神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

音楽遍歴とクラシック音楽

2025年01月07日 19時45分28秒 | 音楽
 戦後間もない、海辺の田舎の貧しい行商の子供だったから音楽とは縁がなかった    と言いたいところだが、父は東京暮らしから田舎へ来たばかりのアラ30、なかなかおしゃれにうるさい、粋なハイカラさんで、モテていたのだ
だから田舎庶民では珍しい、カメラや手作りの蓄音機を持っていた
だから私も一桁の幼児時代から78回転のSPレコードで三橋美智也、島倉千代子、神戸一郎、灰田勝彦、春日八郎などを聞いて育った。

小学校6年生の時、音楽の時間にクラシックのレコードを聴かされて驚いた
子供なりに自分が住む世界には縁がないハイグレードの音楽だと感じた
同級生女子にピアノを弾く子が居た
会社経営者の一人娘だった、近づける人ではないと子供ながら思った
中学生の時にはバレーを習っている同級生女子がいた、教師の娘だったが、眩しかった。
その頃、ビートルズに触れて夢中になり、高校では禁止のバンドを結成して何度か同級生を集めて公民館でコンサートを開いた
いつも10人くらいしか来なかっから
先生をだまして運動会で2000人を前にグラウンドで二曲演奏した
あれが高校時代の三大思い出の一つだ
あとの二つはHD子、HR子との思い出

音楽にもどる
社会に出て、すぐに吉田拓郎のイメージの詩に衝撃を受け、それからサザンの勝手にシンドバットに衝撃を受けた
それから当時若者のメッカとなった新宿、そこのピットインで500円のコーラを買って生ジャズを聞き、俄ジャズファンになり、新潟の古町の路地にあるジャズ喫茶スワンに毎週一人で通ったが、田舎に戻るとジャズは縁遠くなった。

1980年、ビリージョエル、マイケルジャクソン、ドナサマー、ビージース、オリビアニュートンジョンなどに少しなびいたものの、なぜか加山雄三が好きになって聴くようになった
90年代は、毎週次男とドライブをして聴いていたのがキャロル
同じCDを聞き潰して3枚買ったほど
そのあとは世界の矢沢にシフトした
21世紀のはやり歌は知らない
覚える前に消えていく。

この頃、やたら寂しい
冬の悪天候の毎日が寂しさを増幅させる、なにもする気にならず毎日コタツに入ってテレビを7時間見ている
晴れ間を見ての散歩が唯一の運動
朝も8時頃まで寝ている、おきても寒いし、やることもないし、レコードやCDを聴いても気持ちは沈んだまま

昨日の夜、次男の部屋からCDを適当に持ってきてわからぬまま聴いたら、それはバイオリンのクラシック曲だった
バイオリンは、ひまりちゃんのyoutubeを見て唯一受け入れたクラシック

偶然聴いたのはアルビノーニのアダージョだった
渇水していた心が潤っていく
いま荒みかけていた心を洗われていく
求めていたものがわかった気がした
それからバッヘルベル、バッハ、ヘンデル、ビバルディ、マルティニ、などの曲が続く
リチャードカップ指揮のニューヨークフィルハーモニーア室内管弦楽団のCDだった
今朝も目覚めて、これを聴きながら身支度した
75歳、もうクラシックを聴いても良い年齢だろう、それだけの経験も重ねたはずだ
老いていく身にクラシックは似つかわしい
若き日を思い出すのではなく、重ねてきた傷を忘れさせてくれるのではないだろうか。




ジョン・レノン

2024年12月11日 07時29分03秒 | 音楽
 12月8日の投稿では昭和16年の同日に始まった日本の戦争について書いた
12月8日と言えば、もう一つ私の関心事があった、それは1980年の12月8日
ニューヨークでジョン・レノンが暗殺された日でもある
ジョンは私より10歳上で1940年生まれだから、殺害されたのは40歳の時だった。

もう今は2024年、あと22日で2025年になるから、もうジョンが死んでから44年が過ぎたのだ、二巡目のジョンの人生ももう終わったのだ
私にしてみれば、つい十年前くらい前の出来事にさえ思えるが、今の20代、30代、ましてや10代はビートルズさえ「知らない」という人が多くなった。
無理もない、私が15歳の時には45年前と言えば大正時代中期だから、その頃の浪花節や歌舞伎のスターを知っているかと言われるようなものだ。

