昨日は知的障碍者施設開園20周年記念イベントに出席した
この中でピアニストの福田直樹さんのチェンバロ演奏が行われた
福田さんは小澤征爾さんと同じ大学の同じ指揮科にも学ばれたそうで、それだけでも凄さを感じた
会場内で隣に座っていた50歳くらいの男性が「あのチェンバロ、園の備え付けじゃないですよね?」
と問いかけてきた
「そうですね、園には無いと思いますよ」
「じゃあ福田さんが運んできたんだ」と感心していた
「あれだけの大きさだからトラックなんかで運んだんでしょうね」
私も相づちを打ったけど、チェンバロなんて始めて見たし、名前も知らない楽器なのだ
あんな窓際で弾くんだろうか?と不思議に思っていたら、来賓のスピーチが終わったあと
若い職員二人がチェンバロを軽々持ってステージに上げたので
「あれ!軽いんですね」と隣の人が驚いて言った
私も「そうですね、木製なんですね、ピアノとは違いますね」
福田さん登場、わりと小柄な方で芸術家だけに知的で颯爽としている、スピーチも端的に
しかもわかりやすくユーモアも交えて話してくれる
最初にバッハを2曲、演奏してくれた 教会のための曲、バロックで入所者がシーンとする
ような落ち着いた静かで荘厳な曲です
チェンバロの音ってこれだったのか、音に覚えはありますが楽器を知らなかった
それにしても福田氏、譜面も見ずにこんな難しい曲を弾けるなんて・・・すごい!
と思うのも音楽音痴の私だから、プロの方なら普通なんでしょうけどね
指先をずっと見てたけど、指が踊っている、真上から振り下ろしたり、ピアノの鍵みたいに
上下運動が激しくてすごい
福田氏はコンサートなどの他に年間30回ほど施設を訪問して演奏されているそうです
この施設も毎年一回は訪れているそうです(知らなかった)
最後はトルコ行進曲で締めくくりましたが、エピソードなども話してくれるのでとても
興味深いです
トルコ行進曲は、昔オーストリーに攻め込んだトルコ軍が退却するときに作られた曲だとか
チェンバロは古い楽器で、その当時から使われていて、楽士はチェンバロと太鼓を同時に
演奏したそうです、ドラムの太鼓と同じく足で太鼓を叩いた
なぜ太鼓かというと、退却するトルコ軍が太鼓を置いていったことにまつわるとか、氏自身は
太鼓を使わないけれど、どんな演奏になるのか見てみたかったとおっしゃっていました
施設の入所者の皆さんの曲の終わりの拍手のタイミングがまことに良くて、いつも感心すると
のこと、知的障害の方は確かに音楽に対してとても反応が豊かです、音楽には人を動かす力が
秘められているようです。
知的障碍者支援入所施設で夏祭りがありました
私も3年前までこの保護者会の会長だったので今回も女房殿と参加しました
地元ボランティアも大勢参加していただき、出店やイベント、お手伝いと様々な形で活躍していただきました
イベントではフラダンス、病院のスィングジャズバンド、郷土の太鼓が披露されて、どれも楽しませてもらいました
蒸し暑さの中、やはり飲物と氷水、氷水でようやく生き返ったyottin
外を見たら、シトシトと何十日ぶりかの雨が降ってる、駐車場までは歩いて5分、大雨になる前に車をとりに行こうと
出たけれど、時既に遅く、途中から夕立並みの雨になって
走れば汗だくになるし、頭にハンカチを乗っけて、寒いわけでもないし、「濡れた方が涼しいや」とズブ濡れになりながら
なんとなく嬉しい
でも会場に戻れないほど濡れたので、そのまま会社に戻りました
ジャズ演奏、なかなかの迫力、思わず体が動きます
ジャズはやっぱりいいなあ、ジャズバラードとスィングジャズが好きなんだよなあ
過去に2人鬱病の人と接点があった
一人は30代の板前さんWくん、年上の奥さんと子供二人
もう一人は21歳の独身女性Kちゃん
Wくんは快活なスポーツマンで、高校時代には母校の長距離走の記録保持者だったとか
バック転なんか簡単にやってしまうし、性格も温和でみんなに好かれている
仕事は几帳面で、みんな帰ったあと夜の10時でも11時でもノートに仕入れ先からの
納品明細をすべて書き写さなければ気が済まない
これがちょっと伏線的な性格だったのかなあ
それは突然やってきた
朝 彼は「怖い怖い」と青ざめて震えていた あの活発で快活な彼が
私は訳がわからず「しっかりしろ」としか言えなかった
見えない者が、彼だけに見えるようになって、それは好ましくないものばかりで
とうとう引きこもりになって、仕事も長期休職
どういうわけか、私にだけは心を開いていて、いろいろ話してくれた
彼がこうなったのには原因があったのだ
