昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。
専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。
まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。
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物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)
前稿では古屋氏の論文をもとに弥生後期から終末期にかけての各地域における祭祀を整理しましたが、ここでは続いて古墳時代における埴輪の囲繞配列を整理します。
囲繞配列の最も古い例が、弥生時代終末期のホケノ山古墳(奈良県)における畿内系加飾壺による主体部方形囲繞配列で、次に都月坂1号墳(岡山市)での都月型特殊器台形埴輪の囲繞配列が想定されています。この埴輪の分布は吉備・播磨・大和・山城・近江に見られ、古墳時代前期最古段階にこれらの地域に共通した祭器を使用する囲繞配列の分布圏が出現していました。一方、同時期の四国東北部では鶴尾神社4号墳(香川県)を最古とする独自の底部穿孔壺形土器による囲繞配列があります。
古墳時代前期前半になると北部九州・美作・大和・山城・北陸・東京湾東岸・関東北西部・東北南部など、列島の広域に底部穿孔二重口縁壺による囲繞配列が分布するようになります。さらに前期中頃以降には円筒埴輪による囲繞配列の分布域が拡大し、前期後半に入ると囲繞配列は円筒埴輪で行うのが一般的となりますが、北部九州や東日本では壺形埴輪や壺形土器、近畿北部では丹後型埴輪、伊予では伊予型埴輪など、地域的に限定された埴輪を使用する所も依然として存在します。
この囲繞配列がなぜ行われたのでしょうか。氏は、使われる器物が弥生時代の飲食儀礼に使われた儀器を象徴化したものとする考えと、囲うことで主体部(あるいは墳丘全体)を外界から隔離しているという考えを示し、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての時期に飲食儀礼が衰退して囲繞配列が盛行するという大きな流れをもとに、共同体的葬送祭祀から首長霊的葬送祭祀への変化の中で首長の葬られる区域を神聖化しようとする意識が囲繞配列を生み出したとします。また、成立当初の囲繞配列は非常に選択性が強く、祭祀的意味合いが濃いものでしたが、前期後半になるとほとんどの定型的な古墳で囲繞配列が行われ、列島の広い範囲で画一的なデザイン・製作技術の祭器を共有することから、壺や埴輪のもつ祭祀的側面が薄れたと考えられます。
また、弥生墳丘墓で盛行した主体部上の土器配置について、古墳時代前期になると儀礼に使われていた飲食具を穿孔するなど仮器化して供献するという変化が想定されることから、弥生時代以来の飲食儀礼が形骸化して供献儀礼に変化したとします。
以上、古屋氏の論文から参考となる部分を要約する形で弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓における祭祀を概観しましたが、次に笹生衛氏の「古墳の儀礼と死者・死後観 -古墳と祖先祭祀・黄泉国との関係-」に別の資料からの情報も付加して3世紀から6世紀までの古墳儀礼を整理してみます。
続きはこちら→物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)
専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。
まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。
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物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)
前稿では古屋氏の論文をもとに弥生後期から終末期にかけての各地域における祭祀を整理しましたが、ここでは続いて古墳時代における埴輪の囲繞配列を整理します。
囲繞配列の最も古い例が、弥生時代終末期のホケノ山古墳(奈良県)における畿内系加飾壺による主体部方形囲繞配列で、次に都月坂1号墳(岡山市)での都月型特殊器台形埴輪の囲繞配列が想定されています。この埴輪の分布は吉備・播磨・大和・山城・近江に見られ、古墳時代前期最古段階にこれらの地域に共通した祭器を使用する囲繞配列の分布圏が出現していました。一方、同時期の四国東北部では鶴尾神社4号墳(香川県)を最古とする独自の底部穿孔壺形土器による囲繞配列があります。
古墳時代前期前半になると北部九州・美作・大和・山城・北陸・東京湾東岸・関東北西部・東北南部など、列島の広域に底部穿孔二重口縁壺による囲繞配列が分布するようになります。さらに前期中頃以降には円筒埴輪による囲繞配列の分布域が拡大し、前期後半に入ると囲繞配列は円筒埴輪で行うのが一般的となりますが、北部九州や東日本では壺形埴輪や壺形土器、近畿北部では丹後型埴輪、伊予では伊予型埴輪など、地域的に限定された埴輪を使用する所も依然として存在します。
この囲繞配列がなぜ行われたのでしょうか。氏は、使われる器物が弥生時代の飲食儀礼に使われた儀器を象徴化したものとする考えと、囲うことで主体部(あるいは墳丘全体)を外界から隔離しているという考えを示し、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての時期に飲食儀礼が衰退して囲繞配列が盛行するという大きな流れをもとに、共同体的葬送祭祀から首長霊的葬送祭祀への変化の中で首長の葬られる区域を神聖化しようとする意識が囲繞配列を生み出したとします。また、成立当初の囲繞配列は非常に選択性が強く、祭祀的意味合いが濃いものでしたが、前期後半になるとほとんどの定型的な古墳で囲繞配列が行われ、列島の広い範囲で画一的なデザイン・製作技術の祭器を共有することから、壺や埴輪のもつ祭祀的側面が薄れたと考えられます。
また、弥生墳丘墓で盛行した主体部上の土器配置について、古墳時代前期になると儀礼に使われていた飲食具を穿孔するなど仮器化して供献するという変化が想定されることから、弥生時代以来の飲食儀礼が形骸化して供献儀礼に変化したとします。
以上、古屋氏の論文から参考となる部分を要約する形で弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓における祭祀を概観しましたが、次に笹生衛氏の「古墳の儀礼と死者・死後観 -古墳と祖先祭祀・黄泉国との関係-」に別の資料からの情報も付加して3世紀から6世紀までの古墳儀礼を整理してみます。
続きはこちら→物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)
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