初めてビートルズの曲を聞いたのは何度も書いているが、映画「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」を森永製菓だかのコマーシャルにショートカットで出て、それを見た時だ
確か1964年だと思うから中二の時だ(14歳)、そのLPに入っていた「恋する二人」に痺れっぱなしだった、日本でもチャートの一位になった
日本ではその後に「ロックンロールミュージック」が大ヒットした
日本では英米より2年くらいビートルズの人気が出るのが遅れているから、LP
3~4枚分のヒット曲が一気にレコード化されて、ラジオのヒットパレード
「ハローポップス」「9500万人のポピュラーリクエスト」「東芝ヒットパレード」などで上位を独占し続けた
ライバルはアメリカでは全然人気がないのに、なぜか日本では大人気で、ビートルズと争ったベンチャーズ、今でもファンが途切れない。

レコード店へ行って「Meet The Beatles」というLPレコードを買った
これは「ヤア!ヤア!ヤア!」の前のレコードでビートルズのデビュー曲からヒット曲のオンパレードの曲ばかりが並ぶ初期の最高傑作盤だ
この中の「抱きしめたい」がアメリカで爆発的な売り上げをして一躍イギリスのビートルズから世界のビートルズになった瞬間だった。

15歳の時には高校受験で合格して入学までの間の休みに、映画館でイギリスの音楽映画「ポップギア」を見て初めて動いて歌うビートルズを見て、女子のように失神しそうな衝撃を受けた、この映画での曲は「ツィスト&シャウト」と「シーラブズユー」
アニマルズや、ハーマンズハーミッツ、シラブラックなどトップアーティストも出ていたが、まったく衝撃度が違った。

あの日からビートルズにすっぽりハマった、新曲が発売になるたびにレコード店に走った
シングル盤は330円だから買えたが、LP盤は1800円くらいなのでなかなか買えず、高校生になるまで我慢した
18歳から19歳に変わる頃に板前修業に入って住み込みになって、下っ端の時は個人的なプレーヤーやステレオをもてなくて音楽から遠のいた
もっとも私が好きなビートルズの曲も1968年頃には、だんだん凝った曲が多くなって興味が薄れて来た
そして1970年代に入って。やがて解散した、それ以後、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの二人の天才は個々に楽曲製作を始めた
再結成を私は願っていたが、それもならなかった

一番のショックは、ジョンが学生時代に結婚した妻、シンシアと別れて、日本人の前衛芸術家オノ・ヨーコと結婚したことだ
それ以前、ビートルズメンバーがLSDなどの薬物を使用するようになったのもショックだった
ジョンは日本人と結婚するのかと驚いた記憶がある、急にジョンを身近に感じた
ジョンもポールも次々とレコードを発表していったが、私はどちらも1枚ずつしかLPを買っていない
もうカセットテープの時代で、ラジオの音楽番組から録音して聞いたりしていたし、ビートルズとは別物と言う認識だった
それでもジョンの曲は、時々素晴らしいのが発表されて、結構聞いていたのだった。

まさか白昼堂々と暗殺されるなんて考えもしなかった、それも犯人はジョンの大ファンだったというではないか、本当かどうかはわからないが。

今はビートルズのLPも、ほぼ全部そろって時々聴いている
有名になる前の下積み時代のキャバンクラブでの演奏を個人が録音した音質の悪いのをレコード化したのを買ったり
アメリカツアーのコンサート版、とかトニーシェリダンのバックバンドでの曲だとか、いろいろ買い集めて聞いたものだ

先日、ジョンとポールの二人のデビューからジョンの死までの10時間近いインタビュー(関係者への)番組を見た
もう一度すべての手持ちレコードを聞き直したくなった、それと70年代のジョンとポールの評価が高いレコードも買って聞きたくなった。









レコードの楽しみ方

2024年11月02日 08時38分38秒 | 音楽
 私がレコードを買い始めたのは中学二年生からで、20代前半までの10年足らずの短い期間だった
だから枚数もそれほど多くはない、何といっても高校時代は小遣いが、毎週500円だたからね
あの頃はSPレコード(2曲17cm)は330円くらい、EPレコード(4曲入り17cm)が500円、LPレコード(10数曲33cm)1800円くらいだったから、1か月2000円くらいの小遣い&お年玉で毎月2枚くらいは買えた
それで約60年間、今も手元にあるのはLP80枚くらいとEP+SP100枚くらい
レコードの期間は最初に書いた通り10年足らずで(夢中だったのは5年くらい)社会に出てからは住み込み生活だったので、機器も無くレコードを聴く時間も無かったので20歳以後はほとんど買っていない)
帰郷してからは車で遊ぶことが多くなってカセットテープに代わり、その後はCDへと移行して、レコードは忘れ去られた。

