”マッカーサーを叱った男”として知られる白洲次郎が、 17歳のとき父から与えられた「ペイジ」(同型車)。
この話は、「昭和天皇からのクリスマス・プレゼントをぞんざいに扱ったダグラス・マッカーサーに対し、白洲次郎がそれをとがめた(叱った)。白洲次郎は筋の通らぬ事を嫌う気骨ある人物だ」というエピソード。[ただし、武相荘サイドは否定している。]
白洲次郎・正子夫妻が昭和17年(1942)に東京郊外の鶴川村に買った農地付き民家で、83歳で亡くなるまで、妻の正子は平成10年に88歳で亡くなるまで、終の棲家とした。「武相荘」の名は、「武蔵の国と相模の国の境に位置する」ことと「無愛想」を掛けたもの。いまは、記念館・資料館として一般公開されている。
戦前は近衞文麿首相のブレーン、戦後は吉田茂首相の側近となって政治の中枢にいた。一時は忘れられた存在だったが、1990年代から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられた。
正門・長屋門
茅葺き屋根の住居
和洋折衷の部屋に改造されて、畳の部屋に廊下を通すなど使い勝手がよさそうな造りだった。
随筆家の正子の部屋は、独り用掘り炬燵にはいって筆を握ったようだ。
竹林には、石仏や石塔が置かれ、庭際に鈴鹿峠の道標。石畳は歩きよい。
使った農具。 遺言は「葬式無用、戒名不用」。
この話は、「昭和天皇からのクリスマス・プレゼントをぞんざいに扱ったダグラス・マッカーサーに対し、白洲次郎がそれをとがめた(叱った)。白洲次郎は筋の通らぬ事を嫌う気骨ある人物だ」というエピソード。[ただし、武相荘サイドは否定している。]
白洲次郎・正子夫妻が昭和17年(1942)に東京郊外の鶴川村に買った農地付き民家で、83歳で亡くなるまで、妻の正子は平成10年に88歳で亡くなるまで、終の棲家とした。「武相荘」の名は、「武蔵の国と相模の国の境に位置する」ことと「無愛想」を掛けたもの。いまは、記念館・資料館として一般公開されている。
戦前は近衞文麿首相のブレーン、戦後は吉田茂首相の側近となって政治の中枢にいた。一時は忘れられた存在だったが、1990年代から少しずつ再評価され各種メディアで取り上げられた。
正門・長屋門
茅葺き屋根の住居
和洋折衷の部屋に改造されて、畳の部屋に廊下を通すなど使い勝手がよさそうな造りだった。
随筆家の正子の部屋は、独り用掘り炬燵にはいって筆を握ったようだ。
竹林には、石仏や石塔が置かれ、庭際に鈴鹿峠の道標。石畳は歩きよい。
使った農具。 遺言は「葬式無用、戒名不用」。
町田市に記念館として保存されていたのですね。
彼の活躍は最近テレビドラマで知りました。
御紹介されているように、戦前は近衞文麿首相のブレーンとして、戦後は吉田茂首相の側近となって活躍し、GHQとの交渉では、「我が日本は戦争に負けたのであって、奴隷になった訳ではない」と気骨を見せていました。
現在の日本の政治家には見られない素晴らしい人のように思います。
記念館が近くにあるなら、私も行ってみたいです。
飛ぶのでしょう?
白州次郎については新聞で知った程度で、姉が見学したいというのでドライブしてきました。
「育ちのいい生粋の野蛮人」「とも評されるようですが、御曹司がわがままいっぱいに育って、恐れるものは何もなかった
かのような性格です。正子も伯爵家に育ってますから、夫婦とも出目が善いです。しかし、ふたりともそのことを嫌悪した
らしいです。
テレビドラマになっていたなら見たかったです。
白州次郎の祖父に白洲退蔵がいます。三田藩儒官の家に生まれた白洲退蔵の屋敷が、神戸相楽園だそうです。
http://www.hyogo-tourism.jp/tabinet/furusato100/illust/sanda/
数年前旧三田藩の上級武士白洲次郎の一族が経営する三田市の三田牛肉レストランやすらぎの郷「三田屋本店」へ長女の車でランチを食べに行きましたがレストランの横の車庫にクラシックカー2台があり何の気なしに見てきましたが、白洲次郎の愛用のかーだったかもしれません。
http://blog.goo.ne.jp/goo369/e/14f5acb871e71b1e705bf144633e0b38
http://blog.goo.ne.jp/goo3-69/e/14f5acb871e71b1e705bf144633e0b38
先ず、目に飛び込んできたクラシカルな車が印象的です。
現在も動くのでしょうか
iinaさまの画像をとうして荘の内外を拝見しながら、同氏の「人となり」が偲ばれました。
山も海も一緒でした。
仰せのとうり磯辺のイワゆる岩盤も、結構ガンバンらないと~楽ではありませんでした。
貝採りも山登りで鍛えたカイが有りました。
白洲次郎は、祖父・白洲退蔵の庭園“相楽園(神戸市)”の“相”を使い、自分の終の棲家の名を「武相荘」として
いたのですね。
和洋折衷は、次郎に限らないものの 屋敷を住みよく改造していました。
園内に、つつじ遊山と蘇鉄に、重文になるほどの遊び心に充ちた屋敷に暮らしていたとは、次郎も随分と羨ましい
環境に育ったものです。
ブルジュア育ちなのが、怖いもの知らずで無鉄砲な性格を象ったのでしょうか。
(延岡の山歩人K) さん へ
「貝採り」を、遠浅の浜辺であさり取りのようなイメージを抱いていましたが、岩礁に棲む貝をねらったのですね。
これは、未体験な貝取りの世界です。
魚貝類に目のないiinaとしては、うらやましいかぎりです。
かなり危険なところですから、山登りで鍛えたカイがあって、 よかった よかった。
綺麗なお写真ですね。私も伺ったことがあります。白洲次郎さんは東北電力にも力を尽くして、秩父宮勢津子様とも面会があったようで、行動力があるのは凄いと思います。
名誉や地位よりも実を取った方だけれども、実は損な役回りでも買って出る男気があったのでしょうか。多くの男性陣から支援と友情を得ていたようで、正子さんも次郎さんあっても正子さんであったと思っています。
白洲正子さんの随筆を読んでいませんが、薩摩藩士の息女として、昭和天皇の養育をした父上の元で育ったのでしたか。
白洲次郎は、実業家の父をもちイギリス留学するなど我儘に育ってますが、戦後はアメリカにノーといった傑物でした。
武相荘の後は、多摩聖蹟記念館に廻りました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/391e136c8fbc0a66326c9bb4d26dd3e5