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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 最終回 豊臣から徳川へ

2023年03月01日 17時23分37秒 | 貧乏太閤記
 慶長4年春に秀吉の葬儀は執り行われたが、日本国内は不穏な状況になった
4月に秀頼の補佐を任され、豊臣家の重鎮となっていた前田利家が死んだ
すると五大老筆頭の徳川家康が、突如仮面をはがした
秀吉に代り、大坂城で政務を執り始めたのだ、当然石田三成ら五奉行は、秀吉が残した法度を盾にして迫ったが、家康はどこ吹く風で、思い通りに政策を進めた
大名同士の婚姻を秀吉は禁じたが、それにわざと逆らうように家康は、大名と大名の縁組を自ら行った
しかも、それに対抗する石田三成を、加藤清正、福島正則、加藤嘉明ら豊臣恩顧の七将が殺害せんと襲う事件が起きた
三成は仕方なく家康に調停してもらい、大坂城を去って居城の佐和山に蟄居した、しかし静かにしている三成ではない
密かに毛利、宇喜多、上杉、前田などに密使を送って、家康の暴挙を止めようと動いて居た。
それを察した家康は、加賀の前田利長を「豊臣家に対して謀反の疑いあり」と秀頼の名で追討を命じた
これに驚いた利長は母(利家の妻、まつ)芳春院を江戸の徳川家に人質に出して、無実を訴えて許されたが、徳川家康に従属することになる、貫禄の違いであった
翌慶長5年(1600年)これに味を占めた家康は、目の上のたん瘤、会津の上杉景勝を同じく謀反人と決めつけて、秀頼の名を使って「謀反人上杉を征伐する」と諸将を従えて会津を目指した
さすがに上杉景勝は、若い前田利長と違い誇り高き漢(おとこ)である
徳川家康率いる大軍を会津手前で一大野戦をするというのだ。
もし互角以上の戦いになれば、背後から上杉に味方している佐竹義宣が襲う約束もされていた。

7月下旬、下野(栃木県)小山まで来たとき、上方で石田三成が徳川家康に対して兵を挙げたという報せが入った、これで徳川連合軍は反転して戻った。
これも家康の作戦のうちで、石田三成が乗せられたという説もあるが、真実はわからない、これで張り切っていた景勝は、置いてきぼりになってしまう
結局上杉の大軍は徳川方の最上義光、伊達政宗相手に奥羽のローカルな戦に留まる
それから、経過は省略するが9月15日岐阜の関ケ原にて、日本史上最大の大戦が起こった、徳川家康が大将の東軍、毛利輝元が大将の西軍が双方互いに7万ばかりの兵を関ケ原に集めた決戦である。
どちらも豊臣秀頼を「お守りする」聖戦だというところに、この戦の珍妙さがある。
家康が最前線の現場で指揮を執っているのに対し、毛利輝元は大坂城で秀頼と共に居て戦場には現れない、現場指揮官は石田三成がなっている
しかし、僅か17万石の小身官僚であるから、島津、毛利、小早川など大身は無視したに近く、己の戦を自ら考えてやっただけである
それが小早川の裏切りや毛利の戦場離脱と言う形であらわれて、西軍はたった一日で敗れ去った。
朝鮮では豊臣秀吉の名のもとに命がけで戦い、助け合った諸大名も、関ケ原では敵と味方に別れて戦うことになった。
最期に、それら諸主だった将を記して終わりにする。
この戦には日本中の大名二百数十家が、東西いずれかの陣営についた生死のかかった選択であった、約3分の1の88大名が領地没収または減収となり、勝者に与えられた、豊臣秀頼の領地もいつの間にか家康によって減らされていたのである。

太字は朝鮮渡海の武将

東軍 総大将 徳川家康   別動隊大将 徳川秀忠
   関ケ原で戦った諸将
   福島正則  山内一豊  浅野幸長  黒田長政  藤堂高虎
   池田輝政  細川忠興  織田有楽  生駒一正  金森長近
   加藤嘉明

   徳川家大名 井伊直政  本多忠勝  松平忠吉
   秀忠隊   本多正信  真田信之ら3万  
   各地で戦った徳川方
   京極高次  最上義光  伊達政宗  加藤清正  黒田官兵衛
   結城秀康  細川幽斎  前田利長

         戦後大幅な加増、あるいは大大名となった者
   敗れた西軍から取り上げた領地は約400万石あった
   結城秀康(越前松平) 10万→67万石 
   松平忠吉 10万→52万石
   蒲生秀行 12万→60万石
   池田輝政 13万→52万石
   前田利長 90万石→120万石
   黒田長政 12万→52万石
   福島正則 20万→50万石
   小早川秀秋 30万→52万石
   藤堂高虎 8万→20万石
   加藤清正 20万→52万石
   最上義光 17万→57万石
   伊達政宗 58万→62万石(嫌疑を受けたため少ない)
   山内一豊 6万→20万石
   加藤嘉明 6万→20万石
   細川忠興 12万→30万石
   徳川氏  250万→400万石以上

西軍 総大将 毛利輝元  現地司令官 石田三成
   関ケ原で戦った諸将
   島津義弘  宇喜多秀家  小西行長  大谷吉継  平塚為広
   宗義智   島津豊久 

   西軍なのに関ケ原で裏切って西軍を攻撃した諸将
   小早川秀秋  脇坂安治  小川祐忠  朽木元綱  赤座直保
   関ケ原で戦わず撤退
   毛利秀元  吉川広家  長曾我部盛親  安国寺恵瓊 
   長束正家  
   各地で戦った石田方
   真田昌幸  上杉景勝  佐竹義宣  立花宗茂  織田秀信
   毛利勝永  増田長盛  片桐且元  織田信包  九鬼嘉隆      

まさに昨日の友は、今日の敵であった
西軍は一日で敗れた
   斬首  石田三成  小西行長  安国寺恵瓊  長束正家
   遠島  宇喜多秀家   流罪 真田昌幸
   改易  長曾我部盛親 小川祐忠 毛利勝永 増田長盛
       織田秀信
  大幅な減封  毛利輝元120万石→36万石  上杉景勝120万石→30万石
  佐竹義宣55万石→20万石 常陸から秋田へ転封 切腹自刃 九鬼嘉隆

 小西行長の婿で朝鮮では一番隊の副将として小西を助けた対馬の大名、宗義智は当然小西に従い、西軍として徳川方を攻撃した、だから斬首、領地召し上げとなっても仕方なかったが、徳川家康は小西を斬首しながら、宗を咎めず、
最悪の関係になった朝鮮との国交回復を命じた。
まさに「芸は身を助ける」の典型であった。
宗は運の良さを喜び、小西の娘である妻を離縁して朝鮮に渡った、そして徳川家康がこれからの日本の支配者になると伝え、徳川家康は秀吉と違い朝鮮とは平和外交をしたい、朝鮮に徳川軍は一度も足を踏み入れなかったことを強調した、それで朝鮮も徳川との交易を許した。
家康は喜んで、宗にも昔から続いている朝鮮との交易を諸大名の中で唯一許した。
 豊臣秀頼の立場は微妙であった、関ケ原前は徳川家康の主であったが、関ケ原では家康を攻撃した張本人に祭り上げられている
家康は戦後でも、秀頼を目上として形式的に祭り上げていたが、加藤清正や黒田官兵衛らが死ぬと豊臣家の領地を勝手に処分して 300万石→65万石にしてしまった、それからは次々と淀殿や、その取り巻きに難題を吹きかけてついに戦に持ち込んだ。 
1615年、徳川家康はついに豊臣秀頼と淀殿を大坂城に攻め滅ぼして徳川幕府を完全なものにした。
秀頼と淀には最後まで大野治長が付き添って、共に火炎の中で抱き合うようにして自害したという。
家康が豊臣家を滅ぼすまでに関ケ原戦から15年かかったのであった

