伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む市議会議員。市政や市議会、日常の活動などを紹介していきます。

水俣の歴史に学ぶことが大切と実感・市議会常任委員会視察1

2014年02月03日 | 原発
 鹿児島中央行きの新幹線「さくら549号」が13時過ぎ、新水俣駅に滑り込んでいきました。降り立つ人はまばらです。駅から車で市内に乗り出すと、車窓に流れるのはどこにでもある田舎の町並みです。このまちを舞台に、日本を揺るがす公害事件が起こったとは、とても思えない光景です。ややして車は丸島漁港に着きました。漁港内はもちろんですが、防波堤の向こうに広がる八代海は、冬の日差しの中で穏やかな風情を見せていました。

 

 漁港には水俣市漁業協同組合の事務所があります。ここで漁協関係者に、またこの後、水俣市立水俣病資料館で「水俣病公害の歴史と現状及び水産業の復興」について説明を聞き学ぶことになっていました。

 水俣病(水俣湾)は、第2水俣病(新潟県阿賀川流域)、四日市ぜんそく、イタイイタイ病(富山県神通川流域)と並び四大公害病といわれます。いずれも高度経済成長期である1950年代から70年代にかけて発生し、いわば日本の経済発展のための人柱として住民が差し出され、犠牲を押し付けられた事件でした。

 お話を伺い、本稿をまとめなければと思いながら水俣で聞いた話を頭のなかで反復していると、浮かんできた言葉がありました。「歴史は繰り返す」という言葉です。水俣で起こったことは、原発事故後、まさに本市で起こっていることと同じに見えたのです。負の歴史を繰り返さないために、水俣から何をくみ取るかが大切だということをあらためて認識できました。

◆水俣とチッソ

 さて水俣の被害の実像を知る上で、水俣地方とチッソ株式会社の関係を抜きにすることはできないと思いました。
 
 水俣でのチッソの歴史は古く、1908(明治41)年に、発電会社及び余剰電力と豊かな水資源を活用して設立されたカーバイト製造会社を合併し、日本窒素肥料株式会社(以下チッソと表記)を設立した時にさかのぼります。以降、化学産業を担う企業として順調に規模を拡大させていきますが、戦前・戦中はニトログリセリンなどを製造する軍需工場でもあったために連合国の爆撃を受け工場が破壊されました。

 戦後再建されたチッソ水俣工場は、プラスチック製造に必要なアセトアルデヒドが作られ、その製造過程で無機水銀が触媒に使われていました。この工場は、水俣市の人口が約5万7,000人の時代に社員を約5,000人かかえていました。多くの市民が何らかの形でチッソに関わり、かつ、市の財政の48%がチッソに依存していました。このため「チッソ城下町、チッソ運命共同体」という強い意識を持つことになりました(下の写真奥が現在の水俣工場)。



◆水俣病の原因

 アセトアルデヒドを製造しているチッソは、その排水を浄化処理することなく水俣湾に流し続けていました。当時は排水に対する規制がなかったようです。

 ある時期から、住民たちに手足の震えをはじめ運動機能障害などを発症する奇病が発現しだしました。タイやタチウオなど弱った魚が岸辺に寄せるようになり、水鳥も次々と死んでいきました。ネコがふらふらになりあげく海に飛び込んで死んでしまうという奇妙な現象も続きました。茂道という地区ではネコが一匹もいなくなったためにネズミが増えすぎ、駆除の申請が役場に出されたと報道されるなど、異常な事態が発生していました。

 病気の原因は不明でした。だからこそ奇病と言われたわけですが、やがてチッソの「排水が原因だ」とささやく住民もあらわれたようです。しかし、本格的な原因究明が行われることはありませんでした。

◆事実に目を向けず被害の拡大

 公式に水俣病が確認されたのは1956(昭和31)年です。その原因は謎のままでした。熊本大学研究班による原因究明の努力は続けられ、有機水銀説を発表したりしていますが、チッソはこれに反論を加え原因の確定ができないでいました。厚生省が正式に「新日本窒素(現チッソ)水俣工場の工場排水に含まれたメチル水銀化合物」が奇病の原因と認めたのは、68(昭和43)年のことでした。患者が公式に確認から12年も過ぎています。この間、患者は拡大し続けました。

