神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(214) 甲越 川中島血戦 41

2024年09月30日 21時43分18秒 | 甲越軍記
 この時、すでに甲州勢は越後勢に槍を入れて火花を散らして打って懸かる
越後勢、新発田尾張守が甲州勢に横槍を入れれば、小山田、横田勢は崩れ去る
柿崎和泉守は飫冨勢に打ち入れば、武田方の討死は増えるばかりであった
これを見た甲州勢の二陣の備え、どっと越後勢に向けて走り出るところ、飫冨、小山田より凡そ五十騎が遮って、軽々と味方を備えに戻した
まことに見事な引き際であれば、越後勢殿の長尾政景も甲州勢の振る舞いを見て、軍を止めて静々と引き上げる。

話を少しばかり戻す
小山田左衛門尉は、板垣弥冶郎の軍と桔梗が原に於いて陣を敷いたが、法福寺の合戦で敗れた小笠原勢引き上げの時、これを挟み撃ちにして滅ぼす千載一遇の機会とみて板垣に出陣を促したが、板垣は病と称して軍を動かさなかった。

小山田は仕方なく一手に小笠原勢を討たんとしたが、原加賀守、島田外記の監察使に阻まれて、せっかくの機会を逃してしまい悔しがった

この度、晴信は法福寺の合戦で手柄を立てた諸士を褒め、桔梗が原での諸軍の怠慢を怒り𠮟責した
そして小笠原勢をみすみす逃した小山田、板垣及び、監察使の島田、原をしばし謹慎させておき、金丸筑前守、春日源五郎、飫冨源四郎に命じて諏訪上下の町人百姓十人ばかりと塩尻峠番手の長坂左衛門尉の同心、二三騎を召し連れて
桔梗が原筋を任された小山田、板垣ならびに原、島田の監察使を召されて、両将の動向を尋ねた。

次に小山田左衛門尉を召し出して、金丸、飫冨、春日の三人が尋ねて怠慢を責めると、小山田が申すには「桔梗が原にて、敗れて逃げる小笠原を一挙に滅ぼさんと板垣陣に申し伝えたところ、支度中と称して七日まで出陣しなかった、追々、催促したところ今度は病と称して出陣しないので、我ら一手にて小笠原に攻めかからんとしたところを、原加賀守、島田外記が堅く制して出陣を許さなかった、改めて出陣願を強いたけれども『某ら、後日死刑になっても出陣は許せぬ』と言い張るので仕方なく取りやめたのでござる、九月十八日に下諏訪に参着して、その後彼の地にてむなしく日々を過し、ようやく当月になって塩尻まで出張ったところに、御大将海野平にご出陣ましまし、長尾と対陣の事を真田弾正忠からの飛脚で知ったところに、飫冨兵部少輔より下諏訪まで引き退けとの君の命を伝え聞いて引き取ったのである」と詳しく述べた

小山田が申したことは、すでに聞き取った飫冨、金丸、春日の三人が調べ歩いたこと、島田、原の口上、町人百姓が申したことと少しも違わないので、小山田の怠慢は無かったと判明して、郡内に帰陣を仰せつけられて甲州へ発った。

ここに板垣弥治郎の逆心の事、ほのかに晴信の耳にも入っていたが、父、板垣駿河守信方の忠義を思い、あえて罰することはせず、そのままにしておいた。






夏は去り、秋の香り

2024年09月30日 11時04分03秒 | 季節と自然/花
 日中の最高気温も25度くらいになって夜は寝やすく、エアコンも扇風機も出番がなくなりました。
5月生まれの私にとって、春と秋の季節の中間期はもっとも暮らしやすい
当然ながら活動も活発化してきます、今年の夏は特に手術入院後だったので猛暑中は家からほとんど出ず、エアコンの部屋で書き物ばかりしていて、運動不足
これからそのツケを取り返します。

ということで今日から始めたのは、家の中の窓枠などの木工具の塗装がかすれた部分のカラーニス塗装
これがうまくいけば、廊下も別のカラーで塗ろうと思います
その後は、風呂場のモルタル壁のペンキ塗装、ここも部分的に薄れているのでカビの除去をした後で塗ろうと思います。

風呂の壁は濃いブルーの塗装なので落ち着いた気分で浴槽に入っていられます
色合いは海の感じなので、機会があれば富士山とかの風景画を描いて見たくなります、そうです銭湯のタイル壁みたいに

我が家の風呂場は面白い形です、天井が蒲鉾ドーム型になっていて2.5mほどの高さがあります
前に住んでいた家は狭いユニットバスだったので、今はその2倍以上も広いので本当にゆったりできます
湯船も深くて、追い炊きもできるし、冬は重宝しています
これに壁を塗り替えれば、もっと快適になるでしょう。

