ミラノ・スカラ座2020/2021シーズン開幕ガラ公演
指揮:リッカルド・シャイー、演出:ダヴィデ・リーヴ ェルモル
2020年12月3~7日、ミラノ・スカラ座 2021年3月 NHK BSP
スカラ座のシーズン開幕は華やかな行事であることは知っていたから、ガラ公演もあるのだろうと3月末に録画しておいていずれと考えていたけれど、観て驚いた。
2020年、イタリアは新型コロナで、近隣諸国と比べても大変な被害にあい、なんとか持ちこたえつつあったとはいえ、年末はとても通常公演という状態ではなかった。が、普通であれば無観客公演で、というところだが、このガラはもっと先を言ったハイブローなものだった。
どの時点でこういう映像を企画し、準備を進めたものであろうか。多くの名曲・名場面が斬新な背景、演出とカメラワークで続く。時に間に入るのは、俳優や作家による名作の一部のナレーション、シェークスピア、パヴェーゼ、グラムシ、、、普通の司会者はいない。そして当然入る観客の拍手による中断もない。何かイタリアにとってオペラは何であるかが、ずしんと効いてくる。
「リゴレット」、「ドン・カルロ」、「仮面舞踏会」、「オテロ」と続くヴェルディ、「蝶々夫人」、「トスカ」、「トゥーランドット」のプッチーニ、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」には思い入れがあるようだ。そのほかドニゼッティ、ロッシーニ、ビゼのいくつか。
多くは死と向き合い、弱きもの、女性へのハラスメントと向き合う、そしてそれを描き切るところから、この不幸な時代を生き抜く力を見つけ、人々に与えたいということだろうか。
意外だったのは「蝶々夫人」で、若いころは日本人として気恥ずかしい印象があったが、次第に、特に全曲を聴くと、これはプッチーニ円熟期の優れた作品を思うようになった。今回は何と二回の登場で、前半に自害前の「さようなら、かわいいぼうや」、後半にはかなく消えるのだが一縷のエスペランサ(希望)として「ある晴れた日に」が歌われる。
「ドン・カルロ」のカルロの嘆き、ロドリーゴの死、エボリ姫の悔悟と続き、前記「さようなら、かわいいぼうや」(オポライスの名唱)と死を直視させた後、ここに少し味を変えて「ワルキューレ」第一幕「冬の嵐は過ぎ去って」でほっとさせるところもにくい。ジークリンデは前回アップした「バラの騎士」でマルシャリンを歌ったニールントで、そういうポジションなんだと知った。たしかにワーグナーでもいいだろう。
歌手たちはいずれも世界のトップクラスで、よくこれだけ集まったなと思う。意気に感じたというところだろうか、そして多くは一場面だけだから力一杯である。もっともイタリア人はほとんどいないと思う。往年の名歌手ではドミンゴだけ出てきて、元気なところを見せていた。
最期にコメントがあったが、このガラは1946年、戦後復興なったスカラの開幕でトスカニーニが久しぶりに登場、指揮したのが始まりという。そこでは、イタリアにとっての見方も敵もなく、死を悼むということだったらしい。
そう、ずっと聴いていると、イタリアにとって対コロナは戦争であり、オペラは戦闘であり、武器であるということだ。なにしろ恒例の最初の国歌(ヴェルディ)の歌詞には「スキピオの兜」とあり、コロナはハンニバルなのだろうか。
ある人からきいたことだが、イタリアは経済などめためたになって、政府が何にもできなくなっても、なんとか陽気な日常を保っている、それはマフィアがうまくやるからだ、そうである。後の方はともかく、死に向き合い、音楽が生きる力をというのは、外から見ても感じるところは大きい。
とにかく、こういうものを観ることが出来て感謝である。これだけの曲をマスクしたままで指揮をやり切ったリッカルド・シャイーさん、ごくろうさまでした、これこそ本当のブリオでした。
指揮:リッカルド・シャイー、演出:ダヴィデ・リーヴ ェルモル
2020年12月3~7日、ミラノ・スカラ座 2021年3月 NHK BSP
スカラ座のシーズン開幕は華やかな行事であることは知っていたから、ガラ公演もあるのだろうと3月末に録画しておいていずれと考えていたけれど、観て驚いた。
2020年、イタリアは新型コロナで、近隣諸国と比べても大変な被害にあい、なんとか持ちこたえつつあったとはいえ、年末はとても通常公演という状態ではなかった。が、普通であれば無観客公演で、というところだが、このガラはもっと先を言ったハイブローなものだった。
どの時点でこういう映像を企画し、準備を進めたものであろうか。多くの名曲・名場面が斬新な背景、演出とカメラワークで続く。時に間に入るのは、俳優や作家による名作の一部のナレーション、シェークスピア、パヴェーゼ、グラムシ、、、普通の司会者はいない。そして当然入る観客の拍手による中断もない。何かイタリアにとってオペラは何であるかが、ずしんと効いてくる。
「リゴレット」、「ドン・カルロ」、「仮面舞踏会」、「オテロ」と続くヴェルディ、「蝶々夫人」、「トスカ」、「トゥーランドット」のプッチーニ、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」には思い入れがあるようだ。そのほかドニゼッティ、ロッシーニ、ビゼのいくつか。
多くは死と向き合い、弱きもの、女性へのハラスメントと向き合う、そしてそれを描き切るところから、この不幸な時代を生き抜く力を見つけ、人々に与えたいということだろうか。
意外だったのは「蝶々夫人」で、若いころは日本人として気恥ずかしい印象があったが、次第に、特に全曲を聴くと、これはプッチーニ円熟期の優れた作品を思うようになった。今回は何と二回の登場で、前半に自害前の「さようなら、かわいいぼうや」、後半にはかなく消えるのだが一縷のエスペランサ(希望)として「ある晴れた日に」が歌われる。
「ドン・カルロ」のカルロの嘆き、ロドリーゴの死、エボリ姫の悔悟と続き、前記「さようなら、かわいいぼうや」(オポライスの名唱)と死を直視させた後、ここに少し味を変えて「ワルキューレ」第一幕「冬の嵐は過ぎ去って」でほっとさせるところもにくい。ジークリンデは前回アップした「バラの騎士」でマルシャリンを歌ったニールントで、そういうポジションなんだと知った。たしかにワーグナーでもいいだろう。
歌手たちはいずれも世界のトップクラスで、よくこれだけ集まったなと思う。意気に感じたというところだろうか、そして多くは一場面だけだから力一杯である。もっともイタリア人はほとんどいないと思う。往年の名歌手ではドミンゴだけ出てきて、元気なところを見せていた。
最期にコメントがあったが、このガラは1946年、戦後復興なったスカラの開幕でトスカニーニが久しぶりに登場、指揮したのが始まりという。そこでは、イタリアにとっての見方も敵もなく、死を悼むということだったらしい。
そう、ずっと聴いていると、イタリアにとって対コロナは戦争であり、オペラは戦闘であり、武器であるということだ。なにしろ恒例の最初の国歌(ヴェルディ)の歌詞には「スキピオの兜」とあり、コロナはハンニバルなのだろうか。
ある人からきいたことだが、イタリアは経済などめためたになって、政府が何にもできなくなっても、なんとか陽気な日常を保っている、それはマフィアがうまくやるからだ、そうである。後の方はともかく、死に向き合い、音楽が生きる力をというのは、外から見ても感じるところは大きい。
とにかく、こういうものを観ることが出来て感謝である。これだけの曲をマスクしたままで指揮をやり切ったリッカルド・シャイーさん、ごくろうさまでした、これこそ本当のブリオでした。