 関ケ原合戦があったのは1600年の秋だが、その年の春、九州に外国の難破船がたどり着いた
既に豊臣政権はポルトガル(スペイン=すでにスペイン王とポルトガル王は統一されていた)と交易をしていたが、この船は、旧教カトリックのスペインと敵対する新教(プロテスタント)国のイギリスの海賊船だった、嵐で遭難して1年以上も漂流した末に流れ着いた。
この航海士ウィリアムアダムスが徳川家康に気に入られて家臣となって、徳川家の通商外交官となり三浦按針と名乗る、家康は独自の貿易ルートを持つことになった。
そこから大砲や鉄砲を大量に仕入れて、大坂城攻めを有利に展開することが出来た。
 天下を統一した家康は、秀吉の失敗を繰り返さないために、まず国内の安定を図った
それは徳川家の政治体制、独裁体制を築くことである
秀吉の失敗は、内政体制を完璧にする前に大陸に対して領土拡大を図ったことだ、南蛮人、キリスト教に対しても対応が中途半端で終わってしまった。
家康は、その点、公家、大名に対して厳しい規則を設けてがんじがらめにした
参勤交代や、徳川家の為の城普請、そして治山治水工事に諸大名を使い、その出費の多くは大名が負うようにした、こうして大名の力を弱めた。
外国人に対しては、秀忠の代でキリスト教を徹底的に弾圧して、国内から追い出した
貿易は続けたが、長崎と平戸だけに限定した。
その利益も徳川幕府が独占したのだ、こうして徳川家は明治維新まで15代260年にわたり日本の独裁者として君臨した。
その徳川を明治維新で退かせたのは、関ケ原で苦汁を飲まされた、薩摩藩島津家と長州藩毛利家だった。

                             完結






              あとがき

 よくぞ170日、毎日書き続けたものだ、飽きっぽい人間かと思っていたが案外根気が良い。
「閑だ、やることが無い」と口癖になっているが、実際はなかなか毎日が忙しく、ひと日の経つのが早い
冬であることも続けられた一因だ、外出することもなかなかできないし、プラス、コロナにインフルとなれば家に閉じこもる仕事が進む。
最初は、思い付きの物語を面白おかしく書こうと思ったが、登場人物が多すぎて時間的につじつまが合わなくなってしまう
でたらめを書くことが、真実を書くより難しく、結局ある程度の整合性を持たせないと歴史ものとして滅茶苦茶になってしまう
学生時代にも、これほど勉強をしたことがないほど勉強した、物語が進めば進むほど勉強しないと書けなくなっていく
秀吉の物語は、どこで終わらせるかもポイントだった
天下統一で終わるのが一番ハッピーエンドだが、それは秀吉の人生を半分書いただけで終わるから、それでは面白くないと思った
秀吉の人生を区分けすると①生い立ち~信長の家臣時代 ②本能寺の変~天下統一まで ③天下統一から死まで
ほとんど前半は織田信長の生きざま、後半は豊臣秀吉の生きざまである

既存の「太閤記」に唐入りと朝鮮出兵、オランダ、スペインとの駆け引きは、隣国での出来事なのにあまり書かれることがない そこも知りたかった
朝鮮王朝時代は520年も続いた、遺構、遺跡も多く残っている
日本の英雄ばかり書くが、朝鮮にも英雄や活躍した人物がいくらでもいる
たまには反対の立場からの戦争を考えるのも良いかと思おう
何度か韓国旅行はしたが、その後の日韓関係の悪化で嫌気がさして10数年行っていない、だがもしチャンスがあれば、釜山から木浦までの海岸沿いに300km、今回の小説の痕跡を見て歩きたいと思うようになった
90%は実現しないだろうけど。

 人物明細は、さすがに明国まで広げると、わけが分からなくなるから、それは最小限の名前にとどめた
同じ時代の東アジアの出来事や立ち位置がわからなければ、井の中の蛙で終わってしまう気がした、もともと朝鮮半島の歴史と、中国との関りには興味があった、これを書くためにいろいろと知ることが出来た
今から80年くらい前まで、日本は「大東亜戦争」を主に中国相手に大陸で戦った
アメリカと戦った「太平洋戦争」、イギリス、フランス、オランダと戦った「印度支那戦争」と同時に三方向で行った日本の戦争
そのうちの「大東亜戦争」は、既に350年も前の秀吉の時代に行っていたのだから、驚きである、しかも当時の欧州の最強国、スペイン、ポルトガルとまでも戦争する覚悟があったというから二重の驚きである
信長、秀吉は欧州の「大航海時代」に参加しようとしていた進んだ頭脳を持った天才だったと思える、けっして昔の人間ではない、家康も加えて今の日本に現れてトップになれば、どんな日本にしただろうか興味がある。

   2023.03.01





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 169  朝鮮からの撤退

2023年02月28日 17時47分52秒 | 貧乏太閤記
    
 秀吉の死は秘中の秘として秘匿された、だが秀吉が死んでも朝鮮の戦は続いたままだ、それも明国と朝鮮の連合軍は水陸併せて20万ほどに対して、朝鮮に残った日本軍は加藤清正、小西行長、島津義弘の三軍団と小部隊総勢3万5000ほどだ
海上も封鎖されて撤退もままならない。

 石田三成は、秀吉の死後すぐに五大老、五奉行を集めて善後策を練った
まだ朝鮮が不穏な今、決して朝鮮、明に知られてはならない
徳永寿昌らが渡海して、朝鮮に残る大名にのみこれを報せ、家臣にも気づかれぬよう、「和平交渉が整って戦が終了に近いから」という理由で、暫時粛々と帰国するように話した。
それで島津、加藤、小西、黒田、有馬の部隊が最後まで残ったが、そこに敵が攻め寄せてきた
9月20日には加藤清正の蔚山城、10月早々には島津の泗川城、小西の順天城が攻められた
蔚山には加藤、太田の1万が籠り、明・朝鮮軍は3万
泗川には島津が7000、明・朝鮮軍5万
順天には小西ら肥前、肥後勢13000に対して、敵は陸から3万、海上から2万が攻め寄せた
島津と加藤は城門を閉じ、いっさい討って出ず寄せ来る敵に弓鉄砲を放って追い返した、蔚山城もすっかり完成して防御は堅く、兵糧も1年籠城できるだけ用意してある
攻め寄せるたびに明軍は犠牲者を出した、島津の方でも同じで、日増しに明軍は犠牲が出るが、城方はほとんど死者が出ない
結局、蔚山を攻めていた明軍の方が兵糧の心配が出てきて9月末には撤退を開始した、そのまま10月には慶州まで後退した。
加藤隊はこれを見て悠々と釜山までもどり、一足早く名護屋に向かって帰国した、平戸には石田三成らが出迎えたが、加藤清正は三成と目も合わせず名護屋城の陣場に向かった。

