神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

新潟県のこと 上杉謙信 田中角栄

2024年11月27日 13時28分26秒 | 地理
 新潟県は北の海上には世界遺産になったばかりの金山の島、佐渡島、更に日本海を乗り越えていけば大陸沿海州へと続く
北東の端は村上、胎内で海上には粟島、海沿いに山形県に続き、少し下がって村上市坂町からは荒川の狭くて美しい峡谷に沿って、山形県小国町から山形県最南端の米沢市へと出る

東北東は新潟市、阿賀野を越えて阿賀野川の渓谷を福島県会津地方に続く
東は長岡市から魚沼、湯沢を経て山間の穀倉地帯越後平野を越えて、群馬県に入る

南西には上越市から妙高市を経て長野県長野市へと続く、長野市は近い
西の端の糸魚川市から南の狭い姫川峡谷を下り、長野県北部小谷村、白馬村、大町市へと続き、右手には2900mの峰々、後立山連峰(北アルプス)の白馬三山がそびえる、こここそ日本列島を二分するフォッサマグナの西の端
糸魚川からはもう一路、西に向かい天下の険、親不知(おやしらず)を越えて富山県東部に入る。

新潟県の政治、経済の中心は明治以降は新潟市であるが、戦国時代から江戸時代まで今の上越市が越後国(新潟県)の中心だった
上越市直江津地区には戦国時代よりさらに昔、国分寺があり政治の中心であり
直江津の湊は青苧の交易で大いに栄えた
同じく春日山には武田信玄と共に戦国最強と言われた上杉謙信の居城がある
ここから越後国内の諸豪族を統率したのだった
さらに下れば、越後高田は江戸時代初期には徳川家康の六男、松平忠輝が75万石の大身として信州川中島を含む広大な領地を治めて、名実ともに越後国の中心であった。

新潟県は北東から南西に海岸線が伸びる長い県で、面積は福島、長野に続いて全国5位の広さ、それゆえに高速道路の総延長でも北海道に次いで全国2位である(2021年)
新幹線やJR+三セク鉄道の総延長でも日本トップクラスの長さである
ところがこれでもカバーできない地域が多い、西端の糸魚川地域からは県庁新潟市への直通列車が一本もない
そのため東京には2時間、長野市まで30分足らずで行くのに、新潟市へ直通で行くためには高速道を2時間走る、JRだと3時間かかる、まるでどこの県かわからない状況である
富山県が県内を鉄道路線網でくまなくカバーしているのに比べると不便この上ない新潟県なのだ
上越地域の中心、高田からも新潟市への鉄道路線の利便性は不自由だ
これはJR東日本と西日本が新潟県内で別れているためで、高速道路も同じである
糸魚川から直江津の区間だけが交通網では関西圏に属している
だから三セク線は直江津から富山県の泊駅までと越境しているし、大糸線は糸魚川から長野県大町までだから大糸線なのだが、長野県の南小谷で終点となる
これは電化の関係で、糸魚川から南小谷まではジーゼルカーの為である
これがネックとなって、全国有数の赤字路線となって廃線寸前である。

上越市直江津、柏崎市も北陸新幹線から外れているし、十日町市も上越新幹線から外れている
県が広く、山間部が多いので交通網が行き届かないのだ

かっては群馬県に行くのに三国峠を越えなければならなかった、冬は雪崩の巣窟で大勢が犠牲になっている、豪雪地帯なのだ。
関東管領になった上杉謙信の越後兵は冬、関東に出るために三国峠を越えることもあったらしい、その苦難はそうとうなものであっただろう

昭和になっても、戦後になっても、三国峠は新潟県から関東平野に出る障害であった
新潟県西山町で生まれた田中角栄も大臣、総理大臣になって三国山脈が新潟県と関東平野を閉ざしていることが新潟県の経済、交通の妨げであることに心を痛めた
そして三国山脈に穴をあけて関東と結ぶという誇大妄想的な考えを持った
当時は確かに、この考えは誇大妄想と言われるほどの難事だったのだ
田中角栄は演説で「三国山脈に穴をあけて、その土砂を日本海に入れて、佐渡島と本土を陸続きにすればいい」と言った
佐渡とはつながらなかったが、三国山脈には現在は新幹線も高速道路も一般道も通り、僅か数分、十数分で新潟県から関東に入ることができる。

謙信が関東へ出るために山脈を越えた。越山である
田中角栄の後援会は「越山会」といって、強固な郷土愛で結ばれた、これこそ京の都から遠く離れた辺鄙な越後で、上杉謙信のもと越後諸将が一致して山を越え関東平野になだれ込んだが如し
上杉謙信、田中角栄の二人の越後の英雄は共に三国山脈に挑んだのであった
そんな新潟県だが、ここ数十年、大臣が一人も出ていない、今度の衆院選では五選挙区すべてで自民党が立憲民主に敗れたパーフェクトディズとなった。
草葉の陰で田中角栄は、だみ声で「なにやってんだか?」とあきれ顔でいることだろう。

北アルプスが日本海に落ち込む親不知、20数キロ続く狭い砂浜を寄せ来る波を岩間に避けて旅をした、子が波にさらわれた悲劇が「親知らず、子知らず」の名の所以
親鸞も流罪になって、この海岸を歩いて直江津に向かった
上杉謙信が越中を攻める時は、山越えか船で渡ったのであろう。
藤式部の父、藤原為時は越後守として国府(直江津)までいかなる方法でここを越えたのだろうか。


街角トワイライト(シャネルズ)


富山県の事(数字はアバウトです、正確ではありません)

2024年11月22日 10時37分50秒 | 地理
 昨日の富山県は西部(新潟県側)が晴れて、東部(石川県側)は曇り一時小雨だった、外歩き体感的には暑くも寒くも無かった。