この頃、先のことを考えると、レコード世代でない息子にはお荷物以外の何者でもないと思い、処分も考えた
それで処分前に品質チェックと、もう一度聞きたい思いが重なって、少しずつ聞き直している

私のレコードは9割が洋盤で、その多くがロックとポップスだ
英語には興味なかったが、ビートルズから入ったので洋盤になったわけで、ほとんどが演奏とリズムのカッコよさに痺れていたのだった
因みに一番最初に買ったのは映画音楽(洋画)とクリスマスの曲のソノシートだった、SPレコードの初は「ラ.ノビア」(イタリア語)、LPレコードの初はミートザビートルズ、帯付きで持っていれば現在はかなりのレア金額で売れるらしいが、残念ながら帯は紛失してしまった。

ともあれ、レコードの聞き直しをしているが、聞き方に変化が起こった
なんで74歳まで気づかなかったのだろうか、もっと詞を聞くべきだった
今日、英語の詞をじっくりと聞いていたら、結構聞き取れる
曲というものはメロディと詞と演奏&歌い手で成り立っている、それなのに詞を無視していたのは75%しか楽しめなかったということだ
これを繰り返し聞いていたなら、苦手なヒアリングも得意になっていたかもしれない、残念だ
「キルヒーミ」とか「アイソユウ」「ドリームカムトウルー」なんてフレーズは良く出てきたが若いころは意味を知ろうともしなかった
「キルヒーミー」と聞いていたのは、Can you  hear me で「聞こえますか?」「アイソユウ」は「愛想云う」で無くて I saw  you  「あなたを見た(会った)」 I saw  you  comeback  to  me (あなたを見かけたわ 私の元に戻ってよ)  「ドリームスカムトウルー」はアーチスト名でもあるが「夢は叶う」
歌詞はビートルズの初期がそうだけど小中学校レベルの英語で構成されているのが多いから、初歩英語には向いている

ああ、もっともっと知ることが出来たのに・・・
そう思ったが、「過去を悔やむな、過去を振り返るな、そんな時間はない」がこれからの私のモットー
「前を見て、前に進め」これで行くのだ
故に、今からでも遅くない、正しい発音、正しいヒアリングをレコードで学ぶのだ
バカみたいに飲みに出ていて、中国やピリピーナのお姉さんと話していて、何度も彼女らが日本語を話すことが不思議でならなかった
上流階級の中国人やフィリピン人ならば語学も学ぶ環境にあっただろうが、日本に出稼ぎに来ている娘たちは貧しいがゆえに来ている筈(当時は、です)
昔、フィリピンに行った時、ガイドさんが「フィリピン人はアメリカの占領下にあったので誰でも英語を話しますが、学歴が高い程、完璧な英語を話します」と言っていた。
前置きが長くなったが、要するに語学を学ぶ機会が少ないにも関わらず、日本語を話せるのはなぜなのか、高校、大学を出てもまともに英語を話せない日本人が多いのに・・・

彼女らに聞いたら、多くが「日本の歌を歌いながら覚えた」と言った
今なら「日本のアニメで覚えた」と言ったところか
なるほど、今になって、それを思い出した
私も、今から英語のレコードを毎日聴いて、詞を聞いて覚えようと思うのであった。

PS
英語でも米国英語、英国英語がある、米国でもカルフォルニアとテキサスとニューヨークでは訛りが違うだろう、英国だってビートルズのリバプール訛りとストーンズのロンドン訛りではちがうだろう
レコード英語は米英と各地の訛りが入り混じったミックス英語になりそうだ。

  SP


  EP                    LP

オールデイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト/キンクス The Kinks - All Day and All of The Night

聖子ちゃん

2024年03月08日 09時21分40秒 | 音楽
日本人の歌好きは戦後から多くの歌を聞いて熱狂してきたのは「ブギウギ」の通りで、戦争も終わり、敵国音楽も今や口ずさみ楽しんだ。
本格的ないぶし銀の技というのではなく、大衆向けで10年20年続くヒットメーカーと言えば、プレスリー、美空ひばり、三波春夫、ビートルズ、タイガースと和洋入り乱れ、さらに松田聖子、キャンディズが登場してくる
未だに「聖子ぶりっこ」の面影を残して時々テレビで見かける。

