大ヒット“ALWAYS”シリーズの第3弾『ALWAYS三丁目の夕日’64』。
あいにく「2D」の方が早目に放映なので3Dをあきらめた。全作観たが、こんかいが一番涙腺がゆるんだ。
あのころのオリンピックのときは、試験のため後半からテレビ観戦した。前半は殊勝にも勉強していたようだ。まだカラーは一般的ではなく、我が家は白黒テレビで観ていた。
東京オリンピックは、市川崑監督がオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、ドキュメンタリー映画に撮り上げたことから、「芸術作品か記録映画か」と大論争になった。この映画を、iinaは東京に転校して学校から連れられて鑑賞に行った。
東京より九州の高校の方が厳しく、強制された坊主頭に、朝夕の補習授業は当たり前で、ズックに下げ鞄だった。(転校した東京は総て自由で、革靴に革鞄は新鮮だった。)
そんな1964年でも、息抜きに山陰まで汽車に揺られ釣りに行った冒険談が懐かしい。
道中は、豆テストに備えて仲間と熟語を覚えていたが、下関で山陰線に乗り換えねばならぬのを、そのまま山陽本線を走る。おかしいと感じた通り、一本先の駅員さんに告げると路線を間違えていた。切符有効の特別扱いをしてくれ、戻りの汽車がくるまで駅前の空き地でキャッチボールして時間つぶししたのも昨日のことのようだ。
そんな些細なことも、映画がいうようにあるいは前を向いて進んでいたことの一つといえるかも知れない。
なにしろ、若いと 過去よりも将来の方が多いもの・・・。
あいにく「2D」の方が早目に放映なので3Dをあきらめた。全作観たが、こんかいが一番涙腺がゆるんだ。
あのころのオリンピックのときは、試験のため後半からテレビ観戦した。前半は殊勝にも勉強していたようだ。まだカラーは一般的ではなく、我が家は白黒テレビで観ていた。
東京オリンピックは、市川崑監督がオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、ドキュメンタリー映画に撮り上げたことから、「芸術作品か記録映画か」と大論争になった。この映画を、iinaは東京に転校して学校から連れられて鑑賞に行った。
東京より九州の高校の方が厳しく、強制された坊主頭に、朝夕の補習授業は当たり前で、ズックに下げ鞄だった。(転校した東京は総て自由で、革靴に革鞄は新鮮だった。)
そんな1964年でも、息抜きに山陰まで汽車に揺られ釣りに行った冒険談が懐かしい。
道中は、豆テストに備えて仲間と熟語を覚えていたが、下関で山陰線に乗り換えねばならぬのを、そのまま山陽本線を走る。おかしいと感じた通り、一本先の駅員さんに告げると路線を間違えていた。切符有効の特別扱いをしてくれ、戻りの汽車がくるまで駅前の空き地でキャッチボールして時間つぶししたのも昨日のことのようだ。
そんな些細なことも、映画がいうようにあるいは前を向いて進んでいたことの一つといえるかも知れない。
なにしろ、若いと 過去よりも将来の方が多いもの・・・。
六ちゃんの恋の様子なんて、今時の
携帯が当たり前の世代には考えられないようなときめき、どきどきがあったんだよね~なんて思いながら。
まさにその通りですね。
私の場合は将来のほうが少なくなりました(笑)
鈴木オート。
人物が愉快で好きです。三丁目は私の中でいつまでも青空なんです。
興味がある映画です~
当時の日本は戦後19年経って、、高度経済成長期に入っており、町も人々も活気にあふれていました。
今思うと、良き時代でしたね。
楽母さんは、twitterにも進出してましたか。
gooホームには、twitterに似た機能がありましたね。iina宅ブログのブックマークをチェックしたら、
未だ登録していたので、外さなくては・・・。
交通の発達してない昔は、会いたい人に文で会う日時を伝え、それでも先方が出かけていたら、戻るまで
待って会ったことを思うと、携帯で即段取りできてしまう即効性の高い時代に生きていることを痛感します。
用事は、電話で済んでしまいます。
(ippu) さん へ
きのう、会員制のショッピング・モールに登録し、写真付カードをゲットしました。娘が会員なので、
ファミリー会員に無料で登録できました。
登録には、運転免許等の証明書を掲示して作り、写真をその場で撮って、カードにも顔が載ります。
そこで思うのですが、種々の証明書の代わりになるものでしょうか?
(逆手にとって、質問してしまいました)
(鷲谷芝嵐) さん へ
バレンタインデーのプレゼントに、ふんどし。
ふ~ん どしどし、プレゼントのツールが広がっているものですね。
「三丁目の夕日」が重い映画・・・
コメディですよ
(ひの) さん へ
「三丁目の夕日」が3作も創られました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/s/%BB%B0%C3%FA%CC%DC%A4%CE%CD%BC%C6%FC
その1964の頃は、テレビに「一丁目一番地」というホームドラマがありました。つまり一番であること
が目標であった時代といえそうです。
いまは、2番では駄目ですかと国家の一員に諭される時代で、どこにでもある ありふれた三丁目の時代と
いえるかも知れません。
(ハイジ) さん へ
西岸良平氏の漫画は、ほのぼのした画風ですね。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%A5%BF%E5%B2%B8%E8%89%AF%E5%B9%B3
(tamirin) さん へ
難病認定も、日本では難病並な認識度ですね。
(らいちゃん) へ
「月とスッポン」からサマセット・モームの「月と六ペンス」を連想しました。いずれも象徴的な意味
をもたせていますね。
「月」は人間を狂気に導く芸術 的情熱を指し、「六ペンス」は下らない世俗的因習、絆を指したものと
申します。
東京オリンピックの時は、八重洲口で働いていたのですか、iinaは昭和50年頃に勤めてました。
11年の差は、小さいようで、若いころのiinaからみると大きなものに感じられます。
(ぼたん)さん へ
1月末に、「三丁目の夕日」を観てきました。
昨9月以来ご無沙汰していました。
ふたたび映画でご縁がありました。
「坂の上の雲」を目指した明治の日本が、敗戦で「上を向いて歩こう」を目指したと形容されていました。
東京タワーの真上を通るM:I:4のようなショットも見上げる構図も意図的に使われていたのですね。
(タケヤと愉快な仲間達~人生は映画のように楽しまなきゃソンだがや~ )さん へ
’64ころは、ゴジラさえもシェーをした時代でした。
そういえば、漫画では「オバケのQ太郎」が流行ってました。
それにしても、写真を貼ってストーリーをなぞるのは骨が折れますね。