神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

第三の人生が始まる2025年

2024年12月26日 06時18分47秒 | ライフスタイル
 クリスマス、大晦日、正月と何かと酒がついて回る10日間が始まった
私は今年初めから、どうしたわけか酒を飲みたいという気持ちが無くなって、毎日一合程度の酒量に減っていたのだが、5月17日に下腹が急に病んで救急で病院へ行き、大腸がんが発見されて、そのまま入院そして9時間の手術となったわけで、6月の退院以後は11月まで一口も酒を飲まなかった
11月になって信州旅行で焼酎水割り一杯だけ飲んで、その後は先輩との食事会で水割り一杯、同級生との集いで二杯、先日の忘年会で三杯と少しずつ量が増えて来た。 でも家では相変わらず一杯も飲んでいない。

全身にアルコールが回るほど毎日のように飲んでいたのが嘘みたいだ
飲まなくなったのは年齢のせいもあるが、やはり病気をして精神的なものが一番大きいだろう。
食べ物も先生は「何を食べてもいいよ」と言うが、やはり手術をした大腸を思うと何でもという気が起きない
根性悪いことに、食べられないという食材の大部分が私の好物なのだからたまらない
先生からは「大丈夫」と言われたので、ある程度のものは食べるようになった
だけど好物でもほとんど食べないものもある、コンニャク、イカ、ごぼう、サツマイモ、激辛食品、巻貝、イカ塩辛、生野菜など

この頃、寒くなって来て家でも薄い焼酎のお湯割りを飲みたいという気持ちが起きて来た
眠ったままの黒霧島、神津島の盛若、中国の白酒(50度)が「早く飲め」と誘ってくる、シャンペンも「クリスマスだぞ、正月だぞ」と流し目をする
今は養命酒を一日20ミリ2~3杯、それが唯一のアルコールだ
薄い焼酎から少しずつ慣らしていこうと思っている
念願の温泉にも、ようやく入ることが出来たし、マッサージも5年ぶりに受けた
来年は節目の75歳、予定通り四分の三世紀は生き抜いた、平均寿命にはまだ5~6年あるが健康寿命は過ぎた
私も含めて同級生の多くは病んでいる、どれもこれも満身創痍だ
数少ない何もなく過ごしていた私とつー君も今年ついに病を得た、嘆いてみたところで、これが順調な人生街道なのだからあきらめて生きるしかない
これからは病気も道連れ、それでいいのだ!

2025年三度目の人生を始めるには絶好の歳になりそうだ
自分の運勢がようやく大殺界から抜ける頃ではないかと思う、思えばコロナ流行拡大の5年前からずっと酷い毎日が続いた、父母が相次いで亡くなり、兄弟の連れ合いも亡くなり、友人のY子も急死、愛猫も家出、仕事を離れ引っ越しをして、今度はガンを患って手術
たった5年の間にいろんなことがありすぎた、だが全てが悪いこととは思わない
こうした出来事で、逆に良くなったこともいくつかある、これがあったからこそ4匹の野ネコの命も救われて家猫になれたし
仕事を離れて、ようやく体と心を休めることもできた、商売を離れて無職になって見て人生初めて人間らしい生活を味わうこともできている
来年は高嶋暦の厚いのを買ってきて、これからの人生設計を立ててみようと思う。

















人生と旅

2024年12月17日 06時14分18秒 | ライフスタイル
 少年時代、青春時代には未来に向けて様々に夢を持つ
だが人生は思いもしない方向へと動いていくことが多い
そんな中で若い日の夢を人生設計通りに進めていく人もままある
そんな人は人並外れて意志が強固な人か、やり通せるだけのバックボーン(人脈や財産)がある人か、才能面で天才、秀才の類、あるいは運が良い人なんだろう

私も含めて大概の人は、子供の時の夢と違う方向に流れていく
夢を砕く様々な難関に出会って、川の流れが大岩の出現で方向を変えていくように、人生もまた変わっていく
時には二股、三股の流れに出会って迷うこともある
夢と現実が変わるのはなにも悪い方向ばかりとは限らない、何割かの人は夢以上の高見に到達する
運や人脈や先を見る才能に恵まれた人、行動力、勇気、判断力に恵まれた人

