メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ワーグナー「ラインの黄金」(ミラノ・スカラ座)

2012-09-17 16:47:38 | 音楽一般

ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」(「ニーベルングの指輪」序夜)

指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:ギー・カシアス

ルネ・パーペ(ウォータン)、ドリス・ソッフェル(フリッカ)、シュテファン・リュー・ガマー(ローゲ)、ヨハネス・マルティン・クレンツレ(アルベリヒ)、ウォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケ(ミーメ)、ヨン・クワンチュル(ファソルト)、ティモ・リーホネン(ファフナー)、アンナ・サムイル(フライア)、アンナ・ラーション(エルダ)、ヤン・ブッフヴァルト(ドンナー)、マルコ・イエンチュ(フロー)

バレエ:イーストマン・バレエ・カンパニー

2010年5月26日 ミラノ・スカラ座  2011年12月NHK BS-Pre

 

「指輪」最初の二つがほぼ同時期にメトロポリタンとスカラで、それもこうして映像で簡単に見られる、とはなんとも贅沢な時代になったものである。あまり続けて見るというのはどうかと思い、スカラは後になった。

 

これも質の高い上演であって、おそらくもうバイロイトはこの二つにかなわないのではないか。

ウォータンのルネ・ハーペ、この人「ボリス・ゴドゥノフ」(メトロポリタン)で圧倒的な存在感を示したが、ここではちょっとインテリの悩める神々の長といった感じで、この物語の発端にはあっているが、ちょっと弱気な面が強調されているようにも見える。

 

あとここでキーになるのはアルベリヒとローゲだが、この二人はメイクの良さもあり、見た目、そして演技、歌唱、こちらに彼らの言い分がしっかりと入ってくる。アルベリヒはこれくらい強くないと面白くないし、奸計と狡猾のローゲはこの場の活躍で作品全体のしかけもわかってこようというものだ。ガマーは実に気持ちよさそうにやっている。

 

あとはファソルトのヨン・クワンチョル、もうこの人は先の「パルシファル」のグルネマンツなど、この数年ワーグナーでは常連になった。もう少し身長があればという以外、もう東洋人だからどうだという人はいないだろう。またアンナ・ラーションのエルダというのも楽しみである。

 

さてギー・カシアスの演出、光や映像の多用は今やめずらしくなく、それなりに違和感もない。裸体に近い色の衣装の男女数人のバレエが常に主要人物の近くにあり、これが人物にまとわりつく音楽に重なってくる、たとえば彼らの苦難の象徴となっている。

 

それと、舞台の上はそれほど大きくない矩形の凹凸が全面にあって、そこに水が張られており、それを利用したりしているが、動きにくそうだし、意味がるのかどうか。

 

バレエは例のアルベリヒが持っている姿を変えられる兜(かぶと? やはり頭巾に方がしっくりくるけど)も表現することになっていて、これはまあ悪くはない。

しかしTVで見ることを考えた演出という感じがあって、ゆったりと音楽に浸るという感じにならない。要するに少しうるさい。

そうなると、あの例のメトロポリタンのロバート・ルパージュの大がかりだがシンプルな大道具を駆使した演出の方が「指輪」にはあっているといえるだろう。

 

そういう細かい不満を払拭してしまうのがバレンボイム指揮のオーケストラ。ほかとくらべスカラのオケでワーグナーで頭抜けていいというのにはびっくりした。随所素晴らしいが、フィナーレの、この先の壮大な三夜を見通す、力強い充実した響きは、この人でも長年かけて獲得したものだろうか。

 

それにしても今思うのはローゲとは何者? この「指輪」シリーズが、中世の職人世界から産業革命を経て資本主義の時代に入り、その黄昏までを暗示しており、「ラインの黄金」の主要登場人物がどれにあたるというのは、わりあい素直に感じ取れるのだが、ローゲとは?