 明・朝鮮軍は蔚山敗退で早くも足並みが乱れた、蔚山攻めの軍が早すぎたのだ、それが撤退したころようやく泗川と順天の攻撃が開始された
泗川では圧倒的多数にもかかわらず、攻め寄せていた明軍の火薬庫に島津の大砲が偶然命中して大爆発を起こして死傷者が大勢出た
連合軍は大パニックになった、その5万の大軍の中に朝鮮軍と明軍の不協和音を認めると、ついに島津軍は城門を開いて討ってでた
副将、島津忠恒は包囲されていた時でも何度も義弘に夜襲を申し出ては蹴られていたから、「いまこそ」の思いが強い
城内の全てに近い兵が、騎馬を先頭に混乱する連合軍に切り込んだ、日本国内でも強さが秀でている島津軍である、敵はひとたまりもない
押しては切りまくり、引いては左右から島津が得意とする野伏せ鉄砲で追ってきた敵を撃ちとる
大将の義弘まで討って出て、敵将を数名討ち取った
この戦場がもっとも激しく、連合軍の死傷者は総勢5万の半分近くにもなったという
この戦で島津の名は朝鮮から明国まで鳴り響き「鬼島津」と恐れられた
後退した連合軍は、それでもまだ数で勝っていたから遠巻きにして様子を見ていた、だが攻め寄せる勇気は失せていた、そのため島津軍は容易に巨濟島へ撤退することが出来た。

 順天城の小西隊も海陸から攻められて、固く門を閉ざした
しかし敵の水軍が潮を誤って座礁や衝突をして自滅しだすと、城兵は小舟を出して敵船に乗り移り、切りまくった、さらには船に火をかけたので、多くの敵水兵が溺死した、もはや水軍は全滅に近くなり満潮を期して逃走した。
その頃には泗川で島津に大敗したとの知らせが敵に伝わると、敵の陸兵も動揺した
これに勢いを得た小西軍は、鉄砲を撃ちこむと城門を開いて打って出た、敵兵は混乱して逃走した、順天も小西軍が大勝利を収めた
敵が敗北に打ちひしがれているうちにと

 石田三成からは小西に、「敵に殿下の死が知れる前に和睦してでも撤退せよ」と催促が来ている、大勝利の今こそ撤退するには最適な機会である
明軍も数万と言う戦死者を出して、このまま国に帰ることもできない
小西は停戦を申し出た
「城を明け渡すから、我らの巨濟島への撤退を安全保障してほしい、そのために明軍の副将など10名ほどを人質として出すこと、これ以上戦っても明軍の被害は増えるばかりであろう」
明軍の将軍はこれを受け入れた。
日本軍を朝鮮から追い払ったという実績を得れば大手を振って帰国出来よう
それによって加藤軍は釜山から日本へと帰国していった
島津も立花も巨濟島に渡り釜山へ行こうとしていた

 ところが一番遠くの順天の小西が難儀した、李舜臣が秀吉の死を疑い始めたのだ
李将軍は新たに立て直した水軍200艘で順天を包囲した、
小西は明と朝鮮の陸軍からは撤退の約定が結ばれた時点で、副将などを撤退時の安全のために人質として預かっていたので、陸軍が攻め寄せる心配はない
だが、水軍の李将軍は大臣であれ、上官であれ少しも恐れない頑固者で、水軍提督さえ棒に振った硬骨感である
陸軍提督にさえ、「陸軍は好きなようにするがよい、だが水軍への口出しは無用だ、朝鮮は儂が守る、貴官は攻めようと逃げようと勝手にするがよい、儂は日本軍を国には返さぬ、みな海の藻屑としてやろうぞ」
海上を封鎖された小西軍は順天城から出られず、再び籠城となった
これを聞いた巨濟島の島津義弘は、自分たちの帰国の順番が来たにも関わらず
「小西をそのまま置いてゆかれようか、救出する」と言って、立花宗茂の軍と共に船100艘あまりで順天沖の李水軍に挑みかかった
さすがは朝鮮一の水軍大将李舜臣である、巧みな戦術と数に勝る船で、日本軍の船に乗り移り攻め寄せる
だが島津軍も、立花軍も日本最強の九州武士団だ互角に戦っている
しかし日本軍の船は次々に沈んでいく、「いよいよ駄目か」と思った時、船上で指揮を執っていた李舜臣に鉄砲が命中して、どっと倒れた
あえない李将軍の最期であった、これで形勢は逆転した、順天城からも小西軍数千が海に繰り出し、兵の居ない敵船を奪い乗船する、その数60艘にも及び、小西軍は危地を脱した、勝利したとはいえ釜山についてみると、島津の兵の半数が死傷していた、勝利とも敗北とも言えぬ痛み分けであった
しかし、これで日本軍の全てが帰国の途に就いた
 日本軍がいなくなった城に、次々と明国兵が入って来た、残された日本軍や朝鮮軍の兵士の遺体の首を掻き切ると、討ち取った日本兵だとして意気揚々と引き上げた、日本兵より朝鮮兵の首の方が多かったが、そんなことは紫禁城の高官や皇帝は知らない、まさに死人に口なしである。
これで大敗を隠す言い訳もなった、日本軍の死者数が上回ったと報告したのである。
 実際の足掛け6年に及ぶこの戦の戦死者は朝鮮、明国の連合軍の方が圧倒的に多く、一般国民も含めると数十万人に及んだ
だが日本軍も、戦死行方不明者は出陣した兵数の3割強、10万人にも及んだという、そのくせ明国制圧どころか、朝鮮にも足跡一つ残すことがなかった
いったい、この戦争は何だったのだろうか?
それは徳川家康をはじめ、日本の諸大名にもわからない戦争だった
豊臣秀吉と言う、貧しい百姓から始まった小柄でやせ細った、たった一人の男が、全国数十万の武士や農兵を動かして行ない、そして自らの一族を滅ぼしてしまう意味のない戦争だったのだ。
なぜ人間は、ただ一人の人間に従うのだろう? 昔より世界中に、そんな人間が現れて世界征服を企み、多くの人間を殺した
領土は奪っても奪っても満足せず、奪いつくすか、失敗して滅ぶか、死して終わってしまうかであった、それは21世紀の今でも同じだ
人間は少しも進歩しない。
 
