神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

久しぶりの雨の一日

2024年04月30日 17時58分56秒 | 知人・友人
 朝は6時に起きて早速庭を見たら、物干しざおに雨粒が滴っていた
「これはいけない」慌てて、干しておいた魚を取りこんだ。
昨日はずっと曇りで、寝るまでも降っていなかった、予報を見たら明日の夕方までずっと曇り予報で、降水確率は40%
雨が降らない60%にかけて干物の魚を夕方干したのだけれど、これが大外れ
雨に濡れた魚を洗いなおして、塩水につけて今日の午後に冷凍した。
大好物のヤナギカレイだったのが残念、塩焼きでも美味しいが干物にすればもっと美味しい。

一日中霧雨が降っている、畑の野菜や花はきっと喜んでいるだろう
野菜と言ってもまだスナップエンドウを植えただけで、そのほかの苗は用意してあるが、植えるのは温かくなる5月6日と決めてある。

今日はこれから6名の仲間たちと、電車に1時間半ほど乗って一年ぶりに先輩に会いに行く
先輩はもう77歳くらいになるのだろう、数年前にがん手術をして以来げっそり痩せてしまい、今は歩くこともなかなか大変らしいので、先輩の家で会うことにした。
その昔、奥様が腎臓病になって、その時も自分の腎臓を一つ移植したのだった。
残念ながら奥様は甲斐なく亡くなられた、お気持ちは私にはわからないが、それからも変わることなくお付き合いさせてもらっている。
全員で10名ほど集まる、久しぶりにみんなで笑い合いたいと思っている。


雨に濡れても  [日本語訳付き]   B.J.トーマス

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 85

2024年04月30日 10時03分18秒 | 甲越軍記
 春日、小幡らが笠原勢と戦っている間に、晴信は早くも六日羊の刻には軽井沢に入った。
この時、信州内山の代官、飫富兵部少輔虎昌、小室の代官、小山田備中守、岩尾の代官、真田弾正忠幸隆は上州勢三万三千が碓井へ押し寄せるとの報を聞き
板垣信形一手にて引き受けるとのこと、いかに名将とは言え五倍近い敵を支えるのは難儀の仕業、もし敗れることあれば病床の御大将苦しみ賜うことになるであろうと思えば、命ぜられることも無かったが、各々信方の与力として軽井沢に参じたのであった。
ところがすでに板垣の勝ち戦が済んだところであった、しかもそこには病床に伏せっているはずの晴信までもが一騎駆で着いていた。
一同これには驚いたが、さらに晴信の顔を見るに、病の人とは思えぬ顔色の晴れ晴れしさ。

信形の大勝利の報告を聞いて、晴信は「予は病に伏せっていたが、今日ここまで早がけに来て見ると、病の苦しみは消え去り、まことに爽やかな気分で力の湧き出るを感じた」と言い
「予は戦時に生まれ、戦場が合うようである」と満面の笑みで話した。

こうしているうちに甲州より晴信を追って、駆け付けた諸士が続々と集まり
その勢は一万にもなった。

その頃、上州勢は追い落とされて坂本まで逃げ帰ったが、そこには未だ一戦も交えぬ後方の上州勢が負け戦の思いもなく
後詰の大将たちは口々に「もし此度の戦で敗れるようなことがあれば、長野の始めの悪口が的中したことになる」
「我ら新手の一万六千で攻め登れば、敵は戦に疲れた小勢の者ども、入れ替わる兵もなくたちまち敗れ去るであろう
ここは再び攻め上って一戦すべし」と意気揚々に出陣する。






自分の体力と限界と年齢

2024年04月29日 20時12分12秒 | 病気と健康
 今朝起きたのは4時半だった
もううっすら明るくて、歯を磨きながら庭を見ると、南の方向には下弦直前の二十日の月が見えた。

新年を迎えた時に(新年になったけど、気が付けば四月になっている)と思っていたけど、やはりもう4月で、それもまもなく終わろうとしている
月日の流れの速さは、2月、3月を意識する間もなく4月なのだ。
こうしているうちに夏が過ぎ、秋になり冬がやってくる、そしてまた一つ歳を重ねる。

