なぜ引き留めてしまったのだろう。
こんな立場でこんな時に、こんな事言うべきではないのになぜ伝えてしまったのか。
現実に戻り後悔で何も言えない俺に、大野さんが静かな眼差しを向ける。
そしてなぜか大野さんはおもむろに手を差し伸ばしてきた。
目の前には綺麗な大野さんの手。
まさか。
まさか握手をしてくれるという事?
俺がファンだと言ったから?
本当はこんな時にこんなことを言ってはいけなかったのに。
色々な思いが駆け巡る。
大野さんは静かに俺の事を見ている。
その大野さんに躊躇いながらも恐る恐る手を差し出すと、ぎゅっと俺の手を握ってくれた。
目の前には大野さん。
そして大野さんの綺麗な手。
そしてその大野さんと握手している。
その考えられないようなこの状況に心臓はバクバク言っている。
でも立場を考えず伝えてしまったこと。
そしてその事で差し伸べられた手。
頭の中は反省と後悔。
そしてその反面、嬉しさと緊張で一杯だった。
そんな俺に突然大野さんが手を掴んだまま、グイっと自分の方に引き寄せた。
その行動に思わず身体がよろけ大野さんの方に身体が傾いた。
それを大野さんが支えてくれて、ちょうどハグをしているみたいな体勢になった。
大野さんの身体と密着した身体がカッと熱くなる。
何がどうなっているのか分からない。
慌ててすみませんと謝って身体を離そうとした。
でもなぜか大野さんは気にするそぶりもなく、その体勢のまま俺の背中を優しくポンポンとしてくれる。
もう何が何だかわからない。
今何が行われているのかさえ分からない。
思考能力は完全に停止している。
色々な思いがまじりあって何も考えられない。
「ありがとう」
身体がゆっくりと離れ呆然としている俺に大野さんがニコッと笑ってそう言った。
そして。
「話すとここにえくぼできるんだね、俺の姉ちゃんと一緒」
首を傾け俺の顔を覗き込んできたので何だろうとドキドキしていたら
そう言って自身の頬にちょんちょんと指で弾いた。
「え、あ、そ、そうなんですか、こ、こ、光栄です」
まさかそんな事を言われるなんて思わなかった。
それよりなによりも握手してハグしてくれたことが自分の中で大きすぎて、
今は何を言われてもとても思考能力が追い付かない。
「んふふっだから何か親近感」
それなのに、
大野さんがそう言って、んふふっと可愛らしく笑った。
って、親近感?
今、親近感って言った?
「智く~ん」
遠くで大野さんを呼ぶ声がした。
「あ、」
気付いた大野さんも声の方を見る。
「もう出るってー」
「翔くん」
櫻井さんだ。
櫻井さんがハアハア言いながら駆け寄ってくる。
それを嬉しそうに見つめる大野さん。
「はーあちー」
「ねー」
暑い中は走ってきた櫻井さんは汗を拭いながら、あちーとか言ってる
それを優しそうな眼差しで、ねーと言いながら見つめる大野さん。
途端にここの空間はふんわりとした空気に包まれた。
メンバー同士仲がいいとは聞いていたが、同じグループの人がいるだけで
こんなにも空気が変わるんだなと半ば感心しつつ二人を交互に見る。
「あれ? 何か話してた?」
俺の存在に気付いた櫻井さんが大野さんに聞く。
そしてその言葉に大野さんが俺の顔を見た。
二人して俺の顔を見る。
その二人の美しい顔を交互に見つめ返しながら話してしまうのだろうな、と思った。
そして、二人で男の俺にファンだの好きだの言われちゃったと言って、笑うのだろうなと思った。
「ううん、別に。可愛い顔してる子がいたからジュニアかなって話しかけてたの」
でも、違った。
「ここにジュニアの子がいて、トンカチ持っているわけないでしょ~」
「そっかあ」
「ふふっそうだよ。それにお仕事の邪魔しちゃだめでしょ」
「んふふっ」
それより何だか二人の空気感がほんのり甘くて優しくて
そこにいるはずの俺の存在なんてすっかり忘れ去られ空気のような存在になった。
「もう車出るっていうから行こ?」
「うん、じゃあ、お仕事頑張ってね」
その言葉に大野さんが俺に優しく頑張ってねと言ってバイバイと手を振ってくれる。
そして櫻井さんもよろしくねなんて言ってくれていい人たちだなと思った。
でもそれよりなにより何だか二人が。二人の空気が。
やっぱり甘くて優しくてふんわりとした空気に包まれていた。
そしてそのふんわりとした空気を残したまま仲良く話をしながら去っていく二人の姿。
その姿をいつまでも見ていた。
仕事を終え家でまったりと過ごす時間。
「何だか今日えらいご機嫌じゃない?」
「え? そう?」
何だかいつになく機嫌がいいというかニコニコしているというか。
「そうだよ、なんかいい事あった?」
「ううん、ない」
「本当?」
「うん」
「そう言えば今日下見に行った時話しているのを見て思ったけど、
智くんっていつの間にか大道具さんとかと仲良くなってたりするよね」
「そうかな?」
「そうだよ」
「あんま気にした事ないけど」
「だから余計心配なんだよね、ふわふわしてるし」
「してねえよ」
「ふふっ」
そう智くんは言うけど今日だってなんか凄く親しげに話してなかった?