蚊が居なくなれば、畑まわりの庭もきれいに整備したいと思います
その前に庭師に頼んで、木々の剪定もしてもらわなくてはなりません
狭い庭なので安くやってもらえるし、彼はボランティア仲間でもあり、今年で委託して三年目になります

いよいよやること満載の秋になりました、これも雪が積もれば除雪の毎日で、何もできなくなるので10月から12月までのお楽しみ
紅葉狩りにもいかなくてはならないし、いよいよ忙しい秋の始まりです。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(213) 甲越 川中島血戦 40

2024年09月29日 21時11分06秒 | 甲越軍記
 景虎より、平賀惣助を使者に、明日有無の決戦を遂げるべく由と晴信に申し来る。

十一日、越後方先陣、北條丹後守、新発田尾張守、長尾平八郎、諏訪部次郎右衛門
第二陣は、柿崎和泉守、甘粕近江守、新津丹波守、高松内膳、旗本の先手は本庄弥二郎、新庄左衛門、中條越前守政景

甲州方は、先陣、飫冨兵部、小山田備中守、芦田下野守、相木市兵衛、望月甚八
旗本の前備えには、山本勘助、諸角豊後守らの諸将
後備えには真田弾正忠、馬場民部少輔ら、両陣既に押し出せば、景虎は卯の花縅の鎧、同毛の冑を着し、黒の馬に金覆輪の鞍を置き、深紅の厚房をかけさせ、近習十人に、宇佐美駿河守を従えて北條の備えに入り、甲州方を斥候した。

甲州の大将、武田晴信も紅裳濃の鎧に、法装の冑を着し、粕毛の馬に蒔絵したる鞍を置かせ、山本勘助、内藤修理正を従えて近習十二、三にて小山田の陣に入って越後勢を観察する
山本、内藤としばし軍議する、やがて山本勘助は先陣の諸軍を駆け巡って、備えの配置換えを命じた
旗本の前備えにある、跡部、曽根、安部、市川の小勢でしかも若手の者どもを手先に繰り出して、飫冨、小山田、芦田の勢を第二陣として入れ替えるを見た景虎は知謀兼備の名将なれば、晴信の胸の内を早くも見抜いて、急に軍師を諸備えに走らせて、引き上げさせた。

先陣であった、北條、柿崎、甘粕、小村、長尾越前以下、相加えて八備えを殿軍として、榊(坂城)の切所に控えさせた
これを見て、武田勢の跡部、曽根、安部、市川は「長尾勢が退くぞ、進めや進め」と馳せ出れば、飫冨、小山田、芦田の勢もどっと叫んで先陣争いに加わる
長尾越前守が最後尾の殿軍であれば、そこに一斉に切って懸かる

ここに小幡山城守虎盛の弟、小幡惣七郎はむかで衆十二騎の一人であれば、先般の同じむかで衆に属す、飫冨、春日の両名に手柄を先に奪われたことを無念に思い、今こそ手柄を立ててみせると一番に馬を走らせて乗り込み、紺色の鎧を着た馬武者に追いつき、後ろから総角を掴んで力任せに引けば、敵もしたたかな者であれば、体を反転させて小幡に組みあい、二人は両馬の間にどっと落ちる
そして上になり下になり転げまわって戦えば、小幡が武者の上になって押さえつけ、首を掻かんとするところ、敵も敷かれながら手を引き抜いて、小幡の草摺りの外れを三度まで刺すが、惣七郎はものともせず、腰刀を抜いてついに首を切り落とした。



人生相談

2024年09月29日 08時59分30秒 | 心 思い
 妻がプイと家を出て行って、それっきり帰ってこない
ラインを送っても既読にさえならない
「どうすれば妻を帰ってこさせることができるか」知恵を貸してほしいと知人からラインが来た。

ラインの既読さえないのだから、そうとう妻は怒っているか、もはや彼など眼中にないかのどちらかだ
たしかに彼には落ち度があって、それは100対0の落ち度なのも知っている

世間では「夫婦喧嘩は犬も食わない」という、私もそうしようと思っている
無責任に首を突っ込んだり、口を挟んでよけいこじらせでもしたら、大失策だ
さりとて困っている知人を無視するのも男気がない
そうとう参っていて、これに留まらず悪い方向に傾けば、それも困る

もう何か月かたって、事態は一向に進展していないようだ
もはや望みは無いと言った方が早いくらいだ
仲良く見えた夫婦でさえ、近年は夫の退職を待っての「熟年離婚」が流行していると言う
それほどに女性の不満は蓄積しているのであるのか?

