あの日から大野さんが変わった。
何となくよそよそしいというか、どことなく避けられているというか
距離を感じるというか。
大野さんの自分に対する何かが変わってしまった。
以前は視線が合えばニコッと笑ってくれたのに今は視線さえ合わない。
「大野さん…」
「……」
仕事を終わらせ帰ろうとする大野さんに話しかける。
でも振りむいた顔は以前の大野さんとはまるで違う。
どこか居心地の悪そうな表情をしていて
早くこの場から去りたいというのがありありとわかる。
「……いえ、何でもないです」
「……うん」
だからその表情に何も言えなくなって口を噤む。
勇気を出して今度はいつ家に遊びに行っていいかと聞いた事もある。
でも予定があるからと即座に断られてしまった。
もう野菜不足になったらおいでと言って笑っていた
大野さんはどこにもいない。
一体なぜ?
あの優しい空間が好きだった。
優しい光が差し込むあの部屋で3人でのんびりと食事をしたり、
カズナリくんが眠った後に二人でまったりと酒を飲むのが好きだった。
でももうあんな風に優しい空気を感じながら過ごすことはできないのか。
そう思うと寂しくて仕方がなかった。
あの日から何もかもが変わってしまった。
あの日。
あの日、しばらく仕事を休んでいる大野さんを心配して家を訪れた。
てっきりカズナリくんの具合が悪くて休んでいるものだと思ったら
体調の悪いのはカズナリくんではなく大野さんだった。
部屋の中は珍しく散らかっていてキッチンもぐちゃぐちゃだった。
その顔色からもかなり大野さんの具合は悪いのだと思った。
だから小さい子もいて身体も思うように動かない大野さんの
変わりに何とかしたいと思った。
自分のできる範囲で大野さんの負担が少しでも軽くなればと思った。
買い物に行ったり、ご飯を作ったり、片づけをしたり
暇そうにしているカズナリくんの相手をしたり。
そして翌朝。
そのままカズナリくんと添い寝したまま眠ってしまった自分のそばには
大野さんがいて、カズナリくんの事をどうしようかと思っていたと、
そしてありがとうと言って泣きそうな顔で胸に顔をうずめた。
帰る時には大野さんは本当に助かったとお礼を言ってくれた。
そして大切な休みを潰す事になってしまって申し訳なかったと謝った。
だからそれは自分の勝手にやったことなので気にしないでくださいと伝えた。
でも。
大野さんを見る。
大野さんは決して視線を合わそうとはしない。
以前は視線を感じると目を合わせてくれてニコッと笑ってくれたのに今は違う。
他の人に接する態度は以前と全く変わらないのに自分だけには違う。
もう前みたいに話をすることさえできない。
なぜ?
その大野さんのその姿に胸が苦しくなる。
彼女と喧嘩をしても、別れても、こんなに心が苦しくなるなんてことはなかった。
でも今は大野さんの姿を見るだけで苦しい。
図々しかったのだろうか。
大きなお世話だったのだろうか。
強引すぎたのだろうか。
大野さんの気持ちも考えずやり過ぎてしまったのだろうか。
良かれと思ってやったことは単なる自己満足にすぎなかったのか。
頭の中でそんな思いが頭の中をグルグルと回る。
そんな自己嫌悪の日が何日も何日も続く。
相変わらず大野さんとは視線も合わない。
話しかけてもやっぱり居心地の悪そうな顔をして
その場からすぐに去ろうとする。
何で? 何で? と心が悲鳴を上げる。
その大野さんの姿が苦しい。
胸が苦しくてたまらない。
ただの同僚だったはずなのに。
それまで話したことさえなかったのに
今はこの状態が苦しくて仕方がない。
「大野さん…」
「……」
「……」
「……」
思い切って話しかけると大野さんの表情が曇る。
その表情に何も言えなくなる。
「……」
「……」
大野さんは居心地の悪そうな顔をして顔をそむける。
いつもこの表情に負けて何も言えなくなっていた。
大野さんが何とかこの二人の状況から早く逃れたいというのが
ありありとわかるから、その後の言葉が続かず何も言えなかった。
でも。
大野さんが変わってしまった訳を知りたかった。
もし自分の行動が図々しすぎたというのなら謝りたい。
大野さんの気持ちも考えず土足でずかずかと家に入り込んでしまったことを
怒っているのならその非礼を詫びたい。
そして、もしかして自分の休みを潰してしまった事を申し訳なく思って
気にしているのだとしたら気にしないでくださいと伝えたい。
そして。
もしかして
もしかして、男の自分に抱きついてしまった事を照れくさく思い
避けてしまっているのだとしたら…
って、そんな事ある訳ないだろうけど…。
でも、もしそうなら、嬉しかったというのも変かも知れないけど
その正直な気持ちを伝えたい。
あの日。
大野さんが、カズの事どうしようかと思ったと言って
泣きそうな顔で胸に顔をうずめた時。
あの瞬間。
困惑しながらも、その胸に顔をうずめる大野さんの存在が
儚げで守ってあげたいと思った。
胸がドキドキしながらも、嬉しかった。
そしてその華奢な身体を、自分が一緒にいるから大丈夫だよと言って
思いっきり抱きしめたかった。
自分が大野さんの事がこんなにも好きだとわかった。
だから
だからこんなに苦しいのだ。
だから、こんな風に大野さんに避けられるこの状況が辛いのだ。
こんな思いをしたこと今までない。
「……」
「……」
大野さんは俯いたまま視線を合わそうとしない。
いつもはその居心地の悪そうな顔に負けてしまって
話を終わらせてしまっていたけど拳をぎゅっと握って
大野さんを見つめた。
「……あの、すみませんでした」
「……」
大野さんは居心地の悪そうな顔をしたままゆっくりと顔を上げた。
「俺、大野さんに気持ちを考えず図々しく
勝手に土足で入り込むような真似をしてしまって…」
「……っ違う」
謝ろうとするとそれを遮るように大野さんが違うと首を振った。
「……」
「……」
違う?
