神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ぶり文化 鮭文化

2024年12月23日 15時51分37秒 | 時代検証
太平洋岸にぶり文化、鮭文化があるのかどうか知らない
日本海では富山のぶり文化、新潟の鮭文化とはっきり二分している
ただフォッサマグナ(静岡、糸魚川構造線)付近では、はっきりしているわけではなく、交じり合っているようにも見える

この辺りでは、昭和時代はお歳暮に新巻鮭を地方の親戚や知人に贈るのが年末の風物詩だったが塩ぶりを送ることはない(平成のころから、そのような習慣は薄れた)しかしお正月の焼き物、さしみには富山湾や佐渡の寒ブリを食べる。

富山も新潟も共通するのは正月魚として長野県、岐阜県に売り込むことだった
富山からは岩瀬浜から飛騨地方に南下して高山へ、峠を越えて信州松本や、信州大町方面に
新潟からは現在の松本街道(糸魚川街道)を山道、峠道を越えて松本方面へ
これは上杉謙信が静岡の今川、小田原の北條によって塩止めされて困っていた宿敵の武田家に塩を送った(義塩)塩の道と同じである
あるいは直江津から北国街道で善光寺平(長野)へというルート
いずれも車などの交通手段がない時代は、塩ぶり、塩鮭にして運ぶしかなかった。

ここ数年は寒ブリも鮭も富山、新潟は水揚げががったり減った、とくに佐渡のぶりの水揚げが少ない
これは鮭、ぶりばかりでなく、イカやスケトウたらなどの魚にも言える、これも原因は温暖化と言われている
魚屋の店頭でも新巻鮭がズラッと並んでいる風景は見られなくなったし、贈答品としての利用もなくなった
代わりに外国産のサーモンの切り身がスーパーのショーケースに所狭しと並んでいる。


北國の春

太平洋戦争と大東亜戦争が同時に開戦された昭和16年12月8日

2024年12月08日 17時26分13秒 | 時代検証
 わが方面は積雪も無く、雪も降っていませんが長野県北部や群馬、新潟の県境付近は結構な雪が降ったようです
関越道も事故で一時交通止めに、148号も白馬辺りで150cmほど積もったという情報も・・・今年は山雪が早そうです。


 来年は神武天皇即位2685年となる
紀元2600年と云って、日本国中が盛り上がり湧いたという年は西暦1940年、昭和15年のことだった。
そして、その翌年の12月8日、我が国2600年の歴史の中で国家衰退の最大の痛恨、米国相手にハワイ真珠湾を急襲して大戦果をあげて、国中おおいに勇み立つ
3年8か月の太平洋戦争の幕開け
同時にマレー半島沖でもイギリスを相手に戦争を始めて、世界最大級のイギリス戦艦プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスを攻撃機で撃沈する
陸軍はイギリス領シンガポール、マレーシア、オランダ領のインドネシア、アメリカが占領していたフィリピンなどに上陸
現在のベトナムを侵略していたフランスは本国政府がドイツに占領されて無抵抗で日本軍に占領地を渡した。

すでに戦闘中だった中国大陸での中国軍との日中戦争と合わせて大東亜戦争が開始された
更に翌年2月空挺隊がオランダ領インドネシアのスマトラ島のパレンバンを急襲して占領、アメリカの禁輸で石油不足の日本念願の一大石油基地を得る。

これが建国以来日の出の勢いだった日本が、国を失う悪夢の始まりであった
結局、戦局が有利に進んだのは昭和16年12月から翌年の前半くらいまでで、ミッドウェーの海戦で、自慢の航空母艦4隻と航空機300機近くとベテランパイロット数百名失う大敗北以来、次第にアメリカ軍は南太平洋インドネシア方面から北上を始めて、日本軍が進駐する諸島を取り返していった
マッカーサー元帥がもっともこだわったフィリピンもレイテ湾海戦で戦艦武蔵など主力艦隊が全滅してアメリカ軍が取り返した。

昭和20年3月には東京大空襲で10万人の東京市民が無残に焼き殺され、東京は廃墟となる
それ以後50を遥かに超える日本の主要都市への爆撃が連日行われ、名古屋などが特に大被害を被った
沖縄は県民を巻き込んだ日本史上初めての市街戦が繰り広げられて、沖縄県民の数十パーセントが逃げ惑って亡くなった悲惨な沖縄戦
戦後もアメリカの占領が続いて、本土復帰したのは1972年5月15日だった
未だに沖縄本島の15%が米軍基地となっている
また辺野古基地の建設など沖縄県との新たな摩擦も起きている。

8月には広島、長崎に原爆投下、原爆の人体実験同然の悪行、市民両都市合わせて20数万人が一瞬で亡くなった、人間が一瞬で蒸発して消えてしまう爆弾など人類史上初めてである
昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合軍に無条件降伏、「昭和天皇の責任は問わず」だけは得たが戦争指導者東条英機らは絞首刑に処された。

