「オンディーヌ」(Ondine) (ジャン・ジロドゥ 二木麻里 訳)(光文社古典新訳文庫)
中世、騎士、水の精の世界で、男と女の間の永遠の真理(?)、永遠の不可能、それがおそらく多くの背景を持つ暗喩(?)を携え、巧みな台詞でフィナーレになだれ込んでいく。
ただ、この多分神が宿っている細部、劇中劇もあるような重層的構造がよくわからないから、本当は劇場で上演したものを見たほうがいいのだろう。
これは、騎士ハンスの、世間の男の女性観、男女の交わらない平行線を示しているようでいて、それも何かもどかしいものが残る。結末もどうなのか、劇を見れば違うのか。
こちらが納得するためには、やはり、ワーグナーが扱ったごとくエロティシズムの要素がないと、死との結びつきが出てこないように思うのだが、ジロドゥにテクストにそういうところはない。
途中から、多くはこちらに起因するわかりにくさはさておいて、もう少し抽象的な視点で読んでいった。
オンディーヌは、作者の、騎士ハンスの、そして私の自意識、私の中にあるふたつの自分、その一方であったり他方であったり、それはあるとき突然あらわれ、何かを言い、解決はつかない、どちらかが死に絶えるまでは、現実には両方が死に絶えるまでは。劇ではどちらかが死ぬことが可能だ。
「オンディーヌ」というタイトルを見るとまず頭にうかぶのは「加賀まりこ」、調べたら1965年劇団四季公演での抜擢で、当時大きな話題になったのを覚えている。週刊誌などで写真も見ているが、公演そのものは見ていない。こちらの年齢もあるのだろうが、見ても若い時では何も理解できなかっただろう。四季の芝居を見たのはおそらく1967年のジャン・アヌイ「アンチゴーヌ」(市原悦子、平幹二朗)あたりが最初。こっちは「政治」の観点からの理解も可能であった。
米国ではオードリー・ヘプバーンが演じたそうだ。1965年四季公演のハンスは北大路欣也。
新訳は、といっても旧訳を知らないが、こういう物語の背景、複雑な要素を持つドラマの台詞でありながら、舞台で演じられている調子、空気があって、読み進むのに自然である。
当時の四季などの劇で、コメディでなくても役者の台詞の細部で観客が笑うことがよくあり、これはアドリブかと思っていたが、それはこちらのもの知らずで、オリジナルにその要素があったようだ。ここで笑うだろうという箇所は訳文でよくわかる。