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
<裏>
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
こちらの銘文は両刃剣の側面の幅広い部分に大きく彫られているので見ての通り判別不能な文字がない。一方の江田船山古墳のほうは片刃刀の幅の狭い峰(背)の部分に彫られているために判読不明な文字が多くなっている。
ここにある「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読んで「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」の名を持つ第21代雄略天皇と解するのが通説となっている。雄略天皇は少なくとも東は埼玉県、西は熊本県北部までその影響力を及ぼしていたことの表れである。宋書倭国伝に雄略天皇と考えられている倭王武が「東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した」と記されていることと対応しているとも言われる。
いくつかのWebサイトを参照していろいろ書いたが、なかには様々な矛盾を指摘する考えもあるようだ。私自身はこれらに関しての勉強がおよんでいないので今のところは有力な解釈や通説とされる考えに従っておきたいと思う。
清原古墳にはこのほかに3つの古墳があったので写真だけ掲載しておきます。
虚空蔵塚古墳(こくんぞうづかこふん)。
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墳長44mの帆立貝式前方後円墳。墳丘上に人物埴輪や円筒埴輪が確認されている。
塚坊主古墳。
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全長43.3mの前方後円墳で築造は6世紀前半とされる。ここも石室が保存されているようでしたが、扉には鍵がかけられていました。
京塚古墳。
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円墳で清原古墳群中の一基だけど他の3基と違って国指定史跡の範囲外。なぜこれだけがはずされたのか理由はわからない。
それぞれの古墳で確認された石人を集めて京塚古墳のとなりに並べられていた。
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20~30基くらい並べられていたでしょうか、ひとつひとつ見ていくと、この古墳群で見つかったものだけでなく、他の地域のものがいくつも含まれていました。石人はこの地方の古墳の特徴のひとつです。
清原古墳群は熊本県玉名郡和水(なごみ)町にあり、前方後円墳3基(江田船山古墳・塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳)、円墳1基(京塚古墳)からなる。前方後円墳3基は一括して国の史跡に指定されている。一帯は江田船山古墳公園として整備され、肥後民家村や歴史民俗資料館などがある。また、隣接して道の駅があり、今回はこの道の駅で車中泊をした翌朝に古墳群を見学したときの状況をレポートしたい。
清原古墳群の中で最も古く最も大きい前方後円墳が江田船山古墳である。5世紀後半の築造と推測され、全長は62メートル。盾形の周濠を持ち、豊富な副葬品が出土している。出土品の大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定された。とくに75文字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀は、埼玉県のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣とともに歴史の教科書に登場する有名な大刀だ。3年前に東京国立博物館で見学したことがある。出土品はこの銀錯銘大刀のほか、刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、鉄鏃類、土器類など92点に及ぶ。また、古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されていたようで、これらの石人は古墳のすぐそばにレプリカが並べれらていた。
後円部の正面から。周濠がきれいに復元されている。
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「史跡 船山古墳」の碑。
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左側の造出(つくりだし)部から後円部に登る階段の先に見える石棺保存室の入り口。
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扉にはこう書かれていました。
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おそるおそる扉を開けると、、、
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ガラス貼りの部屋に横口式家形石棺が保存されていました。
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部屋の中が暖かいからだろう、ガラスの内側は結露がいっぱいで中がよく見えない。3枚のガラスの下にあるハンドルは手動のワイパーを上下に動かすためのもの。両端のは故障で動かず、真ん中のワイパーだけが動かすことができた。ここに銀錯銘大刀が置かれていたのだ。
墳丘全体を左側から。
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手前の説明を順に。
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1873年(明治6年)、地元の池田佐十が「夢のお告げ」を受けて丘を掘ったところ石棺が出土したことから古墳であることがわかり、これが貴重な遺物発見の端緒となった。池田佐十は数多くの貴重で豪華な遺物を発見し保管していたが、明治政府はそれらの遺物を当時の金額で90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移したという。貴重な遺物を掘り当てた池田佐十なる人物も凄いが、それよりもそれらの遺物が散逸しないようにまとめて買い取った当時の政府の慧眼に拍手だ。
もっとも貴重な副葬品である銀錯銘大刀には次のような銘文が刻まれていた。
台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无□弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練□十振三寸上好□刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也
「台」を「治」と読み替え、判別できない文字(□)を類推して妥当と思われる文字をあてはめたのが次の文章で、現在ではこれがもっとも有力とされている。
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
「獲□□□鹵大王」の部分は、1978年に埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文から「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王=雄略天皇)」とする説が有力となった。その結果、現在では江田船山古墳の銀錯銘大刀の銘文は次のように解釈されるようになった。
天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇)の世に、典曹(文章を司る仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安である。
ちなみに、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文はこちら。
<表>
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
<裏>
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
こちらの銘文は両刃剣の側面の幅広い部分に大きく彫られているので見ての通り判別不能な文字がない。一方の江田船山古墳のほうは片刃刀の幅の狭い峰(背)の部分に彫られているために判読不明な文字が多くなっている。
ここにある「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読んで「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」の名を持つ第21代雄略天皇と解するのが通説となっている。雄略天皇は少なくとも東は埼玉県、西は熊本県北部までその影響力を及ぼしていたことの表れである。宋書倭国伝に雄略天皇と考えられている倭王武が「東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した」と記されていることと対応しているとも言われる。
いくつかのWebサイトを参照していろいろ書いたが、なかには様々な矛盾を指摘する考えもあるようだ。私自身はこれらに関しての勉強がおよんでいないので今のところは有力な解釈や通説とされる考えに従っておきたいと思う。
清原古墳にはこのほかに3つの古墳があったので写真だけ掲載しておきます。
虚空蔵塚古墳(こくんぞうづかこふん)。
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墳長44mの帆立貝式前方後円墳。墳丘上に人物埴輪や円筒埴輪が確認されている。
塚坊主古墳。
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京塚古墳。
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それぞれの古墳で確認された石人を集めて京塚古墳のとなりに並べられていた。
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20~30基くらい並べられていたでしょうか、ひとつひとつ見ていくと、この古墳群で見つかったものだけでなく、他の地域のものがいくつも含まれていました。石人はこの地方の古墳の特徴のひとつです。
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