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実朝首塚

2021年02月10日 | 神奈川圏

「吾妻鏡」に、源実朝は首のないまま埋葬されたと記されている。

鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)が実朝を暗殺して首を持って逃げた。

追討により公暁は殺されてしまうが、差し向けた家臣の中の一人が何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず波多野氏を頼り埋葬したと伝えられている。


毎年11月23日に、この地 秦野で「実朝まつり」が開催されている。

カーナビが古いのか迷ってしまい地元の方に尋ねてヤビツ峠にたどり着けた。
途中に実朝首塚を見かけたので、何故こんな所にと思い帰りに訪ねた。




三浦義村は実朝を討った公曉をそそのかした張本人ともいわれ,実朝暗殺と北条氏打倒の企てがばれるのを恐れ、実朝の首を持ってきた公曉を殺したともいわれる❔

「実朝公の首」の処分に困った家臣の武常晴に渡して波多野氏を頼ったという。
常晴の母は実朝の乳母であったというから、実朝に近侍していたとしてもおかしくない。

慈円の『愚管抄』によれば、実朝の首は岡山(鶴岡八幡宮の北の丘陵)の雪の中から見つかったとある。これが秦野まで運ばれたのか❔


実朝の死が、北条氏による執権政治の確立だったことから北条氏陰謀説もある。



御師の里おし   水車

   
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コメント (8)    この記事についてブログを書く
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8 コメント

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首塚 (らいちゃん)
2021-02-10 09:47:13
秦野市には鎌倉幕時代の歴史が遺されていますね。
それも生臭い事件の歴史です。
どの時代も身内同士で同じような出来事を繰り返えしている者ですね。

>中国の強権化は、時代錯誤もはなはだしいです。
IT分野では中国のファーウェイの脅威が増しているようですね。
トランプ前大統領の言っていた通り、ファーウェイ離れが必要のようです。
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(らいちゃん) へ (iina)
2021-02-10 10:08:31
「雉も鳴かずば撃たれまい伝説」は、哀しいものがたりでした。

日本の国鳥なのに、狩猟が許されている不幸な鳥ですね・・・。

富山に赴任していたとき、「ケーン」とよく泣くのを近くで聞きました。

実朝暗殺は、謎が多い事件ですから調べると面白そうです( ^ω^)・・・


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Unknown (ムツゴロウ)
2021-02-10 20:54:56
源実朝は天下の将軍なのに、首のないまま埋葬させられていたとは、その母君の尼将軍・北条政子はどう思ってんでしょうね。
 
う〜ん ?
  
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首塚は秦野 (ウォーク更家)
2021-02-11 07:27:21
実朝の首塚の話、初めて聞きましたが興味深いですね。

公曉をそそのかし実朝を討った三浦義村は、のこのこと実朝の首を持ってきた公曉を殺すでしょうね。

首塚は秦野ですか。
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(ウォーク更家) さん へ (iina)
2021-02-11 09:04:29
「曲がりくねった道は、つづくよどこまでも」 の感が強い今日の旧甲州街道でした。
座頭市なら屈曲している山道でも、転がり落ちることはないでしょうが、目が不自由だと踏み外す危険が大きいです。

ところで、千葉の勝浦市に、「お仙ころがし」という悲しい話が残っています。
社会人になってクルマをもち観光して知ったのですが、買い変える度にこの景勝地でクルマを写真に撮ってましたっけ・・・。
https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/b-shigen/08minwa/katuura02.html

実朝の首塚が秦野にあるなんて、道に迷ったことで知りました。

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(ムツゴロウ) さん へ (iina)
2021-02-11 09:28:49
実朝は勝長寿院に埋葬されますが、首がないため髪の毛を代わりに納めたと記されています。
   勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺だそうです。

北条政子は、自分が産んだ子供に全員先立たれています。
頼朝と政子の間には、長女・大姫、長男・頼家、次女・三幡(さんまん)、最後に末っ子の実朝が生まれました。
子に先立たれた親、特に母親の悲しみはこの世で最も哀れなものとされていますから、実家の北条家と板挟みになっていたのでしょうか。

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goodele さん へ (iina)
2021-02-11 11:14:48
「実朝まつり」は、子供たちが行列するのですね。

源実朝公御首は秦野にあって、鎌倉の「寿福寺」にはお墓があるのですね。
御首塚と同じ五輪塔が寿福寺の「やぐら」の中にあるというのも、ゆかりの確かさを感じます。

秦野の金剛寺に、実朝の木像もあり、
 実朝のものと伝えられている木造の五輪塔(鎌倉国宝館に寄託)。
https://www.yoritomo-japan.com/kongoji-sanetomo-gorinto.html

* goodeleさんの当該ブログアドレスを置いています。

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(茲愉有人) さん へ (iina)
2021-02-11 11:24:02
鎌倉時代が日本にリアリズムをもたらし、頼朝は武力を一切もたずに、飾り物であったことを自覚していたと思います。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a9b90d77c8a77e5d3d5bee63afffd475

源氏の正統が、わずか3代27年で断絶して、北条氏による執権政治がはじまるのですから、鎌倉幕府は北条時代ですね。

義経を殺さずにいたらどうなったでしょうか・・・❔

> 「大名」って、歴史的にはいつ頃から使われているのでしょう。
Wikipediaには、次のように説明していました。
元々 地方で勢力をふるう者を言った。その内 武家社会において、多くの所領や部下を所有する武士を意味する語となった。
室町時代には守護職が領国支配を強め、守護大名となった。
戦国時代には、さらに強固な領国支配を確立した大身領主が現れ、大名分の国人や戦国大名と呼ばれている。

    (茲愉有人)さんの当該ブログアドレスを置いています。
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