私は正直なところ聖子ちゃんは作られたアイドルと思って、少しも興味が無かった、ところが昨日聞き直してみれば、たちまちはつらつとした歌声に引きずり込まれて、あの昭和の華やかさが蘇って来た。
松田聖子が、こんなに歌がうまかったとはしらなかった、「聖子ちゃんごめんね」

今の日本は株式だけが「日本経済最高!」と喝采だが、多くの庶民は白けている、現実に生活保護を受けている世帯が約165万世帯、この一年で申請したのは25万5千件だという、いずれも調査開始の2013年以降最多だという。
しかも若年層にまで広がってきているということだ
原料費(仕入れ)の高騰に経営が圧迫されている新潟県の企業は9割にのぼるそうで、解決策は値上げしかなく、すでに動き始めているという
そうなればますます物価が上がる、政府は高収入企業に賃金値上げを要請し、景気の良い賃上げが新聞をにぎわしている。
しかし地方の零細企業は上げれば経営圧迫、上げなければ社員の貧困の板挟みだ、当然ながら年金生活者の暮らしの貧しくなることは労働世帯の比ではない
老人は「食べない、出かけない」から大丈夫などと言ってほしくないが、辛抱強さで我慢しているうちにお迎えが来るか・・・。

という暗い世相ではありますが、聖子ちゃんの歌は元気づけてくれます、いまや聖子ちゃんは私のアイドルです。
聖子ちゃんも10日で62歳になるがさすがは芸能人若々しい、もと亭主の神田正輝は私と同年生まれだから、それほど違和感はない。
気持ちが落ち込んだ日は聖子ちゃんと拓郎くんの歌を聞いて元気を出します。










天性のバイオリニスト「HIMARI」

2024年02月06日 09時03分54秒 | 音楽
 夜が寂しい・・・「年甲斐もなく」とおっしゃるなかれ、意味が違う
私の部屋にはまったく音が無いのだ
テレビもオーディオもなく、DVD機器とモニターテレビ、それとパソコンとラジオがあるだけ。
自分の部屋のテレビが故障して以来、テレビは居間、オーディオもそれぞれ別の部屋にあって、「ながら族」の私にはつかえない部屋になっている。
それで近いうちにラジカセを買おうと思った、しかし近頃は退屈な夜は解消されつつある、ブログに時間を割くのも解決法の一つだが、音楽を聴くことを覚えたからだ。
「youtube」がそれである、今までもyoutubeは見ていたが、日本を褒めたたえる記事、ヘイトに関する記事、戦争の記事、そんな語り系ばかり見ていた。

ところが「HIMARI」のバイオリン演奏を見てから急に音楽系のyoutubeに目覚めた、とうぜんながら今までも60年代のサウンズなどは時々見ていたが、クラシックは年末の「第九」以外見たことがない。
それが心を洗われるような「HIMARI」の演奏に夢中になっている
毎日30分~2時間も聴いている。

「HIMARI」=吉村妃鞠 今は12歳だろうか? 5歳でデビュー世界の音楽コンクールに出て、常に優勝をしている国際的な少女バイオリニスト
7歳ころの動画が一番好きで、同じ動画をもう10数回見ている。
外国人の審査員が全員満点をつけて「この上の点数があれば、それをつけたい」と言ったり、審査員がアンコールを求めるなど信じがたいことが起きている。
感激した前澤友作氏が所有する最高級バイオリン、「ストラディバリウス Hamma」を貸してあげたそうだ。

小学校で言えば1~2年生が15分から25分もの間、子供らしからぬ高度なテクニックを用いて、しかも譜面もなく延々とパートを一度の間違いもなく弾きこなしていく姿には感動以外ない。
細い腕、小さな手ですばらしい演奏をする、いままで退屈だったクラシック(だからじっくり聴いたことがない)、それがHIMARIを知ってから、毎日聴いている。
表情が良い、空気の中に溶け込んでいるような無表情に見えて素晴らしい生き生きとした表情がある
あんなに小さいのにプロのオーケストラの中で淑女となって立派に堂々とふるまう、礼儀正しく、そのくせ子供のままなのだ、感動せずにいられない。
今は多分12歳と思うが、欧州の世界の中でも一流になりうるクラシック子弟が学ぶ大学に留学して18歳以上の大人学生に混じって毎日猛練習をしているという。

