ドライブをしていて時々目に入るのは中世の山城の看板
先日は気晴らしに和倉温泉の能登島まで一気に走ってみたが
七尾市で七尾城址の看板を見つけた
少し先に見える小高い山がそれなのだと思った
きっと本丸跡からは七尾湾と能登島が一望できるのだろう
1576年越後春日山の上杉謙信がここまで攻め寄せて落城させたという
ここで吟じたという句は今に伝わっている
この勝利の勢いで、後詰に来ていた織田信長の大軍を加賀の手取川で
散々に打ち破ったことも有名だ
信長自身も来ていたとかいないとか、とにかく謙信の強さに信長は
逃げ惑ったとか
中世ではずば抜けた先進的な頭脳の持ち主、織田信長だが、武田信玄と
上杉謙信だけは敵にしてはまずいと思って、御機嫌取りに終始した
恐竜でいえば凶暴な2匹の巨大ティラノサウルスと、小柄だがスピード感があり
知恵が回る組織力のラプトルのようなイメージ
その代わり息子の代になると信長は武田家を滅ぼし、上杉家も本能寺の変が
無ければ滅ぼされていた、まさに危機一髪のところで明智光秀に救われたのだ
それと同じく四国の長曾我部氏も明智光秀の謀反で救われた
(本能寺の変は、この長曾我部討伐が原因だと近年の有力説になってきた)
だが、豊臣秀吉が天下を取ると長曾我部と上杉の明暗が分かれた
越中富山城で抵抗する織田家重臣、佐々成政を攻めるため上杉景勝に協力を
要請して挟み撃ちにすることで、佐々を降伏させた
その後、上杉家の越後領安泰を保証して秀吉の配下に景勝を組み込んだ
これで明治維新まで、いや今日まで上杉家は続いたのだ
一方、四国全土が領地の長曾我部氏は秀吉から土佐一国だけにして、あとは
元の持ち主に返すよう言われたが抵抗した、しかし戦ってみたら近代装備の
秀吉軍に全く歯が立たず、あっさりと降参した
潔さが気に入った秀吉は土佐一国を与えて存続させた、その恩義を感じたのか
関ヶ原の戦い、大阪城の戦いで豊臣方に味方して滅びた
同級生が名古屋で営んでいる「うどん」を一度食べに行こう、というところから始まった
同級生旅行も、今回で16回目になるだろうか
名古屋うどんと、京都の紅葉ということで11月に始まったのが、そのまま10月.11月と
定着した
今回は山形の蔵王温泉に泊まり、蔵王のお釜を見て紅葉も楽しもうという企画
コースは1日目が北陸道を新潟市から磐越道に入って、会津若松から喜多方へ
喜多方から峡谷の目が覚める紅葉という国道121を大峠を越えて米沢へ
米沢から蔵王に入る
2日目は蔵王温泉から長井を経て、国道113号を下り、新潟県の坂町に出て村上を経て
景勝笹川流れで遊覧船に乗る、そして日東道~北陸道で帰郷というコースだ
第1回目は紅葉が目的なので順序は逆になるが2日目の「荒川峡」の紅葉写真をアップ
します
つづく
随分前から理屈屋さんの間で話題になったこと
新潟県には上越新幹線が走っていて、それは新潟県上越市を通って居なくて
東京から越後湯沢を通り、長岡市を通り、終点は新潟市、それらの町は新潟県では
中越地方と下越地方であり、上越地方とは反対の方角なのだ
こんなバカな話があるかと上越地方は憤慨したが、上越線の上は「上野の国」すなわち
群馬県で、越は勿論「越後国」新潟県なのだ、だから群馬、新潟を通る「上越線」となり
新潟県を三分割した上越地方とは何ら関係ない。
なんと言っても、開業の頃は新潟県の田中角栄首相、群馬県の福田赳夫、中曽根康弘
という巨頭が日本を支配していた時代だった。
さて全く関係ないけれど長野県を走っている「上信道」高速道路だ
これは調べてないから推測になるが起点と終点がよくわからない、北陸道との接点は
上越ジャンクション、関越道との接点は冨岡ジャンクション
結局ジャンクションが基点になるのだろうか?
まあ、そんな理屈はどうでもいい、でも上信道の上と信・・・信は信州、上はやはり上野
が正解なのかも
随分長くなったけど、本当はその上信道のさかきPからの景色について書きたかった
さかきPは上田ICの近くにある。 以前は地味なPだったが近年コンビニが開店して
急に人の数が多くなった
ここはちょっとした高台にあるので眺めがとてもいい、眼下には千曲川が蛇行して流れ
坂城の町並み、戸倉上山田温泉へと続いている
ここから見える山や地域を記した案内板を見て驚くのは、見える範囲だけで5~6の
山城があることだ。
戦国時代には、これほど山城が密集していたのかと驚くばかりだ
このあたりは村上義清の縄張りで、そこから近い北には真田一族の縄張りが広がっている
このあたりの主導権争いを両者はしていたらしいが、真田が負けて上州へ逃げ延びた
その後、甲州の武田晴信(信玄)が力をつけて信州を侵略侵略してきた
現在の中央線に沿って信玄の棒道(当時の騎馬用の軍事高速道路)を造って北上し
塩尻峠で諏訪氏らの中信連合軍を破って、諏訪を占領、更に北上して松本平の
信濃守護小笠原氏を駆逐した
そして八ヶ岳の西から北上して佐久を占領、更に上ってついに信濃最強の村上義清と
対峙するに至った
勇猛果敢な村上勢は二度戦って二度、武田晴信を追い払った、最初の上田原の戦では
晴信の参謀板垣信方など有力武将が討ち死にして武田勢は大敗して逃げ帰り
二度目は村上方の砥石城攻めが失敗して、再び武田勢は這々の体で逃げ帰ったのだった
村上義清の居城葛尾城がさかきパーキングの右手に見える、大きな長い尾根が千曲川に
下りて行く、その尾根のピークが葛尾城なのだ
対岸にも三つほど山城があると案内板に書いてある、それらがどの側の城なのかは知らない
左手にも城が案内してある
武田晴信が大敗した砥石城は葛尾城の北にあり、真田の本拠地と川を挟んでにらみ合っている
位置関係だ、もともと真田方の居城だったが当時は村上は武田の先代、信虎と同盟していて
敵の真田(海野一族)を破ってこの城を占拠したのだった
その後、武田晴信は父親の信虎を駿府の今川家に追い払って家督を奪い取り、村上等との
同盟を破棄して信州へ攻め上ったのだった
しかし二度も大敗して意気消沈、「村上強し」がトラウマとなった
ところが武田晴信が大軍で押し寄せても落とせなかった砥石城はいとも簡単に落城してしまった
それは今や武田家の家臣となった真田氏が、かっての居城だった砥石城を調略を用いて
占領してしまったのだ
真田氏が武田のバックアップで追われた故郷を取り戻した瞬間だった、これで武田の勢力は
盛り返して攻勢に出て、村上義清を圧迫、ついに義清は葛尾城も放棄して、越後の長尾景虎
(上杉謙信)を頼って落ち延びていった
以後、善光寺平まで勢力を伸ばした武田信玄は越後の龍、上杉謙信と長い戦いに引き釣り
込まれていくのである(川中島5度の合戦)