神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

手習い 真似

2024年06月30日 18時26分19秒 | 趣味
 ちょっとスケッチして見た、ずいぶんと下手になった
絵になっていない、線をうまくひけない、曲線にならない、顔にならない
体の動きが角ばって棒状になる
これでは絵とは言えない

筆字を書いてみた、ちびった鉛筆の字みたいだ
ペン字を書いても先を急ぐばかりで、なめくじの通ったあとのよう

いったいなんでこんなに書くことが下手くそになってしまったのか

ちょっと考えた
どうして絵をかくことが好きになったんだろうか と
生前、母が言うには「5歳ごろ、家の前の小路に、木の枝で毎日汽車の絵を書いていた」と
時々、いなくなるので、ある時、後を追って行ったら
5分ほど歩いて寺の裏の小路へ行き、少し先の田んぼの中を行く汽車が来るまで待っていたと それをじっと見て、また急いで家に戻り
汽車の絵に何かをつけ足していたのだそうだ
見に行くたびに汽車の絵は、細々と部品が増え、車両が増えて言ったそうだ
私には、そんな記憶はないが幼児の頃から絵を書くのが好きだったようだ

蛇足だが、ここに書いた「寺」は女房殿の叔母さんが嫁いだ寺だったから、不思議な因縁があるものだ。

同じころだったが、近所に仕事をしないで毎日プラプラしている20歳前のMさんが住んでいた
窓からのぞくと、いつも寝転んで漫画を書いていた
面白いので時々見に行った、そしたらいろんな絵が描いてある小さな本を見せてくれた
絵(イラスト)の参考書見たいな本だった
動物、乗り物、人物などジャンルごとに書いてあって、それをまねてテクニックを付けて行くらしい
私も小学生になって、どうしたのか知らないが、そんな本を手に入れて、いつも見て書いていた、それで絵の形を覚えたらしい

それを思い出して、有名美術家のイラストをまねて書いてみた
ふむふむ 形にはなった
ここから始めて見るか。

散歩の途中でアジサイに見とれた



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (126) 長尾家 39

2024年06月30日 10時48分09秒 | 甲越軍記
 砦を作り、しばし兵を休ませて再び長尾平六俊景の勢は栃尾城に攻めかかった
されども城はびくともせず、攻めあぐねている三条勢に、長尾景虎十五歳が率いる百騎余りの勢が間道を通って、突如、敵の本陣の横合いから突き入れた
同時に火矢を飛ばし、一同に鬨の声をあげ攻め入れば、本陣は突如の事とて慌てふためき混乱に陥った。

陣中は猛火に包まれ、切って出ることもならず、上を下へと騒ぎ立てるのみ
景虎は、直ちに下知してさっと兵を引く
引き上げながら敵先陣の背後から矢を射かける、城中ではこれを見ていて、本庄美作守が再び城門から打って出た
敵の先陣は、本陣より火の手が上がるのを見て、浮足立っており、本陣の方に引き上げるところだったので、今度は本庄勢に背後を襲われ手も打てず、本庄の成すがままになった
そこに景虎勢も挟み撃ちに攻め立てるので、討たれる平六勢は数知れず
本庄と合流した景虎は引き金を鳴らし軽々と引き上げた。
これより夜討ち、朝駆けに臨機応変、出没の奇計を巡らせて寄せ手の寝る間もなく悩ませる
老巧の平六俊景も景虎のために戦うごとに敗北を喫し、思い通りの戦が出来ぬところに、宇佐美駿河守が援軍を率いて三か所に砦を築き、城方と連携して俊景勢を包囲する形をつくった
挟み撃ちの形になって、平六は「これではどうにもならぬ」と急ぎ兵をまとめて三条に引き上げた。