富山県は東西170km、南北は最長部(氷見から五箇山、岐阜県境まで)で150km
最短部は(富山市から高山線沿いで)75km
面積は全国33位の4247㎢で山梨県より狭く、福井県より広い、そのうち1241㎢は富山市である、全国の市町村でも11番目の広さという、広島県庄原市より少し狭く、福島県いわき市より少し広い

富山県の人口は99.5万人で山形県より少なく、香川県より多い、そのうち40万人が富山市に住んでいる、富山市は高松市より少なく、豊中市より多くて全国都市の42位

県庁所在地の富山市が県面積の29%、人口が40%を占めている
北は全域が富山湾に沿っていて、南は2000m~3000mの立山連峰、北アルプスを形成して西端部だけが庄川渓谷に沿て岐阜県飛騨地方に開けている
地形的には深さ1200mにも及ぶ富山湾から始まり、標高5~20m程度の平野部が半分ほどを占めて、そこから穏やかな丘陵地帯が広がり、そのあと一気に1500~3000mの山岳地帯に駆けあがる見事な水平な四重構造になっている。

富山湾に流れ込む大河は、東から黒部川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川と並んでいる
県の東部は漁港が多く、西部は工業港が並ぶ、そして能登に食い込む氷見、新湊の辺りからまた漁港が点在する

県の主要都市である富山市、高岡市はどちらも富山湾に面しているが市街地が内陸にある
内陸は平野部の中に100m前後から300m前後の丘陵地が点在する、高岡市の二上山、富山市の呉羽山が代表だ
どちらもドライブウェーがあり観光スポットあるいは市民の憩いの場になっている
二上山は万葉ラインと言って万葉集にゆかりあるスポットである

平野部は平坦で県の中央部くらいまでは標高10mくらいしかない、だから狭い県であるがかなりの部分を平野と住宅地で占めている
昔からの農家は広い水田を持っていて、その中央に大きな家を構えて周囲を防風の為の杉の木などで囲っていて、隣家とも距離があり独特の富山の農村風景を醸し出している

富山県は蝶ネクタイのような形で、東西、南北のバランスがとても良い
人口密集地帯がコンパクトに集中していて規模は違うが東京都心のように効率的だ
主要な市町は富山湾沿岸に適度な感覚で並び、連携が良い、高速道、鉄道も無駄のない配線ができる

高速道路は東西に抜ける北陸道と、小矢部から南に名古屋へ抜ける、東海北陸道、小矢部から北、能登へ向かって高岡、氷見へ続く能越道がある
北陸道に並行して北陸新幹線、三セク鉄道が走り、高岡、富山を中心にローカル鉄道(万葉線、富山地鉄、富山ライトレール、市内電車)も網の目のように走っている。
富山地鉄は三浦友和主演の映画にもあったが、宇奈月温泉まで走っている
宇奈月温泉からは黒四ダムを作った時のトロッコ路線を改良した、黒部峡谷鉄道が黒部峡谷の奥深くまで観光列車として走っている
秋の紅葉時が最高である。

また水上でも、運河があって、海王丸パークからは新湊の内川を巡って日本海に出る観光遊覧船、富山市内と岩瀬浜を結ぶ富岩運河の遊覧、庄川にも遊覧船が走っている
岩瀬はかっての松前船で日本海を自在に往復して富を得た海鮮問屋が並ぶ地区である
そうした豪商の館を観光の一環として見学できる、街並みも一見の価値あり。

富山県の東部は新潟県に接続している
戦国時代は上杉謙信の侵略を受けて戦た地域であり、謙信が死ぬと、今度は西方から織田信長の軍団が攻め寄せてきて魚津まで占領した
江戸時代は金沢の加賀藩前田家の支藩となった、その富山城には櫓などがあって見学できる、アクセスも富山市の中心部で便利良い。

富山市、富山インターから10分ほどで富山空港にアクセスできる
ここからは韓国仁川、中国大連ー北京、中国上海、台北への東アジア路線が発着している
国内線は北海道札幌、東京羽田、そのほかチャーター便が飛ぶ
便数、路線数も少なく不便だが、ローカルならではのスムーズな出入りは魅力だ、駐車場も無料(一部有料)、交通アクセスが良いのも長所だ

富山市内は市街地がぎゅっと圧縮されていて駅周辺を中心に都会的な雑徒の雰囲気を醸し出している
また日中の市街地は広々とした景色の中で地方都市の魅力がたっぷり味わえる
文化施設やスタジアムなどもそこそこあるが、開催内容はいまいち満足できるものが少ない
富山県の狭さを考えれば、周辺人口80万は新潟市並なのだから、もっと積極的な大型施設を作って、大物を時々呼んだり、有名作家の作品を誘致するとか考えた方が良い
新潟市と比べても交通の便はかなり良いと思う、何より地鉄と市内電車網があるのが良い、これを活かさぬ手はない
新潟市に次ぐ日本海側の都市、金沢も40kmほどなのだから、ここまで商圏として組み込むことも考えた方が良い
金沢は観光都市、富山は商業都市としての性格はあきらかである。
新幹線開通で東京も2時間を切った、もう田舎だと引っ込んでいる必要はない、越中商人の根性を再爆発させるがや。

富山県は地震が無いという、無いわけではなく震源地にならないということだ
震源地で無いから揺れても大被害になることが無かったのだろう
だが周囲は能登、福井、新潟、長野北部と大地震が頻発している
怖いのは津波だ、富山市は20km近く平地が続くので、例えば10mの津波が来れば住宅地や市街地は大被害を被るだろう
いま注目されている南海トラフの大地震が起きれば富山でも震度5~6の強震が予想されている
富山は日本海と言えども湾なので素人の私は大きな津波は無いと思っている
こんな時、能登半島の存在に感謝するのである
新潟市沖に佐渡島があって風よけになり、新潟市はあまり雪が降らないのに等しい、能登半島でも東側湾側は積雪が少ない、富山湾は日本海側では珍しい地域なのだ。