人はともあれ、私はおそらく自我が強いくせに、人生はお気楽に考えた
高校に入った時点で進む方向は決まっていた、それは自力でなく他力本願だった、今の私の宗教観に一致する
いろいろ考えて働いたと思うが、結局は時代の流れに流れていただけ
それでも昭和と言う時代は大きなうねりで、私を飲み込んで流れて行った
ただ流れているだけで、それなりに豊かな人生を歩むことが出来た
だが裏腹に苦しみも楽しみと同じ数だけやって来た
いちいち苦しみを今さら書き連ねるのも野暮なこと、楽を書き連ねるのはアホなこと、自分の胸の内にとどめるが良い

今は気が付けば74歳の半ば、60過ぎてからは1年が5年の速さで過ぎていく
これは同年代の誰もが感じているだろう
20歳までは長かった、早く20歳になりたくて、なりたくて仕方なかったが
仕事を辞めたのが70歳のあたりだった、それまでは慌ただしく、目まぐるしい毎日だった
突然辞めたので、最初の一年間は何をどうすればよいのかわからず、そのくせ頭だけは目まぐるしく動いていた
二年目からはじめて自分の現状を受け容れる余裕が出来て、人生で初めて自力でやりたいことを定めることが出来た
但し運命についてはますます他力本願を受け容れた、それが一番気楽だからだ
運命には抗わない、(神様)にすべてを任せておけば楽に生きられる
その中で、趣味などは自分がやりたいことをやりたいようにやればよい
ここまで他力にする必要はない

松尾芭蕉、魯山人、弥次喜多、旅をした
人間は仕事を離れると旅をしたくなる、同じパターンの繰り返しの日々の生活に飽きると旅をしたくなる
私もそれを感じて、いろいろ計画を立てたが、まさかの入院などがあって、計画はもろくもとん挫した

行動力がある人間と、そうでない人間がいる
私は結局後者の素質に恵まれた人間だったのだろう、いつも夢ばかり見て楽しんでいる
体調が少し良くなったら、今度は野ネコを家で面倒見るという思いがけないことがおこり、これも予定外の人生だ
これでまた一週間とかの旅行が不可能になった・・愚図な人間とはこういうものだ
それでまた考え直して、80歳以降こそ「こんどこそ、思い通りの旅をしよう」などと考える、先送り先送りの人生だ
また80には80の何かが起きるのだろう、先のことなど今さら考えても仕方がない
だが、先のことを考えるのは楽しい、考えていることで心はすでに旅をしているのだ。






人生はプラスマイナスゼロと考えよ

2024年11月30日 12時11分12秒 | ライフスタイル
 閉鎖になったブログ人からgooブログに移って3656日になったから10年が過ぎた
ブログ人も10年くらいやっていたから、ブログ歴は20年になるのか、あの頃はまだ50代前半だったんだなあ
日記の転記も2000年に入った、50歳である、この頃が一番調子に乗っていた、ここで慎重であったら人生は違った展開になっていただろうが、調子に乗った
勇み足どころか観客席の10列目くらいまで吹き飛んだ感じ
そんな50代だった
若いころのうっぷんを全部ここで吐き出したような生活だった
今になっても当時の事は少しも反省していない、あれがないまま今に至っていれば濁りのない川のようではあるが味気ない人生だっただろう
あれはあれで私の人生のうるおいだったのだ。

昔話はこれくらいにして何を書こうか
どうも冬だけは調子が違ってくる、行動が雪と寒さで制限されるからだ
関東の友達から「こちらは毎日ぽかぽかとして過ごしやすい」とラインが来る
それを見るたびにますます北国の不便さを感じる
スノータイヤは来月2日に履き替える、昔は自分で2~3台履き替えていたが、今は寒いのと億劫なのと、膝が痛いのとで少しもやる気にならない
金はかかるが仕方あるまい