男などという者は、何十年妻と連れ添っても、妻の苦労や不満に少しも気づかない、気づいたふりをするだけだ
それで、たまに優しい言葉をかけたり、ちょっとしたプレゼントをしてすべては終わったと思っているが、どっこい女性はそれほど愚かではない
いや、愚かなのは男の方であろう
女性は明治、大正、昭和戦前の女性ではない
ウーマンリブ、女性解放運動、男女均等法、さまざまな改革の中で力をつけて来たウーマンパワーの闘士なのだぞよ

私も最近は朝食家事をするようになってみて思うのは、調理前に片付けと簡単な掃除をする、それは義務ではなくて、目に入るゴミやら片づけ物があるから、食事つくり前に、それをかたさないと次に進めない
それから神棚の水を取り替えて、仏壇に花とご飯を供え、それから材料の下ごしらえ、煮炊きをして息子優先で支度をして
調理した器具を洗って、ようやく自分の食事が始まる
6時から準備を初めて、7時過ぎに食べさせて、自分がテーブルについて食べるのは8時少し前になる
それで思ったのは、女房殿は是を50年近くやって来たということだ

例えば車いす生活の人の不便さは、側から見て「気の毒に」などと思って同情しても、それはほんの一コマを見ての感想でしかない
車いすを押して半日、街を歩いてみればようやく車いす生活者の視線で見えてくる、どれだけ世の中がこうした人たちの不自由を改善しないでいるかが見えてくる
一方、そうした人の目線で先進的に改善している企業や人たちが居ることもわかる
それと同じように、主婦目線で見るには、一日主婦業をしてみるに限る

さて、彼へのアドバイスは、「どうにもならないと悟ったらあきらめるしかない、失ったものに未練を残してはいけない、後ろを振り返らず前に一歩踏み出せば、五里霧中の暗闇も晴れて、また新しい展開が起こるかもしれない
何もないと言うのは決して不幸なんかではない、むしろ何もない方が気楽である、特に齢をとってからは
毎日、感謝の心を持ち、祖先を大切にして、神仏を敬っていれば、道は開けるよ」
と、言おうかな・・・まだ言ってないけど。









「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(212) 甲越 川中島血戦 39

2024年09月28日 20時40分32秒 | 甲越軍記
  甘利左衛門尉の奮戦により、劣勢の武田方は盛り返し、ついには小笠原勢信濃松本城に逃げ去り、守りを固くして 閉じこもった
いよいよ小笠原の滅亡の時が来たりと、晴信は全軍に命じて備えを作ったところに「越後勢が佐久に侵攻」との知らせが入り、晴信は小笠原攻めを後日にまわして越後勢に向かって進発した。

越中にて、長尾景虎の戦ぶりを見聞した間者の小幡弥三左衛門尉と僧大益が陣中に戻って来て報告した
「能登越中と巡って、景虎の戦ぶりを見聞してきましたが、我らとの戦とは格別に異なり、ただただ合戦を大事にして、謀りを用いて敵に勝ち、また埋伏の計を使って追ってくる敵を左右から不意打ちにて殲滅するなど軍勢の駆け引きはわが手を操るに等しく軽快であります
しかも慎み深く、弓矢を取り申され候う」と申せば、山本勘助は手を柏って申すには「景虎の勇知を感じて名将なりと申すけれども、さにあらずそれは愚かしい考えである、その理由は、景虎は、わが君の武略を恐れて強敵なりと思う故に尋常に戦っては勝てぬと、我らの堅陣を乱すことのみの武略をもっぱらとしている
されどもわが堅陣を破ることが出来ず、今度は自ら隙を作って、我らを誘い込み有無の一戦をせんという戦術を仕掛ける
景虎の心中を思うに、年少故、我らに負けても恥にならぬと思う心の内、明白なリ
近いうちに守りを無視して攻めることのみに集中した思い切った一戦を仕掛けてくるでありましょう、されども無謀に見える敵の攻撃と言えども侮れば、我らは甚大な被害を被るでありましょう
それゆえに今まで通り陣法どおりの堅陣を守って、迂闊に攻めかからぬが良策と思われます」
と申せば、晴信も勘助の深慮に満足して、「われも同じ考えである、さりとても景虎は若年と言えども古今稀なる名将である、わが相手に不足なし」と申された。

武田勢は法福寺の陣を払って、海野峠を越えて、上田を過ぎ筑摩川の近く鼠ケ宿に陣を取った。
越後勢は九月二十八日、榊表に備えを出して十月十日まで対陣して、日々足軽を出して鉄砲と矢を放っては引き上げた
あるいは先陣の足軽同士の小競り合いのみにて未だ大戦とはならない

ここに飫冨源四郎、春日源五郎の両人はむかでの指物使い番にて十月二日に飫冨兵部少輔の備えに遣いに来た折節、飫冨の先手と越後の北條丹後守の先陣が争うところに両人は飛び込んで、首二つをとって本陣に帰り、同三日も飫冨の陣に遣いに行った折、飫冨源四郎は春日源五郎囁くに「彼の木陰に敵、二、三十あり、味方の近くであればあれを襲って蹴散らそうではないか」と申せば、血気の源五郎も賛同して、たちまち敵の三十人ばかりの中に馬を乗り入れて、切りまわれば、敵は驚いて乱れて逃げ帰る
この時も首二級をとって本陣に帰る