「……え?」
「……何でもない」
意味が分からず聞き返すと大野さんは
何でもないと小さな声で言って首を振った。
「違うって、どういう意味ですか?」
「……」
大野さんは、首を振るだけでそれ以上は答えない。
「……でも、答えてくれなくてもいいです」
「……」
「俺…」
「俺、また大野さんと前みたいな関係になりたいから、これから毎日謝りに来ます」
「……!」
そう言うと、大野さんの目が大きく開いた。
「だって、大野さんの事が好きだから」
「……好 き?」
大野さんが大きく目を開いたままびっくりした顔で聞き返す。
「はい、大野さんの事が好きです。
それにカズナリくんの事も、あの部屋の雰囲気も。みんな好きなんです」
「……」
「だから、これからも何度だって謝りに来ます」
その言葉に大野さんがじっと何かを考えるような顔をした。
そして
大野さんが
今日、食事を作って待っているから家に来てと
そう言った。
仕事を何とか終わらせ大野さんの家に行くと
もう時計は10時を回っていた。
カズナリくんはすでに夢の中だ。
テーブルには夜食が準備されていてどうぞと箸を手渡される。
それをありがたくいただく。
大野さんはカズナリくんと既にすましたみたいで用意されていたのは
自分の分だけだった。
「……」
「……」
「……本当はカズ、施設に行く事になっていたんだ」
「カズナリくんが、施設に?」
いただきますと言ってご飯を食べ始めると
大野さんがビールを飲みながらぽつりぽつりと話し出した。
でもその内容に思わず箸が止まる。
「そう。姉ちゃんが離婚する時、姉ちゃん、精神状態がかなり悪くなってて…」
「……」
確か前にそう聞いた事があった。
「でも姉ちゃんの旦那さんだった人も子供嫌いな人だったし
うちも父ちゃんが5年前に脳梗塞で左半身が麻痺してて
母ちゃんはその介護で忙しかったから、
もう施設に預けるしかないって話になって…」
そう言うと大野さんがビールをごくっと飲んだ。
「そんな…」
その言葉に絶句する。信じられなかった。
確かに子供を育てるのは並大抵ではないだろう。
でもだからって施設って…?
「でも俺が嫌だって言ったの。俺が責任もってカズは面倒見るから
施設には預けないでくれって頼んで…」
「……」
「だから休みも取れるように契約社員になって、保育園の送り迎えもできるようにして…」
「……」
だんだん自分の中で、点と点が線でつながっていく。
「カズのために食事を作って、洗濯をして、保育園の行事があればそれに参加して
病気の時は仕事を休んで看病して…」
「本当に、尊敬します」
初めてここの家に来た時、あまりの大野さんの手際の良さに
びっくりした事を思い出す。
「だから自分でも、できる、できてるって、そう思ってた」
そう言うと大野さんの表情が曇った。
「……十分できていたと思います」
仕事をしながら、ましてや自分の子供でもないのに
一人で何もかもやって凄いなと思っていた。
「でも、違った」
「……え?」
「あの時、全然どうにもならなかった」
あの時というのはきっと大野さんが体調を崩したときの事なのだろう。
大野さんはその言葉に首を振りながらこたえる。
「一生懸命やってたじゃないですか、ご飯だってちゃんと作ってたし」
あのキッチンの状況から大野さんが体調が悪くても
何とか食事だけは作っていたという事はわかる。
「でも外にも出してあげられなくて、大好きな保育園にも
俺のせいで連れて行ってあげられなくて」
「……あの状況なら仕方がなかったと思います」
「……」
大野さんは自分自身に納得できていないのか
黙ったままぎゅっと唇をかみしめた。
「……それに、今後そう言う事があったら俺がいくらでも手伝います」
「……」
その言葉に大野さんが顔を上げじっと目を見つめた。
「……?」
「……だから」
「……?」
「だから、その状況に自分が慣れてしまうのが怖いと思った」
「慣れてしまうのが、怖 い?」
意味が分からず大野さんに聞き返す。
「……櫻井が来てくれて、カズの面倒見てくれて、
ご飯も作ってくれて、すごく助かったから…」
「……?」
「だから、それが当たり前になってしまったら怖いと思った」
「それはダメな事なんですか?」
自分のしたことは間違っていたという事?
「……」
大野さんが静かに頷いた。
「何 で?」
「だって一人で何とかするって言ったのに、
一人で何とかしなきゃいけなかったのに、頼って甘えてしまった」
「……」
「その優しさに自分自身が慣れてしまったら凄く怖いって思った」
「……」
「だから」
「……」
「だからもう、櫻井とは距離を置かないといけないと思った」
「……」
大野さんは真っ直ぐな視線で静かにそう言った。
その言葉に目の前が真っ暗になる。
息ができない。
胸が苦しい。
大野さんはそれをどう伝えていいかわからず
嫌な思いをさせることになってしまって申し訳なかったと謝った。
そして
これからは以前の話さえしなかったような時のような
同僚の一人に戻ってほしいと、そう言って頭を下げた。
そして、ここに来て一緒に食事をするのも今日が最後だと
そう、静かに言った。