栃尾に合戦ありと府内の屋形上杉定実にも注進ありて「急ぎ栃尾を救援すべし」と府内城の長尾晴景に命じた
長尾弾正左衛門晴景は自ら五百騎を率いて府内を進発した
栃尾に着陣して弟、景虎と対面する、景虎は大いに喜び諸侯に回文を回せば、上郡には只見次郎左衛門、島倉内匠介、長与蔵、村山与七郎、上野源六、小島弥太郎
中郡には山吉丹波守、同弥右衛門、平子孫太郎、斉藤八郎、安田治部を始め諸将数多集まり、宇佐美定行は琵琶島に千数百を留め、自らは五百騎を率いて栃尾に参陣した。
ここに集まらぬ将も、それぞれの城、砦に依って平六に抵抗する者あり、府内の上杉館に参じるものあり、あるいは日和見の者あり、そして平六に味方する者ありと越後はまさに二分して戦乱の真っただ中となっている。

上田の長尾越前守、同新五郎は府内長尾家と近い一門であれば、家士栗林肥前守、金子与十郎、樋口惣右衛門、斉木伊予守を加勢として栃尾に着陣する
大熊備前守、庄新左衛門も迷っていたがこれを聞き、急ぎ勢を率いて景虎に加わった
いよいよ栃尾勢は強大となり、三条を攻め討たんと軍議を始めた。






こころ落ち着かぬ16日間

2024年06月29日 19時45分06秒 | 病気と健康
 ブログ人からgooブログに変わって3500日が過ぎた、あと半年足らずで10年か・・・。

 病院に入れば元気百倍になる私だが、家にいるとあれこれ必要ないことまで考えてしまい憂鬱になる。
24,25と二日間の検査も楽しく難なく済ませたが、25日の大腸検査の結果はその場で技師先生の説明を受けたが、24日のMRIの結果は来月2日に、外科の担当医からの説明まで待つことになる
その後は9日から、抗がん剤治療が始まるのは結果に関係なくほぼ決まっているので、それもまた未知の領域
ガンの先輩から少しは様子を聞いているので、そっちの覚悟は定まっているが、それでも初物は少し不安を思う。
2日の結果発表もじらされているようで、さっぱりしない

検査で腸内が空っぽになり、60㎏ジャストまで落ちた体重
翌日から、少し固めのものや肉も取り入れて、体力回復に向けた食生活に変えた
お陰で一日で1.2㎏増えて61㎏台回復
毎日200gずつ増えて、昨日はとうとう61.8㎏まで戻った、理想は62㎏から63㎏の間に定まることなので、あと一歩だ

抗がん剤治療は食欲も減退する可能性があるというから、今から一週間くらいの間に、食べたいものを食べるとしよう
「切れの良いところ」というこだわりがあるので、7月1日から7日の間に牛肉やラーメンを食べてしまおうという考えだ。
もちろん、百編噛んで、腹八分は守る
いずれにしても体力勝負、歩くのはやっているから、今度は筋力アップも始めなければなるまい
いかに辛くとも、楽しい闘病生活に変えていく気は満々だ
まずは少し早いが、7月の最初の一週間のうちにミニドライブ、ヘアカットに行って来よう
ベッドメークも夏向けのファッションに変えたいから買い物にも出かけなくちゃ、部屋も着々とお色直しと片付けが進み、安物の季節消耗品で良いから新しいカーペットも購入して気分転換しよう
オーディオ環境(もちろんベーシックではあるが)も整った、良い音楽を聴きながら体を休めるのも良いだろう
7月は薬で免疫が弱まるというからコロナ最盛期同様に人込みの中には行けなくなる、買い物、レストラン、映画などはほぼ駄目だろう、静かに暮らす一か月になりそうだ。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (125) 長尾家 38

2024年06月29日 10時31分44秒 | 甲越軍記
 照田常陸介、黒田和泉守、金津伊豆守の親子は府内の城を攻め落としたのち、蒲原郡に去って、三条の長尾平六郎俊景に合流したので、俊景は大いに喜んだ。
俊景の勢いはますます増して、中郡から下郡にかけての広い範囲に勢力を張った
まずは河西の城に照田常陸介、金津伊豆守の親子を入れて守らせ、黒滝の城には森備前守、新川砦には山下又左衛門、刈羽には世良田九左衛門を込めて、中郡の敵を防がし、村松の城には野本大膳、安田砦には篠塚憁左衛門、菅名砦には蔵王堂式部少輔、新潟の砦には森岡十左衛門を込めて下郡の上杉方をけん制する。