中学校や高校の勉強はどうするのか?などと野暮な考えは持たなくても良い
その道で彼女はもう大人以上の大人に成長している。
我々凡人は、その道を見つけるために小学校から大学まで学び続けるが、彼女は小学生の時点で自分の人生を見つけたのだ。

同じ年代の小、中、高校生クラスのバイオリニストよりも明らかに勝っている
クラシック演奏に全く素人の私でも伸びのある音色、高音、低音、タップ、ピッキング、強弱、激しさ、やさしさ、スピードの遅速、指先の動き、さらに表現不可能なテクニックがわかる。(以上の言葉は、無知な私が知っている言葉を羅列しただけである)

彼女はもう大人のプロ奏者並みなのだろうか? そんな疑問を持って大人のプロ演奏も5人ほど聴いてみた
彼女との違いで一番感じたのは、大人の力強さと自信だった
音が力強く走っている、HIMARIはまだまだこの域には達していない
野球でも高校野球のトップ選手と一流プロ選手に大きな差があるのと同じだ
気づいたのは、やはり体ができているか、いないかの違いだ
センスや技術は子供であっても天性の部分では変わりないと思う、しかし野太い音や、力強い音が筋肉量の少ない子供には出せない

やはり大人のプロは大人のプロだ、HIMARIにはまだ目指すところがいっぱいある、だからこそ今、学んでいる。
体もこれからは大人になっていく、楽器のサイズも変わるかもしれない、今まで使えなかった楽器が使えるかもしれない
精神的にも、感情面でも変化が起こるかもしれない、とてつもない音楽家になるかもしれないし、平凡な音楽家で止まってしまうかもしれない
けれど彼女が20歳になった頃に今のままの成長を続ければ、プロの中でも際立った世界的な存在になることは間違いない。
これから先もずっと注目していきたい演奏家だ。

大谷選手が世界一クラスの選手として今活躍しているが、彼女もバイオリン界の大谷クラスになれることを祈る。

興味がある方はyoutubeでご覧ください。
彼女のおかげでクラシック音楽に目覚めそうです、それと「さよならマエストロ」の影響も大きい
今年はクラシック音楽に目覚めてしまうかもしれない。




最近の音楽事情

2023年12月15日 11時08分06秒 | 音楽
 近年の暮らしでもっとも不足しているのは読書量と音楽鑑賞だろう
読書の減少は視力の変化が原因と思われる、本当は毎日何かしらの本を読んでいるが、時間が短くて10分から長くても30分といったところだ。

音楽鑑賞はレコード、CDを聞く時間が極端に減った、車もカーオーディオの故障でCDが聞けなくなってラジオばかり聞いている、おかげでラジオ番組はBSN(新潟)KBS(富山)SBC(長野)を比較できるくらい詳しくなった。
そのかわり聞きたくなるとYoutubeで聞くことが増えた、長い時は2時間近く聞いている。
それと吹奏楽団のコンサートを聞きに行く回数が増えた、もちろん田舎だから地方のアマチュア楽団や小ユニットの演奏だ。
ロックライブは見に行くことがなくなった、最初から椅子席が無くて立って熱狂する歳ではなくなったからだ。
今は家で映画音楽やジャズボーカルを静かに聴いているのが良くなった

先日の夜、知り合いの事務所の前を通ったらまだ明かりがついていたので寄って見たら、事務仕事をしていた。
彼は以前は市民オーケストラの団長をしてトランペット吹きでもあったが、最近退団して、今は隣町のジャズバンドに入ってトランペットを吹いているそうだ、女性歌手のボーカルもあるというから興味津々。
今度演奏会があったらチケットを欲しいと頼んできた
プロは当然ながら素晴らしい演奏だが、アマチュアバンドでも、アマチュアの耳しか持たない私には十分楽しむことができる。

昔はビートルズだストーンズだと一理屈こねたりして楽しんでいたが、今は理屈抜きで曲を楽しむだけになった。
道具に凝ることも音響環境を考えることもない
そこにある身の丈に合った道具を使って聞くだけだ、当然音質など良いはずもなく、それはライブで楽しめばよいと思っている。

聞くのも良いが、やはり歌うのが楽しい
年金暮らしになって、仲間と飲みに出ても二次会に行く回数も極端に減って1年に3~4回になったから、(現役の時は3次会は当たり前で月4~5回は行ったものだが)カラオケを歌うことも無くなった。
これからは歌いたいときにカラオケボックスで歌うことを覚えたいと思うが、これがなかなか出不精で(カラオケに関しては)思い切りが必要だ。