 ようやく朝鮮に静けさが戻ったが、荒らされた半島は疲弊した、多くの捕虜が日本に連行された、朝鮮の人民の悲惨さは目を覆うばかりだった
日本と明と言う大国に挟まれた国の悲劇は今度だけではない、遠い昔から北方の遊牧民族に襲われて数十万の民衆だけでなく王族までも北方に連れ去られたことがある、大陸からは漢民族の圧力を受け、南の日本からもこうして侵略を受けた、国家の政治家や防衛体制の脆弱な朝鮮民族は何度となく悲惨な目に遭っているのだ
自ずと国民は為政者を頼らなくなっていく、そうなると国民意識など無くなってしまう、自分が生きるには国に頼っても無駄だから、自分だけの安全のための方策に没頭する、だからこそ日本軍の中に身を投げて保身に走った者も多かったのだ。
日本軍は朝鮮から消え去ったが、代りに明軍が各地に駐屯するようになった、これはこれで朝鮮人民には苦痛の種となるのであった。
また宮廷では東人派だ西人派だと権力争いが始まるであろう、この国家体質は朝鮮王朝が変わるまで治まらない。
 来年には秀吉が三度、朝鮮に上陸するという噂があり、明国は容易に朝鮮から軍を引くことが出来なくなった
朝鮮も明の進駐軍の為の食料や維持費を提供しなくてはならないし、人的な労力も提供しなければならないので、荒れ果てた国内はいつまでももとに戻すことが出来なかった。
しかし、年が明けると秀吉が死んだニュースが伝わり、ようやく一安心する
それならば仕返しに対馬を奪い、九州に攻め込むかなどと勇ましい言葉も出たが、現実的ではなかった。





空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 168 北政所ねねの述懐

2023年02月27日 18時44分20秒 | 貧乏太閤記
 秀吉の死は直ちに肥前名護屋城にも伝えられた
すでに戻っていた渡海軍のうち、五大老の宇喜多秀家が石田三成、浅野長政ら奉行衆、小早川秀秋ら諸大名を集めて、朝鮮に残っている軍の撤収方法を相談した
一方、京に詰めていた徳川家康は、ただちに軍勢を率いて大坂に向かい、大坂城の秀頼の警護と称して家康は城内にとどまった
前田利家は既に秀吉に依頼されて詰めていたが、そこに家康も来たので今後の国内の安定、朝鮮、明国に対する備えや対処方法を語り合った。

 その頃、北政所は秀吉が眠る伏見城で、危急を聞いてやってくる在地武将に何かと返礼の言葉をかけていた。
その中でも福島正則と加藤清正はわが子同様である、しかし清正は今も朝鮮で戦を続けているので、正則は(さぞかし、かかさまは落胆されているだろう、わしが行って虎(清正)の分も孝行せにゃなるまい)と決意してやって来たのだが・・・
意に反して、政所は元気な様子だった。 「市(福島)、早速にきてくれたのじゃのう、やはり持つべきは市と虎じゃ、ありがたやありがたや」
そう言って肩に手を当てて、正則の体を揺らすのだった。
「ご心痛、お察しいたします、お気落しなきよう」
「市よ、この日が来るのはとっくに覚悟していたこと、あの人も全てやり尽して天に召されたのじゃから悔いはないであろう」
わりとさばさば言う、正則はいささか拍子抜けしたが
「殿下は満足されて逝ったのでありましょうか?」と問うと
「あの人は日輪を背負って生まれてきた方なのじゃ」と意外なことを言った
「それはいったいどういうことでしょう?」
「まだ秀吉殿と一緒になる前であった、身分も足軽だし、実家も百姓だと言う、私の両親も兄も心配してのう、最初は結婚に反対だったのじゃ」
「それは聞いております」
「じゃが、あの人は少しも動揺せず、『儂は、ねねさを好いておる、ねねさも儂を好いておる、ならばこの話はうまくいくで、心配せんでもええ』そういうのじゃ」
「ほお どういえばいいやら・・」
「どうしてか?と聞いたら、『儂は日輪を背負って生まれてきたのじゃから、うまくいかんことなど何一つない、心配せんでもええ』とまた言った
なんでも子供の時に、家では義父にさんざん酷いめにあわされていたそうな
それが、ある時、秀吉殿の義父が柿の木から落ちて死んだ、最初は腰が抜けるほど驚いたそうじゃが
その時、急に心に何かが湧き出すような感覚がおこったそうじゃ、腹の底から外に向かって湧き上がってくる力と言うのか
初めて身近で見た人の死、あれほど恐れていた義父が、呆気なく目の前で死んでしまった、死んでしまえばただの躯(むくろ)
それは自分にもいつ起こるかわからん、子供ながらにそう思ったそうじゃ
『人は必ず死ぬ、死ねばただの躯』死に対する覚悟が、その時に出来たんじゃと、それをあの人は『儂の体に日輪が入ったんじゃ』そう言っておった
『どうせ死ぬんだから、やるだけのことをやってみよう、田舎で百姓をやって一生地べたを這って生きるなんぞ、儂はできん』そう思って家を飛び出したのじゃ」
「ふ~ん・・・初めてお聞きしましたぞ」
「その日から、『わしは前しか、いや今だけしか見んようになった、今この時に命をかけようと思ったんじゃ』そのように申しておられた」
「なるほど」
「それからは自分のやることに自信をもって向かっていくことが出来るようになったのじゃと、『まだ来てもいない明日の心配をする奴はアホじゃ、明日のことは明日になればわかる、但し今、何もせにゃ明日危機に陥ることがわかれば、そうならぬように今全力を尽くして阻止する、それは当たり前のことじゃ』と、明日の為の準備は必須だが、明日を心配して悩むのはだめだと言うことだそうじゃ、
『明日まで生きているかどうかもわからぬのが人じゃ、それが明日の心配をしてどうする、そんな心配ばかりするから今がおろそかになる、今を誤らぬよう持てる力の全てを結集して今この時を生き抜くのよ、今この時に全力を尽くせば、日輪様は必ず助けてくれる、日輪様は儂が進んでいる前に大河が現れれば、橋を架けてくださる、知者に問答を迫られれば、溢れるほどの真理を儂の口から吐き出させてくれる
それもこれも日輪様が儂に大きな役目を与えてくれたからじゃ、それは戦国の世を終わらせること、その役割をこの儂一人に与えて下されたのじゃ
もちろん、最初からそう言われたわけではない、日輪様は小さな覚悟から順に与えて下されて、それができると次の少し大きな覚悟を与えてくださる
そうして次第に儂を成長させてくだされたのじゃ』と申されました」

