①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩の内 ③
三輪山(奈良)は、大神神社の御神体になっていて神奈備山とよばれる。山そのものが御神体であるため、本殿はない。拝殿御神体の間に三つ鳥居が置かれ、祭神の大物主命・大己貴命・少彦名命の三神を一体にしたものだといわれている。
三輪山は国中の神であり、大物主命は恐れられたにもかかわらず、皇祖神を祀る社を東国の海の玄関である伊勢にしたのは、壬申の乱の折国中の大和は近江側であり、天武天皇は伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河といった東国を味方にして勝利したことに由来する。
国譲りされて引継いだ古代王朝の三輪王朝(祟神天皇以後五代)が衰弱したあと、権力は生駒山脈を西に越えて河内王朝(応神、仁徳、履中)に移ったとする。
実在視される祟神を初代とし、万世一系の天皇家は三王朝交代(祟神・応神・継体)したとされる。
神話の神武も実在の祟神も、ハツクニシラススメラミコトという。これは、初めて国を統治した天皇に通じる。
日本書紀によると神武天皇は、日向から筑紫を経て河内へ東征し、熊野で八咫烏に案内され大和にたどり着いた。大和で饒速日(物部の祖)は妻の兄である長髄彦を殺し服従する。
三輪山から香久山にかけて磐余といい磐余彦が勢力を覇っていた。六世紀欽明朝のとき大和の大王家の始祖として磐余彦を神武に擬したとする説もある。
箸墓が近くにあり、謂われは、倭迹迹日百襲姫の夫・大物主命が蛇であったことに驚いて「則ち箸を陰に撞きて薨りましぬ」と日本書紀にあるところからきている。卑弥呼あるいはその後をついだ台与の墓との説が高まっている。
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はじめて百位内の47位でした。
三輪山(奈良)は、大神神社の御神体になっていて神奈備山とよばれる。山そのものが御神体であるため、本殿はない。拝殿御神体の間に三つ鳥居が置かれ、祭神の大物主命・大己貴命・少彦名命の三神を一体にしたものだといわれている。
神道では出雲の大国主命と大物主命は同体とされ素戔男尊の子とも六世孫ともいう。もともと大和三輪の先住民の王であった大物主命が、大和朝廷に敗北し国譲りして出雲に流され、後に出雲大社として祀られたとする「神々の流竄」梅原猛説がある。 平安時代の「口遊」に、大きい順に出雲大社、東大寺大仏殿、御所の大極殿であったとされ、大社はもともと96mありその後48mになった。このとき、東大寺45mよりも大きい。2000年4月に巨大神殿跡が発見され、日本書紀と古事記の「国譲り」神話にでる大国主命が造った国土を天上の神に譲る代償として大きな宮殿を求めたエピソードを裏づける。近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見されたのも、権威の象徴を放棄するために埋めたとみられる。 <「出雲大社と大国主命」「いなばのしろうさぎ」と「だいこくさまのお話」は国造りから国譲りにいたるエピソードが面白い> |
三輪山は国中の神であり、大物主命は恐れられたにもかかわらず、皇祖神を祀る社を東国の海の玄関である伊勢にしたのは、壬申の乱の折国中の大和は近江側であり、天武天皇は伊勢、伊賀、美濃、尾張、三河といった東国を味方にして勝利したことに由来する。
国譲りされて引継いだ古代王朝の三輪王朝(祟神天皇以後五代)が衰弱したあと、権力は生駒山脈を西に越えて河内王朝(応神、仁徳、履中)に移ったとする。
実在視される祟神を初代とし、万世一系の天皇家は三王朝交代(祟神・応神・継体)したとされる。
神話の神武も実在の祟神も、ハツクニシラススメラミコトという。これは、初めて国を統治した天皇に通じる。
日本書紀によると神武天皇は、日向から筑紫を経て河内へ東征し、熊野で八咫烏に案内され大和にたどり着いた。大和で饒速日(物部の祖)は妻の兄である長髄彦を殺し服従する。
三輪山から香久山にかけて磐余といい磐余彦が勢力を覇っていた。六世紀欽明朝のとき大和の大王家の始祖として磐余彦を神武に擬したとする説もある。
箸墓が近くにあり、謂われは、倭迹迹日百襲姫の夫・大物主命が蛇であったことに驚いて「則ち箸を陰に撞きて薨りましぬ」と日本書紀にあるところからきている。卑弥呼あるいはその後をついだ台与の墓との説が高まっている。
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はじめて百位内の47位でした。
出雲大社には何回か行きましたが、大きなお社に圧倒されます。
昔はこの倍の大きさだったと聞くと、当時の建築技術の高さに驚くばかりです。
昨日のピカソ的写真は、確かに耳と首は正面を向いており、顔は横顔ですね。
ややこしい写真です。
大輪の花を咲かすようですね。
おととしに出雲大社に詣でたときは、60年振りの「平成の大遷宮」の最中であったらしく、本殿を見ていませんから、もう一度
行ってみたく思っています。
これから暖かくなると、ソーメンが食べたくなります。
でも、三輪山はまだ みわ せん。 (^^ゞ
「伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田子根子命が大神神社
の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐の次男穀主が初めて作ったという。」
iinaも大阪に行ってはじめてそのことを知りました。
三輪山麓の大神神社に参拝の折り、その前の古めかしいお店の「森正」で、ソーメンを食べました。
神話か事実か 大変面白いですね!
