「吾妻鏡」に、源実朝は首のないまま埋葬されたと記されている。
鶴岡八幡宮で甥の公暁(くぎょう)が実朝を暗殺して首を持って逃げた。
追討により公暁は殺されてしまうが、差し向けた家臣の中の一人が何らかの理由により首を主人である三浦氏のところへ持ち帰らず波多野氏を頼り埋葬したと伝えられている。
毎年11月23日に、この地 秦野で「実朝まつり」が開催されている。
カーナビが古いのか迷ってしまい地元の方に尋ねてヤビツ峠にたどり着けた。
途中に実朝首塚を見かけたので、何故こんな所にと思い帰りに訪ねた。
御師の里 水車
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それも生臭い事件の歴史です。
どの時代も身内同士で同じような出来事を繰り返えしている者ですね。
>中国の強権化は、時代錯誤もはなはだしいです。
IT分野では中国のファーウェイの脅威が増しているようですね。
トランプ前大統領の言っていた通り、ファーウェイ離れが必要のようです。
日本の国鳥なのに、狩猟が許されている不幸な鳥ですね・・・。
富山に赴任していたとき、「ケーン」とよく泣くのを近くで聞きました。
実朝暗殺は、謎が多い事件ですから調べると面白そうです( ^ω^)・・・
う〜ん ?
公曉をそそのかし実朝を討った三浦義村は、のこのこと実朝の首を持ってきた公曉を殺すでしょうね。
首塚は秦野ですか。
座頭市なら屈曲している山道でも、転がり落ちることはないでしょうが、目が不自由だと踏み外す危険が大きいです。
ところで、千葉の勝浦市に、「お仙ころがし」という悲しい話が残っています。
社会人になってクルマをもち観光して知ったのですが、買い変える度にこの景勝地でクルマを写真に撮ってましたっけ・・・。
https://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/b-shigen/08minwa/katuura02.html
実朝の首塚が秦野にあるなんて、道に迷ったことで知りました。
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺だそうです。
北条政子は、自分が産んだ子供に全員先立たれています。
頼朝と政子の間には、長女・大姫、長男・頼家、次女・三幡(さんまん)、最後に末っ子の実朝が生まれました。
子に先立たれた親、特に母親の悲しみはこの世で最も哀れなものとされていますから、実家の北条家と板挟みになっていたのでしょうか。
源実朝公御首は秦野にあって、鎌倉の「寿福寺」にはお墓があるのですね。
御首塚と同じ五輪塔が寿福寺の「やぐら」の中にあるというのも、ゆかりの確かさを感じます。
秦野の金剛寺に、実朝の木像もあり、
実朝のものと伝えられている木造の五輪塔(鎌倉国宝館に寄託)。
https://www.yoritomo-japan.com/kongoji-sanetomo-gorinto.html
* goodeleさんの当該ブログアドレスを置いています。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a9b90d77c8a77e5d3d5bee63afffd475
源氏の正統が、わずか3代27年で断絶して、北条氏による執権政治がはじまるのですから、鎌倉幕府は北条時代ですね。
義経を殺さずにいたらどうなったでしょうか・・・❔
> 「大名」って、歴史的にはいつ頃から使われているのでしょう。
Wikipediaには、次のように説明していました。
元々 地方で勢力をふるう者を言った。その内 武家社会において、多くの所領や部下を所有する武士を意味する語となった。
室町時代には守護職が領国支配を強め、守護大名となった。
戦国時代には、さらに強固な領国支配を確立した大身領主が現れ、大名分の国人や戦国大名と呼ばれている。
(茲愉有人)さんの当該ブログアドレスを置いています。