「そう言えば虎も日蓮宗に熱心じゃ、それで肥後半石の大名になれたのかもしれませぬなあ」
「そうかもしれませぬ、信心も日輪を背負う如しかもしれませぬ
あの人は、それからもどんどん出世していった、なぜか問うたことがありました、『それは、儂に迷いがなくなったからじゃ』と言いました、『道が二つあったとしても、儂は迷わない、なぜなら日輪様が教えてくれるからじゃ、それも右だ左だとは言わぬ、どちらでも儂が踏み出した道が正しい道で〈踏み出した道を疑わず、できる限りの知恵と力を絞り出せば、必ず道が開ける〉そんなふうに言われている気がする』そう言うのです」
「しかし、時には金ケ崎の退き陣のように失敗したこともあります、また小牧でも徳川殿に大敗を喫したこともありましたな、あれはどのように言われましたかな?」
「そうじゃ、そうじゃ、そんなこともあった、あの人はどういったと思います? 『儂は大失敗したことなど一度もない、だが小さな失敗は数え切れぬほどしたものじゃ、人間、時には失敗しないといつか取り返しのつかぬ致命的な失敗をするものじゃ
だから小さな失敗はあってもええんじゃ、それは学びじゃ
その学びが何倍の大きさの次の成功につながる、それができん奴は失敗なのじゃ、失敗から学べば・・・学んだだけではだめじゃぞ、それを生かした実行が無ければ、それもただの失敗じゃ・・・金ケ崎の失敗では、わしは身内と言えども油断してはならぬことを学んだ、小牧山の戦では大きなものが、小さなもののところまで下りていけば大であっても小の働きしかできなくなることを学んだ、だから、あれ以後は徳川殿に対して、大きく向かうようにしておる
今川義元が、若き日のお屋形様に敗れたのは、まさにそれであった』
失敗は学んで活かせば失敗ではないとは名言でありましょう」
「いかにも、わしも今日は、かかさまから学びましたぞ」
「市や、大きゅうなっても慢心してはなりませぬぞ」
「?」
「秀吉殿でさえ結局は道を誤りました、そもそも関白だ豊臣だとお公家様の真似を始めたところで日輪様は、秀吉殿の体から抜けて行ってしまわれたのです
秀吉殿は、その頃に日輪様の存在を忘れてしまわれた、あるいは『日輪様などもはや儂の力に及ばぬ』という慢心を持たれたのでしょう
あれから歯車を狂わせてしまった、意味のない唐入りを始めて、敵、味方あわせて数十万も死人を出し、彼の国も我が国も疲弊して民が犠牲になっている
それだけではありませぬ、一番大切な秀次はじめ数少ない身内を滅ぼしてしもうた、自分の力になる虎など大事な大名をいわれなき罪に問うて離れさせてしもうた、あまつさえ私の身内である浅野家にも罰を与えた
私すら、秀吉殿は敵にしようとしたのです、木下吉房さま夫婦は三人の男子全て秀吉殿に身を捧げながら滅んでしまった、夫の吉房どのも流罪
瑞竜院さま(秀吉の姉、秀次の母)の嘆きは見ておられませんでした、幼い孫までも皆殺されたのですから、惨いことです、自分の姉にさえあのような仕打ちをするとは・・・日輪様とは、あの人そのものの生きざまだったのでしょう、自分を信じ通すことが日輪の力、その信念が秀頼がうまれたことで揺らいでしまった、自分の奥深く見つめていた人が、その眼を秀頼に向けてしまった、目が曇ったのです、日輪に雲がかかったのです
あれからの秀吉殿の行動は、すっかり狂ってしまった、冷静に自分を見ることが出来なくなり、それに老いが追い打ちをかけてきたのです」

「太閤殿下がお亡くなりになって、このさき豊臣家はどうなりましょうや」
「何を言うのですか、あなたや虎が大坂城の秀頼を守らなければなりません、まだ5歳の童です、少なくとも10年が必要です」
「しかし、三成ら大坂城の奉行どもが我らを寄せ付けまいとしております、三成こそ豊臣家に仇成す獅子身中の虫でありますぞ」
「それは違います、三成は三成なりに秀頼の将来を万全なものにするため努力しているのですよ」
「ならば我らと共に働くのが良いのでは? だが三成は我らを見下して相手にもしようとしない、しかも殿下に讒言までしたのですぞ、許せませぬ」
「そうなのですか、それならしかたにゃ~が、市と虎は、おみゃーたちが思うように、三成と違うやり方で秀頼を守りなさい」
「わかりました、そういたします」
「決してこれ以上、豊臣家を分裂させてはなりませぬ、やっと訪れた戦国の終わりを元に戻してはなりませんよ、まだまだ機会があれば天下を我が物にしたい者たちがいますからね、秀吉殿の家族はみな力を併せて平和を守って行かにゃーなりませんよ」
「おかかさまの話は、ようわかりました、しかし三成は評判が悪すぎます、儂や虎だけではにゃ~で、いつ誰が怒りをぶつけるかわかりませぬ」
「困ったこと、私が大坂城に入って、そうした者たちを諌めるとしましょう」








空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 167  豊臣秀吉の死

2023年02月26日 17時40分51秒 | 貧乏太閤記
 そんな秀吉も昏睡状態になることが多くなってきて、8月にはもはや意識がもうろうとした状態が続くので、面会も断り、政所と前田利家の妻「まつ」
それに京極殿の三人が交代でつきそうだけであった。
ときどき、医師全宗が様子を見にやってくるくらいである、昏睡はしているがすぐに命がどうこうと言うほどではない
だが日増しに衰弱していくのがわかる、もう食べ物らしい食べ物も、それが水のような粥であっても自力では食べることが出来ない
完全な老衰状態になっているのだ、苦しむこと、痛みを訴えることもなく、ただただ寝ているだけなのだ
そんなとき、今まで音沙汰がなかった淀殿が突然伏見にやって来た、供として大野治長がついている、籠を守る衛士たちは別の広間で待っている

 治長は廊下に座って警護の体制で誰も近づけない、秀吉の寝間を淀が開くと、そこには京極殿がつきそっていた
秀吉は、あいかわらず昏睡状態であった。
「殿下の症状はいかがでありましょうか」淀が聞くと
「ずっとこのままです、もう10日以上目を開けられません、医師は見守るしかないと申しております」
「目覚めることはないと?」
「はい、どうやらこのまま・・・」
「亡くなられると?」
「・・・・・」
「わかりました、私がしばし見ておりますから京極殿はお休み下さい」
「そうですか、それではお言葉に甘えて座をはずします」
「お疲れ様です」
全宗が様子を見に来た、廊下に出て話を聞いた
「殿下はこのまま・・ですか?」
「もはや、治ることはありませぬ、もうずっと何も召し上がりません、今は残った体力を少しずつ消化して生きながらえているのです」
「意識は戻りませぬか?あとどのくらい持つのですか?」
「長くても10日は持ちますまい、短ければ明日にでも」
「そんな そんなに悪いのですか」
「悪いと言うより、苦しむこともなく蠟燭の炎が消えるように静かなお最期となりましょう」
「そうなのですか、わかりました、そなたにもたいそうなご苦労をかけました」
「いえ、もったいないお言葉で、お役に立てず心苦しいのです、しかし殿下と言えども天の定めは避けられませぬ」
「わかりました、最期まで看取っていただけますね」
「それはもちろんでございます、私も城内に一部屋いただいて常駐しております、何かあればおよびください」全宗は淀がいるので部屋に戻った

 淀は秀吉の耳元に口を寄せた、そして小声で
「殿下、殿下、わかりますか? 聞こえますか」
かすかに秀吉が反応した、声と言うより、ため息のようなものが漏れた
「殿下、私の言うことを聞いてください、私は殿下を愛して夫婦として生きるのだと申しましたね・・・でも、あれは偽り
殿下をどうして愛せましょうか、けれども鶴松が生まれた、あれは誤算でした、まさか殿下に子を作る力が残っていたとは・・・
私は悲観に暮れました、いきなり計画が狂ってしまったのですから