 患者拡大を防ぐチャンスは何度かありました。
 57(昭和32)年、水俣保健所の伊藤蓮雄所長(当時)がネコ7匹を飼い魚や貝を与える実験を行ったところ、早い個体は実験開始後1周間で奇病を発生しました。この結果を受けて何らかの措置をとれば、被害者の拡大を防げたかもしれません。しかし、国が食品衛生法による魚等の摂取制限を取ることはありませんでした。

 また、59(昭和34)年に「工場が黒か白か」をはっきりさせようと、チッソ付属病院の細川一院長が、排水を混ぜた餌をネコに食べさせる実験をしました。開始後77日、400号と呼ばれるネコに奇病が発生しました。奇病の原因がチッソの排水にあることが明らかになったわけです。院長はただちに会社幹部にこの事実を伝えました。しかし、情報は握りつぶされ、患者拡大を防止するチャンスがまたもや失われてしまったのです。

 チッソは、排水に対する批判の高まりを受け、59年サイクレーターと呼ばれる排水浄化装置を設置しました。ペーハーの調整と固形物を凝集沈殿させ除去することを目的とした装置で、水銀を除去する能力はありませんでした。竣工式で当時のチッソ社長は浄化された水を飲んで安全をアピールしました。しかし、この水はただの水道水だったことが後に発覚します。しかも、排水はサイクレーターを通さずに直接放流されていたのです。

 こうしてみると、疑いであっても問題の発生が確認されたときに、国やチッソが対策を講じていれば、患者・犠牲者を増やすことはありませんでした。なぜ対策を講じなかったのか。ここに、津波の危険性の訴えに耳を貸さず原発事故が引き起こした東電福島第一原発事故と、共通する問題があるように思えてなりません。

 水俣では、汚染の原因となったアセトアルデヒド製造をチッソが中止した後も、汚染魚が確認されました。このため、74(昭和49)年に汚染魚を水俣湾に閉じ込める目的で水俣湾口に仕切り網が設置され、引き続いて77(昭和52)年に湾内環境を浄化するために汚泥の撤去と汚染魚の捕獲するなど公害防止策をとり始めました。汚染魚の捕獲は漁業者に委託され、組合員の生活を支えた」と漁業者は証言しています。

 汚泥及びドラム缶に詰められた汚染魚は、水銀値が高い湾奥部の約58万㎡を鋼矢板で仕切り埋め立てられました。事業はその後に開始された丸島港と丸島・百間水路も含めて90(平成2)年までに終了。その後、表層に山土がもられた埋立地に公園などが整備され、視察に訪れた1月22日もターゲットバードゴルフを楽しむ市民を見かけたように、憩いの場として活用されています。一方、この場所への埋め立ては最終処分ではありません。汚泥等の処分方法は未だ決まっておらず、今後の課題となっているといいます。

◆水俣の被害

 水俣では3つの被害が発生しています。
 一つは健康被害です。
 水俣病では、前述の運動機能障害に加え視野狭窄などの症状も現れますが、これは排水に含まれるメチル水銀(有機水銀)中毒によって中枢神経が障害を受けたことによるものでした。最悪の場合、死にも至ります。

 また、メチル水銀を直接接種した住民だけでなく、流産・死産が多発し、運よく出産しても胎児期に母親の胎盤を通じて水銀に侵され発症する胎児性の患者も現れました。子どもに水銀が移行するためにお母さんの症状は軽くすみました。重い胎児性水俣病で、22歳まで生きた川村ともこさんの母親は、「この子が私が食べた水銀を全部吸い取ってくれた。そのために、私は元気です。そしてそのあと5人の子どもが生まれたけれど、みんな元気です。この子は我が家の災い・水銀を全部一人でしょってくれた。我が家の命の恩人です」と、「宝子(宝の子)、宝子」と呼んで大切に育てたというお話には、思わずこみ上げるものを感じました。

 二つ目に、患者とその家族への偏見や差別、いやがらが行われるなど住民が分断されたことです。
 チッソと運命共同体だったからこそ、チッソを守ろうと「ニセ患者」「金欲しさ」と患者やその家族に悪罵が投げつけられました。