人生に音楽は切り離せない、カニを外している時も頭の中でリズムを聞いている。
録画したテレビドラマはオープニングに流れるタイトル曲は全て聞くか、早送りで飛ばすかどちらかだ。
最近のドラマで聞きほれてしまうタイトル曲は「コタツのない部屋」の石川さゆりさんの「ダメ男数え唄」、思わず腰を振ってしまう。
このドラマの為に作った曲なのだそうだ。
もう一つは「うちの弁護士は手がかかる」のテーマ曲、ローリングストーンズの新曲「アングリー」、リズムも良く、ミックジャガーの齢を感じさせないセクシーな腰ふりには参ってしまう。
                         以上







レコードの虫干し

2023年07月06日 10時15分08秒 | 音楽
エンジェルスお疲れ様 3連敗スィープでドジャース戦突入
大谷もお疲れ気味で、打撃も精彩が無い 力ない二塁ゴロばかり
ネビン監督もイラついて今期4回目の退場だ


同じルーティンが続くようになると新たな刺激を求めるようになる
そんなに行動範囲を広げたり、資金投入することはできないから、、身近なところから探し始める。
それで思い立ったのは「レコードSP盤の虫干し&チェック」
なにしろ中一から成人後までの50~60年前のレコードばかり、放置していけば、だいたいゆがみがでたり、カビが生えたりして捨てざるを得ない。

何年かに一度ずつ盤の手入れをしてきたので、状態の良いレコードが多い
チェックは盤面の傷、音飛び、雑音、ゆがみ、汚れ、レコードジャケットの状態
盤の色などである。
裏表を聴いて、状態をメモ紙に書いてレコードの中に入れる。

何年も聴いていないと、やはりイメージと違った聴こえ方がしてくる
同じ曲を聴いても、年齢によって感じ方も違ってくる

運動不足もあるから、音楽に合わせて体操したり、その時代、その曲に合った踊りをするのも良い運動になる
70過ぎのおっさんが踊っている姿など誰にも見せられないが、なかなか良い汗をかく、フローリングなので裸足で踊っていると音もしないしgood !

ツィスト ゴーゴー モンキーダンス ブガルー スネークダンス シェイク
色んなのが時代ごとに流行した
白馬のスキー場では、ホテルのダンスホールでターンだとか教えてもらって、一晩霧のダンス教室、20代はまさに花が咲いていた時代だった
50年前を思いながら、虫干し&健康ダンスを頑張ります。


今日の虫干しSPレコード
夢のマリーナ号、クルーエルシー、青い渚をぶっとばせ、君といつまでも
以上(ベンチャーズ ) ゴールドフィンガー(ジョンバリー楽団)
真っ赤な太陽(Tボーンズ) 恋の終列車、霧のカレリア 以上(スプートニクス)

ウィーン少年合唱団

2023年06月07日 10時15分08秒 | 音楽
1498年に神聖ローマ皇帝が創設した聖歌隊が始まりだそうだから、もう520年以上の歴史がある少年合唱団だと言うことです。
ブルックナー、シューベルト、ハイドン、モーッアルトの4組に分かれていて、今年はハイドン組が来日公演です。

富山県には黒部と砺波で公演、私も昨日の夜、行ってきました
全員がマスク、観客の9割が女性でした、半そで姿は私以外に一人しか見ませんでしたが、少しも寒くなかった。
休憩時間は20分でしたが女性トイレは数十人の列、男子はがら空き、男に生まれて良かったとおもう一瞬です。

「天使の歌声」の通り、ボーイソプラノの美しい声が響きます
アカペラでのハーモニーの美しは、映画で見る聖歌隊のあれのままです。
子供の頃、映画か何かで一度ウィーン少年合唱団の合唱を見たことがあり
あれ以来、一度は本物を見たいと思っていましたが、こんな近くで公演がありさっそくネットで申し込みをしたのでした。

二階席、三階席、それぞれにウィング席もあり、高い天井で音響も良いかと想像させます。
私は一階席の15列目くらいの一番右端で?と思いましたが、右が通路で、その隣が壁、人に挟まれるより右に通路分の余裕があって楽でした。
二階席、三階席も見てきましたが、やはりステージは遠い、まあまあ良い席に当たったと思います。 約750席満員です。


