神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

越後 春日山城と高田城 2

2024年02月03日 09時41分14秒 | 日本の城
 豊臣秀吉が死ぬと、まだ幼い息子の豊臣秀頼があとを継いだ
五大老筆頭の徳川家康は得意の狸寝入りをしていたが、唯一目の上のたん瘤、秀吉と若い時からの盟友だった前田利家が死ぬと本性を現した。
秀吉が禁じた大名同士の縁組も勝手に仕切り、五奉行筆頭の石田三成の抗議も無視、
しかし家康が手に入れたい越後は豊臣家の大番頭ともいえる忠臣堀秀政の長男秀治が春日山城30万石で入城、若い秀治を補佐するため家老として入城した堀直政がいる限り手が出せなかった。
秀治の父、堀秀政と堀直政は従兄弟で互いに若い時より羽柴秀吉、織田信長の出世に大いに貢献した猛将であり、家康とて一目置かねばならなかった

秀治は春日山城を廃城にして直江津に福島城を築いた。
しかし、秀治が死に、直政が死ぬと、堀家のお家騒動に乗じて越後国を手に入れた家康は全国の大名に命じて越後高田に防御力が高い高田城を作るよう命じた、完成後に福島城を廃城にした。
高田城には家康の六男、松平忠輝を入れて越後および信州川中島合わせて60万石の大名とした。

1610年の時点で家康の11人いた息子は二代将軍となった三男の徳川秀忠と六男の松平忠輝、大人はこの二人だけ、あとは家康が60歳を過ぎてから作ったまだ幼い九男から十一男、後に御三家(尾張、紀州、水戸)となる三人
あとの6人は皆家康より先に旅立ってしまった。

忠輝が兄の秀忠を立てて大いに忠誠心を見せれば目出度かったのだが、秀忠はのんびりとしてしょっちゅう家康に叱られていたから、それを見て育った忠輝は兄に従う気が無い。
むしろ自分の方が勇敢であり、才能もあると思っているから不満タラタラ
さすがに「おれが天下人にふさわしい」とは言えないが腹の中はわからない
後に大坂城攻めの時には秀忠の家臣を無礼討ちにしたり、家康に「大坂城と100万石をいただきたい」と言ってみたり
さすがの家康も自分が死んだ後で忠輝は秀忠に対してクーデターを起こすのではと疑念を抱く。
更にまずいことに「遅れて来た戦人(いくさびと)」超危険人物伊達政宗の娘が忠輝の奥方、政宗も未だ天下に未練を持つ野心家、しかも今が一番脂がのっている、さらに伊達政宗は南蛮人に近づき家臣をキリスト教徒にしたうえでローマに使節団を送った
正宗の領地の仙台には異国船がたびたび訪れていると言う、軍事面でも異国と手を結べば海上から江戸への砲撃の危険もある。
政宗が南蛮の武器を手に入れ、忠輝と手を組めば秀忠の将軍も危うい。
徳川将軍家が伊達に乗っ取られる危険性は無視できない。
ついに家康、秀忠の親子は決断、家康が忠輝を勘当留置、家康が死ぬと秀忠は家康の言いつけ通り有無を言わせず忠輝から越後の領土を取り上げ、信州諏訪に流罪とした。忠輝は92歳まで流人のまま生きた。

忠輝流罪の後、高田城には譜代大名の酒井家次が10万石で入城、越後領は分割されて、それぞれの小藩主に分け与えられた
その後も高田藩は続き、8家目の榊原家の時に15万石で明治維新を迎えた、高田藩は新政府軍の先頭に立って道案内をしながら奥州征討に向かった。

高田城、復元三層櫓



高田城公園は4月には桜の名所となり、4000本の夜桜は日本三大夜桜に数えられる。

高田城外堀  夏の午前には紅蓮で19ヘクタールの外堀全体が埋め尽くされる
その姿は東洋一と称される。

高田城内堀

まるで浮き城のような江戸時代の高田城



越後 春日山城と高田城 1

2024年02月02日 07時08分15秒 | 日本の城
 新潟県上越市には中世から近世にかけて2つの名城が存在する。
一つは上杉謙信の居城だった春日山城、もう一つは徳川家が天下を支配してからの高田城。