真面目に5年間勤めた料理店、そこの料理長だったのだが、新たに出来る町営の温泉旅館から
引き抜きの声がかかったのだ
彼にとっては問題外の出来事で、彼だけなら簡単に断るだけのことだったのだ
ところが、話しを持ってきたのは、気が小さいくそまじめな父親だった
温泉旅館を建設した会社の土木作業員で、そこの社長から「息子を旅館の料理長に誘ってくれ」
と井合われたのだった、親父にしてみれば業務命令以外の何物でも無い
しかも町営だからバックには町長もいる、必死に息子を説得しようとした
彼は今の店が大好きだった、しかし親孝行な彼は父の立場も考える
板挟みになって、とうとう鬱になってしまった、仕事も辞めた、ますます妄想はひどくなり
彼が「精神病院を見にいくのでyottinさん、一緒に行ってほしい」と言ってきた
60km離れた精神病院へ彼を乗せて行ってきた、始めて入る精神病棟
庭は明るく落ち着いていて、軽度の患者が散歩したり、ベンチに座っている
だが病室へは2重扉、エレベーターに入るように(スペースも車いすが入る程度)入ると
ドアを締めて施錠、反対側のドア鍵を開けて入室、出ると施錠と二重ロック
刑務所のような厳重さ(柏崎刈羽原発もそうだった)
中は小学校並みの賑やかさで、部屋はオープンスペースと数人での居室があり
うろうろと歩き回る人、テレビを見ている人、座っている人、奇声を上げている人様々
とにかく落ち着かない賑やかなスペースだ
彼は体験入棟だったので、落ち込みと妄想以外は正常故、一週間で音を上げて出てきた
それから10年ほど、家に閉じこもっていたらしい・・・・ところが治ったとの報せが
実に単純なことで彼は復帰したのだった、それは突然二と言うことで無く、ゆっくりだが
確実に社会復帰を続けている
彼の話を聞いた小さな建設会社の社長が、「俺のところに連れてこい」と言って
土木工事の穴掘りなどの力仕事をさせたというのだ、Wくんは運動神経は良いし
若いから力もある、誰と話すことも無く唯一人、黙々と穴を掘る、穴を埋める
板前仕事の繊細でデリケート、しかも連携が無いと出来ないし、時間との勝負
そんな全てが無縁の土木作業は彼に安らぎを与えたのだろう
人間との関わりが怖いと言っていたWくん、この仕事が合っていたようだ
次第に心が落ち着き、今は親戚の法要などの行事などにも出席できるまで回復した
人は最後は自然相手、自然との会話が人の本質なんだなと思った
Kちゃんは、子供の時から精神的に脆い子だったようだ
165cmを超える長身で手足長く、色白目がぱっちりの美少女だった
鬱病とひとくくりに書いたが、Kちゃんは鬱もあるだろうけど、人とうまく接することができなかったり
自閉的な部分もあるし、今はこういったことが細かく分類されて、**症候群とかいわれる
彼女もそんな症状を併せ持った子だった
最後は家に引きこもりになって、しかも起き上がることが出来ないほど精神的にも肉体的にも
衰弱してしまう。
彼女もWくん同様、なんども私に相談に来た、そのつど優しくいろいろ言い含めるけれど
一般論を言うだけで、精神科医でも無い私が彼女を立ち直らせることは不可能だった
年賀状にほのぼのしたことを書いて送ったときは、メールが来て「年賀状を見て、泣きっぱなし
でした」と書いてあった
だがKちゃんも、今は元気に仕事をしている。 スーパーの生鮮で商品を並べる仕事だ
早朝から三時間ほどのパートタイマー、これも野菜相手で人間との関わりは少ない
これがきっと気持ち的に楽なのだろう
昨日の夕方、買い物に行ったら居た、近づいて来てマスクの下で目が笑っている
「この時間もいるのか? もしかしてフルタイムになった?」
Kちゃんは大きくうなづいて「はい!」と言った
私も「よかったな、頑張るんだよ!」と言った
Kちゃんも30を超えたかな、回復まで長い時間がかかったね
知的障碍者ホームの恒例「なつまつり」に参加した
20代~70代まで50人がここで暮らしています
入所者家族、通所者と家族、グループホーム、関連施設、ボランティア、市の福祉関係者
地域住民など約300名が参加して開催された。
協力店が焼きそば、たこ焼き、焼きたてパン、地鶏の焼き鳥、アイス、富山の出張コーヒー店
笹寿司などの販売
私は笹寿司450円と、冷やしうどん100円で夕食です
入所している息子は焼きそば2人前、鶏の唐揚げ2人前、アイス、煎餅ももらって食べた模様
イベントもボランティア出演で吹奏楽、太鼓、花火、そして入所者と職員のペアで仮装大会
楽しい2時間半を過ごしました
知り合いと多く会えて有意義な夕べでした。