拍手と共に現れた指揮者ピアニスト(カペルマイスター)JimmyChiang氏と25名の少年たち
思ったより少年でした(当たり前だが)10歳から14歳だとのこと
中には小さな子もいて(だいじょうぶかなあ)なんて思ったり
でも彼らは少年期4年間に世界を駆け巡って歌い続けると言う貴重な体験をしているわけで、人生に大きな影響を受けた国際人としてはばたくのだろう
メンバーには、Manabu Nobutaka Rentaro と言った、日本人か日系人のような名前も見える

第一部はモーツアルト、ハイドン、シューベルトなどのクラシック音楽や讃美歌のような聖歌隊らしい曲目
第二部は日本語での荒城の月、ふるさと、旅愁なども含め、ポルカや世界各地の心の歌、そして最後はウィーンを象徴する「美しく青きドナウ」
その後も疲れているにもかかわらず、2曲アンコールにこたえてくれました。
最後の曲は観客も一体となって手拍子で参加、大盛り上がりで楽しく過ごさせてもらいました。
指揮者先生のピアノ伴奏も白熱の演奏で力が入ります、素晴らしいの一言に尽きる

人口が少ない過疎の町に、こうした有名な合唱団が来ることは滅多にありませんから、こういう機会を行政に作ってもらいたいと思います。
文化に触れることが少ない地方、いろいろな若者定着方法を考えているが、相変わらず減るばかり
田舎にいても、こんな大きなイベント、こんな立派なエンターティナーや文化公演を頻繁にみられる、こういったことも定着のための一助ではないかと思う私は、こんなコンサートがあれば必ず見に行こうと思いました。





私と音楽 最終回

2023年04月12日 14時10分19秒 | 音楽
 私にとっての音楽は、何のこだわりも執念もない楽に聴ける音楽である
日記の断捨離の為、一日一行転記作業を続けていて、今は20歳の誕生日を迎えた
ここまで転記して気づいたことは、高校入学前に私の人生設計は決まっていたということである、父と同化して二人三脚で「無から有、有から安定」という二世代で安定した家庭を築く、そのような設計を高校時代から結婚までの間、語り合ったのだった、それは日記に記してあった。

 進む道が決まっていたということは、それだけに集中して努力すれば良いと言うことであり、それ以外はほとんど流して生きていけば良いと言うことにもなる
学校の勉強、試験勉強、受験勉強も必要なことだけに集中すれば良かった
高校のレベルもそれほど高いわけでもなく、勉強しなくても入れるレベルだったから受験日の前の日まで、ラジオのポップスランキング番組を聞いていたのだった。

 音楽もバンドはやったけれどミュージシャンを目指すわけでもなく、集まって各楽器の音程を併せて曲を演奏することが楽しかっただけで、テクニックがどうとかのレベルではなかたった。
むしろ、バンドについて回る、エピソードの方がよほど面白かった
ただバンドをやったことで、学校で受験のために頑張るだけの日常よりは、少しだけ広い世界が見られた、それは何の糧にもならなかったが青春の1ページとして今も記憶に残っているのだ。

 バンドというのは面白いもので、メンバーだけというわけではなく、メンバーの彼女を通じて、女子が集まってくる
するとグループ的になって演奏会以外でも遊びまわるようになる、二年生まで特定の友達としか付き合っていなかった私だが、三年生はバラ色の人生だったと言って良い、音楽を通して楽しい学校生活が送れたのだ
今でも、そのメンバーの男女とは連絡を取り合って遠方の者でも2年に1~2回は会っている。

 社会人になって料理人修行に出たが、車の運転、配達も業務だった
配達に出てカーラジオを聞くのは緊張の板場からの解放だったが、1970年、吉田拓郎のデビュー曲「イメージの詩」は衝撃だった
それで吉田拓郎を知ったが、1972年には「結婚しようよ」がでて、まさに私にはエールに聞こえたのだった

 この頃、新潟で4歳年下の17歳のA子と付き合っていた
陰のある子で訳ありそうな高校中退女子、でも性格は明るかった
古町でデートした時、商店街では「結婚しようよ」が流れていた
「兄貴の彼女が、そこのレコード店に勤めているんだ、ちょっと顔を見てくる」と駆けだしたので、ついて入った
勢いで「結婚しようよ」のLPを買ったが、自分が盤を手に取る前に彼女が
「わあ、これ聴きたかったんだ、貸してもらえる」「いいよ」
二度と、このレコードは帰ってこなかった