元へ 4時半に起きたのは、また船長に手伝いを頼まれたからで5時半に家を出て港へ向かった
なんか仕事をするには早い気持ちでいたが、考えて見れば現役の時も5時半に起きて6時には魚市場へ行っていたのだから、別に早いというわけでもない。
それに歳を取ると早く目が覚めるというけれど、全くその通りで早寝も早起きも気にならなくなった。

5時に朝食を食べたのだけど、テレビをつけたらドジャース戦が7回になっていた、ドジャースが1対3で負けていて、フルベースの逆転チャンスだったが外野への大飛球で終わってしまった、早起きして見なくてよかったと思った。
大谷もノーヒットだったし。

朝は元気で家を出るのだけど、港でも張り切って仕事をしている
だけど家に帰ってくると途端に疲労感が出てくる
それでも賄いの魚を1時間くらい調理するので疲れている暇がない
同時進行で風呂を沸かしながらの作業で、仕事終了と同時に作業服を洗濯機に放り込んで、風呂に入って30分、体を洗ったり、体を温めたり、寝てみたり何か空想したりしている。
これで気分的には疲れは薄れていくのだ、このままベッドに入れば心地よい眠りにつくのだろうが、まだ夕飯を食べたり、昨日買ってきた野菜の苗や畑に水を撒く仕事が残っている。
なかなからっくりさせてもらえない、貧乏性なのだろう。

それでも間もなく74歳になるが、まだまだ元気で働けるのはありがたい
基本、病気らしい病気はしない体質なので血圧とか糖尿とかの薬も必要なくありがたいと両親に感謝
そのかわりケガはよくする、それでも縫うところまで行かないのがありがたい
でも顔面打撲だとか脛の裂傷だとか、指の骨折とかけっこうあせくらしい
というより酔っぱらってのケガが圧倒的に多かったのだ。

最近は酒も遠ざかって、家で飲むことは月に一日くらいで、それも一合がいいところ、おかげで日常的だった胃痛も最近は起らなくなった。
同級生が相次いで骨折や病気入院、手術をする中で元気にやらせてもらっている方だ
父も80歳までは医者知らずで現役だったから、私もその血を引いたようだ
親が90過ぎまで生きていたから、自分もそれくらいは行けそうだといつも思っている。

この頃、「僕は70歳まで生きればいい」「私は70歳で死にたい」といった声を聞くことがママある
「へえぇ?」だ なんでそんな気持ちになるのかわからない
そう言っていながら75歳くらいでもピンピンしているから言ってやる
「自分で死ぬ時を決めたって思い通りにはいかないよ、寿命なんて神様が決めるのだから死ぬまで生きてりゃあいいんだよ」

ともだちのつー君が撮ったメジロの写真
無断転載 ごめんね



奥村チヨ 「終着駅」 1971




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 84

2024年04月29日 15時23分53秒 | 甲越軍記
 晴信が駆け出たのは五日の辰の刻であった
既に信州に入り志賀を駆け通った時には、志賀の城主笠原新三郎は上杉家に志を通じていたので、晴信が一騎駆にて志賀に至ったと聞き
「今、この時こそ天が我らに与えた晴信めを討ち取る絶好の機会なり」と勇み、思う間もなく城を駆けだした
笠原もまた鎧を肩にかけたまま飛び出すほどの急であったから、従う士は五十七騎であった。

晴信の馬術の妙は天才的であり、その速きことは誰もついてくることが出来ず
武田の精鋭と言えども、何とか晴信に追いすがって走る武者は近臣旗本の十二騎のみ
その中でも、晴信に馬を並べて疾走する達者は春日弾正ただ一騎のみである
この時、笠原が一党は馬を走らせて、晴信の横合いから突きかからんと近づいてくる
晴信は、これを見て「弾正、あれを追い払え」と命ずると「心得たり」と馬に鞭をあてて笠原勢十六騎に向けて一騎で向かった
やや遅れて駆け付けた小幡虎盛はこれを認めて「危うきや弾正」というが間もなく、弾正の方へ馬首を向けて走る