昭和20年から日本は独立国の地位を失い、アメリカの統治下での暮らしが始まった、そんな中でワンマン宰相と言われた吉田茂首相がGHQ(占領軍司令部=マッカーサー元帥)相手に側近の白洲次郎とタッグを組んで日本の独立に向かって奮闘した
そして昭和27年に日本は独立を果たして国際社会への復帰がなされた
だがアメリカが作った新憲法では民主日本は軍隊を持たないと規定された
それはすなわち日本は日本人自ら国を守る能力がないということになる
そこで日米安全保障条約が締結されて、日本の安全はアメリカが日本に進駐してこれを守るというような意味なのだろう
そして日本は、日本人を守る在日アメリカ軍に対して様々な便宜を図る、日本のアメリカ軍および、その家族や軍属に治外法権の特権を与える協定も結び、現在もなおそれらは効力を持っている
結局1950年に起きた朝鮮戦争で、日本に軍隊が必要と感じたのはアメリカであった、しかし吉田内閣はアメリカがつくった新憲法を盾に軍隊は持たないの一点張りを通した、そして苦肉の策で出来たのが警察予備隊(自衛隊)であった

敗戦からもう80年になる、未だに日本国はアメリカ軍駐屯のまま自由を得ている、多くの日本の若者は日本がアメリカ、ソ連(ロシア)、イギリス、オーストラリア、中国と戦争したことを知らない

敗戦後、軍事から経済にシフトした日本は大成功して、アメリカに肩を並べるほどの経済発展を成し遂げた、勢いのままバブルに突入
実体のない紙切れ経済は膨れ上がって破裂した、あれ以来日本は坂道を転げ落ちて、緩やかに貧しい国になりつつある

アメリカはカオス的な言動と行動のアメリカファーストのトランプが大統領に返り咲いた
脅威が増す中国に対して厳しく当たることが予想されるが石破内閣となった我が国もうかうかしていられないだろう、トランプと良好な関係だった安倍晋三元総理無き今、石破内閣の苦労は計り知れない。

日米安保、アメリカの核の傘の下で自衛隊、海上保安庁の人たちは中国、ロシアからの脅威をぎりぎり防いでいるが、奪われた北方領土は未だ帰らず、竹島は韓国軍が駐留、センガク諸島は近年になって中国が領有権を主張して圧倒的な大型警備艇で圧力をかけている、北朝鮮も拉致問題は解決済みと言って拉致被害者を返す素振りも見せない。

駐留アメリカに守られている現状と(アメリカは無条件に日本を守るとは言っていない)、もしも昭和の戦争が日露戦争のように早期に痛み分けで終わったとして(意味のない推論だが)
軍事大国のまま大日本帝国が今日まで続いていたとしたら・・・
いったいどちらの日本国が今の国民にとって幸せなんだろうかと思うのである。

*昭和の戦争名が大東亜戦争か太平洋戦争か、どっちが正しいという話が時々出てくるが、私は主にアメリカ、オーストラリア、イギリスと太平洋やその島々で戦った戦争を太平洋戦争
インドネシアからシンガポール、ビルマでのイギリス、オランダ、インド軍との戦争を大東亜戦争、そして中国との戦争を日中戦争と分けて考えている
私的には日本は同時に三つの戦争を世界相手に行っていたと思っている。
敗戦の一週間前に満州に攻め込んできて、戦後60万人の日本人をシベリアに連れ去って強制労働を強いて6万とも言われる死者を出したソ連の侵攻はこれら三つの戦争とは別物だと思っている。








スマホ、パソコン、デジタル機器のわからないが多すぎる

2024年12月05日 19時49分19秒 | 時代検証
 カメラで撮った写真をスマホのグループLINEで公開するのに苦労している
最近、カメラとスマホ、スマホとパソコンをBluetoothで繋げたのだけれど、そこから先に進めない。
どのようにカメラ画像をスマホに送るのかがわからない
それで考えた末、カメラのSDカードからパソコンファイルに取り込み、それをスマホのミニSDに移して、ようやくLINEに載せることが出来た。

Bluetoothという奴が今一理解できない
以前は愛車のカーナビとスマホをBluetoothで接続して、発信、受信をハンドレスで話すことが出来た
それとスマホとワイヤレスホンM2をBluetoothでつないでyoutubeで音楽を聴いたりしている、接続の成功例はこの二つだけ
あとはプリンター、パソコン、スマホ、カメラをBluetoothで接続しているが、何をどのようにして利用するのかがわからない

パソコンとスマホでいろいろ共有できるようで、またリモートで互換性もあるらしいが、パソコンはオープン、スマホはプライバシー重視な機器、パソコンで知らぬ間に情報が漏れるのも嫌だ、それはスマートウオッチにも言える

スマートウォッチも今一使いこなせない、説明書が親切でないからお手上げだ
日本製ならいいのだろうけど、日本製のスマートウォッチってあるのだろうか
そんな初歩的なこともわからない
まあできなくても困るわけではないが、便利にできるならそれにこしたことはない
ただわからないでかまいすぎて、詐欺なんかにひっかかるのも困るから、このあたりでいいか。




加山雄三 : 1966 : ブライト・ホーン







田舎の町の今

2024年12月04日 16時28分59秒 | 時代検証
 寒くなった、寒くなったがこの三日間は日中は雨が降らないので、散歩をしている
町の中心部を歩いて用足しした、その歩数は4500歩くらいで、最近の私のほぼ定数である
曇り空の中を行ったが、風が冷たくて参った、帰宅してから鼻水が出てしょうがない、これからは無理は禁物だな
体調は良いので、ついついやりすぎるきらいがある。