翌四日には小山田備中の陣に遣いに出て、ついでに敵陣の斥候を行うべく敵陣近くまで行くと、それを見つけた柴田尾張守の兵が二十人ほどで攻めよ出て来た、しかし剛勇の二人はものともせず暴れまわれば、敵は恐れて自陣に逃げ帰った、その時も首一級を持ち帰る

晴信は二人の度々の手柄を賞して感状と褒美を与えたが、「そなた等の本分は各陣への使い番である、斥候は敵陣を調べるのが本分である、それゆえ本分を守って軽々しく動き回ってはならぬ」と釘を刺した。




間もなく10月 いろいろあった9月まで

2024年09月28日 06時27分09秒 | ニュースネタ
一年を春夏と秋冬に分けてみれば、前半が終わり、後半が始まる
今年の9月は異常に暑かったと言えども、過去にもこんな9月はあり、さほど驚くことではないのだ

それよりも、今年の3月から9月までの半年の慌ただしかったこと
まるで夢の中の出来事の感あり
自分のことで言えば、何といっても大腸がんの一連の流れ、そして気持ちと生活の変化
他人のことで言えば、何といっても大谷と大の里のWーBIGs
私の心を支配していたのは、この二つと言って良い。

昨日は大谷が夢見たワールドシリーズ優勝に一歩近づく地区優勝をドジャースが果した
ドジャースにしてみれば、この10年で9回目の地区優勝だから珍しくもないだろうが、入団以来弱小エンジェルスで数年を過してきた大谷にとって、初めての経験
メジャー屈指のドジャースでさえ10年間で1度しか果たせなかったワールドシリーズ優勝の請負人として10年約1000億円(現在の為替レート換算)で契約した大谷は現状それ以上のメジャー史上初の快挙を次々と成し遂げている
そもそも今年のWBCの準決勝、決勝で奇跡的な大逆転を果たして日本を優勝に導いたのも大谷であるし、大事な最終盤で大活躍しているのも大谷だ
55-55の偉業に挑戦しながら、しっかりチームの優勝にも貢献しているのが大谷の凄さだ
大谷を言葉で語るのは難しい、それだけの奇跡を次々と起こし、解説者ではないがヒット1本、ホームラン1本、盗塁1ケするたびに新たな記録を産みだす驚くべき選手なのだ。

今日からのロッキーズ戦3試合で55-55を達成するのかが興味深い
ホームランあと2本で達成となる、盗塁はすでに55を越えている
奇跡の男には60-60のミラクルも起る可能性がある、そしてメジャー三冠王だって確率は超低いが可能性を残している。

今、過去のいかなるMLBファンも見ることが出来なかった100年先まで語られる大記録と大谷をリアルタイムで我々は見ている
過去には見ることが出来なかったアメリカのリアルなテレビ中継を見られるのも、ここまで長生きしたからにほかならない
私にとって動いて歌うビートルズを映画「ポップギア」とテレビコマーシャルで見た時以来の衝撃だ
あれだって中継ではないのだから、21世紀はスマホも含めて映像通信技術が夢のような発展を遂げたのだ。

大谷が日米の野球ファンを沸かせているが、日本国内では大の里が相撲ファンを沸かせている
規模は違えど、ファン一人一人の心を躍らせる点では大の里は大谷に匹敵する
こちらもメジャー以上の二百年近い歴史があり、その中で次々と記録を書き換えている
時代によって場所数や出場日数が異なり、昇進ルールも変わってきているのでひとくくりにはできないが、今角界でいう「昭和以降の・・」で語るのがいのだろう
大の里は、まさに昭和以降の記録を塗り替えている、こちらも注目だ
私のようにMLBも大相撲も大好きな人間にとって、この半年は本当に忙しかった、入院中の退屈を吹き飛ばしてくれたのも大谷と大の里だった
彼らから勇気と元気をもらったからこそ、今日も元気に過ごせるのかもしれない。

大の里が昨日から第二の故郷に行っている
昨日は新潟県糸魚川市役所に市長を表敬訪問した
今日は中学、高校と相撲留学の6年間を過ごした、新潟県能生町の道の駅でイベントと報告会を行うようだ
大の里と同じく海洋高校相撲部出身の欧勝海も参加するようだ