物価が上がって給料が追い付かず、政府は企業に賃上げを要求して、大企業から中企業へと5%前後の賃上げが実施されている
小企業、零細企業、個人商店、工場はどうなんだろうか
給料があがれば労働者はありがたいが、企業は支払い増加分をペイしなければやっていけない
結局価格転嫁になる確率が高い、給料あがって、更に物価が上がるイタチごっこ
給料が上がらない零細の労働者や日給の派遣労働者、年金生活者はどんどん手取りが減っていく、あきらかに日本の格差社会は韓国や中国レベルに近づきつつある
ここを政府はどう考えているのか、助けるのか、斬り捨てなのか
どうであれ先進国の中では世界一忍耐力がある、あるいは死んだふりがうまい日本国民は知らんふりをして生きていくだろうけどね。

愚痴はもういいわ
今日は少し天候も落ち着いて少し日差しが見えて来た
11月も今日一日で終わる、お歳暮材料も用意できたので今日は加工して荷造り発送をする
いつも盆も暮れも同じで、肉厚、脂いっぱいのトラウトサーモンを厚切りにしてパッケージして贈る
料理人時代に法要の焼き魚に使っていた品質の良い魚、魚屋仲間に頼んで魚市場から卸価格で取り寄せてもらう
70歳近い現役の友達が何人か魚市場に出入りしているので、こんな時は助かる

鮮魚センターで働いていた時は、金沢の大手の水産会社や、三浦三崎には父の従兄弟がマグロ問屋をしていたので貨物列車で送ってもらったりもしていた
あの頃は魚屋の黄金時代だったのだ
鮮魚センターには長野県、山梨県の観光バスが連日押しかけて大繁盛だった
それがバブル崩壊で一気にダメになった
振り返れば人生は面白い、山あって谷あって笑ったり、泣いたり
それは仕事を離れた今だって規模が個人になっただけで少しも変わらない
人生塞翁が馬、幸運が招く不幸、不幸が招いた幸運、いくつもあった
短慮で一喜一憂してはいけない、一定の年月の間に平均のゼロで収まるのが人生だ
悪いことが続いた後には必ず良いことが続く
人生はそんなもんなんだと74年生きてわかった。
















私のPERFECTDAYs

2024年11月16日 06時17分11秒 | ライフスタイル
 この頃は4時半に目が開く、5時になるとベッドから出て、まだ真っ暗だからPCを開いてブログの閲覧と記事書きを始める
これに熱中すると、もう6時半くらいになる

それから朝のルーティン、神仏へのあいさつをしてから、生活の中で増えた猫の世話をする(食事、掃除など)
カートねこは、まだなつかない、顔を見るとコソコソと隠れ家に逃げていく
というのも私が旅行している間にゲージから逃げ出したのだ
それから良い場所を見つけて、そこに隠れていたのだが、段ボールでハウスを作って廊下に設置したら、存外気に入ってほとんどその中で寝ている
私以外が近づくと、隠れ家に逃げていくが、私だとこの頃はハウスから出ずに20cm以内でもじっとしている
まあ5年くらい面倒見て来たのだから、もうなついても良いはずだが、なかなか抱っこといかない
よほど子猫の時に人間に虐待されたらしい、尻尾がないのも虐待されたと思っている、だけど私が近づいても逃げないのは信頼してきた証
あと一歩だと思っている、今日はキャットタワーを設置してネコ本来の高いところ志向を満足させようと思っている。

7時半、ようやく自分の朝食作りを始める
みそ汁を作り、その間におかずを用意して8時に朝食となる
食べるのは朝昼は一人だ、朝昼作るのも自分自身、だけどおかず作りも楽しいい
料理を作るのは仕事の為と言うより、やはり作るのが好きだったんだと、この頃になって実感している
食事を終えて皿洗いも終えて、それから撮り置いたHDDでドラマをCMカットで見て10時に美容院へ行ってヘアカット(月一)
帰りがけにスーパーで買い物をしてくる、この頃はどこでもpeypey払い、セブンはnanaco払いだ、クレカは全て処分した、意味のない年会費を払うのは阿保らしいし、そもそも年金暮らしで通帳に余裕がない(時間的余裕だけがたっぷりあるが)

家に戻ると、もう昼食作りで食べ終わると1時、1時半から1時間の昼寝
昼寝時間は決まっていないがルーティンの一つになった
起きたら30分~1時間散歩に出かける、戻ってからコーヒーを飲んで(1日1杯と決めている、腸に刺激がよくないらしい)16時から大相撲を見る
17時までに相撲の合間に夕食の一品を作る(週2回くらい)
18時に相撲が終わると家族で夕食