なおも近郡を従えるために、大将平六郎俊景中軍に備え、黒田和泉守、八条左衛門大夫、五十嵐小文四、風間河内守を先手として、西古志山東郡を討って威を示し、降参してくる者も多く、今は恐れる敵は無しといえども、まじかの栃尾には喜平二景虎、幼きとはいえ天性英勇の器であるといわれ、後々の災いになるべき者、いまのうちにこれを討ち果たすべしと間者を栃尾に送り調べると
景虎は栃尾の城で本庄美作に匿われていることがわかった。

俊景はこれを聞いて、「景虎未来の大器と言えども今はまだ童なり、府内の兄、晴景は四十になるが病気の愚将なり物の用には立つまい、本庄美作は勇功の忠義者だが小身で無勢なれば恐れるに足らず、勢いの小さな今のうちに討ち果たすべし」と言い放ち
黒田、八条、風間、五十嵐を先手として、平六郎中軍に、山下、森、蔵王堂を後陣として栃尾に攻め入った。
一方、これを聞いた栃尾では急ぎ、大石、大木を城内に運び入れ、宇佐美にも伝令を飛ばし敵襲を伝えた。

俊景の先陣は、一揉みに攻め落とさんと城門に攻め寄せた
鬨の声を揃えて柵際まで攻めたが、城内は音もなく人無きように見えた
黒田、八条は不審に思い「これは我らが大軍故に驚き、すでに城を放棄して逃げ去ったのでは」と顔を見合わせた。
なればと、柵を倒し踏み越えて土塀の下まで兵が進んだ、そして土塀に取りつき先を争って登り始めた
そのとき合図と思われる銃声が響き、城中から「どっつ」と鬨があがり、上から大石、大木が落ちて来た
攻め手は坂の途中、落ちてくる大木、大石に跳ね飛ばされ、なぎ倒され死者、手負いは数知れず、土塀下に降り積もって潰されていく
たまたま助かった者も、手、足を折られて働くことならず、後陣の者どもはこれを見て恐れ、前に出る者なし
「いまぞ」本庄美作は城門を開いて二百騎を自ら率い、慌てふためく大軍の中に攻め入る、先陣の風間、五十嵐勢はますます混乱して崩れ去る
黒田和泉守はこれを見て怒り「敵は小勢なるぞ、何をしておるか、攻めつぶせ、押しつぶして付け入れ」と叱咤する
しかし崩れて恐怖におののく軍兵の耳に入らず、散々に逃げ惑う
美作守勢、これを縦横無尽に斬りまくり、勝どきを上げて悠々と城内に引き上げた。

俊景勢は初戦に敗れ、力攻めをあきらめて、城の周囲に三か所の砦を築いた。

車と仕事とドライブ

2024年06月28日 20時42分24秒 | ライフスタイル
 74歳になった、私と自動車との付き合いも長い
自動二輪の免許を取って57年、普通自動車免許が56年、大型免許は38年になる
いずれも趣味のためと言うより、仕事のためにとったという方が正しい
高校生の時には家業の配達のためにとった自動二輪と普通免許
それまでは自転車で配達していたから、足腰はそれで強くなったともいえる
家業は魚屋+仕出し店で魚の配達を手伝っていたが、自動車免許を取ってからは仕出し料理の配達も手伝うようになった。
板前修業に行った時も、傍らその店の仕出し配達もした
個人宅への法事や祝い事の料理を運んだり、寺へも法事や葬式料理を20人前、30人前と運んだ、御膳一式すべて届ける時代だった
もっと大変だったのは、結婚式場への配達で、これは普通でも50人前以上だったからワンボックス営業車で二台くらいで運んだ、一人前が9品、それに籠盛りも人数分運ぶ、それに一の膳、二の膳も人数分、更に銚子、盃、はかま、箸、風呂敷まで届ける
しかも部屋に配膳までしてくる、今思えばよくやったものだと思う
結婚式が終われば30分以内で片づけをしなければならない、次の夜の部の披露宴の準備があるからだ
残物を全て処理して、皿、御膳すべて回収してくる、式場の仲居さんたちが片付くのを待っていて終わると同時に換気、掃除、準備を行うからうかうかしていられない。