 そして三つ目に漁業被害です。
 水俣湾は良質の漁港で良い魚が獲れることが自慢の海でした。そこが水銀で汚染されました。当然海産物は売れなくなりました。

 この水俣の海で公害防止策がすすめられ、97(平成9)年には熊本県による安全宣言が出されました。以後も毎年2回の海産物検査を実施、安全の確認を行っているといいます。

 しかし視察に対応した漁協関係者は、「(裁判の報道など)何かがあれば再びダメージが出る」と話されていました。水銀に汚染されない海藻「アオサ」を出荷した際に、「水銀の証明書をつけてくれ」と要求されたことがあったそうです。風評被害は未だに残っている。水俣の漁業者は未だにそういう実感を持っています。

◆被害者救済や住民分断への水俣市の取り組み

 こうした事態に水俣市はどのように取り組んできたのでしょうか。

 「のさり―水俣漁師、杉本家の記憶より」は、水俣病を発病し慰謝料等を求める第一陣訴訟に加わった杉本さん一家の経緯をたどっています。
 この本の中には、水俣病を発病し、生業の漁業も十分できず、また地区住民からは偏見の目で見られ生活を支えてもらうことができないでいた杉本さんが、困窮を極めて生活保護を申請をした時に、漁具等の所有を理由に受け付けてもらえなかったり、税の滞納を理由に差し押さえなども受けたという記述があります。こうした措置が水俣病と関係あるかどうかは分かりません。しかし、少なくとも病気により困窮を極めた被害者が市に対して深い不信を抱く原因になったようです。1970年代初頭のことです。

 引き続き「のさり」は、杉本家の行政不信が解け始めたことを紹介しています。92(平成4)年3月、一人の市職員が杉本家に来訪しました。「戻らんな」と促すにもかかわらず居座る職員は、「水俣の行政は変わらなければならん。おらは変えようち思う」と話したというのです。この職員は、93(平成5)年に開館した水俣市立「水俣病資料館」の館長になった男でした。

 この頃から水俣被害に対する市の取り組みが変わったのでしょう。
 水俣市は水俣病問題(水俣病の健康被害とこれに関して発生した社会的問題を含めて以下このように呼称します)の反省にたって、一般ごみの分別徹底など環境に対する取り組み強化と同時に、長年続いた住民の分断と対立を克服する事業をすすめてきました。

 90(平成2)年度には水俣市と熊本県の共同事業として「環境創造みなまた推進事業」が始められました。「多くの環境問題に関する国際会議や水俣病問題を正面に見すえた市民の集い(講座)等を通じて、水俣病(問題)についての正しい理解と市民相互の理解や対外的にはイメージの転換を図るなど、水俣再生」に向けた取り組みとされるものです。

 この事業は98(平成10)年度で終結しますが、こうした取り組みの結果、長年続いた患者と住民の分断・対立から、「水俣地域ではこれまで避けて正面から向き合って話すことがなかった水俣病(問題)について、人前で話せるようになったり、様々な取組に患者・市民・行政が共同した『もやい直し』が進」んだ、とされています。ただこの段階では、まだまだ水俣病について語りにくい雰囲気が残っていたという評価もあるようです。

 ここで語られている「もやい」とは船と船をつなぐことで、「もやい直し」は船と船をつなぐロープを結び直すことをいいます。これに見立てて水俣病が発生させられたことで傷ついた市民の絆を取り戻すために、水俣病と向き合い、理解しあうことで意識改革をはかろうという考えが「もやい直し」です。

 94(平成6)年、初当選した吉井正澄市長が、同年開かれた第3回水俣病犠牲者慰霊式で、次のように市長として初めての公式謝罪をしました。

 「(水俣病被害者は)いわれなき中傷、偏見、差別を受け、心身ともに悲惨な状況に置かれました。」「(水俣市は)患者の苦しみを目の前にしながら十分に役割を果たし得たのだろうか、あの時こうすればよかった、こうしなければならなかったのではと悔やまれてなりません。水俣病で犠牲になられた方々に対し、十分な対策をとりえなかったことを、誠に申し訳なく思います。」
「患者とそうでない市民の心が離反し、患者もいくつかの団体に分かれるなど、水俣は混乱の極みに達しました。」「今日の日を市民みんなが心を寄せ合う『もやい直し』の始まりに日といたします。」

