メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

クリストフ・エッシェンバッハ

2017-12-08 20:52:38 | 音楽一般
さてそのクリストフ・エッシェンバッハである。
 
1940年生まれだから、アルゲリッチ、ポリーニ、バレンボイム、、、と戦後きら星のごとく出てきたピアニストたちと同世代である。
コンクール、レコード録音、来日と続いて、キャリアを伸ばしてきたが、ある時期から指揮が主になり、どうしたのかと思っていたが、確実にキャリアを積んできて、メジャーなオーケストラも振るようになり、オペラでもいい仕事をしているのはあのドン・ジョヴァンニで書いたとおりである。ピアニストとしては、さいわい1972年、1974年、1977年と来日時に聴いている。
 
そこでも書いたように、ピアノソロから歌曲の伴奏、それもディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウのシューマンで見事な結果を出したのが、このひと別の才能もあるのではないかと思った初めだった。どうもピアノを始めてしばらくしてから指揮者志望はあったようだけれど。
 
というところで、思いうかんだのが、E・サイードが「サイード音楽評論」で書いている「若くして華々しくデビューしたピアニストにとっては歳のとりかたが難しい」ということである。それは確かにそうであって、あのアルゲリッチもデュオはやってもソロはほとんどやらなくなったし、アシュケナージは指揮主体、ポリーニでさえ行き詰まった感は見えた。ポリーニは突然ロッシーニの「湖上の美人」を指揮したときもっとそっちに行くのかと思ったのだが。
 
そういうことでいくと、どちらかといえばピアノを弾く技術そのものからすると彼らより目立ってなかったエッシェンバッハは、結果として成功だったと言えるのだろう。
 
もっともサイードがそうでないピアニストとして評価しているアルフレッド・ブレンデルについて、この人は教育者、研究者としては優れていても、ピアノ演奏者としてそれほどとは思えない。40年以上前、来日時に日比谷公会堂でベートーベンの後期ソナタいくつかを聴いているけれど。
 
途中でいろいろあった前記ピアニストたち、最盛期にいい音楽を聴かせてくれた。
 
そしてついでに、今年ベルリンにピエール・ブーレーズ・ホールがオープンし、その記念コンサートがあって放送された。これを主宰したのはバレンボイムだが、ここにカリム・サイードというピアニストが出ていた。バレンボイムとの関係からして、おそらくサイードの息子だろう。またここではおそらくバレンボイムの息子と思われるマイケル・バレンボイムというヴァイオリニストも協演していた。


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響きと旋律

2017-12-07 09:59:57 | 音楽一般
最近気がついたことだが、音楽の聴き方が少し変わってきたようだ。
 
この数年、ヴォーカルに加えジャズピアノをやるようになって、クラシック音楽を聴く機会はめっきり減っていたところ、何のはずみか交響曲を久しぶりにいくつか聴きだしたら、面白くなり、幸いCDはかなり持っているので、続けて聴いている。
 
これまではオーケストラ曲でも、主題があってその展開と、ソナタ形式に沿ってというか、そういうフォロー中心の聴き方をしていた。もっと単純に言えば、旋律をとらえ、楽器、音色の変化を追いかけ、ハーモニーはそれを支えるものという聴き方であった。
 
ところが、最近気がついたのは、もっと響き全体の進行、展開を聴いている、楽しんでいる、ようにみえる。
これはおそらくジャズピアノを習う中で、和音/コードを自らあつかうことが増え、耳がそれに慣れ、自然にそれを追いかけるように、少しなってきたからではないか、と楽観的に思っている。
 
先のメンデルスゾーンの交響曲のようにこれまでそんなに聴いてなかったものもある一方で、ブラームスの交響曲はこれまで以上に親しめ、楽しめるようになってきた。
 
おりしも先日、NHK交響楽団をクリストフ・エッシェンバッハが振ったブラームスの4曲が放送された。このオーケストラ、しばらくご無沙汰だったが、数年前から随分レベルが上がったなと思っていたが、エッシェンバッハの指揮も上記のような響きの展開として、最後まで興味が尽きないものであった。
こういう話、正確な言い方ではないかもしれないけれど。