駅周辺の中心部を我々周辺部の住民は「町」という
「町へ行ってくる」という、たしかにバブルの頃までは「町」だった
市内の富の大部分を町の商店や旦那衆が独占していた
市役所も駅も銀行も郵便局も商店街も映画館もボーリング場も喫茶店も歯医者も、みんな町にあって、私も25歳の時には「町」のスーパーで魚専門のテナント店長だった
魚屋と言えども「町のスーパー」の威力はすさまじく市内の魚専門店で三本の指に入る売り上げをしていた
大晦日には、雁木の中を人が押し競まんじゅうして歩いたのだから、その日だけはアメ横並みの賑わいだった

それが昨日は「町」を歩いたが20分ほどの間にすれ違ったのは2人だけだった
いったい、「町」の人たちはどこへ行ってしまったのだろうか
商店街と言うには・・・いう方が無理か
ただ銀行だけは、この通りに集中しているから多少の出入りはあるが、ほぼ車で来るから、やはり歩行者はいない

ショッピングは、すべて国道沿いに大型店が展開して、大駐車場がいっぱいになっている
これは地方全般の中小都市の平成以降のニュースタイルだ
市は未だ未練なのか、「町」の近代化に力を入れて、新たな箱モノや設備の補助を行っている
だが現実は今言ったとおりだ。 時々テレビの旅ロケが来るが、歯にもの着せない芸能人は「誰かに聞こうにも人がぜんぜんいないですねぇ」と気遣いもせずに、はっきりと言い捨てる、だがその通りだから見ている我々も苦笑いするだけだ。

但し、夜になると、この「町」は元気を取り戻す
飲食店の多くは、この「町」の路地路地にあって、夜の5時間を楽しませてくれる
この「町」も、まだまだ捨てたもんじゃないのだ。





衆院選ですね

2024年10月16日 20時21分18秒 | 時代検証
 選挙が始まりましたね、ほんの少し前近くで街頭演説がありました
自民党ですが今回は先の見えない選挙なので、声をからすほどに長時間力説していきました。

裏金問題で窮地ですが、小泉首相以来の仲間の斬り捨てを断行した石破総理、岸田総理を引き継ぎましたね、これが選挙で効果を発揮するのかどうか?
だけど野党も頼りないからね・・・いい勝負が展開されるでしょう。

落選しても比例で助け上げるのはどうなんでしょう、負けた武士は見事に腹を切って果てますけどね
せめて惜敗率95%以上とか、名簿順位は何番以下とかにすべきじゃないですか

われら北信越5県では昔から自民党王国と言われましたが、長野県だけは与野党伯仲してましたが
ところが平成からは長野県でも自民党が強く、北陸三県も自民党王国、なぜかかっての自民党王国新潟県だけは民主党系が勝つことが多くなってきました
これはいったいどういう現象なのでしょうか?

党は関係なく、個々の議員さんが平民の生活感と気持ちに寄り添った政治をしてくれれば一番なんですが、納税金額比例政治では(多額納税者に恩恵があるのは当然ですがね)平民は盛り上がりませんね
これだけ物価上昇が続き、平民はやりくりに追われて、切り詰めて生活しています
食べ物は倹約できても、公共料金や税金はおまけがないのでずっしりとのしかかってきます
考えてごらんなさい、所帯収入が2人で月20万ならやっていけませんよ
くって抜けるのが精いっぱい、食べ物は倹約、衣類も穴があくまで着るしかない、野菜は自給自足、畳の交換もギリギリまで
電化製品が壊れた、車がポンコツになった、水漏れが起きた、屋根が雨漏れとか冠婚葬祭が続いたとか万円単位の臨時支出があれば一気に赤字になりますね
医療費も年齢と共にかさむし、老後はどうなるか心配の人も多い
いや老後が一番問題ですね、独身ニートの息子と後期高齢者の夫婦家庭は、これから15年後がたいへんでしょうね、体は動かなくなる、収入は少ない、払いは大きい
預金も100万、200万ならどうしようもなくなりますね、物価もまだまだ上がるでしょう
中、大企業、公務員は賃金アップが続いていますが、零細企業、個人の従業員はどうなんでしょうか、派遣社員も厳しいですよ、いつ首切りかわからないし、日給時給だから休みは無給、年金は増えるより減らされるのではと身がすくむ思いです

ガソリン代も170円くらいで普通だと洗脳されましたしねもう150円以下とかは無いんでしょうね、高速道スタンドではレギュラー199円でしたね、それでも入れていますからね、まずまず余裕がある方たちでしょうか。

平民からこんな愚痴が出ないような政治をお願いしたいです
私でもこんな気分ですから、主婦の苦労は並大抵でないでしょうね
子供の教育費、高校、大学とお金がかかるから、これからは平民の子が私大に行くのはたいへんでしょう、また新婚さんも先を考えれば子供を産むことも考えるでしょう
少子化、学力の低下は世界との競争の中にも表れています
軍事力や人口、GDPは中国に大きく水をあけられて、GDPで、韓国、台湾にも追いつかれました、大学ランキングも中国と差が開き、東大も世界の中では中程度のランク、中国、韓国の大学に負けています。