寺の場合はお御堂で配膳してくるが、法事を行っている間に控えの間か、御堂の裏の狭い仮納骨室で料理を膳に配膳するのだ
それは、御膳を縦に7つくらい重ねて、御膳の足の間から5品を差し込んでいくという技で、それもすぐに慣れた。
二の膳には4品を入れていく。

大型免許はマイクロバスを運転するためにとった、お客様の送迎だ、板前をしながらバスの送迎もした
だから忙しいこと忙しいこと、毎日が時間との戦いだった、38年間、いろいろな職種の送迎バスの運転をしたのだったが、70歳でやめた、来年の書き換えでは大型免許は返還する。
人を乗せる運転だったから、普通車でも人を乗せていると安全運転に気を遣う
だから割と私の運転は「がっつん、ごっつん」にならないから安心感があると言われることが多い。

観光旅館の仕事の時には、県をまたいでの送迎もたまにあった、そんな時は片道100km以上を送迎したこともある
また上田市の老人会から送迎依頼もあったが、さすがに何かがあれば困るので、それは中止になった
取引があった富山の旅館業者などは毎日のように群馬県まで送迎していて、手伝いを頼まれて行ったこともあったが日帰りと言う強行軍で一回きりで社長が断った。

結婚式場の仕事の時には、特に気を使った、何より自分の服装も決めていかなければならないし、ヘアスタイルから話し方まで注意が必要だった
当然板前兼用と言うわけにはいかず、運転手専門だった、これも県をまたいでの送迎が度々あった
送迎以外は暇が空くので、披露宴の裏方を手伝う、新郎新婦の入場の時にドライアイスの演出があるが、あれを担当した
2会場掛け持ちもあった、30分差なので会場から会場への移動、ドライアイスの取り換えや温湯の管理など、慌ただしかった。
でもきれいな花嫁さんを見ることが出来たのは嬉しかった、キャンドルサービスの時にはスポットライト係をして、新郎新婦を追った
同時に調光の仕事もあるので幾つもある調光器のボタンを薄明かりで見定めてやるのもテクニックが必要だった。

仕事と車はこんな風だったが、趣味のドライブも楽しんだ
マイクロ運転は、同級生旅行、友達との旅行、ボランティア団体と、ほとんど自分から買って出て運転した、とにかく運転するのが好きで好きで仕方ない
一日300~400km平気で走っていた。
乗用車だと日帰りで600kmくらい走ったこともある
74歳の今でも1日200kmは肩慣らしで、300kmくらいは走ることができる
というより走りたい、でも50代ころのように400kmも走れば、流石に下りた時フラフラする、途中で足に痙攣が来ることもあるし眠気もでてきた
見学しながら一日250kmくらいが一番良さそうだ。

人生を振り返ってみれば冠婚葬祭と、料理と、観光の仕事ばかりだった、ある意味、動的な部分で自分に合っていた仕事を形を変えながらやっていたと言える
静的な部分で考えれば、恐竜や宇宙の学問か、歴史研究、物書きをして見たかった、あるいはゲーム作り(当時はボードゲーム)または確率とかデーターの活用ができる仕事・・・いまさら、詮もないが。

80歳まではドライブを続ける気持ちである。








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (124) 長尾家 37

2024年06月28日 09時33分07秒 | 甲越軍記
 さて、二郎吉と別れた景虎一行は、いよいよ甲斐国に入り、あまねく地理を調べて白峰にさしかかる。
ところが深い山道で迷い、道を失い行けども行けども、獣道すら見えない森の中に入り込み、もはや見えるのは木々の重なり、背丈を超える木草、蔦は絡み、枯れ木は足を痛め、木々の枝は目丈にあって顔を打つ
上を見ても覆い茂る木の葉、幾重にも重なり高低さえもわからず、昼なのか夜なのかもしれず、かすかに木々の合間からこぼれる光、あるいは星の瞬きで、昼夜を知る。
草露を飲み、樹汁をすすり、草の実、木の実で飢えを凌ぐ
すでに日数は5日を超えて、いまだ道は見えず、木こりの一人にも出会うことがない