大の里、欧勝海の故郷石川県の能登地方は、元日の大地震、今度の大雨被害でたいへんなことになっている、大の里には精神面での支えになってほしい

昨日のもう一つの大きな出来事は、次期総理大臣にきわめて近い自民党の総裁選もあって、ドジャース優勝とリモコンを切り替えて忙しく見ていた
ラストチャンス石破茂と、日本政界史上初の女性総理誕生か?の高市早苗が決選投票に残った
小泉進次郎以下7名は落選した
1位が高市、2位が石破で27ポイント差、自民党の国会議員票では高市が大きくリードしていたから、国会議員票が物を言う決選投票では高市有利とみられたが、結果は石破が薄氷の勝利を得た
決戦前の高市は演説で、能登地震の被害者救済を声高々に述べていた、石破も国民の命を守ると言った、石破総理の能登の災害対策、そして北朝鮮拉致被害者救出に対して、どのような行動をとるか注目だ
また対米軍事協力と地位協定、緊張が増している対中政策も大きな焦点になる。













「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(211) 甲越 川中島血戦 38

2024年09月27日 20時06分10秒 | 甲越軍記
 「武田勢、下諏訪に向けて進軍中」
報せを聞いて、松本の小笠原長時は、これを迎え撃つべく急いで諏訪に向けて兵を進めた。
武田軍は佐久に入り海野峠を越えて法福寺に陣を敷いた
小笠原は雛倉峠を越えて武田勢の先陣に無二無三の戦いを仕掛けた
鉄砲を撃ちかけ、槍を揃えて攻め寄せる。

武田勢の先陣は飫冨兵部少輔、小山田備中、芦田下野らの軍勢、兵を励まして挑みかかる小笠原勢に立ち向かった
いずれも己の命など塵ほどにも思わず、ただひたすら義を重んじて命投げうち名をこそ残さんと火花を散らして戦う
されども小笠原長時は地神、御仏に守られて奮戦すれば、武田勢は総崩れとなって二丁ほども後退した
これに押されて、二陣のあとも総崩れの様となるところに、故甘利備前の嫡子、甘利藤蔵、今年十七歳、去る九日に左衛門尉に任じられ、晴信から晴の諱字を賜り、甘利左衛門尉春吉と号する
父に劣らぬ剛勇の若者であれば、今日の陣列でも旗本として前備えの将を任される
先陣の諸将乱れて、こちらに向かって逃げてくるのを見ると、采配を打ち振り
「これは愚かなる者どもかな、頼りがい無きものどもめら、長時がいかに勇ありと言えども敵はわれらの十分の一であるぞ。いかなる卑怯の振る舞いか
おのれら武名をけがすか、ここは御大将の御前である、ここで討死せねばいつ御恩に報いるときがあろうや、返せや者ども」とこらえて一歩も引かず下知すれば、ようやく浮足立つ兵たちも、ここでこらえて押し返した
これを見た、小山田、飫冨も機を得て踏みとどまり、甘利も備えを分けて左右から敵を切り崩す
信濃勢は、突然の反抗に乱れ立、ついには敗走する
長時は馬を引き返して「戻れや者ども、攻めよ」と身を揉んで下知すれども、崩れたった兵は言葉も耳に入らず敗走する
志ある勇士さえも心ならず共に崩れ去れば雛倉峠を越えて松本を目指して逃げ帰る
甲州勢は深追いせず、軍をまとめ、諸将の功労を賞す
甘利勢が討ち取った敵首は二百七十三級、先手の諸将が討ち取った首は二百四十六級、合わせて五百十九級であった
諸将大いに喜び、この勢いのままに松本に攻め込んで小笠原長時を滅ぼそうではないかと意気上がるところに、長尾勢がまた海野平に現れたとの報せあり
晴信、これを聞き「長時は小敵なれば捨て置いて、越後勢を防がん」と用意を命じた
此度の小笠原との法福寺表の戦いでは、飫冨兵部少輔の弟、源四郎、春日源五郎の両人、比類なき働きをして、晴信より感状を賜る。





新湊を

2024年09月27日 09時59分56秒 | 散歩道
 今日は一年ぶりに新湊の万葉線に乗って庄川河口まで行って来た
去年は高岡の中伏木まで乗って行って、庄川口まで歩いたので、今日は続きで庄川口から中新湊まで歩いた、どちらも駅3つ4つ
去年のコースは港と工場地帯みたいな雰囲気ある道路沿いだったが、今日は市内を走る幹線道路沿いの商業地、裏に入ると住宅街と言った場所
もちろん、どちらも始めて歩く場所であった。


秋めいてきて、気温も下がり日中でも28度くらいだったが風が吹けば涼しく、止めば汗が滲み出ると言った感じ
知らない町だから、いつでも万葉線を意識して歩いた、それでもわからなくなるので、たまにスマホのMapを見て歩いたが、充電が切れてしまい万事休すだったが、ちょうど駅が見えて、しかもピッタリ電車がやって来た。
帰りは終点の越の海まで乗った、最寄りの海王丸駅より一つ乗り越しだが、パークまで遠くはない。