政治家さんもたいへんです、昭和の日本を取り戻すには並大抵の努力ではできないでしょう、でも平民が笑顔になる政治をお願いしますよ
たまに10万円もらったってどうですか?
貧しくても大金持ちでも消費税は同じ率ですから、どっちが消費税の重みを感じているか一目瞭然

昭和の政治家は生き死にの戦争を体験してきて、原爆と空襲で壊滅的になった国土の復活を真剣に向き合っていましたからね偉かったですよ
今のウクライナやガザとは比べ物にならない被害を被りました、350万人もの国民が戦地や国内で死にました、兵隊さんも市民も死にました

戦争が終わる昭和20年(1945年)だけで8か月間に全国215都市が爆弾や原爆で破壊され、罹災戸数は210万戸、家を失った人は970万人にも及び、国民の20%が家を失いました
敗戦1か月で政府が動いて戦災復興院(建設省の前進)を作り、官民一体の復興計画を実行した、復興作業は1960年までかけて行われました(アジ歴グロサリーより)

国民も敗戦の悲しみから一早く立ち直り、余力のある企業や経営者は余剰人員を採用して復興に貢献したし
民間、個人も必死で前向きに復興に向かって働いた
政府もアメリカ軍の占領下で「あれダメ、これダメ」と言われる中で知恵を絞り、日本の復興に命を懸けたものと思われる。

1960年代には、敗戦から僅か15年足らずで新幹線を開業し、東京オリンピックを誘致するほどに国力を高めたのである
私個人も戦後5年目の1950年に生まれて16歳の高校入学までの生活の向上を目の当たりにしている
国民の努力もそうだが、やはり政治が立派だったし、夢をもって政治をしていたのだと思う、だからこそ今に名を残す総理大臣も多い
役得が多少あっても、国民にも利益をもたらせてくれれば誰も不平不満は言わぬ。

(吉田茂、佐藤栄作、池田勇人など)その後も日本を世界1.2にまで押し上げた(田中角栄、大平正芳、福田武夫、中曽根康弘)などの総理も誕生した。
もちろん、ブレーンも素晴らしかったし、各省の役人も傑出していたのだろう
そして国中が一体化した夢に向かって進める政治が展開されていたとみる
これが行き過ぎて一億国民総バブルからバブル崩壊になったのは浮かれすぎ、二度目の敗戦だった。

今の日本を見ていて、熱がない
本当に静かになってしまった、国も赤字体質に慣れてしまったようだし、国民も停滞に慣れてしまった
「失われた30年」を与野党ともに、敵対政党に責任を押し付け合っている
なってしまったものの責任を追及しても意味がない、政治家なら明日からの国民生活向上を図るべきだ、国民生活がアップすれば当然国力も上がる
国力が落ちると、敵対国からの圧力が強まる
我が国土も四方八方から狙われ、すでに占拠されたところも少なくない、さらにその行動はエスカレートしている
核も持っていない、兵隊も少ないとなればアメリカの戦力を充てにするしかないからアメリカの要求はエスカレートする、用心棒代はたまた安心保険なのか
だが戦争ともなれば、日本軍がアメリカ軍の後ろについていくわけにはいかない、まずは日本軍の勇敢さを見せなければ、アメリカは安全地帯から動くまい
そもそもこれからの戦争は空中戦だ、爆弾ドローンやミサイルが飛び交う戦争だ、始まってしまえばまた昭和の戦争の繰り返し
勝っても負けても大勢が死んで町が破壊される、戦争がおこらない努力も政治家の重要な仕事だ。

こうした国を寄せ付けないだけの国力が必要だ、政治家が100万、200万のチンケなことをやっていてはダメだ、大きな絵を書いて、大なべの底を平民に還元するだけで立派な政治家だと信用される、信用が大事ですね
仲良しグループだけに恩恵を与えるようじゃだめでしょ
もっと大きな仕事をやれば、おのずと懐にも巨額の駄賃が入ってくるだろう
とにかく大きな国益を挙げて国民に分配するのが政治家の役目だろうし、平和な国を守るのも政治家の役目だ、政治家は大きな責任を負っているのです。

わたしたち平民が出来ないことをやれる立場に居るのが政治家だ、国民を不満のない豊かな生活にしてくれたら、我らの100倍の所得を得ても文句は出ないでしょう、国民に尊敬される政治家であってほしいですね。

東へ西へ 井上陽水 1992 SPARKLING BLUE (日本武道館)


バブル期の北陸温泉郷事情

2024年09月26日 08時18分04秒 | 時代検証
 先日、温泉旅行の備忘録をアップしたけれど、あれは記憶を呼び戻しながら書いたものだった、まあボケ防止の対策の一つだと思っていただければありがたい
それと同時に、当時のことが次々と思い出されてきた。
令和になって、私も同級生旅行、友達小グループとの旅行以外ではこうした大規模な温泉旅館へは行かなくなった。
同級生旅行も去年から中止になった、70歳を過ぎて自分がガンなどの病気になって、あるいは配偶者が病気になったり、亡くなったりして不参加になる者が増えて来たからだ
また事務局長兼会計長を毎年やってくれたY子の突然の死、あれでみんな意気消沈したことも原因だ。