さすがに主従壮健といえども、足は疲れ気根も費える頃、谷の彼方に、一筋の煙たなびくを見た
大いに力を得て、そこを目指すが行けども行けどもたどり着かず、相変わらず谷と崖が交互に現れ、谷を渡る道も見えず途方にくれた
そのとき傍らの崖に緑樹の天然の枝が谷を越えて伸びるを発見して「これは究極の天然の吊り橋也」と、まず曽根平兵衛が蔓を伝って、谷を渡れば、続いて景虎、鬼小島、戸倉、秋山、益翁の順に曽根に続いて谷を越えた。

かろうじて彼の小屋を見つけて中に入った
中には老人夫婦と十八、九くらいの壮士が住んでいた
一行は、これまでの成り行きを話して道を問う、囲炉裏を囲っていた三人は驚き、「この土地は、木こり、山賊も入らぬ深い山奥でつつがなく人の入れる場所ではないのだが、けがも無く着いたとは驚くばかりであります、今宵はここに泊まり疲れを休めたまえ」と親切に言ってくれた。
一行も、今日の旅立ちは無理と知り言葉に甘えて泊ることになった。

あれこれと旅の話をしながら、景虎は家の隅ずみまで目をやると、傍らに弓、槍、太刀、具足が見えたので「何かの由緒でもあるのか」と問うと
老人は「されば申そう、某はかっては越後国上杉家の家臣で荒川伊豆と申す者である、馬にもまたがる身分であったが、去る永正六年、長尾信濃守と府内に於いて合戦の時、敵のために手足を射られて、不具の身となり自由に戦もできず、功なく禄を食むのは恥と思い、この地に引きこもった次第である
某が、このような暮らしになったのは身から出たさびであるが、ここに在る息子は何の罪もなくわれら夫婦を助けているが、元来は人並みの働きをもって、良き主に仕えるべき壮士であるがゆえ、心苦しく思っています」
それを聞いて、景虎は
「さては、上杉の家臣であったのか、我は敵将、長尾為景の子、長尾景虎である」と次第を語り
「今にては代も変わり、上杉、長尾和睦もなり何のはばかりもない、壮士われに仕えて見ぬか」と申せば老人は大いに喜び「願っても無いこと」と彼の身を預けるに同意した。

早速に主従の約束を交わし、これよりどこまでもお供しますと誓った
景虎は、この壮士に荒川吉蔵という名を与えて翌日早朝に旅立った
吉蔵を先頭に案内させて千じんの谷を下ること数か所、吉蔵は草を抜くように大木を引き抜いて橋を作り、猛獣襲ってくれば、これを退治して道を案内した
(吉蔵は後に、荒川伊豆守となり、永禄の年に川中島合戦に加わり、武田信玄と太刀打ちして討ち死にしたのはこの吉蔵である)
ようやく甲斐の村々に至り、その後は甲斐国の地理を調べ、各所の砦、城郭についても、その強弱、武備、軍場切所を調べて、ついで出羽、陸奥の国まで巡覧して十月に至って栃尾の城に戻った。

本庄美作は景虎が無事に戻ったことを大いに喜び
「さては敵方に捕えられたのではあるまいかと、大いに気を揉んでいたところ、かくもつつがなく戻られるとは、かえすがえすも嬉しきことなり、これは長尾家の御運を開かれるべき神仏の守護でありましょう」と言い
早速に宇佐美駿河守にも伝えれば、ただちに栃尾にやって来て、これを祝した
景虎も晴景に会って義兵を催す約束を取り付けたこと、諸国を巡って地理、軍備、兵の強弱などを調べ上げたことを話せば、本庄、宇佐美ともに驚き
「いかさま、御大将こそ東国、北国を斬り従え天下に名を成す無双の名将となられるであろう」と喜ぶこと限り無し。