春日山城は新潟県上越市の海岸の直江津と内陸の高田の中間、春日山の西の山塊にあり標高は約180m、城の規模は2km四方と言われている。
別名「鉢ケ峰城」とも言われる、代々越後の守護代(守護の任地を任されて行政を行う代官)である長尾氏の居城。

築城は諸説あるが14世紀の南北朝時代ではないかと思われる、同地にある「春日山神社」の始まりは900年代、1400年代などの研究があるが定かではない。
春日山の名称は奈良の春日大社を分霊勧請したことに由来する。
(越後直江津の居多神社宮司で郷土史家の花ケ前盛明氏の著書「上杉謙信と春日山城」)

上杉謙信の上杉の姓は関東管領上杉氏(足利将軍の室町幕府から任命され関東一円の行政治安を司る役職、幕府の執事である上杉氏が世襲した)が小田原北条氏によって攻撃され越後の長尾氏(謙信)に助けを求めて来た後、管領上杉氏は北条撃退に力を注ぐ謙信と養子縁組を行い、関東管領職と上杉の姓を謙信に与えた、以後、春日山の長尾氏は上杉となる。

上杉謙信は、戦国最強と言われる甲斐(山梨県)の寅「武田信玄」さえ正面衝突を避けたほどの勇猛果敢な武将で「越後の龍」と呼ばれ、武神「毘沙門天」の化身とも言われ「龍」「毘」の旗を押し立てて戦場に臨み、自ら軍の先頭を走る百戦百勝の軍神、生涯に一度も負けたことがないと言われている。
まさに信玄と謙信は戦国一の「龍虎」であった、一回リ以上若い織田信長も、この二人が攻め込むことを恐れて何度も贈り物をして下風に徹したと言う
唯一、加賀の手取川で織田軍は謙信率いる越後勢と戦い、完膚なきまで叩き潰されたことがある。

謙信の父、長尾為景は、勇猛な越後の豪族で春日山城に居を構えて越中(富山)や越後の豪族や関東管領上杉氏や越後守護の上杉氏との戦に明け暮れた。
一時は越中攻の時に守護上杉氏に春日山城を奪われたが、取り戻した。

その為景が亡くなると、嫡男の晴景が跡を継いだが病弱(説)であり、栃尾城にいた弟の景虎(謙信)を呼び戻して春日山城主とした。
*海音寺潮五郎著の「天と地」では、晴景と景虎は米山峠で戦い、景虎が勝って晴景は隠居して景虎に守護代の地位を譲ったことになっている。

謙信は生涯独身で子供もいなかったので同族の長尾氏(六日町)に嫁いだ姉の子供を養子にした(上杉景勝)、更に小田原北条氏と和議を結んだときに人質として送られてきた北条氏の子息をも養子として上杉景虎の名を与えた。

謙信が後継ぎを決めずに突然死んで、後継者争いがおこった(御館の乱)
景勝と景虎の戦いで、いち早く春日山城に入城した景勝方が優勢だったが、直江津の守護屋敷(御館)に籠った景虎方には小田原北条からの援軍、更に北条と同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼も景虎に援軍を送ったので、形勢は景勝方に不利になった。
越後国内の豪族たちも二つに分かれて各地で戦が起って、越後動乱の様相となった。

絶体絶命の景勝方だったが、景勝の参謀には直江兼続がいた。
兼続は武田勝頼に手をまわし、越後の黄金と越後糸魚川にある領土を譲ることそして縁組を条件にして武田軍を味方に寝返らせた。
これによって、北条と武田の同盟は瓦解した、のちに武田氏が滅ぶ一因となる。