その後はブログチェック、音楽を聴く、Youtubeを見る、本を読む(ムーミンもいよいよ9巻すべて読み終える、この後の為に瀬戸内寂聴の源氏物語10巻のうち2冊を発注)リース作り
リースは四季をテーマにして12個作る、今は7個目の(夏)=ひまわりを作り始めた
就寝は22時半から23時、夜中に一度はトイレ休憩がある(高齢者だからね)
だいたいがこんな一日だが、週一、月二のスペシャルディズもある。

ディリーの中にテレビ体操を復活させようと思っている
手術をしてから人生観が変わった、時間が無限でないことを理解した
どのように時間を過ごすのか、それを考えるようになった。



Park Yong Ha/初めて出逢った日のように







幸福な時間

2024年08月30日 18時50分11秒 | ライフスタイル
*朝の目覚めが快適な時
*寝たい時間を寝ていることができるしあわせ
*ドライバーとしてドライブしている時
*時間を自分の思う通りに過ごせること
*友人と楽しく語り過ごすとき
*兄弟、家族と和気あいあいに過ごすとき
*同じ目的の仲間と一緒に行動している時
*家の中を少しずつ改善して行く過程
*一日が終わり湯船にひたっている時
*旅行
*大自然の中にいるとき
*自分が健康に過ごせている時
*書いている時
*瞑想的精神になっている時
*太陽が昇り始め今日一日が良い日になりそうな時間
*特別なイベントがある日のワクワクしている朝
*大谷がホームランを打ってドジャースが勝った日
*テレビでマラソン、駅伝、中長距離走を見ている時
*大相撲を見ている時
*春、秋の季節を感じている時
*美味しい物を食べている時
*朝食を食べながら新聞に目を通している一人の時間
*家族が揃って食事をしている時
*今の生活環境を思う時
*ラッキーや奇跡が続く時
*スケジュール通りに事が運んだ時
*今日一日を無難に過ごせたと思った時
*etc・・・幸福な時間って随分たくさんあるもんだなあ!





 74歳 この頃思うこと

2024年08月18日 17時45分29秒 | ライフスタイル
 人生は早く流れて短い年月だと思うようになったのは、この頃
気が付けば74歳、ついこの前、古希だ70歳だと言ってたのに、もう70代半ばに差し掛かっている
何といってもコロナ騒動が、我々の人生を意味のない無駄遣いさせた
あれに気をとられているうちに貴重な年月が失われた
あの国を挙げての大騒ぎは一体何だったのだろうか、今は一番騒いだテレビ、医師、政治家が何もなかったかのように口をつぐんでいる

過ぎ去った年月は取り戻せない、そして日常に戻りかけたら突然のガン宣告
これでまた半年、何もできずに家ごもりだ
だけど、この病気になって考え方も生活もすっかり変わった
自分は永遠に死なない気でいたが、ここにきてやはり自分も死を逃れない存在であることを認識した
そうなると人生が定まった、心が定まった、悔いのない人生を送るために考え始めた
命は天命に任せて、自分は生きている限り精一杯やりたいことをやればいいと思った、なにか今までのごちゃごちゃした複雑な思いは消え去って、ものすごくわかりやすくなった
人生が見える、見えて来た、自分がやるべきこともすっきりと見えている
もう、あれだこれだと探し回ることは無い、やりたいことが向こうからやってくる、だから病気がやって来たのも満更意味がないわけではなく、悪いことでも無いと思う、きっと人生の足しになる意味があってやって来たのだろう

