三社さまを祀る浅草神社を、意外なことにいままで正面から取り上げたことがなかったようだ。写真も祭時のものしかなく、上は三社祭のもの。
普段は、猿回しがでていたりする。クリック
由緒によると次のようになる。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのは、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけでした。
当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語ると、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像と説明しました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社であるが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。
普段は、猿回しがでていたりする。クリック
由緒によると次のようになる。
漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのは、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけでした。
当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語ると、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像と説明しました。
土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。
土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。
奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。
今もなお、「三社さま」として親しまれている浅草神社であるが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのようによばれています。
浅草神社は、浅草三社祭りを見物して、貰った
パンフレットで始めて知りました。
その後、2回ほど浅草寺に行きましたが、その際
浅草神社も訪問しております。
浅草寺は人で一杯ですが、浅草神社はいつもひっそり
していました。(ちょっと、寂しいです!)