26日に久しぶりの激しい雨が降ったものの、昨日にはもう快晴
日中は日差しで車に乗っているとクーラー無しでいられない
しかし結構な風が吹いたせいか、朝夕は肌寒く、昨夜は仕舞った毛布を出して
かけて寝た。
今日も晴れて、午前中は知的障碍者の支援施設へ掃除に行ってきた
およそ20名の老若男女が入所者の部屋掃除と外壁や窓掃除に別れて一時間半
びっしりと掃除をした。
蛇の抜け殻、蜂の巣、燕の巣、クモの巣、巣だらけの清掃だ
なにより天気がよくて仕事もはかどる、高圧洗浄機の威力はたいしたもので
壁ばかりで無く、貯水槽の真っ黒な汚れまで何かのコマーシャルの様に見事に落ちた
あまりの面白さに、時間が来てもやめようとせず「残業かい?」とからかえば
「いやあ徹夜だよ」なんて答えが返ってきて和気あいあい
70代半ばの人もいて熱中症を危ぶんだが、汗はかけども風さわやかで全員無事に
清掃を終わった。
先日の入所知的障碍者19名を殺害、多数の重傷者も出した事件
史上希なる殺人鬼はこの施設の元職員、違法薬物、大麻の常用者の疑いもでてきている。
このような多くの犠牲者が出たのは入所施設という場所も関係している
しかも人を疑うことも、抵抗することを考えたもない善良な知的障碍者が入所
とくに重度で体も自由にならない人が多かったらしい
一般的に精神障害者や知的障碍者の施設は、外部からの侵入がないように
あるいは行方不明者が出ないように住居棟の出入り口は日常的に施錠してある、
だからこそこうした事件や災害時には逃げることが難しい、
精神病施設では更に施錠は厳しく2重になっていることも多い
問題はなぜ入所施設が必要なのかということだ
それは、そこに入る障碍者が大勢いるからである、しかし障碍者本人が希望して入所することは
希で、大半は家族親族の希望によるものである。
しかし家族もまた自ら希望して入所させているかと言えば、そうとも言えない
入所させる動機は生活が厳しい、面倒を見ることが(時間的、体力的、精神的)できないなどだが
こうした障害があればこそ、なおのこと一緒に暮らしたいという家族も多い
それでも入所させるのは外圧による原因もあるからだ
こうした障碍者は外見的にあきらかに健常者とは違って見える
いじめに遭うパターンと、「怖い、気持ち悪い」と言った差別的排除、こうした外圧は多い
もっと悪いのは外見で事件の濡れ衣をきせられたり、興味だけで罪にならない程度のいたずらを
性犯罪者的に騒ぎ立てて警察に訴えるヒステリックな住民もいる
それによって逮捕までされることもある、自己弁護ができない障碍者は救われることは少ない
これこそ人権蹂躙の最たるもので、健常者なら嘘をついてども逃げる術を知っているが、善良で自己弁護が出来ない
障碍者は犯罪者として裁かれることもままあるだろう
こうした人たちの特徴にパニック症状が見られる、周りが騒ぐほどにパニックになって手を振り回したり
動き回る、大声奇声をあげる、これが平和な普通の市民には「暴力的な人間が暴れている」と写る
手の付けられない酔っ払い、暴力的な健常者、覚醒剤常習者などと同じレベルで見られる
放っておけば機嫌良くしている障碍者なのに
こんなことで巷に個人で自由に歩く障碍者の姿はない、家族が家の中になかば軟禁状態でおいたり
障害者施設に入れるからだ
これは、こういった障碍の研究者によれば全く正反対の行為で有り、障碍者も健常者同様に自由に
社会に参加すべきだという
ある研究者はアメリカでの例をあげてみせる、彼らは自由で有り、それは周囲の人たちもそれを理解して
自然に受け入れているからだ
だが日本は遅れている、白い目で見る、気味悪がる、怖がる、異常に反応する
犬やネコを嫌いな人が犬猫に対する嫌悪と同じように
人間を犬猫レベルで見ている異常な差別者
こうした不当な差別に泣いている家族も多い、人間には弱い異質な人間を見ると、石持て追うものもいる
首つりの足引っ張りを楽しむ輩もいる
そうした人間には今回の殺人犯と同じ偏見の芽が芽生えているかもしれない
施設と家庭をもっと頻繁に往復できる社会状況であれば、入所待機者も減るだろう
そのためには家庭にいるときの周辺環境が問題となる
周辺住民の理解と知識は残念ながら非常に乏しい
学校ではこうした障碍者学校や学級が併設されていることが多いので、意外に子供たちの方が
無知な大人より、障碍の子供たちと自然に接している
こうした教育がこれから必要だと思う
施設の職員が障碍者差別どころか障碍者ホロコースト論者だったという身の毛もよだつ夏の怪談
こんな事は二度とあってはいけない
どうしたんだろうかね?