 こうした反省の上に同(平成6)年には、犠牲者や護岸に埋められた魚、また鳥や動物などの死に対する鎮魂と地域再生の願いをこめた「火のまつり」をはじめ、「市民のつどい」「講演会」など様々なプログラムが行われています。

 先の「のさり」には、第1回「火のまつり」で杉本栄子さん(第一陣訴訟原告)が読み上げた「祈りのことば」が紹介されています。一部を抜粋します。

 「まこて 今日は良かった/みんなこげんして来てくれらったで 嬉しかったー/ほんなこつ今日は 嬉しかった/こげんいっぱい灯りを点けてもらえて なんて今日はよか日じゃったじゃろうか/ほんなこつ嬉しかった・・・/水俣ん好きな者は みんな 帰ってきてくださーい!」

 引き続く風評被害の発生など、住民の中のわだかまりが完全に氷解したとは思えない面があることを視察では感じた時もありました。しかし、「もやい直し」は住民の融和を確実にすすめているのだろう。こう思います。

◆漁業被害への取り組み

 水俣で奇病が発症した。ましてや水俣湾で採れた魚を食べて発症したということで、水俣湾では漁をすることができなくなりました。生活をすることができなくなって漁業を離れる人達も多く、一旦離れた人たちが再び漁業に戻ることは困難だったようです。

 水俣病が問題になる前は400名程だった水俣市漁業協同組合の組合員は、現在は正組合が51名、准組合員が105名、合計で156名の組合になってしまいました。「組合員の高齢化もすすみ、厳しい状況」に置かれているといいます。

 漁業をできなかった住民には補償があったようです。そして、前述のように県から委託された湾内の汚染魚の捕獲漁の手当が漁民の生活を支えました。

 しかし、新しく漁業に始めた漁民には補償がありませんでした。現在の水俣市漁協組合長は、倍賞の対象にならない新規就労者で、シラス漁を行っています。水俣に上がる魚の多くはほぼ地場で消費されるようですが、シラスは釜で茹で上げ「チリメンジャコ」などに加工し関西方面などに出荷されています。ある時、市場関係者から「産地に水俣と書いてくれるな」と言われ、「熊本」とだけ書いて出荷したところ、行政から指導を受けて大変な思いしたといいます。こうした大変な思いをしても、何の賠償もなかったといいます。

 やがて水俣湾口の仕切り網が撤去され、汚泥等の撤去が終了し、97年(平成9)年に県が安全宣言を発します。現在も「排水(現在のチッソは製造過程で水銀は使っていないので汚染はありません)を流し続ける迷惑料」の意味合いで漁協に対して年600万円の補償がされています。これは漁協の運営費につぎ込まれており、個人に対する補償はないといいます。

 また前組合長は、熊本県による安全宣言が97(平成9)年に出された以降も魚価が戻らないという印象を持っていることを話していました。ただこれは、比較の対象となる価格が数十年より以前の体験であるために、どの程度の下落なのか、あるいは風評被害によるものなのかを確認することは難しいという印象を持ちました。

 「漁業者は補償しろと言いたいが、そのことが風評被害を引き起こしかねないので口に出せないでいます。しかし、漁民が口を閉ざしていても、一般の人が声をあげます。また水俣の人が言わなくても、周辺の人が声をあげますから」と、水銀被害の過去の呪縛から抜け出す難しさを話していました。



 どう困難を乗り越えていくのか。シラス漁に取り組む組合長はこう話します。
 「私の経営する前田水産の屋号は○の中にマと書いて○マですが、○マの品が認められるまで時間がかかりました。いいものを作って評価をしてもらえるように努力を積み重ねた結果です」。
 風評の克服は、質の良い物、うまい物を提供する。その努力の積み重ねで克服できると教えてくれました。