サソリをから揚げとは、怖いもの見たさに珍味の味をたしかめてみたくもあります。
≪眠れないほど面白い 古事記≫は、歴史的な裏付けを試みた本でしょうか。さまざまに解釈できるところが、ロマンですね。
いま、①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩の内 ③の場面ですが、次が④と古代史について続々にアップしていく予定です。
私見でもご意見など なんでもコメントくださると嬉しいです。
想像以上に長い歴史を持っているのかも
しれませんね。
iinaサイト「もののはじろ」をブログに①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩と順にアップしていたときに、「三輪山」を投稿してました。^^
このとき、gooアクセス・ランキングで、 はじめて百位内の47位だというを、改めていま知りました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/e5373aed7ec1b7de15e602de38f29782
>日本の木造建築の歴史は想像以上に長い歴史を持っているのかもしれませんね。
法隆寺が、世界最古の木造建築として世界遺産に登録されていますから、その通りだと思います。日本は森林が多いです。
僕の別ブログです
8年前から書いています
自分で言うのもなんですが
出版はしていませんが
少なくともNET世界において
古代出雲研究の第一人者です
毎日
島根県教育委員会所属の
島根県立古代出雲歴史博物館
古代文化センター
の学芸員4人と意見交換しています
(どちらかというと情報提供)
かつて日本海文化圏
朝鮮半島〜出雲〜越志にかけて
大の国(古代出雲王国と同一?)が存在
その国の王様ということで
「大国主命」
です
世襲でしたので
一人ではありません
古事記において
大国主命=オオナムチ=大物主とされますが
事実ではありません
古事記は全てではありませんが作文ですので
あまり参考にされない方がよろしいかと
出雲大社の祭神は
江戸時代の終わりまで
スサノオでした
また
明治になるまで
杵築大社その前が杵築社
神紋は
本来
二重亀甲に「有」
今ちょうど
出雲だけ神在月
それ以外は神無月
(旧歴の10月)
十月=十+月=有
この
二重亀甲に有という神紋は
神魂神社、八重垣神社も使っています
以下はまだブログ記事にしていませんが
出雲大社に使われている
二重亀甲に剣花菱の神紋は
千家の紋と言いますが
実際は
三刀屋神社の三屋神社のものです
つまり
簡単に言うと
三屋神社は元出雲大社です
今は三刀屋ですが
かつては
御門=みと
だったのを
中央に遠慮して
神亀三(七二六)
御門〜三屋 みと
と年字を改む
と出雲風土記に記載してあります
ですので
御門をミカド
さらには
イスラエルのガド族などと
ほざいている説は
全くの的外れという他ありません
御門というのは
天皇ではなく
平田中心とした銅から
三屋地区に居を移して鉄を仕切った
スサノオのことです
このことについて
出雲風土記研究の第一人者である
島根県立古代出雲歴史博物館の
専門学芸員の方と話しましたが
ご存知ありませんでした
これ以外の詳しいことについては
古代出雲王国スサノオの光と影
引き続き
スサノオ超考古学をごらんください
いずも思うのは、「出雲」はいろいろ想像できて面白いです。
もともと大和三輪の先住民の王であった大物主命が、大和朝廷に敗北し国譲りして出雲に流され、後に出雲大社として祀られたとする「神々の流竄」梅原猛説があるそうです。
大物主命が奉られている出雲大社伝によると、出雲のイツは「厳」であり、モは「もの」である。要するに霊魂のことであり、イズモとは「厳霊」(厳おごそかな霊)だと申します。
ちなみに「もののはじめ」は、そんなところと「物の怪」や「物部」などから タイトルにしました。
「数でリズムをとりながら日本古代史にこだわったもの」であり、「縦軸に数 横軸に古代史」を配しました。