どこで道を間違えたんだろうか
「間違えちゃいませんよ この道があんたの道」
だけどね おれにだって理想はあったんだ
世の中にゃ 一分の隙も無い輝いた人生をおくってる人がたんといる
そんな生き方がして見たかったけど
「一分の隙も無い人? そんなのありゃしないよ 見間違いだね
あんたの気持ちで人を量ったって 見込み違いさ」
なんで?
「そんな小さな物差しじゃ 全てを量れるわけがないってことさ
30cmの物差しで あそこの山の高さをはかれるかい?」
そんなのは見りゃわかるさ 量る必要なんかない
「そうだろ これがおまえさんの生き方 考え方なのさ
結局アバウト 適当 そんな尺度で全てを知った気になってる
あんたが言ってた『隙の無い人』がさ『毎日不安の連続』だってさ」
・・・・・
「あんたはいつも主観的に見て決めつける癖がある コンプレックスがある
持つ必要のないものをたくさん持って その重みに潰されそうになっている
すべてがあんたの心が生み出した不安」
強がりと不安と絶望感の毎日を楽しんでる・・・
「ふりだけ」
・・・・・・落ち込んでる
「春だからさ 夏になれば心よりも『暑い暑い』の毎日で忘れてしまうさ」
楽しみさえ忘れてしまうかも
「病気を楽しみたまえ」
ネットニュースを見たら、「多重人格者」がおこした犯罪について出ていた
正確に言えば、多重人格を持つ人の中に住む一人がおこした犯罪
なかなか面倒でわかりづらい表現になる
もう30年くらい前だかに、三田佳子さんが主演のドラマで始めて知った
多重人格者
それから興味をもって、外国での実例の本を何冊か読んだ
三田さんのドラマは、あまり覚えていないが人格数はそんなに多くなかった
と思う、だが本で読んだものでは一人の体の中に数百人も人格が
あった例もあるらしい
私にも、パターンで言えば、10位の感情というか対人パターンはある
だけど、それは今日はテンション高いとか、落ち込んでるとか
強気、弱気など誰にでもある感情の浮き沈みだ
だが多重人格は、みんなそれぞれの固有の名を持ち、固有の性格を持つ
主格は生まれて以来の自分である、それがある日突然
別の固有の人格Bが自分に成り代わっている時間が発生する
その間、自分は失われる、Bが何をしているかなどはわからない
そのBがおとなしい性格であるなら問題は小さい(本人には大問題)
Bが攻撃的だったり、犯罪者的ならたいへんだ
逮捕されるのはBだが、留置所の中で自分が再び戻ったとき
どうして留置所に入っているのか、まったく理解できないだろう
これがもっと多くの個体の人格を持っている場合は複雑だ
出てくる時間の長さも、順序も、年齢も、性別もみんな違う
24時間を本来の「自分の体」をどの個体がどれだけ占有するかと
言うことになる、場合によっては本来の自分が消される恐れもある
それぞれの個体は、同時にに現れることは出来ないが
中には個体が、別の個体を認識している場合がある
そしてライバル視したり、敵対視したり、尊敬したり、助け合ったりする
こんなことがあるのだろうか
自分という体の中で
助け合うという現象は興味がある
助け合って共用する体を守るなんて・・・不思議だ
泣き虫のいじめられっ子である「本来の自分」を守る人格が
現れたり、いじめられっ子の自分に代わって攻撃的な人格が
現れる場合もあるという。
今回のニュース例は、「本来の自分」が失われているとき
現れた悪意の別の個体が犯罪を犯したのでは無いかという疑い
それで精神鑑定ということなのだろう
何ヶ月か前にも洋画であった
警官だったろうか、シャイで真面目な男の中に暴力的な別人格が現れ
恋人?の女性をからめての逃亡アクション
あれも多重ならぬ二重人格者のコメディだった