以下、軽薄な文になりますので、呆れたらスルーしていただいて結構です

バブルの時代、昭和50年代はたしかに華やかで、よく働き、よく稼ぎ、よく遊んだ、我々より5年、10年早い人たちは、まさにバブルのど真ん中で恩恵を受けたようだ
土地ころがし、株価の史上最高値などで俄か成金が日本中に溢れて、会社員や個人経営者も収入が一気に何倍にもなって、その水準たるや今の時代の収入とさほど変わっていないのだから、その後の失われた30年は実感できる
「世界のNOKYO」が流行語になり、眼鏡に出っ歯、首からカメラをぶら下げた日本人団体のアジア観光旅行の風刺画が目立つようになった。

昭和20年の敗戦から、日本国の再建に、自分の生活の再建に汗水たらして遊びなど思いもせず、休みなしで必死で働いてきた日本人
その甲斐あって、昭和30年を過ぎると国内経済は良い回転を初めて、倍倍ゲームで所得が増えていった
少し前の中国経済と同じだ、それを日本は40年以上前に成し遂げたのだった

生活費に加えて、余剰資金(こづかい)も増える、働きづくめから余裕が出来て、たまにはパッと遊ぼうじゃないかと団体旅行ブームが起きた
先輩たちからは韓国旅行で妓生パーティをしたとかの軽薄で世界から軽蔑される武勇伝をよく聞かされたが、我々世代が海外デビューしたころには韓国の経済状況が良くなって、我々はそんな遊びの経験はない
その代り、国内の温泉には観光旅行でよく行ったものだ
われら北陸地方の住人は何といっても加賀温泉郷(片山津、山代、山中、粟津&和倉、芦原)へ行くことが多かった。

特に大きな温泉街は片山津と山代で、この二つだけで年間300万人以上が入れ込んだ、もちろん能登の和倉温泉も「プロが選ぶ宿」で加賀屋が10年くらい1位を続けて、加賀屋ブームを起こしていて山代、片山津と競い合っていた。
また加賀温泉郷に近い福井県の芦原温泉も東尋坊、越前海岸、芝政や三国競艇をバックに集客力があった、この時はまだ恐竜博物館はなかったが
加賀温泉郷の中では山中温泉は観光客数が75万人ほどで山代、片山津の半分、粟津は5万人程度だったが、粟津の宿、「法師」は北陸でもトップクラスの老舗で人気が高かった、和風の宿で廊下のあちこちに九谷焼が展示されていた
そして宴会のあとの二次会には館内に大きなクラブ風の一画があり、そこは和風の宿から一転して洋風の華やかなホールになっていてギャップに驚いたものだった。

和倉温泉であれ、山代、片山津であれ、仲居さんが名物でお客さんを楽しませてくれる腕は日本一と言っても良いだろう(熱海など伊豆の観光温泉もそうかもしれなかったが、当時は行ったことがない)
宴会後には二次会をしてその間中、仲居さんが一緒に無料で付き合ってくれる
その後も、宿の外に案内してくれるのだが、これも無料、いったい無料奉仕して得があるかと思うが、結局は宿内であれば二次会に客を連れて行けば、それなりの歩合、外へ行けば紹介料、客からのチップなどの副収入になったのかと思われる・・・知らんけど。

団体だと、お風呂に入ってから夕食宴会となるが、そろそろコンパニオンというものが流行り出したころであった
大人数には主催者幹事が杓してまわるなどできないから、、コンパニオンを頼んで盛り上げたが、10人、15人くらいでの宴会の時には、宿の仲居さんがだいたい2人ついて料理運びの合間には話し相手になってくれたりして、それが海千山千の40代、50代だと「高いお金を出してコンパニオンなんか呼ぶより、私たちの方がよほど楽しいよ」と自信ありげに言う、闘争心むき出しなのも、コンパニオン以前から客を楽しませてきたと言うプライドだろう
確かに、話し上手で温泉の裏表、男女の問題などさらりと話してくれて、なんでも打てば響く、われわれも血気盛んな30代、40代だったから大いに盛り上がった
確かに若くてぴちぴちのコンパニオンだが、いかにも営業スマイルで、話も騒がしいだけで面白くない
せいぜいカラオケでジュエットしたり、酔いに任せてチークを躍るくらいで、会話の面白さは仲居さんには遠く及ばなかった
バブル崩壊で、あのようなベテランの仲居さんが居なくなり、若い二十代の仲居さんになり時代も変わってお行儀のよいマニュアル的な人ばかりで、仲居さんと言うより社員と言う感じになった
あのベテラン仲居さんのような味のある、とぼけた面白さは期待できなくなった、艶話などしたら「セクハラ、パワハラ」と言われそうで、結局コンパニオンに逃げるしかないが、それさえ必要ない年齢になった。

同級会旅行が主になって、これまたコンパニオンなど足元にも及ばない同級生女子の面白さ、他の部屋の団体さんがカメラを取りに戻て、我々の宴会を撮るほどのエンターティナー女史揃いだった
それも今は夢物語となってしまった。

加賀屋に最上級の雪月花が出来、百万石は梅鉢亭と同じ旅館でもハイクラスのの客向けの別館特待サービスでプライドを持ち上げた、仲居さんや従業員には浴衣で特別な客であることをわかるようにしていた。