笠原が見つめるのは、ただただ武田晴信の姿のみ、一心不乱に晴信に迫りゆく
そこに近づき走る春日弾正さえも目に入らず、なおも駆けて行く
恐るべき猛虎が近づいていることも知らず
そして突然、弾正の槍が一閃、ようやく敵の迫ったを認めた笠原であったが、すでに遅く。弾正の槍先は笠原の左の肩を貫いて、たまらず「どっ」と落馬した。
すかさず弾正はとどめの一槍を突かんとしたところに、笠原の臣、笠原與一右衛門が駆け寄り、太刀をかざして討ちかけてきた
弾正は、笠原新三郎の留め槍の矛先を與一右衛門に向けて突きだせば、わずか一突きで倒し、それを投げつける間に笠原の家人たちが新三郎を救い出して後方に下がる
その入り乱れた中に小幡虎盛が突き入り、たちまち六・七人を切り倒した
その鬼神の如き虎盛の勢いに、笠原の兵士たちは四方八方に逃げ散った、そこへ遅れて駆け付けた武田の諸士が取り囲み、笠原勢の首三十ほど討ち取った。


GW いよいよ野菜作りスタート

2024年04月28日 19時30分10秒 | 家庭菜園
 去年はわけもわからず体当たりで始めた野菜作り、今年は2年目で少しは計画を立てて始める。
たった一坪3.3㎡の畑の去年の収穫実績は、長ネギ10小束、キュウリ90本、ナス35個、トマト36個、プリンスメロン6個、マスクメロン1個、小玉スイカ8個d大根10本、ホウレンソウ20把、白菜3個、キャベツ2個、ブロッコリー1個だった。

今年は小玉スイカ、ナス、キューリ、トマト、ネギに加えて、新たにPマン、スナップエンドウ、苺、オクラに挑戦、メロンは辞める。
一坪をいかに有効に使うか、相性の悪い野菜もあるので、そこに注意して作る
今年も殺虫剤や農薬はいっさい使わず、その為に木酢液とマルチトンネル、防虫ネットで畑を時期を見ながら囲う。 去年もこれでやった。

黒いマルチの部分が畑

妹の息子が育てているアヒルたち、このほか鶉も育てている





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 83

2024年04月28日 10時31分08秒 | 甲越軍記
 武田晴信は甲府の館に在り、病重く臥せっており、上州勢が碓氷峠に押し寄せたと聞き板垣信形に信濃勢をつけて向かわせたが、持って生まれた悪癖、人に任せられない虫が起きて
「板垣に七千を与えて向かわせたが、上州勢は三万もの大軍と聞く、これより予は板垣の後詰となって軽井沢へ向かう、湯漬けをもて」と命じた

病というのに、いきなり寝床から起き上がって出陣と言ったから、家来たちは一様に驚いた
重病に伏せり、板垣法印の薬も容易に効かず、粥も食べることが出来ぬほど衰弱していたのに、今は立ち上がり「鎧をもて、予は出馬するぞ」などと言うから、「これはいよいよ病重く、熱によってのたわごとではあるまいか」と皆思ったが
「碓井の合戦、信形では甚だおぼつかぬ、予が後詰して上州の兇徒どもをことごとく退治して、奴らの首一つ一つ引き下げて帰るべし
そうすれば病の退治にもなるであろう、臆病と言う病は鎧一両、太刀一振りにて勝負を加えて飲むならば、発熱などたちまち自ら引いてしまうであろう
それ馬を引き出せ」
皆、驚くうちに横田織部正は馬を引いてくれば、晴信は直ちに手綱をとって「さっ」と馬に飛び乗った。