体は元気なので

2024年06月27日 21時00分36秒 | yottin日記
 *本日は「甲越軍記」お休みします

 今日は午前中に「山の神社」にお願いして厄払いをしてもらいました。
実は倅が42歳の本厄なので付き添いで行って来たわけです。
この神社の巫女さんとはもう40年の付き合いです、なかなかの女丈夫で話やすくて頼みやすい。
結婚式場の仕事をしていた時に、先代の神主さんが結婚式の挙式で来ていて、そのとき娘の巫女さんも来ていたのでした。
ともあれ静かな山の林の中にある神社は清々しく、心を洗われるようでお祓いの後、生まれ変わったような気分になりました。

その後で、入院以後初めて体慣らしで往復200kmほどのドライブをしてみました
体は元気なので、どの程度行けるかと思いましたが、以前と同じように走ることが出来ました。
天気も良かったし、気温も28度くらいで海岸沿いは風があって、散歩していても気持ちよかったです。
秋に計画があって、その時には片道200km以上は運転する予定なので、今から準備です
7月に入って抗がん剤治療が始まれば、しばらくは体も容易に行かなくなるかもしれないので、今のうちに試してみたわけです。
先のわからないことは考えても仕方ないので、やれるときに、やれることをしてみる、ただそれだけです。

帰りに富山名物の鱒ずしを食べたくなって買ってきました、それにしても鱒ずしも例にもれず値上がり
去年前半頃は1000円から1500円、高級なので1800円ほどだったのが、今日見たら一番安いのが1900円、それ以外は2000円から2500円、高級なのは3000円でした。

またまた脱線しましたが、鱒ずしはやはり美味しかったです
いろいろ食べ物制限もあるけれど、野菜だけでは体重が減り、体力も落ちるから、脂っ気や肉類も食べないとね
今日は鱒ずしの他に、豚ロースも買ってソティにして食べました、やはりこういうものも食べたいですね。
あと目指すのはラーメンとうな重、焼肉と県内産の肉厚のトンカツですね。

これが1900円の鱒ずし、普通の鱒ずしでした。





病後の体、気持ちと現実

2024年06月26日 20時04分34秒 | yottin日記
 体と気持ちは元気なのだが、数字はやはり病体に見える
体重は手術前の68㎏から退院直後を比べると5㎏痩せた、そして退院直後から今度の検査前日までで2㎏減り、検査の朝から帰って来た夜までの2日で1㎏痩せた
つごう8㎏痩せて60㎏になってしまった。
2日で1㎏痩せたのは2日間飲まず食わずの上に、検査の為、お腹を空っぽにしたのだから当然である、今日からどれだけ取り戻すかだ。
それでも今より身長も高かった高校時代に比べるとまだ8㎏は太っている
腹囲も10cm近く減ったので、これはキープしておきたい。

体温はずっと平熱の35.5度前後だったが、検査の日は36.5度に上がった、たった今、計ってみたら35.8度に戻った、一安心。

今日から食事を平常スタイルに戻した、ただし、ご飯は全粥にした、まだ固いものや脂っこいもの、もたれるものや刺激物はダメだ
量を戻したので腸がびっくりして昨日より遥かに活発になった
また正常に戻るには2日ほどかかるだろう。

畑が朝の楽しみだ、今年はスナップエンドウの収穫が順調だ、初めてやってみたが、一株が根が外に出ていて枯れてしまった
それでも残りの二株が頑張って、今日までに80ケほど採れた、毎日10~15枚採れる。
ナスも初めて長ナスが出来た、まだ2本だがこれからが楽しみだ。
トマトは、今年は大玉が出来そうだ、すでに青くなったのが10ケほどある。早く熟すのが楽しみだ。
スイカは早い段階でアブラムシにだいぶ葉をやられたので、今年はあまり期待できないかもしれない、去年が最初としてはまずまずだったので、今年は張り切ったが・・・

だがどっちにしても、7月に入って抗がん剤が始まれば、畑いじり土いじりはできなくなる、免疫力が落ちるからだ
副作用がどの程度起るかわからないから何とも言えないが、土には菌があるし、おかしな虫に刺されるのも良くない
家の中でじっとしている時間が長くなるだろう、病院にいた時同様に小説の続きでも書いて過ごすことになるだろう
それとレコードを聞きながら整理、断捨離もするだろう、ここ3日間はビートルズのLPレコードを1~2枚ずつ聴いている
そんな時間の過ごし方も増えてくるはず。
抗がん剤治療は、最初の点滴の日だけ一泊入院になる、久しぶりに病院で泊まる、治療は??だから何とも言えないが、泊るのは悪くない、おかしいが少しだけワクワク感がある。
私はへんな男なのかもしれない。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (123) 長尾家 36