今回は、ただ歩いただけで、これと言って写真の対象になる景色はなかった
それでも住宅街に入ると、入って見たくなる味のある飲食店などがあって少しは楽しめた
何よりも秋の高くて澄み渡った青い空が印象的だった。



 

モンスターカニ出現          公園とブランコ



次回は港の方に向かって歩いて、寺や神社が集中している地区へ行って見ようと思っている
歩いたコースを地図で確認すると、「ああ、ここもよさそう」と新たなコースが見えてくる。

がん手術をしてから、ようやく一人前になったような気がしてきた
一日の重みを感じるようになって、一日一時間を意識するようになった
「やりたいことはやってしまおう」と思うようになった
幸い、腸の具合が日によって変化するけれど、吐き気をもよおすとか、どこかが痛むとかが無いので、抗がん剤をやっている間でもこうして好きなように歩けるのがありがたい。

ベンチタイプの古い電車          ドラえもん電車

あたらしいタイプ          ベンチタイプ 高岡大仏イラスト


昨日、東京の書籍販売店から新刊ニュースが届いた
もう10数年前から利用している書籍通販店だが、主に歴史、神仏寺社、祭りと風俗習慣などの研究書、同人誌が多くて、数千円、数万円の本も少なくない
私は年に1~2冊しか買わないが、それでも新刊カタログを送ってくる、結構なページ数のものも送ってくるのだから経費もバカにならないだろう。

そこの社長さんがなかなかユニークな方で自分や書店の近況をまっさきに書いている、それが面白い
しかも本の原価や利益まであけっぴろげで書いていて、たまに泣き言を行って見たりしてなかなか人間味あふれるのである
驚いたことに、今日の号の序文を見たら、社長さんは去年の5月17日に直腸ガンで入院して、6月末に手術したとのこと
私がガンで入院したのも今年であるが、5月17日と同じ日であるからびっくりした
しかも直腸で、私のS字結腸とはお隣同士、入院当日にステントで患部を広げた応急処置も同じ何だか因縁を感じて嬉しくなった
さらにステージ2も同じで、人工肛門を免れたのも同じ
その後、しなくても良い抗がん剤治療を結局やってしまったのも同じで、違うのは抗がん剤治療法、私は点滴一回で始まり、二週間朝夕の2回飲み薬で、一週間休みで4クールだが、社長さんは高齢でもあるからか(本当は年齢知らない)飲み薬一日三回を4週間、一週間休みで6クールだから私よりキツイ
一年以上たって順調で再発も無く体重も元に戻ったそうだが酒は一年飲んでいないと言う、そこも同じ
手術後体重が8㎏減ったのも同じで、元に戻ったのも同じ
こんな偶然もあるものだと、驚いている。

海上保安庁、一隻増えていて二隻が係留

こちらはおなじみの「やひこ」





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(210) 甲越 川中島血戦 37

2024年09月26日 19時47分24秒 | 甲越軍記
 北条氏康は今川義元を頼りに、武田晴信の上州進出を思いとどまるようにという願いの使者として、山門伊予守、一色隋巴を駿府に送った
そして頭を低くしてうやうやしく願いの儀を伝えると、義元は快く受けて使者を小田原に帰した。

天文十九年九月重九(ちょうく)(ちょうきゅう=陰暦の九月九日=無病息災、邪気払いの良き日)に嘉儀の使者として四宮右近を正使に、庵原弥兵衛尉を副使にして甲州に送った
そして北条氏康の願いを伝えると、武田の老臣たちはいかなる返答をすべきか大いに迷った
原加賀守、諸角豊後守は大いに悔やみ、「昨年、上州へ攻め込んだ時に松井田なり安中なりの一城でも攻め落として足場を作っておけば我らも同様に北條に拒むことが出来たものを、それが出来なかったために北條などに難癖をつけられてしまった
返す返すも、憎きは小笠原、木曽なり、奴らが出張ったばかりに落城まじかな松井田、安中を捨てて諏訪に軍を帰すことになってしまった
一城も落としてない故、さすがに今川の頼みを拒むことできず、これから上州に攻め込んでみても、一城落すは容易でない
こうなってしまえば上杉領を切り取ること叶わず、今よりは隣国を切り取るしか方法が無くなった
この上は、長尾と和睦して、村上を本領に復帰させ、伊奈、木曽、小笠原の領地を奪うほかあるまい」と決して、晴信に諫書をしたためて、春日源五郎、飫冨源四郎、原隼人佐の三人を以て奉じた。