でも、殿下に鶴松ができたのは神の悪戯だった、 あれ以後、殿下といくら関係を持っても子はできなかった、やはり殿下には子種が無いと、それに体も老いた、鶴松は100万回に一度の奇跡だったのよ
ところが、あなたは唐入りに夢中になって九州へ行ったわ、その時私は殿下の目を盗んでたった2度だけ若い男との逢瀬でたちまち秀頼を宿したのです、
安心して、殿下より素性は良くて家柄もはっきりしている殿方ですから
何と言うことでしょうか、若さとは子種も元気と言うことなのですのね、たった2度の逢瀬でしたが秀頼が出来てしまった
殿下は鶴松を得て、自分に子種があることを確信したから、少しも疑わずに若侍の子を、自分の子として喜んで後継ぎにした、私にとって願ってもない復讐を果たすことができた
鶴松は本当に殿下の奇跡の子でありました、まぎれもなくあなたの子でした
でも秀頼は9割がた、あなたの子ではありません、いえ言い切れます、あなたの子ではありませぬ。
 豊臣の家は秀頼が継ぐことになりましょう、だが秀吉の血は絶えたのですよ
誰が、あなたを愛しましょうや、私の父と義父を・・私の父を二人も殺した、兄をも殺した、憎い敵のあなたを許せましょうや・・・
思ったより、あなたは純情でやりやすかった、母は確かに私の兄を救ってもらったことで、あなたに感謝していた、それは事実よ
でも、それもあなたの嘘でしたね、あの当時のあなたは伯父に背くことなどできないはずと確信して密かに寺を探らせましたのよ、とうとうあの偽物、莫大な黄金に目がくらんで私の兄などでは無いと白状しました、もう寺になどいませんよ
母は五年もたってから会いに行ったけれどわかるはずがなかった
面影があったから自分に万福丸だと無理に思い込ませて納得したのよ
純真な母と私は違う、ずっとあなたを恨んでいたの、父の仇、兄の仇いつか浅井長政と柴田勝家と母の仇を討とうとね
あなたは私を信じた、バカな男よ、天下人と言っても所詮は男の一人、私の体に溺れて自分を見失しない一族を自ら滅ぼしたバカな男
秀頼は、あなたの子ではないの、誰が夫だろうと死んでいくあなたには関係ないことね、ようやく私は自分の体を犠牲にして復讐を遂げた
私を得るなど伯父に引き立てられなければ決してありえなかった、夢を見ることができたことに満足して成仏して頂戴、供養だけは欠かさずするから安心して逝くがいいわ
私も、あなたの加齢臭を我慢して、ようやくここまでたどり着いたのだから、お互い様ね
いずれ朝廷に豊臣を返上して、織田を復活させる、それが当然でしょ、伯父が一時あなたに預けた天下を織田家に帰してもらうだけ、織田秀頼が生まれるわ、いいえいっそ浅井の父と、信長伯父を併せて織田信政にしましょう、あなたは消えてしまうのだから秀はもういらないわ」

秀吉の手がかすかに動いた、何かを話そうとしている
「聞いてあげるわ」淀は秀吉の口元に耳を近づけた
「て・ん・・・・・」声が途絶えた
「そうよ、天罰が下ったのよ」そう言って、秀吉の顔を見た
そこには息絶えた秀吉の顔があった

 淀はしばらくそのまま秀吉の顔を見つめた、死んだとも生きているともどうにでも見える寝顔は目を閉じていた
たくさんの皴が顔を覆っている痩せこけたただの老人、この顔が、この口が天下のあらゆる猛将たちを恐れさせた男かと思うと不思議な気がする
淀のか細い手でも、こづけば泣き出すのではないかと思えるような貧相の老人
淀は急におかしさがこみあげてきた、「くくく」と笑いをこらえながら、なぜか涙があふれてくる、いったい自分の感情がどこにあるのか・・・
淀は我に返った
「誰か全宗を 殿下が! 殿下が!」悲鳴のような声を上げた
駆け付けた全宗が脈をとった
「殿下は薨御(こうぎょ)なされました」と言った
淀は、激しい鳴き声を上げた 急を聞いて京極も、政所もかけつけた
慶長3年8月18日、(新暦9月18日)太閤秀吉は62歳の生涯を終えた




空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 166 徳川父子

2023年02月25日 17時13分56秒 | 貧乏太閤記
 徳川家康の嫡男となった秀忠は数えで19歳になった
家康は55歳だから、36歳の子だ
順番で言えば三男だが、嫡男信康は遥か昔に切腹を申し付けて殺した
次男の秀康は、なぜか家康が馴染まず、秀吉の人質として大坂に送ったが、秀吉夫婦は養子の一人に加えて可愛がってくれた
今は結城家へ養子に入って、結城秀康と名乗っている