今朝、年配の女友達から電話が来た、所帯を持った子供(50近い)に絶望したと嘆く、「もういいかげん子離れの時だよ」と言ってやった
「あんな夫でも、今となれば長生きして一緒に暮らせていたら良いと思った」と故人になった旦那の事を言うから
「それは旦那を粗末にした自業自得だよ」と言ってやったら
「何言ってんの、私をさんざん裏切って家にもほとんど帰ってこなかった人なのよ」と言うから「じゃあ居なくなって、せいせいしたんじゃない」
「まあ、そうなんだけど」と何が何だかわからなくなっている
今は一人暮らしでいる、「無い袖を振って大学まで出して、立派なお嫁さんももらったのに、『かあさんの面倒をみるほど楽じゃないから、母さんは自分の事だけは自分でやってほしい、僕らの事は何もしてもらわなくても良いから』と言うんだよ」と嘆くから、「息子なんか当てにならない、息子さんが言う通り、自分の事だけ考えればいいんだよ」と言ってやった
「そうだね、今までは安定収入がない息子を助けようと援助してきたけど、こんなことを言われて、もう嫌になった、お金だっていろいろ我慢して使い道を節制したけど、これからはやりたいこと、食べたいもの、行きたいところに全部使うわ」
「そうそう、やっと俺と一致したね、もうお互い先も見えたから自分の為だけに生きればいいと思うよ」
「そうだよね、そうしよう、あんたの病気が治ったら軽井沢へ連れて行ってくれない、もちろんAさんも誘ってだけど」
「いいよ、治ったらどこでも行って、うまい物を食べてリフレッシュすればいい」と答えた
日帰りドライブだが、やはり私は一人旅より、連れとワイワイ言いながら遊ぶのが好きだ
私より年上の女性は夫が先だった人が多くて、はたから見れば優雅な暮らしと趣味に生きているように見えても、孤独な人が多い
私も年上の人といるとカッコつけなくてよいし、気楽なのだ、だから年上の友達は男女問わず多い

ここまで来たら理屈無しに楽しむ、楽しい日々を送る。






「今日は何もしない」ができない

2024年08月12日 17時16分38秒 | ライフスタイル
 昨日は4時半に目が覚め、前夜はは22時半に寝たので6時間、十分だけどやることも無いから5時半までベッドにいた。
いつものルーティンをこなして、まだ涼しいので畑に出て収穫
スイカはやはり今年は失敗で、出来た数は6個だけど4個はまず食べるまでいかない、リンゴ大から少しも大きくならず、もう蔓が変色してしおれたので収穫
どうすりゃいいのかわからない
大きいのも蔓が変色したので収穫、でも900gしかない
他はキュウリを4本、オクラ1本、ししとう1本、キュウリは8月になってどんどんできてきて、毎日4本収穫だから食べきれない。
トータルで70本くらい取れたので昨年並みになった、ナスもまずまず取れているが、トマトが低調で未だ6ケ位で青いのが6ケ位収穫を待っているが、もうこのくらいでお終いだろう。
朝から「熱中症警戒アラート」が行政から出された、今日は外には出ない方が良い、まして3連休の中日だからまた流行って来たコロナの事もあるから家ごもりが良い
抗がん剤で感染症にかかる率が高まっているから、なおのこと大人しく
良い塩梅に10時からドジャースがあるし、その後は「鬼平」「西園寺さんは・・」「ギークス」「新宿野戦病院」など録画を見ていれば「女子マラソン」がスタートする、これで17時までは家でじっとしていられる。
ところが朝食作りが面白くなって1時間もかけてしまい、朝食は8時になった
それから抗がん剤を飲み、少し休んでブログネタの?の部分を補うために読書
そのうちにドジャース戦が始まり、ドジャースは勝ったが、追い上がる2チームも勝って、2位とのゲーム差は2.5ゲームのまま
すこしドジれば来週は3位まで落ちる可能性もある、大谷がホームラン以来、また停滞して打率も2割台に落ち込むおそれが出て来た、しかも今日で打率は2位に下がり、ホームランも追いつかれた。