再び形勢は逆転して、平場の館にいる景虎方は不利になり、ついに景虎は小田原目指して逃げたが、途中で追手に追いつかれて自刃して果てた。
上杉景勝が新しい越後の支配者となった、しかし越後人同士の殺し合いで越後は疲弊し、兵数も大幅に減少、春日山城も双方2万近い兵の戦で大規模な修理が必要となった。 越後の力は大幅に削減されてしまった。

一方で畿内で大きな力を得た織田信長は1582年の春には宿敵だった甲斐の武田勝頼を滅ぼし、越後の上杉景勝を次のターゲットに定め、北越後の豪族に反乱を起こさせ、越中からは佐々成政を魚津城に攻め込ませて落城させ、信州口(長野県)からは森、上州口(群馬県)からは滝川の大軍を越後に侵入させて、越後国境に迫った。
兵数が1万にも満たない上杉勢は味方の反乱、三方からの敵の侵入で風前の灯火であった。

ところが、そんな時、京都の本能寺で織田信長は宿老の明智光秀の謀反であっけなく死んでしまった、しかも嫡男の織田信忠も討ち死にした。
越後に攻め寄せていた織田方は総崩れとなって逃げだし、上杉家は息を吹き返し越中魚津城、信州川中島に兵を進めた。

その後、織田家の内紛を制した豊臣秀吉は上杉景勝に対し、越後の安泰を約束して臣従させた。
天下統一した秀吉は、金の産出量が多い越後を景勝から取り上げた、代りに会津と米沢、従来の領地だった山形の庄内地方を与えて120万石の大大名とした。
そして豊臣政権の大臣と言える五大老の一人に抜擢した。
春日山城には秀吉の天下統一の功臣である堀秀政の息子、堀秀治を30万石で入れた、秀治は直江津に平城の福島城を築城して春日山城を廃城にした。

冬の春日山城 緑に覆われる春から秋にくらべ城の様子がわかりやすい
尾根の、写真中央のやや右の木の中に小さな小屋のようなものが見える
謙信が瞑想や戦勝祈願に籠った「毘沙門堂」である。
尾根の辺りが本丸で、徒歩で行くことができる。





急峻な山城


すぐ隣の春日山神社にも参拝した、商売繁盛の神様だそうだ。
今年に入って四社目の参拝。





神社付近から高田平野と市街地を望む


上杉謙信公の銅像が越後の山並みを見ている


*戦国時代
足利将軍の室町幕府の権威が落ちて、全国で下位の豪族が上位の豪族(大名)を追放や滅ぼす「下剋上」が起った。
ついには将軍さえも部下に追われる時代になり、日本の政治秩序が崩壊して日本中で戦が始まった。
一般的には1467年の応仁の乱が戦国時代の始まりとされている
戦国時代の終結は、1616年に徳川家康が豊臣秀頼を滅ぼした大坂夏の陣とされ、約150年間を戦国時代と言う。
武田信玄、上杉謙信の最盛期は1550年代、織田信長の最盛期は1570年代
豊臣秀吉の最盛期は信長の死後、徳川家康の最盛期は秀吉の死後。

戦国5大カリスマ通信簿
山梨県 武田信玄 戦闘力90 知謀策略95 拡大実績25 忍耐80 後継者20 人間性35 政治65  人使い80
新潟県 上杉謙信 戦闘力100 知謀策略30 拡大実績10 忍耐30 後継者80 人間性100 政治40 人使い50
名古屋市 織田信長 戦闘力75 知謀策略70 拡大実績75 忍耐50 後継者40 人間性15 政治95 人使い100
名古屋市 豊臣秀吉 戦闘力80 知謀策略100 拡大実績100 忍耐90 後継者10 人間性90~30(晩年の残虐性) 政治80 人使い80
愛知岡崎 徳川家康 戦闘力75 知謀策略80 拡大実績70 忍耐100 後継者100 人間性80 政治100 人使い75

「織田がつき 羽柴(秀吉)がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」
となれば、「信玄が準備の臼と杵、謙信が届ける餅米を」を頭に持ってくれば、なおよろしかと。