何度も書くが、富山湾は最良の漁業基地だ、それも沿岸漁業的で新鮮な(キトキトと言う)魚が水揚げされる。
寒ブリ、アンコウ、鰆(さわら)、ホタルイカ、白エビ、ベニズワイガニなどが代表的だ・・・長くなるので、ここらへんでやめておきます。


Astrud Gilberto and Stan Getz - The Girl From Ipanema (1964) LIVE





新潟県と富山県と長野県 県境付近③ その歴史的&地理的関係性

2023年08月31日 22時51分45秒 | 地理
中世戦国期の三県を見る
この三県では越後の長尾氏(後に関東管領職を上杉氏に譲られて上杉氏となる上杉謙信の家)が圧倒的な強さを誇っている。
親の長尾為景の時から富山県へ度々攻め込んでいるが、謙信の代になって富山県をほぼ制圧して、能登、加賀まで攻め込んで織田信長と対決して大勝利を収めた。
長尾家と長野県(信州)は領土拡大野心がない謙信は攻め込むことが無かった、また北信の豪族の中には長尾家と親戚もあった。
長野県の豪族と長尾家は共存していたが、甲州から野心家の武田信玄が北上して、たちまち中信、北信を攻略した。
ついに善光寺平まで攻め込み、北信濃の豪族を圧迫した、彼らは越後の長尾氏を頼って来たので、親分肌の謙信(当時は長尾景虎などの名)は兵を挙げて川中島で、信玄相手に5度の合戦を行った。
謙信にしても、本拠地春日山(上越市)と川中島はわずか50kmほどしか離れていないから油断すればたちまち被害を被る、黙っているわけにはいかなかった。
二人の力は全国トップクラスで、まだ若手で売り出し中だった織田信長は、経験豊富で最強のこの二人を特に恐れた。
両雄の力は均衡して勝負はつかぬまま10年過ぎて痛み分けとなった。
しかし上杉の勢力範囲は長野市までで、上田の村上義清は、武田の属将となった真田氏に領地を追われ、越後根小屋城で謙信の客将となった。
北信濃は武田信玄の領地となった。

信玄に奪われる前の信州は、力が均衡した豪族が盆地ごとに勢力を張ってまとまることが無かったし、卓越した強者が出るわけでもなかった
結局、そこを武田信玄に付け込まれたのだった。

一方、越中(富山)も格別の強者が居なかったため、小競り合いがあるだけだったが、信濃から飛騨に攻め込んだ武田氏の影響で、上杉と武田の代理戦争が行われるようになった、その後、織田家も進出してきて本能寺の変のあと、豊臣秀吉が進出、謙信の養子上杉景勝のとき秀吉に臣従して優遇され五大老となる。
その後、江戸時代になると越中は加賀の前田家100万石の分領となり明治を迎える。
越後、信濃は大きいため1万石から15万石くらいの小藩に分けられた。
越後高田には一時、家康の六男松平忠輝が六十数万石で入城したが、舅の伊達政宗と謀反を起こす疑いをもたれて、改易され流罪となって生涯を終えた。
高田城址は大きな堀や石垣が残り、三重櫓が作られて春の夜桜、夏の蓮の名所となって観光名所となっている。
5kmほど北には謙信の春日山城址も観光スポットとして公開されている。

中世から江戸期の交通を考えると、富山と新潟は県境の親不知の15kmが天下の難所で一般的な交通を妨げていた。
上杉が越中を攻めるにしても、船に兵を乗せて宮崎海岸あたりに上陸するのがもっとも効率的であっただろう。
一方、上越市から北信長野市方面へは隣町の感覚で簡単に行くことが出来た
また妙高新井からは東の峠を越えて、信州飯山へ抜ける一般的な山道が幾筋もあり上杉の軍用道路にも使われた。

富山から長野へ行くには、いったん飛騨の高山近くまで南下してから東に向かう野麦峠など峠越えが一般的だった。
この道は上越地方からの塩の道街道に対して、越中の塩ぶり街道と呼ばれている。
因みに正月魚は、新潟県は鮭文化、富山県はぶり文化である。

新潟県上越地方と富山県新川地方は関東と関西の分け目である
しかし分野ごとに微妙なずれがある
フォッサマグナの西端は姫川が境で富山県側の地層は古く1~3億年前、上越側のフォッサマグナは1~2千万年前の新しい地層と言われる。

生活圏では富山県が関西圏、新潟県上越、中越地区は関東圏と一般的に考えられているが、言語的にはフォッサマグナ地層と同じく姫川から西(富山方面)が関西系のイントネーションで尻上がり、姫川の東は平らなイントネーションで関東系アクセントで話す。

電気の50Hz,60Hzの切り替え地点は更に5kmほど東に移り、糸魚川市内の中間地点にある。
そして地形編で書いたように、海の中の地層はさらに数km東、早川沖が境界で西は深い富山湾、東は佐渡から東北地方につながる遠浅の海となっている。

北信濃は関東系のアクセントだが固有の方言がある、まあ方言は上越地方も富山県も固有であるが。
「~やね」「~がよ」「~がけぇ?」「~やわ」「~(な)んよ」富山
「~づら」「~せ」「~じぃ」「~だに」「~らぁ」長野安曇郡
「おまん」「~だっちゃ」「~だすけ」「~だわね」
「(そい)やんさぁ」西頸城
「~だってばさ」「~だがね」「~せった」「~だしぇ~ね」
「~だしけ」「そいがん」「~ねかね」上越 