どうも野球をずっと座って見ていることができない、襖が気になって仕方ない
4枚の内、2枚は終えて、あと2枚お盆前に終わらせたいがいつやる?
「今日でしょ」と言うわけで急きょ野球を見ながら襖張り、ところが糊が足りない、仕方なくホームセンターへ買い出しに
帰って来て、さっそく始めようと思ったが長椅子が邪魔で移動させなけりゃ、重い上につかみどころが無いので集中して「せーの」で腹に力を入れて速攻で動かした
すると今度は高さ1.8mのラックが邪魔に思えてきて、これを廊下に出すため、ラックの中の本やアルバムを全部出して、廊下に移動させた
そしてまた中身を戻して、それから襖2枚を小一時間かけて張り終えた
そうこうしていたらアマゾンに注文していた「のれん」が宅急便で届き、これもすぐにやりたくて3枚を各窓にセットした。
マラソンが始まった、マラソンは最初の1時間は見ていても、見ていなくても勝敗の行方は定まらないから退屈
退屈だから、今度は私がこの家に来る前から、色んなものが押し込んである押し入れの整理整頓を思いついた
冬物をしまうスペースを作りたかったらだ、押し入れに入っていたものを全て出した、ちょっとした小山が出来た
父のカメラだけで4台、三脚も出て来た、ファックス電話も2台、そのほかもう必要ないものもたくさん出て来たので、捨てるもの、またしまうもの、物置に持って行くものと分類
これでまた1時間、24歳初マラソンの鈴木選手が6位入賞、それも3位には52秒差、1位とも1分7秒差の大健闘、上位1位から5位までは世界のトップ選手ばかり、鈴木との持ちタイム差は7分くらい早い選手ばかり
それに39kmまで、くらいついて行ったのだから大したもんだ、まだ若いから次のオリンピック、世界陸上は大いに期待できる。

本当に暑い日だった、でも夕飯頃になったら少しは凌ぎやすくなったので、食事前にまた畑に出たら、またキュウリ2本、ナス1ケ収穫
トマトの枝葉も気になって、これを剪定、ついでに追肥して、水も撒いた
どうにも体は動きたくて困っている、やりたいこと、やるべきことが次々に出てきて明日も明後日もやってしまうんだろうな
お盆の支度も迫っている、14日には家に住職を頼んでお盆と母の8年目の読経をしてもらう、もう七年経つのか月日の速さを感じるばかりだ。



このごろ気分の良いこと

2024年08月09日 17時02分39秒 | ライフスタイル
 暦は秋の始まり
日中の蒸し暑さは相変わらずだがここ数日、朝夕が過ごしやすくなった
長崎、広島に原爆が落とされた日、そして終戦の昭和20年8月15日は暑い夏日だったとか。
我が父20歳は終戦の時は兵隊で、東京調布の高射砲大隊の中隊の通信兵であったが、天皇陛下の「堪え難きを耐え・・・」の玉音放送を全員整列でここで聴いた。
「戦争が終わった」突然頭が空白になった、戦争中には耳に入らなかったセミの鳴き声が耳に聞こえた。
天皇陛下の敗戦宣言を聞いた大隊長は、演台の上で崩れたあと。何も語らず下りて自室に消えた
父の終戦の日は真夏の一日だった。
そんな父が語った言葉を思い出している午前5時半、未だ涼しい。

この頃気分が良いことがある
毎朝4時半には目が覚めて5時から始まる一日、これが第一
ダメになったまま放置しておいた10か所の網戸を全て取り替えて、今まで風を取り入れられなかった窓から一斉に風が入ってくるようになったのが第二
障子と襖をお盆前に自分で張り替えたことが第三
抗がん剤治療の副反応も最小限度で治まっていることが第四
心配していた病気による体力低下と夏バテが全くなく、食欲旺盛であるのが第五
思ったより日中活動できることが第六、治療終了後のビジョンが出来たことが第七

今日も元気でいられることがありがたい
私を支えてくれているすべての人、すべての事象に感謝。

大宰府天満宮











二つの異なった生活

2024年07月06日 19時45分05秒 | ライフスタイル
 昨日の暑さのせいか21時半に寝てしまった
今朝は相変わらず5時に目が覚めた、珍しく夜中も一度目が覚めたきりでハッピーなラッキーな夢を見ていた。

退院してから一日の過ごし方が真逆になった
入院中は「何もすることがない(できない)時間をいかに退屈せずにいるか」ばかり考えて体を動かすことに専念した
有料テレビは目の前にあるが、ドジャース戦と「光る君へ」、「虎に翼」しか見なかった
退屈しのぎはブログを書くこと、ノートに小説を書くこと、友達とのラインのやり取り、廊下での散歩、そして三度の食事が待ち遠しかった