そこに山本勘助がまかり出て「これは勿体なきことかな、板垣信形を大将に定めたからには、これにて事を任されるべし
もし戦が難儀となれば、某が上意を賜り馳向かって敵を一戦の元に追い退けてみせまする
御病勢、重きうちから推して出馬すれば後々の憂いとなりましょう」と諌めるのも聞かず
「たとえ病重くて、戦場に倒れようとも、それは天が定めたことである、なんぞ安穏としておられようか」と聞く耳持たず
「我を思うならば、追々駆けて我に続け」と言って、馬に一鞭当てて一騎駆けにて館を飛び出した。

それに「続けと」馬を並べて走り出したは、馬場美濃守信房、小幡尾張守虎盛、横田織部正、春日弾正、かれこれ十七名ほど
馬とり仲間もこれに続き、その速きこと旋風の砂を撒くが如し
「御大将、碓井へ御出馬、急ぎ出でよ」と叫びながら馬を走らせれば、これを聞いた者たちも驚きながらも直ちに馬を走らせる
駆けだす人々は、甘利左衛門尉、浅井式部丞、秋山伯耆守、原加賀守、内藤修理正、諸角豊後守、原美濃守、山本勘助、曽根七郎左衛門、安間三右エ門、
だれだれなどとの下知もなく、大将の一騎駆け、思い思いに兵糧を用意して馬を走らせる。
彼らは御大将の突然の出馬により、鎧兜もつける間もなく家を駆け出たので、各家の仲間足軽は主の鎧兜を背負って、走りに走った
ついには晴信に追いついた者どもは四千五百余人となった。






















目が回るくらい「ああ目が回る」

2024年04月27日 20時12分52秒 | yottin日記
 長男は今日から10連休に入った
私が過ごした人生の中では旅行以外で3連休以上取ったことがなかった
新婚旅行が一番長い連休で5泊6日、あとは3泊の旅行が何度かあったくらい
そのおかげなのか今は毎年365連休をいただいている。

仕事を離れて2年4か月過ぎた、さすがに時間のつぶし方を覚えてこの頃は忙しすぎて体が休まらない。
水曜日は早朝4時起きで漁師の手伝いで一日終わり、帰って来てから録画で大谷を見て


木曜日は次男と新湊へドライブで一日終わり、帰って来てから録画で大谷を見て

富山平野に水が満たされ、いよいよ田植えの季節

まだ桜をめでる

魚津からの富山湾と能登

コガモがいた公園

海王丸パーク

金曜日は午前中は歯医者へ行って終わり、帰って来てから録画で大谷を見て
午後はホームセンターでいよいよ始まる畑仕事の苗を買いに行き、三時から内科医院へ花粉症の経過報告に行き薬をもらい
今日、土曜日は朝6時から、畑にマルチシートをセットして明日からの植え付けの準備を1時間半ほど行った
8時から久しぶりに大谷をライブで7回まで見て、それからおばさんの49日の法事に行って来た。

49日の法事もご時世とはいえ簡単質素で、おばさんの息子夫婦、私の妹夫婦、それに私の5人だけ
終わってからレストランでお斎の食事、久しぶりに日本酒を2合いただいた
従兄はワインを1本空けて、妹の夫はビールを3本飲んだ
みんな同級生で、レストランのマスターも同級生、客で来ていたのも同級生
小さなレストランで5人も同級生が・・・ちょっと面白い
料理はこれでもかと肉、肉、肉で、それを全部食べたので夕飯はとうとう食べられなかった。
3時に帰宅したら、ちょうどよい良い加減ですぐに寝たら、5時半まで寝てしまった、夢の中でまた法事をしていた。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 82

2024年04月27日 13時59分07秒 | 甲越軍記
 まず最初に、広瀬郷左衛門が藤田と槍を会わせた
三科肥前守も広瀬を助けようと近づこうとするが、碓氷峠の難所ゆえ足場は悪くその僅かな場所で二人が動いて打ち合うため容易に近寄れない
広瀬、藤田もまた大長刀、槍を自由自在に操るには狭すぎて、互いに得物を投げすてて組み合い倒れる、そこは自下がりの坂道、二人は組み合ったまま上になり下になり転がっていく
そのうちに広瀬郷左衛門が藤田を組み敷くと同時に、その首を掻き切った