大きな温泉宿は館内にクラブ、居酒屋、スナック、カラオケボックス、ラーメン店などを作って、客を外に出さないようになった
コンパニオンも予定時間が終わってもしぶとく幹事や客に宴会中から、「席がお開きになったら館内の二次会に連れて行って」とねだる
酔っぱらって太っ腹の「なんちゃって社長さん」になった客は「はいはい」とお大尽様になって了承するが、コンパニオンはちゃんと30分刻みで花代を加算している
それも一人ならいいが、二人三人と居るから、翌日帰る時になって、フロントで支払いが終わった幹事から、コンパニオンを引き連れて遊んだ連中は「夕べのコンパニオン代一人2万円徴収します」などと言われて、素面の顔が真っ青になることもしばしば
遊びに行かなかった仲間から借金する羽目の者が時々いたものだ
利口な奴は宴会中に仲居さんと約束して二次会は少しのチップで仲居さんとカラオケなどに行って一緒に楽しく遊んで、1時間ほどで切り上げて部屋で飲みなおして寝る、仲居さんも手すきの仲間を呼んでくるが、飲み代を持ってやるだけでコンパニオンみたいに花代はいらないから安いものだ
バカな奴はべろべろになって、部屋までコンパニオンを連れてきて飲みなおすから、タクシーのメーターの如く花代は跳ね上がっていき、翌日の悲劇を迎える。

芦原温泉でのこと、私と先輩のKさん二人で、宴会のあと外に出てラーメンを食って一杯飲んで部屋に帰ってきたら、若い芸者が一人、部屋の襖の前で正座している
「なんだ?どうした?」と聞いたらば、「この襖の向こうにいるHさんと言う人に宴会の時『部屋で飲みなおすから来い』と言われて来たのですが、もう一時間待ったけど寝ていて起きないんです、帰れば怒られそうですし、姐さんにももう一席と言ってあるので帰るに帰れません」と言う
Kさんと目配せして「わかった、もう彼氏はグッスリで起きないから、あんたも今帰れと言われても困るだろうから、俺たちと外へ飲みに行こう」と言って
連れだした、そして温泉街の店に案内させて彼女と夜中まで3時間ほど飲み明かして戻った。
翌朝、当然ながら請求が来た、もう忘れたが相手はコンパニオンではなく芸者だから花代も高い、5・6万円くらいだったと思う
その請求書をHに見せて、「あんたが呼んで、ずっと待たせた芸者の請求書です、俺たちも後始末のために付き合いしたから、これは三等分と言うことで支払いしましょう」ということで決着した。
本人は芸者を呼んだことすら覚えていなかったらしいが、事実は事実だから仕方ない
記憶が無くなるほど飲むと、こんな風に寝ているだけでも花代がつくことがあるから気をつけないとね。
もっともバブルの頃だから、それほどこたえなかったが、年金生活の今ならとてもじゃないができることではない。




令和の時代に米騒動とは

2024年09月07日 17時34分44秒 | 時代検証
 富山県魚津市の海岸道路を走っていると目に付くのは「蜃気楼道路」の看板
5月の連休ごろ、”ぼわ~”とした晴れた日に蜃気楼は発生する
私は蜃気楼は2回しか見たことがないが、高速道路か新幹線の高架橋のようなのが、海上に出てきて、それは少しずつ伸びていった
富山市の工場の景色が水蒸気や大気のスクリーンに写ってできるらしい
これは余談
同じ道路に「魚津米騒動の発生地」みたいな看板が立っている
前に、この件は書いたことがあるから、詳し事は書かないが、大正7年に起こった事件で、米不足で毎日米の値段が上がるのに、米商人の蔵には米があり、それを北海道で売れば魚津で売るよりはるかに大儲けできるため、商人は船で北海道に転売する
それを知った、魚津の漁師のおっかちゃんらを中心に米の積み出しを阻止した事件だ。

私はスーパーに米が無いと聞いて驚いた、まさか令和の時代に米が無いとは何たることか
まあ日本人というのは、騒ぎ立てると、それに乗りやすい国民性なのか?
さらにテレビ、新聞、週刊誌が書き立てると、ますます危機感を募らせて、愚かな奴は買占めを謀る
自分さえ良ければ他人はどうでもよいが見え見え、日本人の質もずいぶんと落ちぶれたと思う、みんなで少しずつわけあうという精神が見えない
それより飽食の時代に、米が少し減ったからと言って買いだめまでするか~?
もう新米の時期がそこまでやってきているのに。

過去にもオイルショック、近いところではコロナ騒動で、それぞれトイレットペーパー(当時はロールではなく、四角い紙束)、洗剤が店から姿を消し
コロナ騒動ではマスクが姿を消したし、大地震が起きるとスーパーの食品売り場が空っぽになった
こんなに物が豊富になったのに突然無くなるとは信じがたい
騒ぎを聞いて、米がないなんて人口が多い都会の話だろう米どころの北陸、越後はまさかそんなことはあるまいと確認にスーパーへ行って見たら
本当に5㎏袋の米は一つもなく、高級米の2㎏、1㎏袋がかろうじて残っていた
それも「お一人様一袋」と書いてあった。

