信長は文を見ずに焼かせたため、長曾我部元親が妥協して条件を全面的に呑むことは知らなかった、(しまった、そうであったか)
と思った瞬間、この独裁者は並みの人間のように「そうであったか・・ならば許そう」とはならない、そんな軽い首(こうべ)ではない、こんな時こそ威厳が必要だということが身についている
「今さら詫びたとて遅いわ、すでに総大将信孝は伊勢を発って安土に向かって居る、最初から言う通りにすればよいものを」
「しかし、降参している者を、それはあまりに惨い」
「惨いだと、いちいち感情に流されていて日の本の統一ができると思うか」
「そこを何とか・・・」
「ええいくどい、お前の喜ぶ顔を見たいと呼び寄せたに、その物言いはなんじゃ、いつまでも四国だ長曾我部だと細かなことにこだわるではない、長曾我部だとて殺すとは言っておらぬ、許して後に使い道もあろう、今は儂の思う通りに従えばよいのじゃ、不快である、二度とそなたの顔は見とうない、早々に行ね」
光秀は青ざめた顔のまま退出していった
(思った通りよ、光秀めしばし眠れぬ日が続くであろう)
5月27日家康の一行が浜松から安土に到着した、信長は終始にこやかに家康を安土城の豪華絢爛な各部屋から大展望の天主閣まで自ら案内をした
昼には伊勢から織田信孝が15000の兵を率いて安土に到着して信長に謁見した
兵たちは城下の各所に警護を兼ねて今宵は宿営する、信孝は夕方からの饗宴に参加するのだ
予定された出席者の中に明智光秀の姿がないことを多くが不審に思った、信長の家臣に問うと「体調がすぐれぬと聞いております」と誰もがそう言った
50名ほどが招かれた宴は大盛況であった、信長の天下統一はもはや誰の目からもまじかに見えている、足利将軍家の力が無くなって起こった戦国時代も100数十年かかってようやく終焉を迎えようとしていた。
織田家は49歳の信長を頂点に信忠、信雄、信孝の3人の息子が成人してそれぞれに一軍を任せられるほどに成長している
信忠は既に総大将として、本願寺、播磨の鎮圧、武田氏殲滅戦を指揮してすでに信長の後継者として誰もが認めている
次男信雄も伊勢水軍を率いており、また伊賀攻めを成功させて、一回目の汚辱をそそいだ。
信孝は上の2名に比べて母の出自が低いため、一目下がっているが、此度は四国の長曾我部攻めの総大将として与力大名を含めて2万5000の軍勢を率いて渡海する
翌日、家康一行は安土城下を見物した後、京の二条城で一泊、そして大坂、堺の見物をゆるりと楽しんでから帰国する予定である。
また織田信孝の軍勢も摂津で織田信澄、丹羽長秀、池田恒興の軍と合流するので、翌28日午前に安土を発った
信長も大きな仕事を終えて一休みのあと、未だに腹立たしい明智光秀に新たな命令書を書いて届けさせた
そして自らは信忠と合流して1200ほどの兵を引き連れて29日早朝に発って、その日のうちに本能寺へ入った、信忠は兵1000余を率いて本能寺から近い妙覚寺に駐屯した、信長には旗本と小姓衆100名ほどがついて警護や身の回りの世話をした
翌30日から6月1日にかけては関白、前太政大臣を先頭に公家衆をはじめ京、大坂の著名人が天下人となる信長に拝謁するために訪れ、信長も満足な2日間を過ごした。
28日夕刻、信長からの上意を受けた明智光秀は青ざめた
その内容は、①備中出陣は取りやめとする ②かわりに摂津に兵15000を率いて信孝の旗下に入り、長曾我部攻めに加われ
③日向守の現在の領地である丹波、山城、近江の支配地はすべて召し上げる
④代わりに四国平定の後、土佐と阿波の二か国30万石を与える
明智日向守 右大臣平信長
しかも追い打ちをかけるように、上使となってやって来た森蘭丸、坊丸の兄弟の長兄の森長可(ながよし)は越後戦線の大将として活躍して信長の覚え愛でたい、弟の蘭丸としても自分が信長には無くてならぬ寵臣であることも含めて得意絶頂である
蘭丸が光秀にささやいた
「明智様、お屋形様が腹にはこれだけでは収まっておりませぬ、常日頃より奥方のお濃さまの失踪が明智様の手引きではないかと疑っておられますぞ、しかと心に留め置きくだされ」
「なんと惨いお方じゃ、この儂と長曾我部が同族と知りながら儂に滅ぼせと申すのか、まして儂にすがってお屋形様にとりなしてくれと頼まれているものを、しかも長曾我部を滅ぼさねばわが一門は路頭に迷う、幾重にも儂を陥れようとする魂胆が憎い」
光秀はどうしてよいかわからなくなった
しかも光秀と従妹になる濃姫との仲を信長が疑っているとはどういうことであろうか、信長の猜疑心の深さと、森蘭丸の小面憎さが気に障る
だが一度疑いだすと、とことん追い詰める信長のやり方を知っている、残り少なくなってきた自分の前途さえ危うい、目の前が暗くなってきた
そんな悩みを抱えながらも命令には背けず、領国の丹波亀山に戻り、兵を整えた。
信長が本能寺に入った29日、越後では森長可の軍が春日山城から10kmほどの村に陣を敷いた
景勝の生誕の地である魚沼郡にも滝川一益の万余の軍が侵入して、越後の分断を図っている
しかも越後北部には内応した揚北衆と、早くから信長と誼(よしみ)を通じた伊達輝宗(政宗の父)の軍が上杉景勝を脅かしている
越中の上杉最前線、魚津城も本丸を残すだけとなった、いよいよ上杉家の最期も近づいている