藤田の郎党は急ぎ広瀬を討たんと近づくが、そこに三科肥前が槍を振り回して当たるを幸いに切りまくった。
これを見ていた曲淵庄左エ門は一番槍を広瀬にとられ歯噛みをして憤り、ただちに大軍の中に突き進んで暴れた。

これにより上州勢は大軍と言えども、山道は狭くて一度に攻めかかることもままならず、前は詰まり、後は進め進めと押しまくり、真ん中は窒息するほどの密となって身動きできぬ有様
そこへ高きところから広瀬、曲淵、三科を先頭に板垣勢が押しまくるから、上州勢はたまらず後退した
先頭は後退するが、後方はわけもわからず登ってくるため、上州勢は大混乱となりわき道に転げ落ちる者も多数
ついには総崩れとなり、我先に峠を下るがままならぬ
そんな上州勢の中から、師岡隼人と名乗り、今一度峠を取り返す勢いで抜け出す武者在り。
三科肥前守はこれを見て「さては上州勢にも、恥を知ったる立派な大将があると見えたり
三科肥前守、当年十九歳、そのような立派な大将首なれば雑兵の手にかかるより、某の手にかかれば閻魔大王への申し訳にもなるべし」と進み寄る
師岡も「これは悪しき敵の広言かな」と突き寄せる
互いに槍を交えて突きあううちに、三科の槍が師岡の面部の真ん中を渾身の力で突き抜いた
師岡は声も立てずにどっと倒れ、三科は素早く首を掻き切った

是より武田勢は、高きより低きに攻め下り追い打ちにして、栗原、日向、相木、芦田高名を上げて、ついには坂本宿まで攻め下る
首を取ること千二百十九級なり
やがて板垣信形「勝って兜の緒を締めよ」と坂本にある味方にも急ぎ峠を上るべしと引き上げさせた。
その日の午後となり、板垣は勝どきの法式厳重に執り行い、床几に座って首実検を行う姿は、さながら大将軍のように天晴美々しく見えたのであった。


`逃げも隠れもしない 潔い「ウグイス」

2024年04月26日 19時46分17秒 | 花鳥と昆虫・爬虫類・魚
 友達のつーくんがブログで「なかなか姿を現さないウグイス」を書いていたが
ウグイスにも個性があるようで、オープンなウグイスに出会った。
私がウグイスを見るのは、これが三回目、やはり声はすれども姿を見せない鳥なのだ。
一回目は十年以上前に美ケ原の西面の武石峰で一時間追い掛け回してやっと見つけて撮った
二回目は今月、我が家の庭のサルスベリの木にやって来た
そして三回目は数日前、散歩道の電線で鳴いていた。
鳴き声がするので忍び足で歩いて上を見たら電線に停まって鳴いている
とうとう真下に来たが逃げることもなく、何度も鳴いていた。


「さて始めるか」

「ほ~~~」

「ケキョ」

「あれ?」


「なんか抜けたみたい?」

「もう一度 息を吸って」

(息をため込んで) 「ほ~~~~~~」

(思い切り首を伸ばして息を出す!)っと
 「ホケキョ ケキョケキョ トッキョキョカキョク」


「こんどはうまくいったぞ」


私は泣いています・リリィ ・昭和Best collection・Photo Movie

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 81

2024年04月26日 08時21分59秒 | 甲越軍記
 天下大乱の時なれば、一国として乱れぬ国はない
人民は朝には家を捨てて東西に逃げ惑い、夕べには馬蹄に踏み殺される
老幼を抱えて南北に逃れ隠れる。
けれども武田家の領地は他国に侵されることなく、晴信の武威によって四民はそれぞれの業に励み、豊かな暮らしをしている。

同年八月、晴信は瘧疾(ぎゃくしつ=発熱、寒けの繰り返し=おこり=マラリアのような病気)に罹った
板垣法印が様々な薬を処方したが九月まで治らないので、「戸石合戦で甘利、横田を始め多くを失ったことで気を病んでしまい、すでに卒去したのだ」 
という噂が隣国にまで広がった。

