
二百十日の初秋の風が吹く九月一日から三日にかけて富山の坂の町・八尾(やつお)でおわら風の盆がある。富山赴任中は、毎年でかけたのでその雰囲気をどうぞ。
おわらはそれぞれの町の伝統と個性を披露しながら唄い踊る。その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなりだす。闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていく。娘さんの涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、静かで優美で幻想的である。
生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが町流しの始まりという。その後「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊ったことがあり、これが「おわら」の語源になったという。また一説によれば、農作物の収穫の時期に豊年を祈り、おおわら(大藁)とも。
おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけだったが、そのうち楽器が入り、踊りが入ってきた。時代と共に踊りも変わってきて現在は、1.「豊年踊り」(旧踊り) 2.「男踊り」 3.「女踊り」(四季の踊り)と3通りある。
「宙返り」は深川踊りから、「稲刈り」はカッポレから取り入れられた。それまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい「豊年踊り」に仕上がった。
はじめ「おわら」は芸者が踊り、町の娘は踊らなかった。「女踊り」は鏡町の芸者が踊り、「男踊り」は「甚六会」が踊ったという。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかだった。
「唄い手」「囃子方」「太鼓」「三味線」「胡弓」のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏で、「踊り手」はそれに合わせ町中を踊り歩く。
→①
presented by iina
明日につづく
おわらはそれぞれの町の伝統と個性を披露しながら唄い踊る。その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなりだす。闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていく。娘さんの涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、静かで優美で幻想的である。
生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが町流しの始まりという。その後「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊ったことがあり、これが「おわら」の語源になったという。また一説によれば、農作物の収穫の時期に豊年を祈り、おおわら(大藁)とも。
おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけだったが、そのうち楽器が入り、踊りが入ってきた。時代と共に踊りも変わってきて現在は、1.「豊年踊り」(旧踊り) 2.「男踊り」 3.「女踊り」(四季の踊り)と3通りある。
「宙返り」は深川踊りから、「稲刈り」はカッポレから取り入れられた。それまでの芸者の色っぽくて難しい踊りから、非常に単純で美しい「豊年踊り」に仕上がった。
はじめ「おわら」は芸者が踊り、町の娘は踊らなかった。「女踊り」は鏡町の芸者が踊り、「男踊り」は「甚六会」が踊ったという。娘を人目に触れさせなかったし、踊りに出すのはもってのほかだった。
「唄い手」「囃子方」「太鼓」「三味線」「胡弓」のそれぞれがおわら節独特のハーモニーを奏で、「踊り手」はそれに合わせ町中を踊り歩く。
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明日につづく
確かにいい祭りで、あの踊りに魅了されてこの時期になるとどうしても体が八尾へ向かっているのですが、観光客の多さがあの風情や情緒を壊しているように思えてなりません。
まあ、そうでしたか。
八尾が町をあげて売り出し中のころ、母が踊りを教えていただくために八尾にお世話になったころには(母は民謡踊りを研究しています)、家族で唄と胡弓とお三味線、それにお母さんと娘の踊りなどで、町を仲良く流していたりしたそうで、つい5年ほどまえまではまだまだそんなご家族もおみうけしました。
あれだけの傍若無人な観光客を相手にしても、八尾のみなさんはほんとうに親切。あたまが下がる思いです。