 秀忠は大坂城の主となった淀殿の末妹「江」を娶っているが、結婚生活を経験している6歳年上の妻には子ども扱いされて頭が上がらない
もともと温厚な青年で、果たして戦国の世にあって荒々しい三河武士団を統率できるか疑問とされている
しかし家康は55歳とはいえ、健康そのもので病気一つせず、気色の充実したること天下無双の大名であるから、まだまだ秀忠は学ぶ余裕がある
家康も、秀忠を学ばせるため本多正信に指導させることが多くなった
それで、秀忠はこの頃、政治や戦に対しても理解を深めだしている
「父上、なぜに太閤様は唐入りにこだわるのですか? 私が見るに大名の多くが迷惑がっているようにしか見えませぬが」
「それはのう、時代が大きく変化してきたからじゃ、もはや国内の政(まつりごと)だけでは太守の役目は果たせぬ」
「それは、どういうことでしょうか」
「南蛮人が、我が国にくるようになってからもう50年にもなる、最初は興味本位であったが、南蛮人が九州の諸大名に取り入って、キリスト教を広めるようになってから問題が出てきたのじゃ」
「はい」
「織田信長が南蛮人に興味を持ったのは、鉄砲をはじめとする進んだ機械と言うものを独占しようとしたからじゃ、その頃、交易の条件としてキリスト教の布教をポルトガルは要請した。 信長は、それに応じた、そして我が国で初めて大掛かりな組織化した鉄砲隊を作った、それで強敵武田を滅ぼし、日本統一まで進んだのだ」
「織田様を呼び捨てとは・・・」
「ははは、もはや織田様などと言うことはない、呼び捨てるがよいのだ、但しお前と儂だけの時に限るがな・・・信長はわが長男信康、おまえの兄を罪なき罪で腹を切らせた悪人じゃ、わしもあの頃は力がなく従わざるを得なかった、築山(家康の正室、信康の母)とて殺すことは無かったのだ、可愛そうなことをした」
「・・・・・」
「話を戻そう、信長と南蛮人の付き合いは、そこまでだった、ところが信長の後を継いだ太閤殿下は南蛮人のずるさに気が付いた」
「それは?」
「キリスト教信者を増やせばどうなる? 儂が岡崎に戻って間もなく、家臣団を二分した宗教戦争がおこって、儂も危ういところであった
一向宗門徒の反乱じゃ、あの本多正信、蜂屋までもが儂を襲ってきたのだぞ
わかるか? 宗教とはとてつもない力を持つのじゃ、そなたも気を付けて肝に命じるがよい、あの時、一揆に味方した儂の家来は『主従はこの世でだけでのこと、仏との縁は未来永劫、死んだ後も続く』と申したのじゃ
これを南蛮人のキリスト信者が同じことをやればどうなる、キリシタンは死んでデウスに会うことを喜びとする、しかも自害は禁じられているから、死ぬためにしゃにむに挑んでくる、これは恐ろしいことじゃ
既に九州の大名の多くが信者になっておる、中国、畿内、奥州でさえ広がっておるのじゃ」
「そうでありましたか、たしかに恐ろしいし油断なりませぬな」
「太閤殿下は、それに気づかれた、しかも交易の方も密かに、九州の日本人男女を奴隷として南蛮やユーロペ、メヒコまで売り飛ばしているそうじゃ
それに殿下が激怒したのだ、そして南蛮人の追放、キリスト教布教の禁止を始めたのだ、だが唐入りのこともあって、今一つ厳しくされぬから、まだまだ隠れて布教しておるのだ」
「南蛮とは、いかなる意味なのですか?」
「良いところに気が付いたのお、南蛮とは『南に住む、蛮族』という意味だ
もともとルソンより南には九州くらいの島が多くあって、そこには裸の蛮族が数多住んでおるそうじゃ、それを南蛮人と本来はいうのじゃが
そこにポルトガル、スペインの白人がやってきて、武力で南蛮族を従えて奴隷の如く扱っておるのだ
我が国では、今ではその蛮族ではなく、そこを占領しておる白人たちを南蛮人と呼ぶのだ」
「なるほど、そうでありましたか・・・しかし蛮族も気の毒でありますね」
「そうよ、だから殿下は南蛮人に対して並々ならぬ敵対心を持っている、南蛮人はルソンまで自分たちのものにした、そして次に我が国と、明国を狙っておるのだ」
「そうなのですか」
「そうじゃ、ところが我が国が一大武装国家であることに気づいて、メヒコや天竺、ルソンを支配したようにはいかぬことに気づいた、それで武力ではなくキリスト教を広めて、大名や領民を扇動して国内反乱をさせようと方針を変えたのだ、だがそれも殿下は気づいて阻止しようとしている、だがまだぬるい」
「でも、なぜ唐入りなのですか」
「それは、南蛮人も明国を狙っているからだ、明国は都の北京は守りが固く、人間も多いから兵も50万、100万はいるらしい
だが、国が広すぎてまとまりがつかず、南の方では人種もまるでちがうようで皇帝に従わぬ豪族が多いらしい
兵も多いばかりで、戦は決して上手ではないことは此度の戦でわかった
殿下は30万の兵が上陸すれば、北京を落すことが出来ると確信したのだ、南蛮人にとられる前に取ってしまおうと真剣に考えておるのだ
唐国を破れば、南蛮人はもはや我が国に手出しはできぬと考えるだろう
下手すれば、本国にまで攻め寄せると思うかもしれぬ
ユーロペは遠いから、こちらにいる南蛮人の軍隊などわが軍10万で攻め寄せれば、圧政に苦しむ蛮族も立ち上がって、わが軍に味方するであろう、簡単に追い出すことが出来よう
ユーロペの南蛮人から、真の南蛮人を解放して我が国に硝石や金属などの取引をさせるのだ、ポルトガル人から買うより何倍も安く入り、関税も取れる
そして軍船を大量に作って、大砲も作り、天竺へ攻め入ってポルトガル人を追い払う、そうすれば我が国は、朝鮮、唐国、天竺、南蛮、ルソンまで自由に往来できるようになる
そこまでせずとも、ルソン、ゴアなどの南蛮人が降伏して我が国に朝貢すれば許すと殿下は申しておるのだ」
「壮大な話ですね、実現できるのでしょうか」
「そうよのう、殿下の寿命次第じゃ」
「殿下はいつ頃亡くなりますか」
「それはわからぬ、だが儂の方が長生きするのは確かであろうよ」
「父上は本当にお元気ですから、薬の調合まで自らやっておられますしな」
「若いころから養生しておる、儂の父は体が弱く国をまとめることができなんだ、それで今川に国を取られて儂は苦労したのじゃ
そなたも儂を見習うがよい、長生きすれば良いこともあろう、健康ではつらつとした姿を見せておくだけでも家臣は安心して働くものじゃ、死ねば負けじゃよ」
「秀忠肝に命じます」



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 165 秀吉 病に伏す

2023年02月24日 17時38分44秒 | 貧乏太閤記
 しかし、そんなことを言った翌月六月になると秀吉は、食あたりしたかのような激しい嘔吐と下痢が続き、すっかりやせ衰えてしまった
今までは三日もあれば全快したのに、ずっと寝たきりになった、諸大名が次々に見舞いに訪れたが誰もが「もしや・・・」と思うのであった。
 ここで秀吉が死んでしまえばこの国はどうなるのか、朝鮮はどうなるのか、豊臣家は? 誰もが混乱した。
秀吉も(まさか・・・もしや・・・)と思うようになった
そうなれば一番に気になるのが秀頼のことであった、まだ五歳の子供である
政治どころか、大名を制するなど淀がついていてもできるわけがない
秀吉は石田三成を呼んだ、何といっても豊臣家のことを第一に思っている男はこの三成であると秀吉は思っている
「三成よ、儂にもしものことがあれば秀頼を託せるのは、そなたしかいない
さりとて、そなたはようやく17万石の大名になったばかりじゃ、力が無さすぎる、せめて50万石与えておけばよかった」
「そのような、お気をたしかになさりませ」
「もはや気休めを言って居る時ではない、儂が死ぬかどうかは天が決めることじゃ、儂は死んでも何でもないが、残す淀と秀頼の先が心配なのじゃ
よいか、そなたは儂が亡き後でも秀頼を守り通し、豊臣家を盛り立ててくれる確かな同志を集めよ、そして皆を取りまとめる者を決めよ、そなたは忠臣であるが個が強すぎて皆を束ねるには無理がある、前田大納言のような男に頼むのが良い、だが利家殿も儂と似た歳じゃ、先は知れておる
倅の利長殿、前田の婿である宇喜多中納言、毛利輝元、秀元。小早川、上杉景勝はとるに足る正義の漢(おとこ)、このあたりがまずは同志として信頼に足るであろう
奉行たちもみな信頼できるものばかりじゃ、清正も正則も長政も嘉明も秀頼を守ってくれるであろう、徳川大納言にはくれぐれも気を配ることじゃ
徳川殿が後ろ盾になれば日本も太平じゃ、秀頼も安心できる
儂が死ねば、もはや朝鮮や唐は気にせずとも良い、この国が平和であればそれで良い、儂は欲張りすぎた
母者の言うことも、上皇様の言うことも、おかか(北政所)の言うことも聞かずに無理やり朝鮮に攻め込んだ、だが儂には戦しか思いつかなかったのじゃ
貧乏人とは悲しい者よ、己の貧しい環境から脱したい、足蹴にした奴らを足蹴にしてやりたい、腹いっぱい食べたい、儂を鼻先でせせら笑った女どもを儂にひざまずかせたい
そんなことばかり考えて走って来たのよ、貧しくなければこんなことは考えもせなんだろうよ」
茶を一口すすると、すぐに咳き込んだが
「秀長に先に死なれてしまったのが一生の不覚よ、秀長が生きてさえいてくれたら秀次兄弟を殺すこともなかったに
三蔵兄いも、前野の兄貴も儂が殺してしもうた、官兵衛も遠ざけて今になってみれば儂は何を考えていたのじゃろうか・・・秀頼を豊臣を疑わなかった者たちをみな去らせてしまった、そうじゃ浅野幸長・・・すぐに流刑を解いて家に戻すがよい、三好吉房もじゃ、細川忠興も罪には問わぬ、蟄居を解除せよ」
秀吉は病の床にありながら次々と命令を発した
「そうじゃ、いまいちど秀頼への奉公の誓詞を全ての大名からとるのじゃ
ああ・・・明日、前田利家様をここに呼んでくれ、明後日は徳川殿じゃ
話しておきたいことがある、おおそうじゃ徳川殿の次は、おかかを呼んでくれ」
地震で半壊した伏見城も天守の再建はなさなかったが、あらかた修理が終わり秀吉は再び伏見城で寝起きしている
淀と秀頼、それに北政所は大坂城に住んでいる、側室たちは大坂城と伏見城、両方に屋敷をもらい、秀吉の言うがままに往来しているのだった
大坂城には隠居した前田利家が、秀頼のおもり役として常駐している
秀吉にとって前田利家は、竹馬の友と言ってもよい程の信頼できる間柄だ、石田三成でさえこの二人に割って入ることはできない
秀頼を利家に預けたことで、秀吉は肩の荷が一つ下りた気持ちなのだ、自分が亡くなっても、利家がいれば誰も秀頼をないがしろにはできない
利家に90万石をやっておいてよかったと思う、利家には70、80までも生きていてもらいたい、そうすれば自分が死んでも安心できる
そう思うのだった。