2024年06月26日 16時43分31秒 | 甲越軍記
 景虎は、二郎吉の異様な姿を見て歩みを止めて仔細を聞くと、二郎吉はこれまでの事の次第を細かに語ったので、景虎は二郎吉に猛勇を感じて
「汝、出世の志あるなら、我に仕えてみぬか」と言った
二郎吉は、それを聞いて「かっか」と笑い、「我は漢(おとこ)なり、武士となって敵の首を取り、名を輝かさんとは思えども、なんで汝らのような乞食坊主に従うことがあろうか、くだらぬことを言っている暇があるなら在所を巡って食を乞うべきであろう」と相手にしないで立ち去ろうとした。

鬼小島弥太郎は、これを聞いて大いに怒り、「汝は何も見えぬのか、長尾家の大将の御前をはばからず奇怪な言葉を吐きおって、舌の根を失うでないぞ」
二郎吉も目を怒らせて、「汝がいかに偽っても、我がこのような出たらめを信じるわけがない、本当だと思う方がおかしいなり、長尾家と言えば越後の国の大将なり、乞食のような若造を大将などと呼ぶものか
大将であれ、坊主であれ、そんなことは関係ない、論は無用である
我を従えたければ腕にかけて従えてみよ、もし儂が勝ったなら一棒にて打ち殺して呉れよう」と居丈高に言い放った。

鬼小島は「汝、このような田舎で朽ち果てるは惜しいと情けをかけたが、無体な言葉を吐きおって、そのつもりであるなら儂も一棒にかけて、汝の迷いを晴らしてくれようぞ」と杖を振り上げて打ちかかった。
二郎吉も槍を振り上げて稲妻の如く打ちおろす、鬼小島はわざと杖を引いて、二歩三歩と下がると「得たり」と二郎吉が踏み込んで打とうとするところを
鬼小島は素早く身をひるがえして救い上げるように二郎吉の槍を打った
二郎吉の槍は遥かに跳ね落され後ろにどっと倒れ込んだ
鬼小島は「いかがじゃ、これで伏したか」と手を差し伸べると、二郎吉は身を起こし「勝負は時の都合なり、組み合って力を試そうではないか」と大手を広げて鬼小島に挑みかかって来た

鬼小島もこれをむんずと組止めて、互いの金剛力を振るい、しばし「えいえい」gと声を出してもみ合ったが、鬼小島が身を躍らせて二郎吉を救い上げて投げると、二転三転して転がっていった。
鬼小島は再び「汝、これにて伏したか」と言うと、二郎吉は首を垂れて
「この目を持ちながら、真の豪傑を知らず言葉を誤ったことは面目なし、願わくば御名を聞かせたまえ、永く臣となって御馬前の塵を払い奉らん」
心から伏してみえれば。景虎は喜び、まことに長尾家の御曹司としって二郎吉も大いに喜んで主従の約束をなして罪を謝った。
されども二郎吉は叔父夫婦に息子の仇を打ったことを伝える用がある、叔父夫婦を慰めねばならぬと言い、冬になれば栃尾に参りますと約束して
大鳥を担いで叔父の家に戻っていった
後に数度の合戦で高名をたて、川中島合戦に戦功があった、甘粕備中守とは、この壮士、二郎吉の事である。





今日は検査の第二段、大腸の内視鏡検査

2024年06月25日 19時22分54秒 | 病気と健康
 大腸の腸閉塞だったため、その先までカメラは入らず検査できなかった
開通したので今日は大腸と小腸の境目までカメラを入れて検査した(1.5mくらいあるらしい)

9時に病院で受付、血圧を測り、自販機でペットボトルの水3本買ってくるようにと言われた。
それをもって案内されたのが普段いかない廊下、そこに4畳半の畳の部屋があって、向かいはトイレになっている。
「ここで下剤を飲んでもらいます、15分ごとにコップ一杯で1時間かけて4杯飲んでください、終わったらペットの水、1本飲んでください」とのこと
テレビもあるし、クーラーも効いているし悪くはない、ちょうどドジャース戦が始まったばかりで時間もあるし、ゆったりしようと思ったら「部屋の中を歩いてください、廊下に出て歩いてもいいです」
歩いてばかりいれば飲む時間が無くなるし、なかなか面倒
コップ一杯(250ml)簡単そうだが、後に行くほどきつくなる、幸い味はポカリスェットみたいで美味しい
妹に「美味しい」とラインしたら「笑える!」と返事が来た。
ともあれ、無事1L飲み干し、野球もゲームセットまで見ることが出来た
飲めばよいというものではない、目的は腸内洗浄だから、しかしそれもうまくできて、午後2時近くなって、いよいよ本番の内視鏡検査となった

まずは着替え、シャツ以外全部脱いで、後が空いている大きなパンツに履き替え、上から入院着を着る
ベッドに横たわり、左を下にお尻を突き出して、いよいよカメラ挿入した
最初はとうぜん違和感あるが、そこを通りすぎればあとは数センチずつテンポをとりながら奥へ奥へと進んでいく、空気を入れながら進む
私の感じでは空気と言うより水を噴射しながら進んでいる感じ

私も緊張しないように吸う吐くの呼吸法で気持ちを落ち着かせていた
痛さもないし、ただカメラの先端が下から上に左から右へと進んでいくのを感じる、奥の上部へ来て、ようやく少し不快感を感じたが、「私の彼は左利き」を頭の中で歌って気を紛らわしていた。
「ここが大腸と小腸の境目ですよ、これから抜いていきます」
ここまでで20~30分くらいかかった
抜くのもゆっくりだが、入る時よりはずっと楽だ、途中で横向きからうつ伏せになって、左足を立てて右足をその上に組むヨガみたいなポーズを取らされた
そのまま15分くらいか「足痛くないですか」と看護師さんが聞く
痺れたと言えば痺れているのか、鈍感だから痛いとか辛いとかあんまり感じない「大丈夫」と返事をした。
いよいよカメラが下がって来てS字結腸の手術現場あたりからが辛くなった
今回一番のピンチ、直腸から肛門も同じ、結局、体のセンサーが異物(カメラ)を感知して出そうという働きになる
ところが技師は、1cm、2cmとゆっくりしか進まないから、この時間が一番長かった、流石にここだけは手をぎゅっと握りしめていた、
「終わりましたよ、今日帰れますよ」この言葉を聞いてホッとした。

その後、40代くらいの技師先生から画像を見ながら説明を受けた
なかなか私の大腸はきれいなピンク色をしている、画像を見せていき「がんの転移はありません、この写真のように小さなポリープがとびとびに三個ありましたが、数ミリですし特に問題ありません、抗がん剤治療が終わった後で、ゆっくり考えましょう」
ポリープ写真に一枚だけ灰色の写真があった(これはちょっと問題個所では?)と心配になって「この部分だけ色が悪いのは何か問題・・」と聞いた
「ああ。これですか、見やすいように色を変えて画像処理しただけです、他と同じようにピンクですよ」だって、心配してしまったよ。
「今日はこれで、お帰りになって良いです、お疲れさまでした」
マイカーが私の失敗でトラブって迎えに来てもらえず、タクシーを呼んで帰って来た
こうして無事に家に帰ってきました、神様と仏様に感謝をしました。

まずは第一弾安心した、来月2日にはMRIの検査発表がある、それまでまだ気が抜けない,
昨日の昼、今日の朝と昼もご飯抜き、昨日の夕食も軽く五分がゆ、すっかり腹が減ったが、今日の検査で腹の中には米粒一つも無いから、急激に食べるわけにもいかず、夕飯もソーメンを軽く食べて、ヨーグルトとお団子一本でお終い
明日の朝は少し食べようかな。

野生の鴨が2羽飛んできて川に下りた、去年もいたなあ