20kmほどの隣町同士だが、山や谷が交流を遮るとこれだけ異なる。平らな広域地区(関東平野など)ではここまで違わないだろう。
隣町の方言の違い
「あんたとこのとおちゃん元気やね 風邪もひかんがけぇ? 丈夫なんやね」
「そいがやね 長生きするやろ」 
富山新川郡
「おまんたとおちゃ元気だねか 風邪もひかんやん? 丈夫なんねぇ」
「そいやんだっちゃ 長生きしるわね」
新潟西頚城郡

おまけ新潟弁
「おめさんってとおちゃん、ふっとつ元気らねか 風邪もひかねぇろ? 丈夫なんらて」
「そ~なんさ 長生きするこって」






新潟県と富山県と長野県 県境付近② 災害の歴史

2023年08月29日 05時58分12秒 | 地理
ここで紹介するのは富山県の西半分、即ち富山市から東部、新川郡と呼ばれる地域。 新潟県の西南部上越地方(上越線とは場所が全く違う)頚城郡と呼ばれる地域、長野県の北部地方、主に安曇郡、松本市、水内郡、長野市、栄村を結ぶラインの北側。


前回は三県の地形を書いてみたが、最初に三県の地形の特性と比較を書いてみる。
富山県と新潟県は端から端まで海岸線が続いている、長野県はご存じの通りで海なし県である。
だが海岸線が続く富山県と新潟県であるが、同じではない、上記の通り新潟県は上越地方だけに関してここでは記している
富山県のほぼ全域は平野が広く海岸から数キロは標高20m以下の部分が多い
一方新潟県上越地方は富山県境から上越市までの40kmは海と山がわずか100m足らずで接近して山が海に落ち込んでいるように見える、平らな部分はほとんどない。
市街地は川に沿って数km、狭い谷間に広がっているだけである。
上越市だけが広い平野が10数km広がっているが、大潟区あたりから柏崎市にかけては約20km、富山県境から上越市までと同様に、海岸と山は接近している。

長野県の北部、安曇郡と水内郡も国道148号、18号に沿って狭い谷間を行く感じである。
安曇郡は信濃大町(大町市)に至って、急に開けて安曇野の豊かな平野部に出る。これが松本市まで続く。
日本海から大町までの山間地は約60km、そこから松本市までの平野部は30kmほどである。

一方、上越市から長野市までの18号沿いは長野市に至るまではほとんど谷間を行く、但し裏街道となる403号、292号(飯山街道)は千曲川のおかげなのか比較的平らな大地が続き果樹園が連なるフルーツ街道である。

さて災害である、新潟県は昭和39年の新潟地震(M7.5&津波、死者26名)、平成16年の中越地震(M6.8、死者46人、家屋の被災約12万戸)、平成19年の中越沖地震(M6.8 死者15人、家屋被災4万戸以上)
昭和39年以降で大地震が3つ発生している。
新潟地震以後の2つの地震は中越が中心だが、上越地方に分類される柏崎市周辺でも影響は大であった。

地震以外でも山を背にした狭い海沿いの上越地域は、江戸時代から近年まで山崩れの災害が頻発している。
約270年前の名立崩れが地元では有名だ、今の上越市名立区で起きた海岸集落全滅の山崩れである。
山が数百mに渡って崩れ落ち、当時の名立の集落が全て埋まり、勢いで海の中にまで押し流されて、村民400名以上が全滅したと言うことだ
たまたま海へ漁に行っていた漁師だけが助かったともいう、海の中からは寺の鐘がしばらく鳴っていたとか。
名立崩れの後は、今でも国道8号線から見えるとか・・・

同じころ、1751年の高田地震で約2000人が亡くなったそうで、そのうち半分は土砂崩れによる死者だと言う。
また上越市高田地区、直江津地区を流れる関川は台風や大雨の度に氾濫を起こし、昭和39年以降でも7回の大災害を引き起こしている、都度1万戸近い家屋が被災している。

1963年(昭和38年)には現在の糸魚川市小泊地区(旧能生町)で山崩れが発生して、200mに渡って国道が埋まり、さらに日本海にまで到達した。
死傷者25名、家屋31戸が埋没した。

昭和53年には妙高山山麓の川で土石流が出て13名が亡くなり、鉄道も埋まってしまった。
妙高山2446mは大昔大噴火で出来た山だが、最初は中央部が溶岩や噴出物で富士山のように盛り上がり(私は通るたびに3000mの妙高山を空想する)
最後はマグマだまりが空洞になったため、中心部の火山が一気に陥没した。
その為、外縁が円形に残り巨大な外輪山となり、二重火山になった。
麓の川がせき止められて、野尻湖やいもり池が出来たと言われる。
山自体は普通の山だが、その山麓は富士の樹海のように広大である、溶岩や土砂によって出来た原野であろう。

火山と言えば長野県は浅間山、御嶽山、燧岳が代表的だ
木曽の御嶽山の大噴火で大勢の方が亡くなられたのは、近年のことで多くの人が知っている。
浅間山は軽井沢の北にあって、今も入山禁止の活火山である
江戸時代中頃、天明の大噴火では菅平高原の東、群馬県北部側(嬬恋)の村を火砕流が襲って全滅させて500名近くの村民が亡くなった
関東でも二次災害の土石流で1500名ほどの犠牲者を出した。
富山県は立山など火山があるが、目立った火山災害はおこっていない。

 平成7年7.11長野県小谷村で起きた姫川上流の大規模山崩れで川底が10mも浅くなって土石流がおこり、糸魚川市の平岩集落に押し寄せ、姫川温泉、白馬温泉の温泉街が浸水、一二を争っていた人気宿など多くの宿が流されて観光地は一瞬で、その繁栄が終わり、今も昔の繁栄を取り戻していない。
翌年には復興作業中の作業員が支流の土石流で押し流され二次災害で地元業者や秋田県などの季節労働者13名が亡くなっている。
この災害で国道148号は3年間にわたって交通止めとなり、富山県東部、新潟県西部の観光に大打撃を与えた。

昭和60年には富山県境の玉ノ木集落の裏山が崩れ落ちて住宅7戸を飲み込み10名が亡くなった災害が起きている。
このように新潟県上越地域は川の氾濫、山崩れ、地震で度々大災害を被っている、小松左京の「日本沈没」でもフォッサマグナ上の糸魚川市あたりは早々に飲み込まれる設定だとか?