ここに出てくる主要人物で、第三夜「神々の黄昏」でも生き残るのはローゲだけである。もっとも本作ほど出番はなく、ウォータンにそしてブリュンヒルデに命じられて火を放つだけなのだが。

ローゲとは、生き抜いていくうえでの理性、知性? いずれもクレバーな衣装を身に着けた?

もしかしてワーグナーの分身?


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レーピン展

2012-09-14 15:26:13 | 美術

国立トレチャコフ美術館所蔵 レーピン展

8月4日~10月8日 Bunkamura ザ・ミュージアム

 

イリヤ・レーピン(1844-1930)、ロシア帝政時代の力を感じさせる、趣味がよく技術的にも高い画家ということがわかる。有名な「ヴォルガの船曳き」はトレチャコフではないため、ここでは習作のみの展示となっている。

 

肖像画は多くが上流階級、そして画家の家族をはじめ近しい人たちを描いたものが多いが、その他の絵では広く社会の人たちに目が向けられていて、それらは画家の内面を感じさせるものである。

 

有名な「休息ーヴェーラ・レーピナの肖像」を見ても、もし肖像画を描いてもらうとしたらレーピンに描いてもらいたいと思う。

 

さて今回はムソルグスキーの肖像を見ることができる。音楽の教科書やレコード・CDジャケットの定番になっているあれである。実際にそうだったらしいのだが作曲家晩年のちょっと酒を飲みすぎたような風貌、これを見て作曲家は何と言ったか。画家はいかにもモデルに気に入られるようには描いていない。

 

この種の作曲家肖像画では先の「ドビュッシー、音楽と美術」であの有名なマルセル・バシェのものを見ることができた。ドビュッシーあたりだと当然写真もあるわけだが、まだ肖像画の出番の方が多いだろう。見たことがある本物はあと一つ、ドラクロアの「ショパン」(ルーブル美術館)である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴェルディ「ドン・カルロ」(メトロポリタン)

2012-09-11 16:33:44 | 音楽一般

ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」

指揮:ヤニック・ネゼ=セガン、演出:ニコラス・ハイトナー

ロベルト・アラーニャ(ドン・カルロ)、サイモン・キーンリーサイド(ロドリーゴ)、マリーナ・ポプラフスカヤ(王妃エリザベッタ)、フェルッチョ・フルラネット(フィリッポ2世)、アンナ・スミルノヴァ(エボリ公女)、トマソ・マテリ(大審問官)

2010年12月11日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2012年8月WOWOW

 

このオペラの録音は何度か聴いているけれど、映像では1986年ザルツブルグ音楽祭でカラヤンが指揮したのを見たくらいで、それも今のような映像ではない。今回はいい条件で見ることができた。 

 

ヴェルディの音楽は本当に充実していて、オーケストラはもちろん主要な数人の人物にも適度に長くていいアリアが与えられている。だからこちらも音楽に浸っていればいいのだが、問題は大家シラー作の戯曲を原作とするこのストーリーが、ヴェルディの音楽を盛る器としてはなんとも変なものであることだ。 

 

フランスの王女エリザベッタとスペインの王子カルロが婚約をし二人は互いに一目ぼれになるが、途中でスペイン王フィリッポ2世がより政略的なものとして王女を後妻にしてしまう。ここまでが第1幕。

当然王妃と王の間はよそよそしいし、王子はあきらめきれない、王子の親友はフランドルを救おうという話をたきつける、そして嫉妬深いエボリ公女、、、

しかし、どうも各人の動機があまりこちらにしっくりこない。これくらいでそんなにかっかとするかなと思ってしまう。そもそも王女と王子はお互い一目みただけだし、同情するロドリーゴとカルロのあの有名な二重唱も音楽だけならいいが見ていると少し引けてしまう。

 

なかで唯一共感できるのがフィリッポ2世で、新妻が自分を愛していないことはわかっていて、カルロやロドリーゴの心情もわかっていて、統治者としての責任、そして大審問官の権威に苦しむ。あの有名なアリアは、このオペラの中で一番感動的だ。