私は米が無ければ、パンでもうどんでもラーメンでも、私の好物ジャガイモやコーンを食べていれば良いと考えるが、世間の多くはそう考えていないのだろうか
米を食べる世代が減って、パン食家族が多いと聞いたが、こんな時だけ米を食べたくなるのだろうか?
ある人に聞いたら、米を買い占めるのは高齢者なのだと言った
なるほど、高齢者は米食する人が多いかもしれない、それにしたって、高齢ともなれば一日にどれだけたべるだろうか、大したことは無いと思うが、マスコミに踊らされるのも高齢者が多いのかもしれない
我が家は米は1日4合炊く、一か月なら1斗2升と云うところだから18㎏あれば間に合う
女房殿の実家は農家なので(農協だか大規模農家だかに委託している)、10か月は融通してもらっている、残りの2か月だけ米店かスーパーで買っている。

買占めなんかしなくても、1か月待てば美味しい新米がどっさり出てくるのに、当座分だけ買えばいいものを、今度は余していつまでも新米を食べられなくなるだろうに・・・
今年は豊作らしいが、米の小売価格は上がるらしい
米農家の収入があがるのは喜ばしいが、年金暮らしの財布は細るばかりだ。

我が家の周辺も、そろそろ刈り入れかな





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(179) 甲越 川中島血戦 6

2024年08月24日 08時25分30秒 | 時代検証
 上田原の戦に敗れて退いた村上義清は、退路を断たれて城に入ることが出来ず
そのまま峠を越えて山中に入り、北を目指して越後に落ち延び越後府内に入り、長尾景虎に対面した
義清は「某は十年にわたり武田家と戦いを重ねてきたが、去る二十四日上田原の一戦で、敵大将武田晴信と一騎打ちを行った、晴信の近臣がわが馬腹を突いた為に落馬して鼻を打ち目がくらみて討ち死にとなるところを、わが郎党馳せ参じて助け、換え馬に乗り次いで窮地を出した
されども居城葛尾には入ること能わず、腹を掻き切らんと思えども、死は安し生きるは難じと思い、ここまで来りて候なり
公の父祖とわが先祖は代々武威を争ってきたが、義清、今日は恥辱を忘れて降を請う、公の英雄の名声は天下にとどろき、某の心中を察して今一度、葛尾に帰住するを叶え給われば大いなる幸、莫大な厚恩を賜ることになります
越後にある某の領地も返し奉らん」と頭を下げて頼むを見て、景虎は村上を哀れと思い、上田原の合戦模様をしばし尋ねてから
「御言葉、まことに痛ましきなれ、某の父、信濃守為景は加賀能登越中の間に、数年合戦を挑み、武威を示したけれども越中に於いて不慮の討死を遂げた
父の孝養の為、越中の敵を討ち、加賀能登越前を始め、東国を幕下につけ、帝都に上洛して、将軍義晴公に謁し天下の権を掌に握り、武名を四海に残さんと思う
しかし、某今年十八歳、若年なれど、某を頼み思召すとの一言、黙視できず越中攻めはひとまず差し置き、この上は晴信と一戦交えて公を更科に帰国させ申さん」と熱く語った。
そして、晴信の軍立ては如何なるやと問えば、義清は景虎の信義の熱きことに恩を謝し、「某は数年、晴信の父、信虎と戦ったが、甚だ強き矛先であり天晴なる豪傑の勇将でありました、されども晴信は、その父、信虎にも勝る大将にて、武略に長じて、軍を大事と心得、そこつの働き無く、勝てばいよいよ慎む者にて候」と言う
景虎はしばし話を聞き「さては晴信とは人数の扱いうまく陣法をもって勝つと見えたり、我まずは信州に打ち出て試しの一戦を挑み、敵の奇術を確かめん」
先と申す
先陣は長尾越前守、二陣は直江山城守、古志駿河守、柿崎和泉守、安田上総介、そのほか宇佐美駿河守をはじめ、越後の勇将を引率して其の勢は六千余騎
十月九日、府内を出て信州に押し出し、敵国を放火して勢い大にして民郷を侵し、所々に狼藉をおこない、従う者は恩をもってなづけ、城に籠って出てこぬ者は無視して少しもかまわず、これ味方に降らすための謀りである。









病気の便り

2024年07月20日 20時18分03秒 | 時代検証
 同年代の福井の知人から4年ぶりに手紙が届いた。
越後、北陸路を歩き続けた商売人である、知的でエレガントな人物、達筆で味わいある筆字は「もらってうれしい年賀状」でも紹介した。

内容は廃業の知らせだった、コロナで往来と商売がママならなくなり休業していたが、その間に腎不全や脳梗塞などいくつかの数値が悪化していることがわかり、精密検査で脳動脈瘤も発見されたとのこと。

ようやく商売再開という気運になった頃、長距離運転が不可能になり、さらに悪化した動脈瘤の手術、それで廃業を決めたという
年齢も70代、きっぱりとあきらめたらしい。

毎年楽しみにしていた年賀状が4年間途絶えていたのは、このような事情だったらしい
こうして内情の知らせが届いたことで彼の義理固さが再び蘇った

私も70代半ばで大腸がんが発見された、これまで何一つ不自由がない健康体だったのに、急に私も彼も、同級生も次々と大病を患うようになった
団塊世代は競争世代で、今振り返れば随分と肉体的にも精神的にも無理と我慢をしてきたと思う