自然災害では長野県北部も多い
日本海に流れ込む姫川は長野県白馬村の佐野坂に源流があり(遊歩道があり見ることが出来る)日本海まで約60kmである。
姫川には支流があって、しょっちゅう小さな土石流は起きている
新潟県で書いた7.11の水害も長野県側の大規模な崖崩れ、山崩れでおこったものである。
長野県の地震の特徴は群発地震が多く、その多くは長野県北部でおこっている
M6クラスの地震も1~2年から、10年ほどの周期で起きている。
新潟県境の山間部が震源であることが多い、栄村あたりの地震は新潟県の群発地震が多い、松之山と関連しているかもしれない
長野市、松代町も地震が多いところで、松代は群発地震地帯でもある。
大糸線沿いの小谷村でも近年地震があった、また明治時代に大町市が震源の地震もあったから油断できない。

2019年、長野市から飯山市にかけての千曲川が台風の影響で堤防が決壊、付近の集落が一階部分まで水没したのは記憶に新しい。

長野県特有の自然災害と言えば山岳県だけに雪崩事故だろう
今年の1月に外国人スノーボーダー(一人は世界的プロだとか)がバックカントリーで雪崩に巻き込まれて亡くなっている。
また、それ以前にも小谷村のスキー場で雪崩が発生、大学生が亡くなった。
もっとはるか前1975年には、スキー場へ行くホテルの送迎バスが冬の青木湖に転落、大学生ら24名が溺死(凍死)した。
定員過剰(2倍だとか)などの人災だったが、これも冬の凍えた山道という自然現象も多少は関連しているだろう。

レアな災害と言えば火山がある
新潟県上越地方では2400mの焼山が、今でもときおり水蒸気を噴き出しているが、昭和49年小爆発があった、火山灰は100km先まで到達したと言う。
運悪く、登山中の大学生3名が岩石の直撃で亡くなった。
私は昭和43年に登っているが、山頂付近はガラ場で、火口にも降りたが硫黄が激しい勢いで1mくらい吹き上げて激しい臭いがしていた。
あの時、爆発していれば私たちが犠牲になっていたかもしれない。



さて富山県だが、地震の無い県として有名だ、周辺の新潟、長野、石川(能登)は地震県なのに、なぜか震源地とする地震が起こっていない。
それだけでなく、台風被害、水害、土石流なども大規模なものは起きていない
全国でも自然災害が無い安心県の5本の指に入っている。
たしかに地形的にも全国でも珍しい特殊地形だから、何かがあるのだろう。
今後研究してみたい。

あらためて富山県の地形の特殊性を書いておこう
①目の前の海、富山湾は独立した深海になっている。
②すぐ南には3000mの立山連峰がそびえたって南からの風を遮っている。
③富山湾の向こう側(北、西)には能登半島が水平線を隠すように長く伸びている。
④魚津市の海には珍しい「蜃気楼」が5月ごろ発生する。
⑤日本海から3000mまでおよそ30km、その為、黒部川など富山県の川は急流である。
⑥立山連峰の天然水が富山の平野の各地に湧き出している(名水が多い)
⑦豪雪のイメージがあるが、平野部はわりと積雪が少ない。

終点「岩瀬浜」に停車中の富山市の「ライトレール」電車





















新潟県と富山県と長野県 県境付近① 地形編 

2023年08月26日 08時37分45秒 | 地理
ここで紹介するのは富山県の西半分、即ち富山市から東部、新川郡と呼ばれる地域。 新潟県の西南部上越地方(上越線とは場所が全く違う)頚城郡と呼ばれる地域、長野県の北部地方、主に安曇郡、松本市、水内郡、長野市、栄村を結ぶラインの北側。

新潟県の西南部と、富山県の東北部が境界になっている
新潟県は糸魚川市、富山県は朝日町で戦国時代なら、どちらも上杉謙信の勢力下だった。
江戸時代は糸魚川は葵の家紋松平1万石、朝日町は加賀前田100万石の一部として幕末まで続いた。
新潟県の糸魚川藩に接する、長野県側の安曇郡は松本藩6万石の領地で譜代大名松平家が明治まで治めた。
またもう一つの越後、信濃の境界は現在の新潟県上越と長野県信濃町が国境で
上越側は高田藩15万石、藩主は多くの大名が入れ替わったが、明治時代を迎えたのは榊原家6代であった、また長野県側は松代藩10万石で、代々真田家が治めて明治を迎えた。

県境に沿って南に行けば長野県の後立山白馬三山から、北アルプスへと続く
では北へ向かい海に入るとどうなるか?
新潟と富山の県境には天下の険「親不知」の難所が明治の初めまで人々を苦しめた
山の上をいけば山賊にクマ、イノシシが出たであろうし、人を喰らう山姥(やまんば)もいたと言う。
それでたいがいは海岸の砂浜を歩いたが、冬は荒波が砂浜に押し寄せ、人々は数十メートルごとにある天然洞窟まで走っては隠れ、波が引けば次の洞窟まで走るの繰り返し。

そのむかし、上方から越の国へ赴任した役人の妻が夫に会うため、幼子の手を引いてはるばるやって来た。(平清盛の息子で源平合戦で唯一生き残った流人、頼盛の妻ともいう)
最大の難所、親不知にさしかかり浜に足を踏み入れたが、たまたまの大波に子供の手を離し、たちまち子供は波にさらわれて二度と帰らなかった
歎く母は「おやしらず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の泡と消えゆく」と詠んだそうな。