パソコンがない環境でスマホが大活躍した
ベッド上にはスマホの充電コード、髭剃りの充電コード、看護師呼び出しボタンのコード、点滴の管が絡み合ってベッドサイドの手すりに縛り付けてあった
基本的に21時に消灯、朝6時起床だがそれは個人の自由で7時くらいから検温、血圧、酸素濃度、血糖値の検査が行われる
日替わり、昼夜交代で様々な年代の看護師(一人を除いてすべて女性)が担当する、その人たちと治療についての他愛ない短い話をするのも楽しみだった
とにかく入院生活は人との接触に飢える、だから隣の病床の82歳のMさんと親しくなったのは退屈逃れとしては最高に良いことだった。

夜は手術前はぐっすりと寝られたが、退院が近づくとなぜだか夜は目が覚める、寝付けないで3時間くらいしか寝ていない日が数日続いた
昼間寝ればいいと思ったが、検査や食事、散歩でなかなか寝ることができない
それでも朝方4時頃から6時の間に二度寝をして不足を補っていた

小説で退屈しのぎを考えたが、あまり面白くない本だったので短編二話読んで三冊のシリーズは今もほったらかしだ。

さて家に帰ってからはあまり活動的なことはできないので、せいぜい畑作業を細切れで1時間ほどやって、散歩を夕食後に30分3000歩
その程度の運動量、あとは録画した夜ドラや映画を一日3時間以上見る、それにドジャース戦でテレビは一日に6時間くらいは見ている
これは、その間は体の活動を停止しているということだから健康的には良くないし、テレビから一方的な情報を得るだけで、「物思いにふける」という感傷的な時間を失ているともいえる、これが入院生活との最大の違いだ
ゆえに病院で毎日10ページくらい書いていた未完の小説も、家に帰ってからは一文字も書いていない

その代りブログの書き込みとチェックに2時間くらいかけている
あと大きく変わった生活は食事作りだ、最初は病院生活食を女房殿に教えるためやっていたが、体調が整い始めてからはいろいろ工夫してだんだん凝った料理になって来た
ジャガイモが予想外に多く獲れたので、ジャガイモとベーコンと野菜のチーズ焼きだとか、茶わん蒸しだとか、高圧鍋を使った野菜料理などに夢中だ
こんどジャーマンポテトを勉強して作ろうと思っている
(ドイツにジャーマンポテトはないと映画のセリフに出て来た)

まだ完治したわけではなく、これから抗がん剤が始まり体力低下、免疫低下も医師から言われているので人と会うことも少ない
病院はなんやかんやと医療関係者の出入りが退屈させなかったけど、(前の職場で私と40年近く働いた女性も勤務していた)
家では一度だけボランティアの会合に出ただけ、あとは月一のヘアカット、つー君にたまに会ったり、数人の同級生の家をそれぞれ1回だけ訪ねたり、あとは息子と月2回海に行ったくらいで、それだった抗がん剤が始まれば2~3か月は人との交流はほぼできなくなる
最近は身近なところでコロナ感染の話をたまに聞く、とにかく抗がん剤中は感染症が怖いので10月まで静かに家で過ごすことにしよう
畑の土いじりもだめらしい、土には微生物や細菌がいるし、いろいろな虫や蚊とか羽虫とかもいるので畑作業もほぼできなくなりそうだ
水やりと、外からのチェックくらいにして収穫や整理は女房殿に頼むしかないないだろうな。
春先には気合を入れていたのに残念だ、スイカも7月に入って急に元気が出たきて葉が大きく伸びて来た、少し期待が持てる。

この夏はベッド暮らし、テレビ暮らしになりそうだ
せっかく腹囲がすっきりしたのだから、今度は腹筋をつけてカッコいい体つくりに励もうかと思っているが、それも副反応の状況次第だ
さてどうなるのかはお楽しみ、お楽しみ。
・・・では、ないか!




