ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:パトリス・シェロー
イアン・ストーリー(トリスタン)、ワルトラウト・マイア(イゾルデ)、マッティ・サルミネン(マルケ)、ゲルト・グロホウスキ(クルヴェナール)、ミシェル・デ・ヤング(ブランゲーネ)
2007年12月 ミラノ・スカラ座 2013年12月 NHK BS
いずれ見るつもりでいたのだが、ワーグナーについては待ちになっている作品(その中にはトリスタンも)がいくつもあって、ここまで延びてしまった。時間はたってしまったが、とにかくよかった。
バレンボイムとミラノ・スカラ座によるワーグナーは「指輪」で感嘆していたから、期待は大きかったのだが、それを上回る。
彼が振るこのオーケストラ、歌手たち(特にイゾルデのマイア)、シェローの演出があいまって、とにかく表現が説得力あるものとなっている。
この話はシンプルだから、全体をシンプルに、神秘的(たとえば象徴的)にしたようなものがこれまで多かったと思う。これは全く反対である。
注意をそらさずに見ていられるからか、気付いたのは、第一幕で物語はほぼ語りつくされていて、この話の由来、それについてイゾルデがどう思っているかが語られる。それはこの後の進行、結末もほぼ予想させるものであって、第二幕のトリスタンとイゾルデの長く圧倒的なラブシーンも第一幕をなぞってされに高みに行くものとなっている。
第三幕の悲劇としての動きとフィナーレも、前の二つをこっちが受け止めたあと、さらにそれを高めていく。
ワルトラウト。・マイアはトリスタン、マルケ、そして特に侍女ブランゲーネと比べ小柄だから、ワーグナー歌手として定評はあったが、それもフリッカとかの印象で、ブリュンヒルデをやるような人ではないから、最初ちょっとなじまなかったが、それはすぐにもう、この人の「世界」をつくり進んでいく歌唱と演技に引き込まれてしまった。
くりかえすけれど、歌唱、オーケストラ、そしてトリスタンとしては具体的な装置と動きをもったシェローの演出が、見事にぐいぐいと進み、私を引き込んでいって、常に「死」がそばにあるこの作品であっても、表現として投げかけてくるのは「愛の歓び」である。
そして、最後のいわゆる「イゾルデの愛の死」では、照明がイゾルデのみにあたり、カメラは一つだけでイゾルデをとらえ続ける。これは効果的だ。中ほどから、イゾルデの髪と額の境あたりから血が一筋流れだし止まらないのも衝撃的で、これは西欧の感覚なんだろうが、次第に説得されてくる。
この部分の最後、オーケストラが大きな波、潮で押し寄せ、引き、また襲いかかりというあの箇所、随分昔聴いたあのクナッパーツブッシュ/ウィーンフィルの演奏(オケのみ)が圧倒的で、その印象がつきまとってきた。今回それにまさるともおとらないバレンボイム/スカラだが、これにぴたりと見事に呼応してマイアの声が乗ってくる。もうこれはその場、ライブのいい意味でのハプニングなのだろう。
パトリス・シェロー(1944-2013)はおそらくこれが最晩年に近い。カーテンコールでマイアが舞台袖から連れ出したが、満足そうだった。あのブーレーズとバイロイトでやった「指輪」で衝撃を与えてから随分経って、衝撃と説得性を兼ね備えたともいえよう。
指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:パトリス・シェロー
イアン・ストーリー(トリスタン)、ワルトラウト・マイア(イゾルデ)、マッティ・サルミネン(マルケ)、ゲルト・グロホウスキ(クルヴェナール)、ミシェル・デ・ヤング(ブランゲーネ)
2007年12月 ミラノ・スカラ座 2013年12月 NHK BS
いずれ見るつもりでいたのだが、ワーグナーについては待ちになっている作品(その中にはトリスタンも)がいくつもあって、ここまで延びてしまった。時間はたってしまったが、とにかくよかった。
バレンボイムとミラノ・スカラ座によるワーグナーは「指輪」で感嘆していたから、期待は大きかったのだが、それを上回る。
彼が振るこのオーケストラ、歌手たち(特にイゾルデのマイア)、シェローの演出があいまって、とにかく表現が説得力あるものとなっている。
この話はシンプルだから、全体をシンプルに、神秘的(たとえば象徴的)にしたようなものがこれまで多かったと思う。これは全く反対である。
注意をそらさずに見ていられるからか、気付いたのは、第一幕で物語はほぼ語りつくされていて、この話の由来、それについてイゾルデがどう思っているかが語られる。それはこの後の進行、結末もほぼ予想させるものであって、第二幕のトリスタンとイゾルデの長く圧倒的なラブシーンも第一幕をなぞってされに高みに行くものとなっている。
第三幕の悲劇としての動きとフィナーレも、前の二つをこっちが受け止めたあと、さらにそれを高めていく。
ワルトラウト。・マイアはトリスタン、マルケ、そして特に侍女ブランゲーネと比べ小柄だから、ワーグナー歌手として定評はあったが、それもフリッカとかの印象で、ブリュンヒルデをやるような人ではないから、最初ちょっとなじまなかったが、それはすぐにもう、この人の「世界」をつくり進んでいく歌唱と演技に引き込まれてしまった。
くりかえすけれど、歌唱、オーケストラ、そしてトリスタンとしては具体的な装置と動きをもったシェローの演出が、見事にぐいぐいと進み、私を引き込んでいって、常に「死」がそばにあるこの作品であっても、表現として投げかけてくるのは「愛の歓び」である。
そして、最後のいわゆる「イゾルデの愛の死」では、照明がイゾルデのみにあたり、カメラは一つだけでイゾルデをとらえ続ける。これは効果的だ。中ほどから、イゾルデの髪と額の境あたりから血が一筋流れだし止まらないのも衝撃的で、これは西欧の感覚なんだろうが、次第に説得されてくる。
この部分の最後、オーケストラが大きな波、潮で押し寄せ、引き、また襲いかかりというあの箇所、随分昔聴いたあのクナッパーツブッシュ/ウィーンフィルの演奏(オケのみ)が圧倒的で、その印象がつきまとってきた。今回それにまさるともおとらないバレンボイム/スカラだが、これにぴたりと見事に呼応してマイアの声が乗ってくる。もうこれはその場、ライブのいい意味でのハプニングなのだろう。
パトリス・シェロー(1944-2013)はおそらくこれが最晩年に近い。カーテンコールでマイアが舞台袖から連れ出したが、満足そうだった。あのブーレーズとバイロイトでやった「指輪」で衝撃を与えてから随分経って、衝撃と説得性を兼ね備えたともいえよう。