 

そして演じるフルラネット、見事、絶品である。このとき60歳くらいで、実は1986年にカラヤンも彼を使っている。カラヤン1978年の録音はニコライ・ギャウロフだから、この役はバスにとって超一流の印なのだろうし、内容的にも歌いたいものなのだろう。

 

アラーニャ(カルロ)とキーンリーサイド(ロドリーゴ)は、まずまず。ただアラーニャはカルロをやるとフランス人だなあと思ってしまう。もう少し生硬な感じがあるといいのだが。キーンリーサイドは下手ではないがちょっと線が細いかもしれない。まあロドリーゴとなるとこっちのイメージがバスティアニーニとかカップチルリだから。

 

女性二人、歌はいいが容貌がちょっとイメージにあわない。

 

さて、作品がやはり長い。第1幕がカットされる上演もよくあるが、それもわからないでない。確かカラヤンのはそれである。スペイン王、王妃、王子の関係はあらかじめ知らされていれば、あの第1幕はなくてもいいだろう。

 

指揮のセガンは初めてだが、響きが充実していて、よく歌い、流れもたるみがない。幕間のインタビューではフランス系カナダ人で合唱指揮者から始めたとか。歌手たちから好かれているようで、メトロポリタンでは期待できるだろう。

 

演出のハイトナーはブロードウェイの「ミス・サイゴン」で成功したらしい。光と色の使い方はうまいが、あまり刺激的でなく、抵抗なく見ることができた。この作品が持っているもともとの無理難題、つまり最後に大審問官が出てきて、フィリッポがカルロを処刑しなくてはならないのか、というところで、その僧院に死んだはずの先代カルロ(カルロの祖父)が登場、その場が収まるように見えて終わる、というところをどう見せるかについて、この演出では皆が驚き恐れおののいて、フィリッポが弱っているカルロに手を差し伸べたように見えて終わる。

 

先代カルロのデウス・エクス・マキーナというのも、近代の劇としてはおかしなもので、ヴェルディのオペラでこれだけだと思う。この流れでカルロを殺しては、というのだろうが、先代カルロは声だけで本人かどうかもわからず、誰かがカルロを連れて行ってしまう、という演出もあるときいたことがある。

このあたりも、音楽だけ味わった方がと、時々思う理由である。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こわれゆく女

2012-09-07 15:13:45 | 映画

こわれゆく女 (A Woman Under The Influence 、1974米、145分)

監督・脚本:ジョン・カサヴェテス

ピーター・フォーク、ジーナ・ローランズ

 

この映画、日本で公開されたのは1993年、カサヴェテスが1989年になくなってからさらにしばらくだったようだが、これを見ると、ほかのアメリカ映画ってなんなの?という感がしてしまう。

夫(ピーター・フォーク)は地方の町の水道工事人で責任もあり職場で尊敬されている。妻(ジーナ・ローランズ)との間に幼い3人の子供がいる。あるとき事故で急遽仕事が長く徹夜になり、家族との約束を果たせなくなる。その朝、仕事で疲れた同僚たちを家に呼んで食事をさせてあげようと集まったあたりから、徐々に妻の様子がおかしくなり、その後ついに治療施設にいくはめになる。夫はいい家庭人で子供たちにいやな目を味あわせないよう懸命に努力をし、半年後には妻が帰ってくることになる。そこでまた彼らの親と友人を集めてパーティをすることにするのだが、さてどうなるか。

 

最初から、登場人物たちにカメラがよりそい、事件現場みたいな撮り方で見るものを引き込んでいく。セットでなくおそらくすべてロケではないだろうか。日本の監督も含め、この撮り方にはかなり影響を受けたたのではないかと思う。

 

この社会、家族、こうしてみるとこの国では、真面目になればなるほど一つ一つ言葉で人工的に関係を作り上げていかなければならない。これは相当しんどいことだろう。そして関係がタイトであればあるほど、なかなかうまくいかず破綻しがちになる。

 

妻が帰ってきて、最後になんとかなりそうになるのは、子供たちが持っている「自然」が一つのきっかけになっているように思われる。それになにしろ3人もいると夫ひとりではコントロールしきれないのだから(手は二つしかない)。この子供たち、どうやって演技させたのか?