また親鸞聖人が都で罪人(宗教上の)とされて越後に流罪となり、弟子と流刑地に歩いて向かった。
親不知に差し掛かると波荒く、親鸞は冬の事とて寒さと恐ろしさで立ちすくんでいた。
すると屈強な地元民らしき男が来て「背中に乗ってくだされ、儂が向こうの村まで渡します」と言った。
親鸞は喜んで背中におぶさって、無事に向こうの村に着いた。
礼を言おうとしたら、もう男はどこかに消えてしまった・
もう夕方、辺りは暗くて親鸞は一軒の家に行って、一晩玄関先でも良いから泊めさせてもらえませんか」と頼んだが、夫婦はにべもなく断った。
仕方なく親鸞たちは玄関先で石を枕に寝たが、寒くて震えていた。

家の夫婦が、仏壇の如来さまを拝んでいると、家の中にある如来さまの足が上の方まで濡れて塩水が滴っている。
親鸞から、ここへ来るまでの話だけは聞いていたので、この如来さまが男に姿を変えて助けたのかと気づいた。
「これは、たいへんな名僧に無礼を働いた」と慌てて、道端の親鸞一行を家に入れてもてなした。
親鸞からありがたいお話を聞いた夫婦は、その後、自宅を更地にして寺を建てた。 その寺は今も親不知に会って、ご本尊は、その時の如来さまで「立ちすくみ観音」と呼ばれている。

このような難所伝説が多い親不知だが、明治天皇が全国を巡幸されることになり、さすがに輿であれ、馬であれ波間を走らせるわけにもいかず、断崖の中腹に国道を建設したのである。

その親不知の数百メートルの断崖が富山湾の東の端の縁へと一気に落ち込んでいく。
西に落ちていけば1000mを超える富山湾の最深部につながり、東に上がって行けば糸魚川市の沖合、早川という河川の河口辺りを境に東、即ち新潟市や佐渡方面に向かって、いきなり海は遠浅になり、陸から水深150mまでの距離はと糸魚川港からは300mくらい、40km離れた直江津港からは20kmくらいになる、いかに糸魚川沖から富山湾へは深く、直江津沖以北が浅いかわかる。
このあたりから陸に上がって南側、すなわち後立山から北アルプスの東端は、大糸線に沿って安曇野、松本平を抜け静岡までフォッサマグナ(大地溝帯)の西端となっている。

子どもの頃は姫川から諏訪湖につなぎ、諏訪湖から天竜川がフォッサマグナなのだと習った気がするが、その後、フォッサマグナが線ではなく、面であることがわかり、その範囲は富士山も含む関東一円となり、その東端ラインは今も不明なのだそうだ。
糸魚川と長野県の一部では西端を証明する露出面が発見されている。

フォッサマグナは当然、海底にもつながっていると思うが、その海底には大陸に向かって200kmとかの海底峡谷があるのだそうだ。
それはそれとして、もし海水が干上がれば、富山湾から立山連峰に向かって標高4000m以上の山脈がそびえたつだろう。
富士山は単独で美しいが、こちらはヒマラヤのミニ版、あるいはヨーロッパアルプスのような景色が現れるかもしれない。

新潟県から長野県へは峡谷沿いに容易に行ける、国道148、上越からは国道18が長野県へ続いている。

だが富山県から長野県を結ぶ峡谷道路はない、昔は旅と言えば徒歩が当たり前だったから、峠越えなら幾筋か富山県と長野県を結ぶ街道はある。
登山道ともなればさらにバリエーションは広がる。
一番有名なのは戦国時代、富山にいた柴田勝家の与力大名佐々成政が、秀吉に攻められて困り、浜松の徳川家康の救援を頼みに冬のアルプスを越えたという、サラサ越え、あるいは針ノ木峠越え、さすがに2500m級は・・・
ということでもっと北の低い方を越えたのではという説も出て来た。
たしかに小川温泉から朝日岳付近に出て大糸線方面に下りることもできる。
もっともそのあたりは秀吉と同盟した上杉景勝の領地でもあるから微妙ではあるが。

ともあれ、長野県と新潟県はフォッサマグナ上にあり、富山県は全く別のプレート上にある。
フォッサマグナは「地底の割れ目」と説明されていたが、それは半分当たって、半分外れている。
地底の二つの大プレートがぶつかり合っているのは確かで、その押される力で北アルプスが誕生したのもほぼ確かだろう
だがフォッサマグナは、沈み込んで行くプレートの境界あたりを底辺として
海底にあった時、そこに堆積した泥や様々な堆積物
その高さは6000mにもなったという。
フォッサマグナとは6000mの厚みを持つ堆積大地なのである、
姫川の東側は堆積大地で、西側は石灰岩層、すなわち海底で堆積した生物の死骸が固まってできた地質が隆起して山になっている。 だからセメント工場があり、鍾乳洞もあるのだ。

富山湾がどのようにできたのか興味があるが未だ知らない、学んでみたい。
私の想像では深い富山湾のすぐ上に3000mの立山連峰があることから
片方が落ち込み、その分、片方が盛り上がったような気がするが
しかし立山は火山である。 いったい何があったのだろうか?
富山湾に関連しているのは立山だけではない、能登半島が半円形に囲んでいる
なぜ、能登半島はあんな風に日本海に突き出たのだろうか?
富山湾だけが陥没したのか? 大きな河口なのだろうか? それとも隕石が衝突した穴なのか、周りの立山や能登半島は吹き上げられた、富山湾にあった土砂というか大地なのか?
だとしたら糸魚川沖まで深く、直江津沖から向こうが遠浅の説明もつく
親不知や能生、氷見に至る海岸に岩が多いのも、その吹き飛んだ石と思えば説明になる。
そうだ、富山湾と立山、能登は隕石衝突で出来たのだ
そして硬いプレートの富山県側は影響なく、やわらかなプレートの新潟県、長野県側に亀裂が走り峡谷が出来た(全くの暴走説です、気になさらないでください)。