 この他に元組合長は、豊かな漁場作りの一環と思われますが、水作り事業、漁場回復として漁礁の設置などの事業にもとりくんだことを話していました。

◆何を学び何を活かすのか

 この水俣の歴史と取り組みから何を学ぶのか。
 第一に思うのは、東電福島第一原子力発電所の事故に活かされなかった水俣病問題の歴史そのものに学び、その教訓を活かすということです。

 今から57年前に公式に確認された水俣病という公害の問題は、尊い犠牲を生み出しながらも次の時代に活かされることがありませんでした。

 チッソは戦前も戦中も国策を支える会社として栄え、プラスチック製造等の化学産業として高度経済成長を支えました。だからこそ公害による人的被害を知りながら、企業も国も工場を止めるような措置をとらなかったと、思わざる得ない状況です。

 水俣病資料館では、水銀の排出が止まった時期には「プラスチックが石油から作れるようになり、アセトアルデヒド酢酸の製造は終わっていました」と話をしていました。実際、チッソのアセトアルデヒド生産設備が操業を終えたのは68(昭和43)年5月、政府・厚労省が水銀を含むチッソの排水が水俣病の原因と認めたのは同年9月でした。この状況を見ると、政府が国策を支えるチッソの利益を守ったようにしか見えません。

 翻ってみると原子力発電も、国策のもと進められてきました。過酷事故は起きないという「安全神話」で危険性を脇において作られてきたのです。そして、事故収束のめども技術もなく、起こった事象に現場の労働者たちが必死に対応している中で、政府は原発の再稼働の方針を決めて再稼働申請を受付け、また、海外に原発を輸出するために躍起になっています。国策のためには住民の犠牲をいとわないという点で、水俣も東電福島第一原発も共通しています。

 原発事故の犠牲は、避難区域の住民には住む土地、耕す土地や職場を奪い、長期にわたる避難生活を余儀なくさせるという形で押し付けました。

 また本市市民には、飛び散った放射性物質での短期的被曝、長期的被曝に対する不安、原発事故そのものと収束作業に絡んで発生する事故での漁業・農業・観光業・製造業への実害と風評被害、これらの問題から身を守るために市外へ自主避難の選択を余儀なくさせ、家計に重荷を背負わせ、場合によって家族関係に重大な亀裂を産み出すなどの損害を与えてきました。

 国策のためには多少の犠牲もいとわないという政府の姿勢と、それに支えられる企業の利益本位の姿勢を是正させ、水俣から原発事故へと続いた企業経営優先、人命軽視の姿勢を正していくことが求められていると思いました。

 二つ目に、住民の分断と対立の歴史の繰り返しをさせないということです。

 水俣では、水俣病が奇病と認識されていた時期も含めて、患者と発症していない市民の間に様々な亀裂が生じ、市民が分断・対立する構図が広がりました。そしてこの構図は、質の違いこそあれ、現在も残っていることが視察で実感されました。
 
 対立の原因は、「病気が分かると魚が売れなくなる」などと風評被害を恐れたこと。もう一つは、チッソが同市の基幹産業だったことも原因となりました。また、認定基準に地域による線引きが導入され、患者によって賠償の格差があったことで、患者の間にも分断と対立が生じることもあったといいます。

 今、本市では双葉郡の避難地域から避難した住民と市民の間に軋轢・感情的な対立が続いています。避難地域の住民とそれ以外の住民への賠償の格差が、その要因となっています。この軋轢・対立は、同じいわき市内で、市の支持で一時避難をして一次賠償の対象となった久ノ浜・大久地区住民と、当初何の賠償のなかった隣の四倉地区の住民の間にも生じました。事故後、四倉地区の住民から、「なぜ賠償の対象にならないのか」と、怒りの電話が多数あったことを思い出します。賠償が地域的線引きで行われることが対立の原因になっているのです。

 こうした賠償の地域的線引きや賠償の格差で生じる住民間の対立は、行政の作為によって生じています。損害賠償を専管する文科省は「最低限の基準として(損害賠償の)指針を示した。因果関係のあるものについて東電は相応の賠償すべき」と言いますが、東電は「国の指針が示されているので、これに従って賠償する」との対応をとり、お互いが持たれあった関係の中で責任逃れに走っています。この結果、被災者・住民は損害賠償のあり方に納得できないで居るわけです。