 

ピーター・フォーク、このときはもう「コロンボ」で忙しかったが、カサヴェテスとは親友でいくつか彼の作品に出ているようだ(知らなかった)。人の好さ、頼もしさ、それゆえのいらいら感を見事に出している。

 

そしてジーナ・ローランズ、こうしてこわれていく女を演じると賞などにノミネートされやすいし、事実そうだったようだが、そういうレベルを超えている。こわれていても、何かチャーミングだし、あの美貌だからセクシーだし。

 

カサヴェテス/ローランズ夫妻の作品では「グロリア」(1980)しか見ていなかった。もちろんこれは娯楽映画としても傑作で、ここでのローランズはとにかくかっこいいとしかいいようがない。 

 

これからこのコンビの映画、もう少し見てみようと思っている。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーツアルト「フィガロの結婚」(エクサン・プロバンス音楽祭2012)

2012-09-05 16:28:40 | 音楽一般

モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」

指揮:ジェレミー・ロレール、演出:リシャール・ブリュネル

パウロ・ショット(アルマヴィーヴァ伯爵)、マリン・ビストレム(伯爵夫人ロジーナ)、カイル・ケテルセン(フィガロ)、パトリシア・プティボン(スザンナ)、ケイト・リンジー(ケルビーノ)

管弦楽:ル・セルクル・ドゥ・ラルモン、合唱:レザール・フロリサン

2012年7月12日 エクサン・プロバンス司教館中庭  2012年8月NHK BS-Pre

 

屋外の舞台、部屋の壁・扉・窓のセットを複数うまく組み合わせて動かし、登場人物は現代の衣装で登場する。

こういう読み替えではあるが、扱われている話は領主たる伯爵がこの家で仕事をしているフィガロとスザンナの結婚に対し初夜権を行使するなどというかなり昔の話であるから、観客はそれはそれと逆に読みかえて楽しむことになる。

 

とはいえ、数年前にクラウス・グートの演出もあって、こっちはもっと過激だったから、今回はむしろリラックスして楽しめた。この作品は元来かなり性的な要素がちりばめられていて、それも「ドン・ジョヴァンニ」より普通の人間に近いところで扱われているから、それを表現し無理なく受け取らせるには現代の衣装としぐさの方がいいともいえる。

 

そのなかで、ケルビーノは容貌、衣装とも面白く、また最初の「自分で自分がわからない」では、若い男の子の自分でも扱いにこまる性の目覚め、男性器の変化を、切迫感を出した歌唱で聴くことができる。あとの「恋とはどんなものかしら」との対照もいい。

 

後半の伯爵夫人「美しい時は過ぎ去り、、、」の時、まわりに関係者を配置して彼らは気づかないが夫人と観客には彼らが見えている、という設定も効果的である。

 

こういう演出ではスザンナの魅力が特に肝心だが、痩せぎすで心配したプティポン、見ているうちになかなかの演技を見せた。

 

最近、この話の前編「セヴィリヤの理髪師」(ロッシーニ)を見ている。それが頭に残っていると、伯爵とフィガロの力関係がすぐにこんなに変わるかとは思うけれど、やはり面白い。

 

ジェレミー・ロレール指揮のオーケストラ、楽器・奏法は詳しくわからないが、最近のせかせかしたもの(これは好みでない)とは違うようで、スピード感はあるがしなやかで、気に入った。

 

それにしても、この音楽祭は毎年のように刺激があって楽しめるものを提供し続けている。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする