神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

北九州旅行記7

2019年04月30日 09時54分11秒 | 旅行 九州四国・東アジア

楽しかった旅行もいよいよ大詰めです

軍艦島から戻って、長崎最後の食事・・昼食はイタリアンランチです、電車通りから入った

ホテルモントレの一階のレストラン、昨日のグラバー邸にも近い

田舎の人間にとって、フレンチとかイタリアンは馴染みが薄いですが食べたい気持ちは充分ある

 

 

 

 

 

 

 

そして長崎から再び九州道で福岡空港へ走る、夕食は早いけれど空港内で自由食

ラーメン滑走路」だったかな、博多ラーメンの店が並ぶ中で、こってりはもう結構だったので、一番端の

北海道のラーメンの店に入った

そしておみやげの買い物というか、自分が大好きな明太子を購入、あとは店用と女房殿へ福岡人気のお菓子を

買ってっと

  

 

  

 

滑走路までバスに乗って、私は船に続き、またしても一番前、ドライバーの隣で

このプロペラ機に乗ります

  

 

   

プロペラ機は多分初めて、中は2列×2の4列、乗り込んだのも一番ですが満員になりました

とても振動と音がうるさいので、こりゃ参ったと思ったが、飛んでみたら静かなものでした

そして7時半頃に小松空港へ無事到着、そこからまた高速道で故郷目指して走ります

楽しい2泊3日の旅行は終わりました。       おしまい

 

 

 

 


北九州旅行記6

2019年04月27日 21時04分57秒 | 旅行 九州四国・東アジア

「炭鉱」、今の子供たちには馴染みの無い言葉。

私たちが小学生、中学生の昭和30.40年代にはニュースで落盤事故が伝えられた

そのテレビニュースでは防空壕の様な入り口から次々と遺体が運び出される様子や

泣き崩れる家族、安否不明で不安な家族が映し出された

救助の人々の顔も服も真っ黒なのが印象深かった

このように明治から昭和のかなり近代まで炭鉱事故は多発して、時には数百名の犠牲者が出る

大事故もおこった。

私の中では炭鉱というと暗い、怖い、辛い、そんなイメージしか無い、けれど軍艦島の閉山までの

ニュース映画を見ると、狭いながらも超近代化されたアパートで暮らし、祭りやイベントも行われていた

神社も映画館も喫茶店も島内にあり、お寺もあったようだが唯一、火葬場だけが無かったという

それで隣の島で火葬が行われたのだという

人工島ゆえ飲み水が当然無かった、それで海水を濾過して飲料水にしていたが、いつぞやにとうとう

本土から飲料水のパイプラインが完成したという

こうした良いめんもあったが、やはり炭鉱労働の実態は過酷だったという

上の写真の2枚目右端に階段がある、登ったところに(2つの窓)一握りの幹部社員がこれから坑道に入っていく

多くの炭鉱夫の健康などのチェックをした場所だそうだ

1枚目の写真は2枚目の右方向から見たもので、2枚窓から正面の青いフェンスの方に渡り廊下のような通路が延びて

(今は無い)行き着いた斜面の入り口から中に入ると採掘現場に向かう数百mに及ぶ縦穴をエレベーターで下る

そのエレベーターは屋根もない、箱でも無い、足場ががあるだけで、そこに安全のために捕まるアームが巡らされて

いるだけの台だったという

だから抗夫たちは下りるのでは無く、落ちていくのだと表現したという、そして着いたあなの底から今度は、横穴移動で

1000数百メートル先の現場まで行くのだという、当然そこは軍艦島から遥かに離れた海の底でパンフによれば

海面下1000m以上にも及ぶ地点だったと言うことです。

ここでは大規模な落盤事故やガス爆発などは無かったらしいですが、作業前にあの2つ窓で点呼を受けたけれど

生きて帰ってこなかった人は数十名に及んだとのこと、それは公式記録であって実際は百名を超えているだろうという

推測もあるようです

このような採炭現場は四十度近い温度の上に、湿度95%を超える超蒸し暑い環境であったと言うことです

当然、このような重労働は勘ぐれば高給であったと想像されるわけですが、命をすり減らす並みの人間ではつとまらぬ

男の世界であったと思います

石油の台頭で石炭の減産が続き、1974年1月に閉山、軍艦島の住民も新たな仕事を求めて本土へと戻っていきました

他の炭鉱に移った人も多かったと言うことです。

ガイドさんが言っていました、石炭を見たことがある人と無い人は年代の境界があるとのこと、当然私たちは石炭を暖房

として使用し、蒸気機関車の石炭すすで顔を真っ黒にして「目が痛い!」と笑いあった年代です

高校時代も教室に石炭燃料の達磨ストーブがありましたし、その熱で弁当を温めたり、ストーブの上にヤカンを乗せて

その中にインスタントラーメンを入れて煮たこともあります

家では石炭は使わず練炭や豆炭を使っていました。石炭には随分とお世話になった世代です。

まだまだ土産話はありますが切りが無いので、軍艦島を離れます

 

 

 

最後に・・・・・・ここが閉山されたとき私は23歳、ということは私と同年代でここで働いておられた方も

いると思われます、そうした現実を思えば、これは過去のドラマでは無く、今も心に思い出と思いを

焼き付けた人たちのリアルタイムだと思います

我々外部からの人間は過去の遺物(遺産)としてこの廃墟のような建物を見ていますが、ここで暮らして

いた方々にとっては懐かしい生活の思いでの場なのです「あの部屋に住んでいたんだ」と感慨深く見て

おられるでしょう、それは私が小学生まで生まれ育った住居跡に立って当時を思い出すのと同じだと思います

賑やかだった当時の軍艦島が彼らの脳裏で蘇るでしょう、そういった人たちも密やかに訪れるそうで、ここを

案内するガイドさんは一般観光客との違いをすぐに察すると言います。

「みなさんが今見ておられるのは、もっとも新しい今の軍艦島の姿なのです、これからもどんどん崩壊していく

中でみなさんがここでこれを見られた意義は大きいのですよ」

 

                                   軍艦島の章 おわり       つづく

 

 

 

 


北九州旅行記5

2019年04月26日 22時25分29秒 | 旅行 九州四国・東アジア

さて、これから船に乗って軍艦島までクルーズです、とはいえ湾内なので大きな揺れの心配はないそうです

「えええ~! こんな小さいのでゆくの?」と女性陣が大きな声で・・・定員90数名ですから、そんなに小さいと

いうほどでもありません  ブラックダイアモンド号すなわち石炭ですね

もう先客が乗っています、二階の展望デッキが人気、潮風に当たっていけば船酔いも無いとのこと

みんな二階を目指します、私は迷っていたら、一番最後になって、やっぱり写真が撮りやすい2階に

ところが満員で、一番前の目立つところだけ僅かに一席空いていました

そこへ行くと、やっぱり先頭はいいですね、遮るものが無い、しかも救命具が目の前にある

さあ出航だ、距離も時間も全く知らず、船任せ人まかせだ

軍艦島についてはテレビで一度見ただけ、内容も忘れた、ただ廃墟のイメージだけが残っている

予備知識としては海に浮かぶ人工島、大きなアパートが建ち並ぶ、炭鉱の労働者家族だけの島

人口は数千人、形が軍艦に似ている。 このくらい

今日はうららかイメージの九州でも、滅多にない最高の好天で波も無くこれほどの条件良しは珍しいのだという、

添乗員さんが前回のツアーは悪天候で接岸できず中止になったと言っていた

船は海と言うより川を下っていく感じ、下ると言っても我々の地方のような急流では無く、平らな湖面を行くような

感じ

大きな貨物船や

自衛艦

町の風景

高くて長い橋も(長さと高さが何とやらと同じとか言ってたが忘れた)

 

しばらくは造船所が続くが、ここにも五つ?ほど世界遺産があるとか、全てが造船所関係だそうだ

(内容は忘れたが、T字型クレーンとか言ってた)

そして戦艦武蔵を造ったドッグとか(船台?)もあった

やがて外海らしいところまでやってきた、左右に島が点在する、大きな島、小さな島、集落や町がある島

無人島、様々な島・・・そういえば長崎県は北海道に次いで海岸線の総延長がながいのだとか

私は新潟県あたりが長いと思っていたが、新潟県は意外と順位が低い、長崎は意外だったが、たしかに

出たり入ったりが連続し、島も多いのでそういうのを足せば長くなるのだろう

軍艦島へ行く前に手前の大きな島(名前は忘れた)に立ち寄り、軍艦島の模型を見ながら説明してくれるそうだ

(伊王島だったかな?)ここも観光地になっているようだ、だが軍艦島客は所定の場所から出てはいけない

ここには明治の大商人岩﨑弥太郎の銅像がある、軍艦島は三菱の炭鉱の島なのだ

                                    ソテツの花

  

軍艦島にはトイレが無いのでこの島で済ませてくださいとのこと

再び出航、間もなく軍艦島が見えてきた、隣の丸い島は自然島なので当然樹木が茂っている

人工島の軍艦島には樹木が無いので、この隣の島まで桜を見に来たという

そのため軍艦島ではアパートの屋上で庭園を造った、屋上庭園の走りなのだそうだ

それにしても私の場所は最高だ

これが軍艦島の菜の由来

それにしても不自然な思いがぬぐえない

間もなく接岸、乗組員の軽業師のような動きに目を見張った

いきなりこの風景

軍艦島の本名は「端島(はしま)」なのだ

パンフによれば東西160m、南北480m、面積6500㎡で人口5300人

人口密度は東京を遥かに凌ぎ、東京都の9倍だった

上陸、息を吞む風景、まるで空襲のあとの都会のようだ

アパートの廃墟

プールのあと

1890年(明治23年)三菱が買収して本格的な採炭始まる 1916年高層集合住宅が建つ

昭和に3種の神器と言われたテレビなどの電化製品は、この島の各家庭で100%普及したという、日本全体では

普及率20%にも充たない時代だった

軍艦島が今日までこのような状況ながら遺跡として残ったのは三菱という民間の管理だったからだという

近くの島の炭鉱は全て官営で手厚い保存はされなかった、そのため近くには海底採掘の影響で海面下に水没して

しまった島もある

海に面した1200mは堤防が築かれたが荒波で破壊されて、そのつど改修や新築学理帰された、その中に

僅かな長さだけ明治時代の建設のままの姿が残されており、そのおかげで世界遺産に登録されたのだそうだ

 

                                               つづく

 

 

 

 

 

 

 

 


北九州旅行記4

2019年04月23日 20時16分47秒 | 旅行 九州四国・東アジア

長崎の市街を観光バスは行く。 昔、埼玉県の草加市に3日ほど仕事で滞在したが、地元の人が

「草加は坂が全く無い平坦な町です」と言った、長崎は逆に坂ばかりでしかも道は結構狭い

原爆資料館から市街地に向かうときも坂ばかりだったが、このあたりは爆心地に近いのでいたるところに

爪痕が残っている、そんな一つがこれで神社の鳥居が爆風で破壊されたが、王選手ならぬ一本足で

しっかり今日まで立ち続けている                             自分みやげ  鼈甲耳かき

   

 

いよいよ本日最後の観光は「出島」、江戸時代から鎖国が行われていたが、幕府は長崎の海岸に扇状の小さな居留区をもうけた、

それが出島で最初はポルトガル人、程なくオランダ商館の職員等がすむようになった

しかし現代では埋め立てがどんどん行われて、海に面していた出島も、内陸に取り込まれてしまっている

ここから宿へ向かう

宿は夜景の名所「稲佐山」と市街地を挟んで相対する山にある宿、4階建ての和風の旅館だが、その眺望は素晴らしく

夜景も稲佐山に匹敵するとか、そんな立地なので夜遊びに市街地へでるのはたいへんらしい、車無しでは無理なようだ

まずはお風呂に入って、それから親睦を兼ねて夕食の宴になる

お風呂は効能書きがないし、特別な臭いもお肌すべすべ感もないので温泉では無いようだ

ただ湯量は豊富なので、それなりの気分には浸ることができる

いよいよ夕食、今夜は「卓袱料理」(しっぽく)、意味がわからないので仲居さんに聞いてみたら、パッとした返事が無く

「多分、漆塗りのお膳に、いろいろな大皿料理を置くスタイルをいうんじゃないでしょうか」とのこと、正解はネットで

調べたいと思います

昔と違って、団体旅行でもコンパニオンでも入らない限りカラオケは歌わなくなりましたね、それより料理を楽しみながら

会話をした方が楽しい・・・そんな年代になりました

 

卓袱料理

                                           こんな急勾配でぎりぎりの道を大型観光バスが上っていく

 

   

宴が終わりました、福岡では遊びに出かけた人たちも、この山上では大人しくしていたようですが、ただ2名だけ山を下って

午前様になった方がおられたようです

昔の仲間が長崎市内でフランス料理のレストランをしているとのことで訪ねていったとのこと、何とか会えて、その店で

まことに美味しいワインをいただき、勢いでクラブに行ったそうですが、明朗会計で、お美しいお姉様が数人入れ替わりで接客

一人は女優並みだったとたいへんご満悦で帰ってきた同室者

昨夜はホテルでシングルでしたが、今夜は5人部屋です。  私の部屋は支店長さん、添乗員さん、某特殊なメーカーの中国担当者

損保代理店店主の4名、年齢では私は5人の真ん中

私の夜は例の如く、趣味的になったマッサージです、9時半に予約しておいたので、どんな人が来るかが一つの楽しみ、今日は

年齢も男女別も語らず問われずで、さきほどロビーには大柄な中年マッサージさんが待機していた

(力ありそう)と思いながら、あの人でも良いかなと思いながら待っていたのでしたが、入ってきたのは大柄姉さんより15歳は若い

良い感じのおねえさん(あたり~)などと思うこと自体、純粋ではありませんが、やはり期待するのは肩こりをほぐしてくれることです

60分コースで頼みましたが、他にお客さんが無くて閑だと言うし、なかなかツボを押すのが旨くて20分延長しました

「ほかにもやりたい人いたらできるの?」と聞いたら、「大丈夫です」というので、宿の中のちょい飲みコーナーから戻ってきた

支店長さんにも勧めて60分コース追加、更に私は寝ていた代理店氏にも勧めて、彼女の売上に大いに貢献しました

彼女が帰ったのは深夜一時半でした、その間私は部屋でビールを飲んでいました

外を見ると素晴らしい長崎の夜景が飛び込んできます 写真の10倍くらいきれい

⒈時半に寝ても5時半に起きてしまいます、朝の景色はこんな感じ

九州は北陸に比べてかなり西にあるので(ほぼ韓国ソウルと同じ経度)、北陸は明るい時間でも、まだ薄暗い

8時半、宿を出て向かったのは長崎港、いよいよ今回の目玉「軍艦島ツアー」です

すでに誓約書を提出しています、今日は快晴、快適な船旅が期待出来ます

途中、素敵な建物発見「文明堂総本店」と書いてあります

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 


北九州旅行記3

2019年04月23日 10時30分00秒 | 旅行 九州四国・東アジア

今回の旅行は長崎観光がメインのようだ、それにしても北九州というところは我々北国の者には

想像すらできない場所のようだ

それは朝鮮半島や中国本土にすこぶる近いということ。  

簡単なアジア地図を見ても北九州から東京と中国の上海とは距離的に変わらない様に見えるし

ましてや韓国の釜山などは大阪より近いかも知れない

地図を長崎から西にスクロールしていったら五島列島があり、その先に大きな島がすぐ現れわれた

?なんだこれは・・・・なんとチェジュ島ではないか!・・・こんなに近いの?日本で言う済州島

これを見ても九州人は遠い昔からアジアの中の国際人だと言うことがよくわかる

我らのようなガチガチな封建日本人とは異民族のように思える、日本の先進地なのは間違いない

一説では朝鮮をたびたび襲った武装集団(海賊)倭寇は五島列島近辺を住みかとしていたが

日本人だけで無く、朝鮮や中国の食い詰め者の集団だったという

まさに東アジアの国際強盗団なのだ

そんな長崎は更に欧州からのキリスト教布教の先進地でもあり、国際人織田信長は大いに宣教師を

優遇して教会の建築許可をだして住まわせ布教も許したが、豊臣秀吉、徳川家康は迫害して

残酷な処刑を続けた

長崎には殉教した26聖人(外国人含む)の処刑地がある、そして午後の最初の観光は大浦天主堂

この教会の正面右に26聖人処刑の大きな絵が飾られている

このことについて興味を持った、隣に資料館らしきものがあるというので見ようと思ったが

仲間たちはさっさとグラバー園の方へ行ったので、また催促されては困るので、結局見ないで

グラバー園に向かった

グラバー園も2度目だ、高台から見下ろす長崎港と市街地は抜群の美しさだ、戦争中はこの港周辺に

軍需工場があったので原爆投下目標だったと言うことだが、雲厚くたまたま見えた現在の平和公園付近に

投下したのだという

しかし今度の旅行も良く歩く、しかも坂の町、長崎・・・足の負担は半端ない・・・でも快晴が気持ちよく

風も少しあって涼しい、日差しの割に汗もかかない

 

 

 

所々にツツジが咲いていて目を楽しませてくれる、グラバー邸は改修工事で現場の様子を見るだけだったが

他の明治時代の外国人の邸宅を見た、部屋はたいがい4部屋で、応接間、食堂、寝室、居間となっている

仕事でたびたび中国を往復するG氏が「どっちの家も食堂はあるがキッチンがない、どうやって食事をつくるんだろう?」

たしかに私もそう思ったが、多分、日本人が雇われていてどこか別のところでつくって運んだんじゃない

だろうか・・と思うのですが

 

 

 

見学を終えて、浅草で言えば仲見世的な商店街を下っていく

ゆっくりと散策して鼈甲みやげの店に入ったりして歩いた、明太子の店もあったがやっぱり福岡だろうと

買わないでおいた

次の観光は、めがね橋、写真ではよく見るが・・・・

観光バスがよくぞ!という程の細い路地に入り込む、橋の手前で右折しようとしたがタクシーが正面に

鎮座していてバスの頭を振れないまま右折したので5回くらい切り返ししたが、出っ張っているカドの店の

ランプに当たりそうで(あたった様にも見えたが)なかなか曲がれない

タクシーの運転手は車の外にいて観光客を待っているが、我関せずの様子だ

やっとの思いで右折出来た、とたんに我々全員が拍手!!!!

鼈甲店の駐車場に止めて観光開始、橋の上から眼鏡橋を見て「はいあれが、眼鏡橋です」「ああそうですか」

程度の観光、だけどレトロな橋と堤防は一見の価値がある

我々のメンバーには地元の観光協会の元会長もいて「やっぱり大観光地は違う」と言う

「見ておしまいの橋の観光であっても、それだけで帰さないのが凄い」なぜかというと、橋の周辺の堤防の

石堤の中にハートの石がいくつかあるから探してみなさい、見つけたらしあわせになるとか・・・

それでみんな目をこらして一生懸命探し始めて「あった!」「どこ?」「あそこ、草が茂ってるでしょ、あの真っ直ぐ下よ」

などと大はしゃぎ、これで20分くらい時間がつぶせた

それから鼈甲店に入って買い物、こんな高いものは買えませんと思ったがピンキリで、安いネックレスもある

勿論張り物だが、それなりのみやげには良いかも

私は贈る相手もいないので、耳に優しいという鼈甲の耳かきを記念に買った、高いのは数万円もするが自分用だし

安い方の(それでも)3000円程度のものを購入した、長さと模様の出方、色合いで値打ちが決まるらしい

それから、最後の観光、出島に向かった       

 

                                      つづく

 

 

 

 


北九州旅行記2

2019年04月22日 09時34分07秒 | 旅行 九州四国・東アジア

相変わらず投稿欄書き込みの一文字目をタップしたときにIEの動作ストップは続いています

いったん自動的に開き直しになり、そのあと正常に入力出来る

 

2日目、旅行に来ても相変わらず5時起床は変化無く、近くの川縁を散歩してからホテルの風呂に

すでにグループの中の支店長、ラーメンチェーンのオーナーが入っていた

オーナーと一緒にバイキングの朝食へ、いろいろ食べたけどやはり明太子だな、切れ子、バラ子でも

おいしさは地元味だ

昨日は博物館の集合時間を勘違いして迷惑をかけたので、一番早く食事会場へ行き、帰りの集合も

三番目に集合した、時間をもてあましていたのに「さて・・・」という時間になって、サングラスを部屋に忘れた

ことに気づいた

余裕でチェックをして出てきたのに、黒い入れ物を黒いテレビ台に置いたので気づかなかったのかも

慌てて支店長に「とりに行ってきたいけど、カードキーを返還したけので、それが無いとエレベーターに乗れない」

と言ったら、支店長が自分のキーでエレベーターフロント階をタッチしてくれた、それで11階のフロントへ

事情を話したら、にこやかな笑顔美人の受付嬢がすぐに新しいカードキーを作ってくれて、それで6階の

部屋に入って無事サングラスを取り戻した

急いで階下に戻ったら、まだこの会の会長ほか数名が来ていないと言うことで、一安心、遅れていたわけでも

ないし余裕でバスに乗った

これからバスで長崎まで高速道を2時間ほど走るとのこと、途中は佐賀県を通過する

バスガイドさんは30前位の女性で見た目よりも話すとテレビ局のアナウンサーみたいな滑舌で聞きやすい

声の質も太めで、とても良い感じ

「佐賀県というと何を思い浮かべますか~?  この質問すると大概みなさん一分間の沈黙になるんですよ」

たしかにパッと浮かんでこない、そのうち鍋島家、焼き物の産地、唐津城、はなわなどが浮かんできた

がばいばあちゃん」もそうだとか・・・・

でも県別人気度が茨城、徳島に続いて全国45位なんだそうだ・・・・それで自分流に上位から考えて見た

1.京都 2.東京 3.北海道 ・・・ここまですらすらとでたが 4.?  沖縄  5.大阪  6.長野

7.神奈川  8.石川(金沢.能登) 9.兵庫 10.長崎  11.静岡  12.山梨・・・・U~nn

7位以下は怪しいな・・・・

で地味な佐賀は通過していよいよ長崎、長崎はなぜか美男子芸能人が多いとのこと、福山雅治が代表で

EXILEのボーカルのあの人、それから前川清、さだまさし? 蛭子能収?????(エビスヨシカズ)は

熊本天草だけど自称長崎県民とのこと

いよいよ太陽の町、エキゾチック香る長崎に着いた。  新婚旅行の第二日目も長崎だった、透き通るような

深くまぶしいブルーの大村空港に降り立ったのは40数年前の事、初めて見た南国の明るい空だった

長崎最初の観光は平和公園、原爆資料館、昭和20年8月9日、7日の広島に次いで2個目の原子爆弾投下

一瞬にして罪なき市民75000人以上が焼き殺された、それでも平野の広島の半分の犠牲者数は小高い山が

幾つもある長崎の独特な地形のおかげだったという、それでも被爆後、そして被爆2世、被爆三世と時をおいて

亡くなる人はあとをたず真の犠牲者数は20万人に迫る。 戦争を終わらせるためといえど勝者の倫理

自国民が同じ目に遭えば笑って済ませるだろうか

天候のイタズラで新潟市、小倉市は助かり、広島市、長崎市が犠牲になった

資料館でも多くの白人が見学に訪れて神妙な顔でビデオなど見ていたが、まさに戦勝国の白人にこそ

罪深き所業をみてもらい原爆の悲惨さを感じてもらいたいと思った

このようなところを訪れる戦争を知らない白人に敬意を表したい

 

平和公園から天気は快晴になり、ツツジがとてもきれいだ

満々とたたえられた公園の人工池の水の美しさは、原爆に体を焼かれた人たちが水を求めて彷徨い

一口飲んで息絶えたという悲しい実話・・・そのために常時水だけは豊かにたたえておくのだという

  

 

原爆体験者の方が語ってくれた生々しい当時の様子、爆心地に残る刑務所の土台

女学校の若き乙女たちも一瞬にして命を奪われた・・・・重苦しい空気と、明るい空が共にある不思議な空間だった

被爆した生徒と先生を描いた銅像に鳩が群れて、先生の肩に一羽じっととまっているのが印象深かった

 

新婚旅行で行ったグラバー園周辺が次の長崎観光、あいにくグラバー邸は改修工事で入れないが

小高い丘から見下ろす長崎の風景など見所満載、大浦天主堂から見学だが、その前に昼食、入り口のところの

中華レストラン、その大きさとディスプレイ、オブジェに圧倒される、ここで長崎ちゃんぽんのコースです

ちゃんぽんは一人一人ラーメンみたいにくるのかと思ったら、とりわけだったので少しがっかりでした

皿うどんは乾麺を手の平で潰して、あんかけ、そのほか数品でました  

  

ちゃんぽん                                皿うどん

 

  

       つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北九州旅行記1

2019年04月21日 17時36分08秒 | 旅行 九州四国・東アジア

福岡~長崎の4月14日~16日の2泊3日旅行に参加した、総勢30名の信用組合の記念行事

福岡は初、長崎は新婚旅行以来42年ぶり2回目

石川県の小松空港からB737-500に搭乗、搭乗率は70%くらいかな

天気はあいにくの雨、福岡も小雨で次第に曇りに変わるとか

飛行機では窓側の席だったので期待していたが残念ながら雲が覆っていて何も見えない

隣の席の商売の大先輩とずっと昔話をしながら1時間半を過ごした

飛行機は速い、1000km余を1時間半弱で行くのだから

福岡空港に正午前に到着、最初の見学はアサヒビール九州福岡工場、工場内を案内してもらって

最後に試飲コーナーへ、ここで3種類の生ビールを3杯中ジョッキでいただいたので結構良い気分

それからお決まりのジンギスカン料理の昼食、ひさしぶりに野菜をたらふくいただいた

それから地元昭和交通の観光バスで移動、一人で2座席利用出来てらっくり旅になりそう

太宰府天満宮へ、ここは菅原道真、勉強の神様のほかに「令和」の起源に関わっているとかで

人気スポットになっているらしい

バスを降りたら雨が降っている、全然添乗員の予報は当たらず500円の傘を買う羽目になった

その後、雨はやんだのでたった数十分の為に買った傘だった、採取日に観光バスに寄付してきた

 

ここで参拝したが、バスガイド嬢が言っていた300円のおみくじを探して歩いたがわからず、

「よく当たる」と書いてある、おみくじで我慢したが、買ってから「恋みくじ」だと知った、今さら・・なのだが

開いて見たら中吉だった

恋みくじにあった「恋の歌」

「恋ひわびし しばしも寝ばや 夢のうちに

見ゆれば逢いぬ 見ねば忘れぬ」

  

 

どうしても300円の木製お守り付きのおみくじが引きたい、聞いたらすぐわかったので引いてみたら

なんとここ何十年もひけなかった「大吉」をゲット...令和元年に向けて縁起が良いスタートになるか

そのあと近くの「九州国立博物館」へ、40分じゃあ・・・と思ったらやっぱり常設展だけだった

全国に4カ所しかない国立博物館で最も新しいという、上野の東京博物館とは全く趣が違う近代建築だ

入り口を入ると上野駅のような長いエスカレーターが目の前に、ついたと思うとそこはコンコースで

動く歩道が続いて、またドアにぶつかる、ところがここは出口??????

どこに博物館があるんだい? と思いながら外に出ると、その先を進んで行くと、そこに博物館の入り口が・・・

なんか良く意味がわからない、案内表示も無いみたいだし

宿泊は中州のホテルでシングル、10階建てほどの小さなホテルだがセキュリティはしっかりしている

フロントが11階だかにあるのが面白い、客室がフロントより下の階なのだ、そして大浴場が12階にある

繁華街のホテルにしてはなかなか大きな風呂で満足、15人くらいは入れそうだ

奈良・和歌山の一人旅でも奈良のホテルにスパがあって重宝したが、こうした温泉付きのシティホテルは嬉しい

夕食は近くのフグ料理の店だ、贅沢をさせてもらった、ふぐちりにさしみ、美味しくいただいたが

オプションで焼き白子1080円を食べて、ひれ酒を飲んだ

我々の町で獲れるマダラの白子とあまり変わらない味だと思った

茶碗蒸し 面白い、美味しい

    

白子とヒレ酒

 

熱燗のひれ酒は旨かった、会食が終わって自由行動、福岡の夜の町に出て行く人たち、ホテルに戻る人

屋台体験に行く人と様々

私はあの大先輩がお疲れなのでホテルまでお送りした、そのあと一人で屋上の温泉に入って

それから屋台目指して中州の川縁をゆっくりと散歩した

 

 

戻ってきたら既に11時を過ぎていた、コンビニで買った缶ビールを1日の仕上げに飲んで寝た

私は旅行に行くとご当地カップラーメンを買ってくるのが楽しみ

だけど今回はあまり荷物を預けたくない飛行機旅行、結構かさばる博多限定カップ

やっちまったね、でも仕方ないから結局、おみやげを買ってカバンを預けて、ラーメンを手荷物にして

持ってきた

 

この夜の一等賞は「おかまバー」を楽しんだ人たちだと思います。

 

 

 

 

 


北九州旅行リアルタイム

2019年04月15日 09時42分16秒 | 旅行 九州四国・東アジア

今、佐賀県を長崎に向かって走行中

佐賀のキャッチフレーズは佐賀を探そう だって

バスガイドさん言ってた 確かに車窓からも地味

何をイメージしますか? 1分間沈黙するのが佐賀県イメージ

でも伊万里 有田 唐津。など日本一の焼き物産地

私的には、はなわ、かな 人気度45位 下は徳島県 茨城県

佐賀は通過さえ始めて、なにか記念品をパーキングでこれ

 

 何だかわからないので店員さんにきい