横浜国立大学教授、高橋和子氏がこんなことを書いておられました。
息が合う…とは一心同体であること。
「阿吽の呼吸」と 同義語で、阿吽は呼気と吸気。すべてのものごとのはじめと終わり。
赤ちゃんの産声は阿音を発する生の始まりの呼気。
観念してゴクンと息を飲み込む吽音は吸気。
臨終の折の吸気は次世代の万物へ受け継がれるのではないかと思う。
呼気と吸気は輪廻している…。
昨年、私は、尊敬するベトナム人僧侶、ティク・ナット・ハンは徹底して、呼吸は、「吸って、吐いて…」と、吸うほうが先。
ということを書いたことがあります。
その根拠になっている経典は『念処経』。
数息観として実践されていますが、吐いて吸って…と実践するか
吸って吐いて…と実践するか….
ここに道がある…と。
駒沢大学教授の片山一良先生の訳『パーリ仏典』によりますと…
律註では、吐いて吸って
経註では、吸って吐いて
経、律、論は仏教の聖典を三種に分けたものですが、玄奘三蔵はこの三蔵に精通していて、敬われていたのです。
さて、その律註によるか経註によるか…
片山先生は…
どの胎児も母体から出るとき、初めに内の風が外に出、後に外の風が微細な塵を含んで内に入り、口蓋に触れて消えるとも言われることから律註に従う…とありました。つまり、吐いて吸う。
膨大な訳文の中の、一見見逃してしまうようなことにも、こだわりを持ち、調べに調べている先生に感服です。
徹頭徹尾、出入息に拘るのは田原豊道先生と同じです。
文化の違いもあるでしょうし、どちらが正しい…ということではなく、それぞれに根拠がある…ということでしょうね。(荻山貴美子)