車と仕事とドライブ

2024年06月28日 20時42分24秒 | ライフスタイル
 74歳になった、私と自動車との付き合いも長い
自動二輪の免許を取って57年、普通自動車免許が56年、大型免許は38年になる
いずれも趣味のためと言うより、仕事のためにとったという方が正しい
高校生の時には家業の配達のためにとった自動二輪と普通免許
それまでは自転車で配達していたから、足腰はそれで強くなったともいえる
家業は魚屋+仕出し店で魚の配達を手伝っていたが、自動車免許を取ってからは仕出し料理の配達も手伝うようになった。
板前修業に行った時も、傍らその店の仕出し配達もした
個人宅への法事や祝い事の料理を運んだり、寺へも法事や葬式料理を20人前、30人前と運んだ、御膳一式すべて届ける時代だった
もっと大変だったのは、結婚式場への配達で、これは普通でも50人前以上だったからワンボックス営業車で二台くらいで運んだ、一人前が9品、それに籠盛りも人数分運ぶ、それに一の膳、二の膳も人数分、更に銚子、盃、はかま、箸、風呂敷まで届ける
しかも部屋に配膳までしてくる、今思えばよくやったものだと思う
結婚式が終われば30分以内で片づけをしなければならない、次の夜の部の披露宴の準備があるからだ
残物を全て処理して、皿、御膳すべて回収してくる、式場の仲居さんたちが片付くのを待っていて終わると同時に換気、掃除、準備を行うからうかうかしていられない。

寺の場合はお御堂で配膳してくるが、法事を行っている間に控えの間か、御堂の裏の狭い仮納骨室で料理を膳に配膳するのだ
それは、御膳を縦に7つくらい重ねて、御膳の足の間から5品を差し込んでいくという技で、それもすぐに慣れた。
二の膳には4品を入れていく。

大型免許はマイクロバスを運転するためにとった、お客様の送迎だ、板前をしながらバスの送迎もした
だから忙しいこと忙しいこと、毎日が時間との戦いだった、38年間、いろいろな職種の送迎バスの運転をしたのだったが、70歳でやめた、来年の書き換えでは大型免許は返還する。
人を乗せる運転だったから、普通車でも人を乗せていると安全運転に気を遣う
だから割と私の運転は「がっつん、ごっつん」にならないから安心感があると言われることが多い。

観光旅館の仕事の時には、県をまたいでの送迎もたまにあった、そんな時は片道100km以上を送迎したこともある
また上田市の老人会から送迎依頼もあったが、さすがに何かがあれば困るので、それは中止になった
取引があった富山の旅館業者などは毎日のように群馬県まで送迎していて、手伝いを頼まれて行ったこともあったが日帰りと言う強行軍で一回きりで社長が断った。

結婚式場の仕事の時には、特に気を使った、何より自分の服装も決めていかなければならないし、ヘアスタイルから話し方まで注意が必要だった
当然板前兼用と言うわけにはいかず、運転手専門だった、これも県をまたいでの送迎が度々あった
送迎以外は暇が空くので、披露宴の裏方を手伝う、新郎新婦の入場の時にドライアイスの演出があるが、あれを担当した
2会場掛け持ちもあった、30分差なので会場から会場への移動、ドライアイスの取り換えや温湯の管理など、慌ただしかった。
でもきれいな花嫁さんを見ることが出来たのは嬉しかった、キャンドルサービスの時にはスポットライト係をして、新郎新婦を追った
同時に調光の仕事もあるので幾つもある調光器のボタンを薄明かりで見定めてやるのもテクニックが必要だった。

仕事と車はこんな風だったが、趣味のドライブも楽しんだ
マイクロ運転は、同級生旅行、友達との旅行、ボランティア団体と、ほとんど自分から買って出て運転した、とにかく運転するのが好きで好きで仕方ない
一日300~400km平気で走っていた。
乗用車だと日帰りで600kmくらい走ったこともある
74歳の今でも1日200kmは肩慣らしで、300kmくらいは走ることができる
というより走りたい、でも50代ころのように400kmも走れば、流石に下りた時フラフラする、途中で足に痙攣が来ることもあるし眠気もでてきた
見学しながら一日250kmくらいが一番良さそうだ。

人生を振り返ってみれば冠婚葬祭と、料理と、観光の仕事ばかりだった、ある意味、動的な部分で自分に合っていた仕事を形を変えながらやっていたと言える
静的な部分で考えれば、恐竜や宇宙の学問か、歴史研究、物書きをして見たかった、あるいはゲーム作り(当時はボードゲーム)または確率とかデーターの活用ができる仕事・・・いまさら、詮もないが。

80歳まではドライブを続ける気持ちである。