29度が待ち遠しい

2023年08月16日 17時40分05秒 | 地理
当地の台風の影響は少なく、通過地域の皆様の安全を祈るばかりです。
被害は嫌だけど、趣味の畑作家にとって台風に多少の雨を期待しています。
もう25日近く雨が降っていないので、畑もひび割れ、強い雑草まで枯れ始める始末、まだ田んぼの水不足問題が出ていないのが不思議なくらいです。

今朝はどうかと5時に起きてみたが、ぽつりと数粒落ちて来ただけでさっぱりです。 
空を見ると今にも降り出しそうなグレーの空、風はなくほのかに生暖かい
水気の無いナスが出来るのではと心配している、トマトも完熟に近づくと割れ目ができるし、収穫のタイミングが難しい。

今日は台風が丹後の方に進んで日本海に抜ける、それから日本海のどまんなかを北海道西部に向かっていく予報だ。
それで富山、新潟の沖合を行くのは午前から昼にかけてらしい
予報では石川、富山は少し風が吹くようだが、新潟や長野は大きな影響はないようだ。

それで今日は先々週と同じように霊仙寺湖へいくことにした
道中どこも雨に当たることも風に煽られることもなく着いた
逆に気温が下がって29度あるかどうかでずいぶん涼しかった
先週は暑くて暑くて参ったのだが、今日は最高だ、涼しい風もちょうどよい感じで吹いている。



帰りは能生の手前まで雨は無かったのに、能生へ入ったとたん雨が降っていた
このあたりは谷ごとに天気が良く変わる
我が家に戻ると畑が濡れていた、ある程度の雨が降ったようだ

明日からまた暑さがぶり返すようだ、いったいいつになれば30度以下の日になるのだろう。

先々週はこんな


都市ランキング、松本市が9位

2023年07月14日 11時50分23秒 | 地理
いろいろな都市ランキングがあるが
日本の都市ランキング2023が発表された
経済、生活、交通、研究、文化、環境の6項目で評価されるのだと言う
一位は3年連続で大阪市、2位は横浜市がアップ、3位は名古屋市、4位福岡市
5位は2位からダウンした京都市、6位は神戸市、7位は仙台市、8位は松本市
9位は金沢市、10位は札幌市だと言うことです(共同通信)
新潟市は39位、松本市なかなかやるじゃん」と言った感じ、金沢より上とは驚いたし、県庁所在地以外ではトップだ。

ベスト10では札幌以外は行ったことがある町だ、だが観光で一回行ったきりという福岡市、仙台市については語る資格が無い。
わりと行っているのが横浜、京都、松本、金沢で、5回以内は名古屋、神戸、大阪だ
プロの都市評価だから口をはさむ余地はないが、角度を変えて松本を少し

盆地でありながら松本市は、なぜか広い感じがする。
諏訪湖方面から来ても峠越え、大糸線方面からだと狭い谷間、名古屋方面からも伊那、木曽方面からも深い山間を抜けてくる
そこに安曇野まで続く緑と清水の大地、遠くには槍に穂高に北アルプスの3000mの壁が広がる。
回りを取り巻くのは美ヶ原、上高地の高原、高ポッチ素晴らしい自然環境だ
大町、安曇野、塩尻まで松本広域圏と言って良いだろう。
大町温泉郷、美ケ原温泉など温泉にも恵まれている。
信州と言えば「そば」となるが、松本や諏訪湖周辺ではウナギが絶品だ、食べたことがあるが、なんと言ったらいいのだろう?、わが町でも、私が作ったかば焼きでも足下に及ばない。
身厚で、脂がのって、柔らかい、昔、わかさぎ丼を食べてうんざりしたことがあって信州は魚は無理と思ったが、このウナギを食べて何度でも食べたいと思った。

金沢は何度も街歩きしたし、長野市も上田市もそうだ
ところが松本市はしょっちゅう行く割に街歩きをしていない。
松本城は5回くらい行っているが、そこから美ヶ原に行ったりして、なかなか歩かない、とうぜん食べ歩きもしていない。
一度きり、獣医の奥さんと名店という蕎麦屋に入ったが、ほかのグループはウナギを食べて「そりゃあ、お気の毒」みたいな言われ方をした。
後日、ウナギを食べて彼らの言ったことがわかった。

松本市も考えれば城下町なのだから神社や寺、街並みに風情があるはずだ
だが松本市の構造が今一つ理解できない
国道20号から坂道を登っていくと松本城へと行くが、街並みがどこなのかよくわからない。
新潟市や長野市、富山市、金沢市はよくわかるのに松本市がわからない
見るところもわからない、去年初めて松本空港の方に行ってみた、どこをどう行ったかわからない。

全国9位にランクされた町を知らないでは済まされまい、日帰りできない距離でもないから下調べをして、駐車場に車を入れて、じっくり松本の町を歩いてみよう、前の時は有名な神社を見た、だが名前も忘れた。
こんどは気合を入れて、松本の魅力を探訪しよう。

6日目まで 関脇三羽ガラス13勝5敗 新入幕三羽ガラス13勝5敗

今日の虫干しSPレコード


にくい貴方(ナンシーシナトラ) あの時君は若かった(スパイダース)
シーアンダースタンズミー(ジョニー・ティロットソン)
ワシントン広場の夜はふけて(ビッレジストンパーズ)
ポプシクル(ジャン&ディン) マンデーマンデー(ママス&パパス)
ヘンリー8世君(ハーマンズハーミッツ)
L・O・D(レーンとザ・リーキングス)
アイ・フィール・ファイン(ビートルズ)
イエローサブマリン(ビートルズ)