これを読んだ晴信は「今川殿の申し出、黙視難く、上州発向のことは思いとどまることとする」と伝えて、今川の使者を帰した
そして、原、諸角には「汝らの申す事、もっともである、去りながら景虎と和睦すれば、伊奈、木曽、小笠原をまとめて攻め滅ぼしたとしても何の甲斐あろうや
晴信は景虎を恐れて和睦したと、天下の笑いものになるは必定、末代までの恥である、村上を信州に還元させることなど『御旗盾無しもご照覧あれ、存じも寄らざるところなり』木曽、小笠原を討つに、なんぞ景虎と和親などのぞむものか、景虎が三家に併せても、恐るべきに非ず」

即日、小山田左兵衛尉、板垣弥二郎に命じて、「下諏訪に打ち出て深志表、桔梗が原にて働くべし」と伝え、翌十五日には晴信自ら軍を整えて信州へ発向した。







バブル期の北陸温泉郷事情

2024年09月26日 08時18分04秒 | 時代検証
 先日、温泉旅行の備忘録をアップしたけれど、あれは記憶を呼び戻しながら書いたものだった、まあボケ防止の対策の一つだと思っていただければありがたい
それと同時に、当時のことが次々と思い出されてきた。
令和になって、私も同級生旅行、友達小グループとの旅行以外ではこうした大規模な温泉旅館へは行かなくなった。
同級生旅行も去年から中止になった、70歳を過ぎて自分がガンなどの病気になって、あるいは配偶者が病気になったり、亡くなったりして不参加になる者が増えて来たからだ
また事務局長兼会計長を毎年やってくれたY子の突然の死、あれでみんな意気消沈したことも原因だ。

以下、軽薄な文になりますので、呆れたらスルーしていただいて結構です

バブルの時代、昭和50年代はたしかに華やかで、よく働き、よく稼ぎ、よく遊んだ、我々より5年、10年早い人たちは、まさにバブルのど真ん中で恩恵を受けたようだ
土地ころがし、株価の史上最高値などで俄か成金が日本中に溢れて、会社員や個人経営者も収入が一気に何倍にもなって、その水準たるや今の時代の収入とさほど変わっていないのだから、その後の失われた30年は実感できる
「世界のNOKYO」が流行語になり、眼鏡に出っ歯、首からカメラをぶら下げた日本人団体のアジア観光旅行の風刺画が目立つようになった。

昭和20年の敗戦から、日本国の再建に、自分の生活の再建に汗水たらして遊びなど思いもせず、休みなしで必死で働いてきた日本人
その甲斐あって、昭和30年を過ぎると国内経済は良い回転を初めて、倍倍ゲームで所得が増えていった
少し前の中国経済と同じだ、それを日本は40年以上前に成し遂げたのだった

生活費に加えて、余剰資金(こづかい)も増える、働きづくめから余裕が出来て、たまにはパッと遊ぼうじゃないかと団体旅行ブームが起きた
先輩たちからは韓国旅行で妓生パーティをしたとかの軽薄で世界から軽蔑される武勇伝をよく聞かされたが、我々世代が海外デビューしたころには韓国の経済状況が良くなって、我々はそんな遊びの経験はない
その代り、国内の温泉には観光旅行でよく行ったものだ
われら北陸地方の住人は何といっても加賀温泉郷(片山津、山代、山中、粟津&和倉、芦原)へ行くことが多かった。

特に大きな温泉街は片山津と山代で、この二つだけで年間300万人以上が入れ込んだ、もちろん能登の和倉温泉も「プロが選ぶ宿」で加賀屋が10年くらい1位を続けて、加賀屋ブームを起こしていて山代、片山津と競い合っていた。
また加賀温泉郷に近い福井県の芦原温泉も東尋坊、越前海岸、芝政や三国競艇をバックに集客力があった、この時はまだ恐竜博物館はなかったが
加賀温泉郷の中では山中温泉は観光客数が75万人ほどで山代、片山津の半分、粟津は5万人程度だったが、粟津の宿、「法師」は北陸でもトップクラスの老舗で人気が高かった、和風の宿で廊下のあちこちに九谷焼が展示されていた
そして宴会のあとの二次会には館内に大きなクラブ風の一画があり、そこは和風の宿から一転して洋風の華やかなホールになっていてギャップに驚いたものだった。

和倉温泉であれ、山代、片山津であれ、仲居さんが名物でお客さんを楽しませてくれる腕は日本一と言っても良いだろう(熱海など伊豆の観光温泉もそうかもしれなかったが、当時は行ったことがない)
宴会後には二次会をしてその間中、仲居さんが一緒に無料で付き合ってくれる
その後も、宿の外に案内してくれるのだが、これも無料、いったい無料奉仕して得があるかと思うが、結局は宿内であれば二次会に客を連れて行けば、それなりの歩合、外へ行けば紹介料、客からのチップなどの副収入になったのかと思われる・・・知らんけど。