 それでもタイトル通り、田舎者の私はマジでA子と結婚したい気分になっていた、そしてある冬の夜、それを言ったこともあるが軽くかわされた
本当に純朴な田舎坊主だったのだ、A子は若いのに百戦錬磨だった
彼女の家に遊びに行ったこともある、両親とも話したこともある
彼女の父は地元大手企業の労働組合長だったから家もしっかりしていると思っていたが・・・
 それから半年の間に事態は刻々と変化して、最期は思いがけない結末となった、私はとんだ三枚目だったが、彼女も幸福に見放されたし、周りの男たちもみな残ったのは苦い思い出だけだった。
吉田拓郎をテレビやラジオ、ネットで見るたびに必ず、これを思い出す
あの時の、古町の景色は、まさに花咲く街角に見えたのだった。





私と音楽 3

2023年04月11日 09時36分32秒 | 音楽

 創立7年でプロ野球選手を5人ほど輩出した(一軍実績を残したのは一人だけ)野球部をはじめ、スポーツ優先の硬派校だったから(私は硬派ではなかったが)校則で丸刈りだった、当時最先端のビートルズのマッシュルームカットを目指す我々は髪型でまず挫折感を味わったのだ、まさに「青春デケデケデン」の世界だった
普通科高は長髪OK!だったから、そんな理由だけで普通高へ行けばよかったと思ったくらいだった。
私の高校時代にはエレキバンド(エレキギターは最初電気ギターと言っていた)かフォークギターのどちらかをやる子が結構いた。
学校へギターを持って行って昼休みに弾くと、男女何人か集まって一緒に歌った

 エレキの校内演奏はもちろん、持ち込みも禁止という「ガチ頭」の校長だったが、まだ24歳くらいだった美人教師と正義感強い若手美術教師が運動してくれて、文化祭で演奏できることになった,
それで美人教師に片思いの恋をしてしまった
ところが学校の教室でバンド7組が上記2教師の前でリハーサルまでやったのに一週間くらい前になって校長に潰されてしまった。

 血気さかんなわがバンドのリーダーは校長に掛け合いに行ったが中止は覆せなかった。 それで頭を使って運動会の時にクラス対抗仮装大会を利用して、サーカス団の楽団という「合法的名目」で学校創立以来初めて学校のグラウンドの真ん中でエレキギターが鳴り響いた、アンプまで200mもコードをひっぱった努力の結晶だった、さすがの校長も何も言えなかった

 結局素人学生バンドは一時の気まぐれで終わった、演奏者としては下の下の腕前だったから未練はなかった。
 我らの同世代には、南こうせつ、小田和正、寺尾聡、武田鉄矢、上田正樹、つのだひろ、矢沢永吉、堀内孝雄、松崎しげる、萩原健一、岡本信、森山良子、財津和夫、泉谷しげる、沢田研二、井上陽水、谷村新司、細野晴臣、坂本龍一、南義孝、ばんばひろふみ、白鳥恵美子、舘ひろし、イルカ、昭和23年~25年生まれのロック、ポップス系、フォーク系だけでも主だったところこれだけいる、田舎坊主の我々でさえやっていたのだから底辺は広かった
演歌でも今や大御所と呼ばれる歌手も続々誕生した、細川たかし、八代亜紀、都はるみ、和田アキ子、梅沢富美男など、まだまだ書ききれない。
戦後派の登場で音楽スタイルががらりと変わったのだった。

 洋楽ではビートルズを代表にリバプールサウンズとかブリテッシュロックとかで60年代前半まで席巻していたアメリカンポップスをイギリス勢が追い越してしまった
この他にも私が特に夢中になったのはイタリアのカンツォーネで、チンクエッティやボビーソロが特に好きだった、またフランスではシルビィバルタンが好きだった。

 ビートルズは60年代中盤からステージ公演を辞めて、スタジオ録音に徹するようになり、曲のスタイルががらりと変わった
前期のシャウトスタイルから変わり、クラシックスタイル、トリップ、オーケストラ、複雑なキー進行と音源を複雑に組み合わせた音、マニアックで美しい曲になった。
多くの人が後期のビートルズの曲を芸術だ、クラシックだと讃える
だが私はビートルズの単調なロックンロールから進歩することが出来なかったので、続々と出て来た爆発前の62年頃のクラブでの演奏とかハンブルグ公演テープからの編集レコードとか、トニーシェリダンのバックコーラスの曲とか、そんなのばかり集めるようになった
「Let It Be」を買った後、ビートルズレコードは買っていないし、ソロアルバムもポールの「Ram」を買っただけだ。