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海鵜と鴎

2013年03月11日 | 神奈川圏


世界女性群像噴水池の女神と弁天

龍口寺界隈(仏舎利塔~五重塔)→







小動神社(こゆるぎじんじゃ)
文治年中(1185)、佐々木盛綱の創建。
吾妻鏡によれば、盛綱は寿永3年12月(1184)平家追討の際、備前において僅か六騎にて平行盛を追伐し無事鎌倉に凱旋した。
盛綱は江ノ島弁財天に参詣の途次、小動山に登りその風光を賞せ、父祖伝来の領国-近江の守護神の八王子宮を勧請した。
境内から江の島を眺めると、ちょうど防波堤を頑丈にする工事をしていた。

この小動神社は、腰越にある。
源義経が兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められたのが腰越。此処の満福寺で、義経が心情を綴った手紙「腰越状」が有名だ。
遠い昔に、この寺に伝わる「腰越状」の下書きを見たことがある。
腰越の由来は、むかし江ノ島に悪い龍が住んでいて、子供を呑んでしまったので「子死恋」と称したからと伝えられている。(江ノ島縁起) 



 きのう散歩に出かけると、黄砂と思える砂埃で視界が悪い。予定のコースを止め、近くの電器屋までにした。
 今朝のニュースによると、関東に現れたのは「煙霧」という。北風と南風がぶつかり田畑や道路の砂を吹き上げたのだとか。


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9 コメント

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満福寺 (らいちゃん)
2013-03-11 07:25:22
鎌倉は幕府が開かれたところだけあって、見るところがたくさんありそうですね。
有名な腰越状、それを書いた場所と伝わる満福寺に行ってみたくなります。
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(らいちゃん) へ (iina)
2013-03-11 09:20:09
虚子の俳句「犬ふぐり 星のまたたく 如くなり」は、言葉の組み合わせが微妙ではあり面白いです。

オオイヌノフグリなんて、奇妙な名を花につけたものです。でも、イヌフグリの実を見ると、なるほどと思ったりします。

花弁は、女陰を象っているともいい、そのように人工的に交配させているらしいです。耳学ですが、蘭が人気なのは、
そういうことであるからとも聞きます。
花のことについては、らいちゃんの方が詳しかったですね。
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歴史の町 (「のべR山会」のK)
2013-03-11 17:38:15
海鵜と鴎
海鳥遊ぶ海浜はなんとも優雅でのどかな風景ですね

 >小動山に登りその風光を賞せ、父祖伝来の領国-近江の守護神の八王子宮を勧請した。
勧請した八王子宮が「小動神社」なのですか?
とんちんかんな質問でしたらお許しください~何も知らなくてすみません。

それにしても鎌倉は
さすがに歴史の町、名所旧跡が多い上に、風向も明媚で素晴らしい
近くにお住いのiinaさまはiina~。


味噌こしかお椀か?
「みそこぶし山」は、やはり 「味噌こし」が正解でしたか?
そういえば、お椀とは確かに違いました。やはり先人は偉かった
ありがとうございました。

「海割り」
モーゼは事前にたびたび練習していたのですか?
それを見ている神様もご苦労様ですが、これぞ「笑撃」~声を出して大笑いでした。
出エジプト~伝説の背景にはいろいろな自然現象が絡んでいることは、
いろいろな他の事例でもお伺いすることですね
当時の人達にとっては、自然現象は神がかり的で有ったでしょうね
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(「のべR山会」のK) さん へ (iina)
2013-03-12 08:43:53
人里を離れた山に咲くと、まばゆく輝く黄金の福寿草とKさんが感嘆されるとおりですね。
一目散に山を登るばかりにせず、みそこぶし山でみそこなわなくてよかったです。

小動神社は、明治元年の神仏分離に伴い地名をとって改めたのですが、江戸時代までは八王子社と称していました。
江の島から最初の岬でもあり、藤沢市と思ってましたが鎌倉市腰越が住所でした。藤沢の国道1号線側の白旗神社には、
義経の首が首実検された後に埋められています。
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TBをありがとうございます(^^) (Rancho)
2013-03-13 00:15:32
芝居のような絵空事としてだけではなく、鎌倉は歴史を肌で感じられるところなのですね(*^_^*)
iinaさん、興味深いTBをありがとうございます!^^!
楽しい時間を過ごさせていただき、たいへん嬉しいです^^V

梅が美しい季節となりました。うぐいすやメジロの姿に交じって、乱鳥も梅を楽しんでおりまする(^^)
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(Rancho) さん へ (iina)
2013-03-13 10:03:07
乱鳥さんは、映画ばかりでなく歌舞伎もお好きなのでした。

むかしに腰越の満福寺で、義経の「腰越状」の下書きや襖に彫られた義経伝説を見たのですが、小動神社前
の寺だと思ってましたが、少し奥の寺であるらしく、記憶があいまいです。

それにしても兄弟で争って、源氏は3代で絶えたとは歴史は皮肉です。
小説家の司馬遼太郎は、義経に厳しい目を向けます。↓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/07135b8e131dc58c392bcd950b3c2d30
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TBありがとうございます^^ (ヒジハラ)
2013-03-15 21:25:25
鎌倉には何度か足を運びましたが腰越はいまだ訪問ならずです。
近代史的には平民宰相原敬の別荘が腰越にありました。
お写真から海が本当に近いことが分かり驚きましたが、こういう所なら本当に保養になっていたんでしょうね。
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(ヒジハラ)さん へ (iina)
2013-03-16 10:23:39
日本は、鎌倉時代にいたってリアリズムになったと司馬遼太郎は申します。たしかに、「一所懸命」のことば
通り律令制度より領地を安堵する裁判権を鎌倉幕府がもちました。

頼朝も、もう少し義経くんを諭して源氏の執るべき態度を知らしめておくべきでした。どうにも軍事的天才の義経
くんに政治力を理解させることは難しいかったかも分かりませんが、源氏三代で滅ぶことを知る後世の我々から
みると、惜しいことでした。

広瀬武夫中佐がお好きでしたか。日露戦争で部下を救いに戻って死に「軍神」になりました。万世橋駅前に
銅像ができていたらしく、戦後の行方を追う小説を先日に読み上げたタイミングです。

なお、iinaは古代史にまつわる「もののはじめ」を運営しています。
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(ヒジハラ)さん へ (iina)
2013-03-18 13:02:31
さすがは広瀬武夫のファンですね。iinaが読んだ著者を当てました。
もりたなるお著の「広瀬中佐の銅像」を読みました。

頼朝については、こんなこともアップしてました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a0008d02f19a49c381d53a3083f53016
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