温泉と私

2023年05月12日 20時47分57秒 | 地理
日本には万余の温泉があるのだろう
全てを巡るには寿命が100年あっても足りない

温泉にもいろいろあって
①豪華温泉旅館が並ぶ観光温泉郷と呼ばれる歓楽温泉地
②風光明媚で落ち着きながらも豪華さもあるリゾート温泉地
③昔ながらの温泉旅館が集う温泉通が好む温泉地
④湯治場と呼ばれる療養のための長期滞在者が利用する温泉
⑤秘境の中の一軒宿

私もバブル時代を生きてきた人間だから温泉旅行は数え切れないほど行ってきた
だけど95%は①である、温泉に一理屈、あるいは学識博識を持っているわけではなくほぼ宴会を楽しみ、温泉がついているからさらに良い、と言った程度の温泉好きなのだ。
未だに仲間と一緒なら、そういった温泉旅行を楽しむ、だがかっての魚屋の旅行のような滅茶苦茶旅行は不況と共になくなった
今の楽しみは25年間続いている同級生旅行、気が合う仲間だけの旅は和気あいあいで気心知れて最高の楽しみだ。

そして60過ぎてからは個人旅行、秘境とは言わないが大浴場の観光温泉旅館ではなく5~10室、定数20とか30とかの静かな隠れ家的な宿も良いと思うようになって来た、これからは数行くのではなく、年に2回ほどの骨休め旅に良いかもしれない。

小学生の時は、病弱な母の湯治に同行して、二家族相部屋で一週間とか過ごした。
信州の湯治旅館二軒しかない温泉、そこで長野県豊科のおばあちゃんと同室になって、あれいらい両家の交流は今も三代目の私たちが受け継いでいる。
もう60年近い、湯治宿では、そんなこともある

女房殿が結婚前にバイトしていた奥蓼科の一軒宿や、北安曇の温泉民宿とかも何度か泊ったが、それはまた大きな宿とは違った趣あり、特に自家の山で採ってくる新鮮な山菜料理は特別なごちそうだ

温泉旅には規模や場所に関係なく楽しみ方がある、これからは静かな温泉の方が自分には合うだろう、ひなびた温泉と宿
経験したことが無い新体験にもワクワクする、昔のような派手な旅はできなくなったが、一年に一度や二度は心を満足させてあげたい。

思い出ある温泉宿 数字は順位ではありません
①湯西川温泉 ②湯の山温泉 ③母畑温泉 ④水上温泉 ⑤小谷温泉
⑥芦原温泉 ⑦湯田中温泉 ⑧銀山温泉 ⑨四万温泉 ⑩伊香保温泉
⑪奥蓼科温泉 ⑫粟津温泉 ⑬宝塚温泉 ⑭山田温泉 ⑮岳温泉
⑯木更津温泉 ⑰蒲郡温泉 ⑱台場大江戸温泉村 ⑲白骨温泉 ⑳草津温泉
㉑湯沢温泉 ㉒蒲原温泉



時代?

2023年05月07日 09時55分51秒 | 地理
GWに富山市岩瀬浜へ2日連続で行った、いつもは海岸へ出て海を見ているが
この日は川を渡って町中を散策した
岩瀬浜の魅力は砂浜より、この古い町並みの方にあって、ここは江戸時代から明治くらいに北前船の廻船問屋が並び、大いに財を成した豊かな町なのだ

その時を証明する「森家」「馬場家」の廻船問屋が公開されている
特に馬場家の部屋数の多さは当時の武家屋敷であっても、家老級か、それ以上の規模である
家具や食器、調度品から木材、欄間などすべてが高級なもので私のような無粋者には語り切れない造りとなっている

GWはなかなかの人出で、食堂にしても待ち時間が多すぎてお茶一杯飲むにも大変だ
歩きながら感じたのは、若い娘さんカップル(というのだろうか?)が多いと言うことだ
昔のように彼と彼女が手をつないで歩いているなんて姿は、あまり見かけない
娘さん二人、三人というのがたいがいで、男同士だとグループが多い

これはいったいどうしたことだ?と思ったわけである
なるほど少子化問題は早くもここに垣間見えている
なぜ彼と彼女のデートの場にならないのか? 女子高校生の親に聞いてみると「女子が必要とする男子が少ない」「存在感ある男子が少ない」らしい
逆に女子は「元気で積極性があり」「草食系男子には目もくれず」「女子同士で活発に遊びに出かける」という傾向があると言う
「はっきりしない男子より、気が合う女子同士で遊ぶ方が楽しい」ようだ

動物本能丸出しの「肉食系男子」の比率が大幅に減って、頼もしいリードしてくれる男子が少ない、だから少数派肉食系男子はライオンやオットセイのように女子を独り占めするモテ男となる。

こうした傾向と少子化は別問題だが、関連性はある
見ていると女の子同士のカップルは本当に楽しそうだ
美味しいものを楽しみながら笑顔で会話しているし観光名所では自撮り棒で二人一緒に写真を撮って「きゃっきゃ」言っている

どうしてこんな時代になったのだろうか、昭和の男にはわからない。









ひまわり おじぎ草?

2022年08月21日 14時46分07秒 | 地理
期待しすぎ
時期的に遅かったのか、一区画だけ満開だった。
ところが暑さのせいか、頭が大き過ぎるのか
それとも期待に応えられずにすみません、と謝っているのか?
二時間かけて行ったが拍子抜け
駐車料金500円払って10分で帰った
花が下を向いていては写真にならない。  
しかしこんな大きいひまわりの花は初めて見た。





帰りはまた光が原で休憩、一面の霧で何も見えない。