40代は我慢の人生から一気に解放されて、毎晩のように飲みに出て梯子酒の御前様それが20年以上も続いた
きっと、その時のツケが今回って来たのだろう
同級生の女友達たちの夫は、私より少し年上の75から80歳前後が多いが、数年前から数人亡くなった。
また60代以後、私のようにガンを患った旅行会メンバーも20人近い仲間の三分の一いる、幸いに再発せず今も元気に暮らしているが
夫婦でガンになったメンバーもいる、ガンが日本人の二人に一人時代と言うが、どうも団塊世代から上が、この数字を押し上げている気がする。


有難や節 - 守屋浩

私がパンをあまり食べなかったわけ

2024年06月23日 19時24分31秒 | 時代検証
 今日は、さっぱり朝の4時半から時間が進まない。
最近の決め事、「5時前に間が覚めても布団の中で、まどろみながら5時半過ぎまではじっとしている」
それが今日は守れなかった、外では早くも鳥たちが夜明けと共に活動を始めている
決め事をするまでは、5時でもおかまいなくチュン太たちに朝ご飯を提供していたが、さすがに今は早く起きても、そこまではやる気は無い
この頃は6時から7時の間で定まって来た。

朝のルーティンも定まって来て、まずは顔を洗って神棚の榊の水と、水を取り替えて拝礼をする。
それから、仏壇のご飯を取り替え、花の水を新しくする、そして焼香と朝の挨拶をする。
その後で、庭の畑の空き地でチュン太に朝ごはんを振る舞い、楽チェアーに足を延ばして10分ほどチュン太たちを見ている
頭を空っぽにして眺めて居るだけの、この時間が至福の時、一番好きだ。
空っぽと言いながら、チュン太たちのほほえましい姿に何かを思っている。

それから自分の朝食のご飯やおかずを作り始める、だいたい30分くらいで出来る、ほとんどが野菜料理と卵料理、それにみそ汁やスープ作り
パンを朝食べる習慣は74年間ない、朝はご飯に味噌汁と決まっている
パンは中学の学校給食で三年間毎日冷たくあじけない「こっぺぱん」を「キャラメルみたいな固いバター」をかじりながら(塗るのは不可能)、アメリカからもらった栄養不良を補うための脱脂粉乳の冷たいミルクと一緒に胃に流し込んだ
まれに「小倉ミルク」と言って、甘い小豆入りの脱脂ミルクが出て、それはうまかった。(脱脂ミルクは、アメリカでは家畜の飼料との噂があった)
おかずはだいたいがうまくなかったが、「クジラの竜田揚げ」と「春雨サラダ」だけは数少ないうまいおかずの記憶がある、それ以外は記憶にない
パンの話が中学校の給食に脱線したが、そんな冷たく固い、まずいパンを食べていたのでパン嫌いになった。
それが滅多にパンを食べない理由である。
そもそも「こっぺぱん」が大きすぎる、たいてい半分食べて残りは紙にくるんでカバンに入れて持ち帰り、家でスライスして素揚げして、砂糖をかけておやつ代わりに食べたが、やはり毎日だと飽きる。
人それぞれで中には私のように残す者からもらって2人分食べる奴もいた。

これは中学校の給食の話だが、小学校の時はうまいパンを食べていたのだ
弁当を持って行くのは自由だったが、昭和30年代の事だから、朝から色とりどりの弁当を作ってくれるのは町場の豊かな家の奥様位なもので、私たちのような下町のかあちゃんは忙しいから、たまに作ってくれるのは「のり弁」
運が良ければ、小さな卵焼きが入っていることがあったが、卵も貴重な時代。
さすがにのり弁は味気ないから、のりを二段にしてくれと頼んで「二段弁当」
これで昼飯は終わったが、弁当が無い日はパン食
朝、パンの注文当番が点呼をとる「こっぺぱん」「ぶどうぱん」「ジャムパン」「クリームパン」「栄養パン」など何種類かを読み上げ、挙手で数を書いていき、それを先生に提出すると、昼に廊下でパン屋から受け取る仕組みだった
牛乳も注文出来て、ビンに入った牛乳と、コーヒー牛乳があった、断然コーヒー牛乳が甘くて好きだった
甘いものが不足の時代だった、支払いはどうしたか覚えていない。

高学年になると、少し利口になって情報を活かすことができるようになった
学校の正門の前に食料品店があって、そこの奥でこっぺぱんを買うと、ジャムなどを選んで塗ってもらうのだが、中に「バターピー(バターピーナッツ)」があって、これが抜群の旨さだった
もう学校の注文パンなんか食べていられない、少数の情報を得た子供だけが、特別美味しいパンを食べられる
私も、その一人であって、密かに優越感を持ちながら食べていた。
それが中学校に行って、あのまずい「こっぺぱん」に戻されたのだから、パンを嫌いになって当然だった。

今は女房殿がパンやケーキを焼く文明の利器で、毎週一回は焼いてくれるので温かくて柔らかいパンを週二回は食べている。

女房殿が実家の畑で作ったジャガイモを持って来た、ざっと200個以上はありそう。 でもほとんど女房殿の叔父さんが作ってくれたのだ。
ベーコンとで「チーズポテトグラタン」でも作ろうかな。


橋幸夫 雨の中の二人