 上野国の(管領)上杉旗下の諸将、倉賀野、箕田、上田、松本、和田、前田、師岡など三月に村上に同意して武田方を攻めたが、板垣信形に逆襲されて這う這うの体で逃げ帰り、味方である村上、小笠原勢からもの笑いものになった
 いま武田晴信卒去の噂を聞いて、「今こそ、あの屈辱を晴らすときだ、信州に攻め込み軽井沢から一つ一つ武田領を攻め取ろうではないか」と合意した

このことを箕輪の城主、長野信濃守にも話すと、信濃守はカラカラと大声で笑い、「我が上杉家の今の有様を見るに、勢いは衰え近年では北条氏康の勝手気ままを許し、一矢も報いることが出来ずにいる
こちらに手出しもしていない武田に戦を仕掛け合戦するなど尋常ではない
儂が三月に御館にお諌めしたがお聞き入れ下されず、あのような大敗を喫した

武田晴信というのは若干十六歳の初陣で平賀源心を破ってから今日まで、一度も敗れたことがない、今年の戸石合戦では異朝の韓信、張良をも超える軍立てで村上の十倍の軍を破ったとのうわさあり、卒去と言うが確信もなく
このような者を相手に戦を仕掛けるなど、無謀極まりない、儂は下りる」
そう言って長野信濃守は箕輪城に帰ってしまった。

一座の者たちはみな長野の言葉に怒り「長野の一言は許し難し、こうなれば即刻信州へ乗り出して、軽井沢より武田の城を攻め取って長野の広言した口を塞いでやろうではないか」
倉賀野越中守、同六郎を大将に、新田、舘林、山上、白井、忍、深谷、五甘、厩橋などから総勢三万三千余の大軍で九月下旬、上野国を発った。

これを聞いた晴信だが、病は回復せず悩んだ
右馬之助信繁、穴山伊豆守信良を諏訪に向かわせ、諏訪郡代の板垣駿河守信形に上野勢を追い払うべしと命じた
加勢は栗原左衛門尉、日向大和守、小山田左兵衛、小宮山丹後守、信州先鋒は芦田下野守、相木市兵衛を加え総勢七千余騎

十月四日に加勢は甲府を発ち、板垣に合流した
六日巳の刻には碓井の西、軽井沢に着いた、ここで敵の情報を探ると既に敵も碓井の東、坂本宿に着いているとのこと
軽井沢と坂本は僅かに二里半(約10km)両者の中間は上信の国境、即ち東山道最大の難所、碓氷峠
信形は「まだ敵は峠に着いていないのは幸いである、峠にあって敵を下に待ち構えることが勝利の条件である、急ぎ出立して敵より先に峠を抑えるべし」
信形が先頭になり、急ぎ出陣した
一方、上州方も同じことを考えて、上田又次郎を先鋒として急ぎ碓井峠を上り始めた
一歩早く上州勢が峠を越えたが、板垣はこれを見て「敵の備え無きうちに、峠に至って峠から攻め落とせ」と遮二無二に攻めかかる
武田勢の凄まじい勢いに、上州勢は早くも峠から押し戻されつつある
その中から現れたのは藤田丹後守と名乗り、昔新田(にった)の十六騎の一人藤田丹後守の末葉なり、その剛力も先祖に負けぬ強者
黒糸縅の鎧に、兜もつけず乱れ髪の上に、鎖を入れた頭巾をかぶり、手には柄も刃もそれぞれ五尺の大長刀を振り回し、小躍りして武田勢の中に切って回る
流石の板垣勢も、これには押しまくられて下がる
互いに頂上をとらんと攻めては逃げ、逃げては攻め上るが藤田丹後が暴れてからは上州勢が有利となった
しかし板垣勢の中からも強者あり、板垣の甥、三科肥前守当年十九歳、広田郷左衛門十八歳の二人、藤田を見て「これぞ究極の我らの獲物なり」と突きかかる