団体だと、お風呂に入ってから夕食宴会となるが、そろそろコンパニオンというものが流行り出したころであった
大人数には主催者幹事が杓してまわるなどできないから、、コンパニオンを頼んで盛り上げたが、10人、15人くらいでの宴会の時には、宿の仲居さんがだいたい2人ついて料理運びの合間には話し相手になってくれたりして、それが海千山千の40代、50代だと「高いお金を出してコンパニオンなんか呼ぶより、私たちの方がよほど楽しいよ」と自信ありげに言う、闘争心むき出しなのも、コンパニオン以前から客を楽しませてきたと言うプライドだろう
確かに、話し上手で温泉の裏表、男女の問題などさらりと話してくれて、なんでも打てば響く、われわれも血気盛んな30代、40代だったから大いに盛り上がった
確かに若くてぴちぴちのコンパニオンだが、いかにも営業スマイルで、話も騒がしいだけで面白くない
せいぜいカラオケでジュエットしたり、酔いに任せてチークを躍るくらいで、会話の面白さは仲居さんには遠く及ばなかった
バブル崩壊で、あのようなベテランの仲居さんが居なくなり、若い二十代の仲居さんになり時代も変わってお行儀のよいマニュアル的な人ばかりで、仲居さんと言うより社員と言う感じになった
あのベテラン仲居さんのような味のある、とぼけた面白さは期待できなくなった、艶話などしたら「セクハラ、パワハラ」と言われそうで、結局コンパニオンに逃げるしかないが、それさえ必要ない年齢になった。

同級会旅行が主になって、これまたコンパニオンなど足元にも及ばない同級生女子の面白さ、他の部屋の団体さんがカメラを取りに戻て、我々の宴会を撮るほどのエンターティナー女史揃いだった
それも今は夢物語となってしまった。

加賀屋に最上級の雪月花が出来、百万石は梅鉢亭と同じ旅館でもハイクラスのの客向けの別館特待サービスでプライドを持ち上げた、仲居さんや従業員には浴衣で特別な客であることをわかるようにしていた。

大きな温泉宿は館内にクラブ、居酒屋、スナック、カラオケボックス、ラーメン店などを作って、客を外に出さないようになった
コンパニオンも予定時間が終わってもしぶとく幹事や客に宴会中から、「席がお開きになったら館内の二次会に連れて行って」とねだる
酔っぱらって太っ腹の「なんちゃって社長さん」になった客は「はいはい」とお大尽様になって了承するが、コンパニオンはちゃんと30分刻みで花代を加算している
それも一人ならいいが、二人三人と居るから、翌日帰る時になって、フロントで支払いが終わった幹事から、コンパニオンを引き連れて遊んだ連中は「夕べのコンパニオン代一人2万円徴収します」などと言われて、素面の顔が真っ青になることもしばしば
遊びに行かなかった仲間から借金する羽目の者が時々いたものだ
利口な奴は宴会中に仲居さんと約束して二次会は少しのチップで仲居さんとカラオケなどに行って一緒に楽しく遊んで、1時間ほどで切り上げて部屋で飲みなおして寝る、仲居さんも手すきの仲間を呼んでくるが、飲み代を持ってやるだけでコンパニオンみたいに花代はいらないから安いものだ
バカな奴はべろべろになって、部屋までコンパニオンを連れてきて飲みなおすから、タクシーのメーターの如く花代は跳ね上がっていき、翌日の悲劇を迎える。

芦原温泉でのこと、私と先輩のKさん二人で、宴会のあと外に出てラーメンを食って一杯飲んで部屋に帰ってきたら、若い芸者が一人、部屋の襖の前で正座している
「なんだ?どうした?」と聞いたらば、「この襖の向こうにいるHさんと言う人に宴会の時『部屋で飲みなおすから来い』と言われて来たのですが、もう一時間待ったけど寝ていて起きないんです、帰れば怒られそうですし、姐さんにももう一席と言ってあるので帰るに帰れません」と言う
Kさんと目配せして「わかった、もう彼氏はグッスリで起きないから、あんたも今帰れと言われても困るだろうから、俺たちと外へ飲みに行こう」と言って
連れだした、そして温泉街の店に案内させて彼女と夜中まで3時間ほど飲み明かして戻った。
翌朝、当然ながら請求が来た、もう忘れたが相手はコンパニオンではなく芸者だから花代も高い、5・6万円くらいだったと思う
その請求書をHに見せて、「あんたが呼んで、ずっと待たせた芸者の請求書です、俺たちも後始末のために付き合いしたから、これは三等分と言うことで支払いしましょう」ということで決着した。
本人は芸者を呼んだことすら覚えていなかったらしいが、事実は事実だから仕方ない
記憶が無くなるほど飲むと、こんな風に寝ているだけでも花代がつくことがあるから気をつけないとね。
もっともバブルの頃だから、それほどこたえなかったが、年金生活の今ならとてもじゃないができることではない。