遠くでよく見えなかったけど何だか距離も近かったような。
「でもさあ男の人にファンって言われると嬉しいものだよね~」
そう思っていたらそんな事を言い出す。
「は? いつ? どこで? どんな状況で、どんな風に言われたの?」
「え~」
「え~じゃないでしょ。で、いつどこでどんな状況で言われたの?」
これは確認しとかなければいかん。
「んふふっ内緒だよ~」
「内緒って、もしかして今日のあの時?」
「え~」
その言葉に智くんは否定も肯定もしない。
ビンゴだなと思った。
「ちょっそれ職権乱用じゃね?」
「職権乱用って…」
智くんが呆れた顔をする。
「許さん」
「もー翔くんたらあ」
だって心配なんだよ。
ふわふわふわふわ。
いつでもどこでも誰にも好かれて愛されて。
一緒にいる人はもちろん共演者スタッフにもすぐに好感持たれて。
それでなくても今はドラマをやってるから可憐で儚くて、どこかにふわふわ飛んで行ってしまいそうなんだし。
それに今日話してた子ってなかなかのイケメンじゃなかった?
「知ってるでしょ? 俺は翔くんがいないとダメだって」
「知ってる けどさ」
そんな事を思っていたら智くんがよいしょと言って俺の膝の上にのってきた。
「男の子からファンですって言われると嬉しくない?」
そして首を傾け可愛らしい顔で聞いてくる。
「まあ確かに」
それはよくわかる。
女の子から言われるのももちろんうれしいけど男の人から言われると格別というか。
不思議と特別な嬉しさがあるんだよね。
「うん。それに可愛い子だったし」
「ちょっ可愛いって」
でも、やっぱり、聞きずてならん。
「またあ」
「だって心配なんだもん」
確かに可愛い顔をしていたし。
何というかファンの子が自分に向けられる思いと、智くんに向けられる思いが違う気がする時があるんだよね。
スタッフさんにしても共演者の方もそうだけど
ファンとか好きって言ってもその本気度が違うというか。
好きの度合いが違うというか。
そして多分それを本人は全然わかっていないと思うけど。
今までそれをたくさん目の当たりにしてきたせいもあるのか、そのたびに不安になってしまう。
「まあ、そんな翔くんも好きだけど」
そう言ってくすくす笑う。
「そんなって…」
「んふふっ好き」
「俺もだけどさ」
そして膝にのったまま腕を回しちゅっとキスをしてくる。
それに応えるように腰に手を回すと、智くんがニコッと笑う。
それを合図に何度も角度を変えキスをする。
こんなに近くにいて、こんなにキスしているのにね。
そう思いながら顔を見つめると智くんが何が不安なのって顔をして
俺の頬をぎゅっと包み込んだ。
そしてニッと笑うと包み込んだまま唇を重ね深いキスをしてくる。
だからそれに応えるように膝の上にのっている智くんのその華奢な身体を強く抱きしめ
そしてまた深いキスをした。
遠くから見つめるそのステージは偶然にもあの時と同じ楽曲で
あの時と同じように可憐に美しく舞い踊る。
それを見つめながらあの時の事を思い出していた。
夢みたいなできごと。
話をして
好きだと言ったら
握手をしてくれて
そして
ハグをしてくれた。
本当は彼らのステージ。
そこで働くバイトの俺がそんな事を言ってはいけないのに
大野さんはありがとうと言ってくれて
そしてえくぼが姉ちゃんと一緒と言って俺に笑いかけてくれた。
そんな夢みたいなできごと。
大きなこのステージ。
会場には7万人を超えるファンの人がいる。
そんな中、
前を通り過ぎるとき大野さんが俺に気付いたような気がした。
まさか。
これだけたくさんの人がいるのに気付くはずなんてない。
前の方だとはいえスタンド席だ。
そう思ったけど。
あの時と同じように俺の顔を見て左の頬をちょんちょんと指で弾いた。
その可愛らしい仕草に周りのファンの子達がキャーと歓声を上げた。
あの時、俺の姉ちゃんと同じところにえくぼができるんだと言ってくれた時と同じ仕草。
まさか俺の事に気付いてくれた?
まさかその時の会話を覚えていてくれた?
顔が、胸が、身体が、熱くなる。
大野さんとどうこうなりたい訳じゃない。
手が届かない存在だって知ってる。
ましてや男の俺にファンだの好きだの言われても困るだけだろう。
でも。
大野さんを知ってから
大野さんの生き様を見るたびに
大野さんの仕事に向き合う姿勢を知るたびに
大袈裟だと言われるかも知れないけど、人生が変わった。
何に対しても無関心で無感動で
まるで白黒の廃墟の世界で生きていた俺に
光をくれて、
色を与えてくれた。
思い切って大野さんに向かって手を振ると
それに気づいた大野さんがニコッと笑って、手を振り返してくれた。
周りのキャーという歓声が遠くに聞こえる。
そして、その姿にまた恋をした。