雪山童子こと豊道です。
久しぶりの投稿になりました。
池本里美さん、お手紙ありがとうございました。
白隠さんに惚れ込んでいる私としては、興味を持っていただきとても嬉しいです。
こう言ってもブログをご覧いただいている皆さんには何のことやらお分かりになりませんね。
実は、私が白隠さんの書[暫時不在 如同死人]は[わしは暫時不在(留守)じゃ。死人と同じや。失礼するよ]と言う意味をこめて門に掲げ[夜船閑話にある仙人還丹の秘訣]を修しておられたという逸話がある…と、ヨーガのクラスで語っていることについてー
お手紙は
「その解釈は誤りである!と花園大学国際禅学研究所芳澤勝弘教授から丁寧にお答えいただき感服しているところです」
という内容です。
今を遡ること35年程前、私は白隠さんに心惹かれ、沼津市、原の松蔭寺をお訪ねしたことがあります。
ちょうどその日はお寺の虫干しに当たっていたようです。
お堂にもお庭にも一杯に書や画が広げられておりました。
その中に[暫時不在 如同死人]が何枚もあったのです。
作務衣姿の方がおられたのでお尋ねしたんです。
「どんな意味ですか?」と。
「そもそもは中国の禅の言葉ですね。主心を忘れたら死んだも同然!かな。
難しいね。でも白隠さんだもん。村人が頻繁に訪ねて来るので修行するとき留守してるよ。ぐらいの意味で表に出しておったのかもしれんね。これって面白い話でしょ」と笑って言うのです。
それで私もこう言いました。
「白隠さんは、その時仙人還丹の秘訣を修してたんじゃないでしょうか?
私どものヨーガでは屍のポーズと言って最高大事な修行なんです」
「ああ!いい話だね。私も同感です!」
作務衣の男性は満面に笑みを浮かべておっしゃったことを覚えています。
その方を、私は村人だと思っておりましたが今日考えてみると偉い和尚さんだったのかも知れませんね。
私の尊敬する西村恵信先生のご著書[白隠入門]に次のように書かれています。
[思うに、白隠さんは「生」の字よりも「死」の字に親しまれたようであります]と。
またー
[白隠さんの法の上の祖父になる人に、至道無難禅師という方がおります。その人の歌に「生きながら死人となりてなりはてて思いのままになすわざぞよき」というのがあります]とも、述べておられます。つまり、死の字に参ぜよ…と。
白隠さんは「死人」という言葉もやはり肯定的にお考えになることが多かったのではないでしょうか。私はそう考えております。
中国の巌頭全豁の「暫時不在 如同死人」をことの他気に入り、自分の修行を妨げられないよう、その本来の意味を踏まえた上で、門に掲げたという逸話は、あの型破りな一匹狼、白隠さんのことだから、然もありなん…と。