 従って、行政がこれを正すよう求めていくことが何よりも求められます。本市では、市長をはじめ行政としても、市議会としても、国や東電に対する十分な損害賠償を求めています。実現をさせるための市民的共同の発展と世論の高揚、市議会及び市のより強い対応が求められていることをつくづく感じました。

 同時に、本市では、例えば地場産の食べ物を利用することに問題がないと考えている方と不安を感じている方の間には、感情的な問題も含めて対立的な状況が生まれつつあるように感じます。賠償の問題も、賠償される住民とされない住民というように、対応に差が生じています。その格差は、倍賞される住民に責任があるのではなく、本来、事故を起こした国と東電にあります。非難の目は国と東電にこそ向けられるべきですが、現実には倍賞を受ける住民に向けられることもあります。学校給食に地場産農産物を使う、使わないという意見対立があるように、地場産の食べ物についても同じ構図があります。

 放射性物質の不安を取り除いていくために重要なことは、①原発事故にかかわる機敏で正確な情報公開、②その情報を読み解く力を住民が備えること、③特に放射性物質の影響をどう捉えるかを市民的規模で学ぶこと、が大切だと思います。

 そのためにもふさわしいプログラムと教材を、原発に賛成・反対の姿勢を問わず幅広い専門家の知見を集めて開発し、活用していくことが望まれていると思います。国や東電が実施しないのならば、こうした取り組みを本市独自にもすすめてみるのはどうでしょうか。その際に必要になる費用は、国・東電に負担させることが当然でしょう。

 住民間の感情の行き違いは、原発事故を引き起こした国と東電の責任を覆い隠す「イチジクの葉」の役割を果たしてしまいます。そしてこのことが、原発事故の原因究明を遅らせ、今後の原発政策に対する政策判断をあやまらせ、その結果、東電福島第一原発事故を再来させる危険を増大させる要因となってしまいます。この点からも、放射性物質に対する理解を広げる取り組みと対話は重要だと思います。

◆結びに

 汚染物を埋め立てた公園にある「みなまた観光物産館・まつぼっくり」で前田水産の「ちりめん」を買い求めました。くまモンの図柄と「不知火海産」と染め抜かれたラベル、裏を見ると「原産地」が「不知火海」で製造者の所在地が「熊本県水俣市」となっています。納豆に加えたり、そばのトッピングにしたり、またチャーハンに使ったり、とても美味しくいただいています。もちろん国の基準をクリアした安全なシラスです。



 水俣という地名は、水俣川と湯出川の二つの川が交わり、美しい水が豊富にあったことに由来するといいます。しかし、チッソと国による公害のために、「水俣=公害病」というイメージが作られてしまいました。その時に、私たちが被災地にどのような姿勢でのぞむことが求められるのか。作りだされたイメージではなく、測定データなどで総合的に安全性が確認しながら住み・食するという姿勢だと思います。

 原発事故でマイナスイメージを植え付けられた本市でも、こうした水俣のあり方に学んで今後のまちづくりを進めなければなりません。

【参考文献】

のさり-水俣漁師、杉本家の記憶より (藤崎童士、新日本出版社)
水俣学ブックレットNo.6 「水俣病小史」第三版 (高峰 武、熊本日日新聞社)
水俣病の真実-被害の実態を明らかにした藤野糺医師の記録(矢吹紀人、大月書店)
水俣市立水俣病資料館会館20周年記念誌(水俣市)
水俣病-その歴史と教訓-2007(水俣市)
水俣病Q&A(水俣市立水俣病資料館)
チッソ(ウィキペディア)
? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%BD
環境の世紀8
?http://www.sanshiro.ne.jp/activity/01/k01/schedule/5_11a.htm
もやいなおしはどんなこと
?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85
ドキュメント水俣病事件1873―1995
?http://toranomon.cocolog-nifty.com/minamatabyojiken/2013/02/post-f457.html
機関紙「ごんずい」
?http://www.soshisha.org/gonzui/49gou/gonzui_49.htm

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