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ショスタコーヴィチ「カテリーナ・イズマイロヴァ」

2017-12-05 15:36:14 | 音楽一般
ショスタコーヴィチ:歌劇「カテリーナ・イズマイロヴァ」
指揮:トゥガン・ソビエフ、演出:リマス・トゥミナス
ナージャ・ミヒャエル(カテリーナ)、ジョン・ダザック(セルゲイ)、タラス・シュトンダ(ボリス)、マラト・ガリ(ジノーヴィ)、オクサナ・ゴルチャコフスカヤ(アクシーニャ)
2016年11月12日 モスクワ・ボリショイ劇場 
2017年7月 NHK BS
 
ショスタコーヴィチのオペラを見るのは「」に続いて二つ目である。帝政ロシア時代、商家の主人ボリスの息子ジノーヴァと結婚したカテリーナは、舅と正反対でおとなしく性的にも淡白な夫に退屈しているが、夫がしばらく不在になったとき、使用人として入ってきたセルゲイに狙われ、侍女アクシーニャに札付きと注意されながら、次第に堕ちていく。それを知った舅を毒殺し、夫は行方不明ということにして結婚式をあげようとするが、帰ってきてしまった夫を殺す。結婚式でそれがばれ、二人ともシベリア送りになるが、そこでセルゲイは若い女囚に手を出して騒動になり、二人とも死んでしまう。
話のパターンとしてはありそうな欲と性のどろどろしたものであるが、音楽は聴く者に雄弁に情況と感情を伝え、言葉はアリアというより台詞に近いけれど、ストーリーの進行にうまく合っている。
 
1930年の「鼻」についで1934年に「ムツェンスク郡のマクベス夫人」として初演され評判を呼んだが、スターリン体制のプラウダ批判で、その性暴力場面とその音楽などが批判され上演禁止となり、その後改作され、1963年に「カテリーナ・イズマイロヴァ」として初演されたようだ。
 
前作は見ていない(映画かなにかで一部見ることはできるのかもしれないが)から、比較はできないけれど、今回見たところでは、オペラのレパートリーとしてはこれでも定着して長く上演されるのではないだろうか。
殺人や性的に過激な場面は簡潔化され次の場面に移行しているようで、カットを集めて編集した映画に似た手法にも見える。それがむしろ全体として主人公カテリーナの愛と性のうつろいを見る者に考えさせるものとなっている、と言えないこともない。
 
上記の主たる登場人物の歌手たちは皆その役柄にフィットしていて、歌唱もすぐれている。しかし何と言ってもカテリーナのナージャ・ミヒャエルが目立っていて、その細身ながらセクシーな肢体とその動き、そして表情を配した歌唱は、男にとってまさにファム・ファタル。セルゲイは歌唱、演技はいいけれど、体躯が立派すぎて、これは日本人が見るからか、カテリーナが最後に惚れてしまう男としてはちょっとこわい。
 
ショスタコーヴィチは、「鼻」もそうだが、オペラを見ると、もっと評価していい作曲家だと思う。20世紀のオペラ作曲家としては、リヒャルト・シュトラウスに次ぐ存在だろうか。
 
こころならずも改作したとはいえ、カテリーナの退屈、性的不満が民衆の不満を象徴しているほかにも、やんわりとした体制批判(皮肉)も見ることができる。何度か出てくる警察の一隊、今回の演出も加えれば、かっこいい制服と、見事な動作(ダンス)で、舞台上で見せ場を作るのだが、結婚式に呼ばれない、賄賂をくれないなどと不満を述べたり、ようするに庶民の愛憎劇、それは必ずしも圧政だからということでなく個々の庶民の事情なのだが、その上で勝手に自己利益を図っている、そういう事情をさらりと描いているのはなかなかである。
 
そしてさすがボリショイ、ソビエフの指揮で、雄弁なオーケストラと合唱、熟練のダンスともに見事。



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