 7月になると、いよいよ秀吉の病状はただならぬものとなって来た
苦しい息の下で秀吉は糟糠の妻ねね(政所)を枕元に呼んだ
「わしもこのざまじゃ、そなたにとって良い夫ではなかったかのう
何を言われても仕方ない」
「そんなことはありませんよ、おまえさまは昔と少しもかわっておりませぬ
短気でせっかちで、言い出したら聞かなくて」
「ははは、それは褒めておるのか? けなしておるのか?」
「ほほほ、自分の胸に手を当てて考えればよろしいこと」
「そうじゃ、儂ももう長いことはあるまい、しゃべれるうちに伝えておく
まずは、そなたにとっては気に入らぬことかもしれぬが、淀と秀頼を助けてもらいたい、そなたが多くの家臣や大名から慕われておることは儂は知っておる
その力を豊臣家存続のために貸してもらいたいのじゃ
そうしてもらえれば、儂は地獄に落ちても構わぬ」
「大丈夫です、秀頼のことは私が見ましょう、それにおまえ様は地獄に行っても閻魔様と大戦争をするに違いありませぬ」
「そうか、わしは地獄の王になるのか、だがもう戦はせぬ、死んでまで休まらぬのではたまらぬ、閻魔大王とは地獄の平和について話し合いをしよう、
まずは、そなたが秀頼を前田様と後見してくれるなら儂も安心じゃ
それだけじゃ、そなたに頼むことは、他は何も言わずともわかるであろう」
「わかりますとも、残された時間を幸せな心持で過ごしてください、私もこの城に居ますから、毎日顔を出しますよ」
「おお、それはありがたい・・・・・うむ、また眠うなってきた、しばし休むとしよう」



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 164 秀吉の果てなき夢

2023年02月23日 18時24分25秒 | 貧乏太閤記
 「ルソンへ使いを出せ、スペインの提督に、『スペイン王は余に臣従せよ』と言う書状を届けるのだ」
それは高圧的な内容であった、「スペインが日本との交易を望むなら、まずは余に対して臣従を誓え、そうすれば交易を許す、だがキリシタンの布教と、パードレの来日は許さない
もし臣従しないなら、明を従属させ、朝鮮を従えた日本は大軍を持って高山国(台湾)を占領し、そこからルソンに攻め寄せるであろう」
そのように脅した、ルソン(フィリピン)を占領しているスペイン人は驚き、恐れた、いかにスペインが欧州最強であっても、ルソンに駐屯する僅かな軍隊では、とても戦続きで猛り狂っている日本の武士10万の敵ではない
仕方なく、ルソンの提督は秀吉のご機嫌取りに使者を送って時間稼ぎをした。

 豊臣家の前途はどうなるのか、それは秀吉の周りに仕える武士たちが一番よくわかる・・・が、うかつに外に漏らせば首と胴がたちまち離れてしまうだろう
だが人間の性(さが)誰かに話さないと、それがストレスとなる、自然と取り巻き同士で話すことになる。
「お拾い様も、豊臣秀頼さまとなられ五歳にしてはや二位の中納言様じゃ、太閤殿下もお歳じゃし、急いで中納言様に権威付けをしたいのであろうのう」
「殿下のことであるから、もう十年は指揮をとるであろうよ、十年たてば中納言さまも十五歳、立派に豊臣家を継がれて関白殿下になられるだろう」
「そうなれば、われらも中納言様の親衛隊として、大名になれるであろうか」
「欲を言って墓穴を掘らぬようにいたせ、此度の関白秀次さまの一件では、おおぜいご家老様がお腹を召された、一寸先は闇じゃ」
「くわばらくわばら」
「それにしても、この数年でずいぶんと殿下の取り巻きも変わった、小早川隆景さまも亡くなられて三年になるのかのお、殿下の甥御の木下秀俊さまが養子になられたので小早川家を継がれ、秀秋さまと名乗られた、だが噂によればかなりの酒乱癖だと言うぞ」
「なんと! これはまた秀次さまの二の舞にならねばよいが」
「うかつなことは言うでない」
「だが、儂は見たことがある」
「本当か」
「顔色が真っ青になって癇癪を起こす、御付きの者共は慣れたものよ」
「だが朝鮮では全軍を率いたそうじゃ」
「それはそうじゃ、殿下の姉様のお身内の三兄弟はみな非業の死を遂げて、一人として残らぬ、そうなれば次に近いお身内は、政所様のお血筋じゃ
小早川さまは政所様の兄者のお子であるからのう」
「だが、おぬしが申した通りの酒乱癖、しかもまだ16歳じゃ、此度の采配はみなご家老様たちが話し合って進めたとのことじゃ、軍議になればやはり場を仕切るのは宇喜多秀家さまであろう」
「大老衆で最前線で指揮を執られたのは宇喜多様だけであるからのう、しかも奥方は前田利家様の姫じゃ、養父が太閤殿下とくれば小早川様より一枚も二枚も上手じゃ、仁義に厚い殿様らしい」
「いや、そうでもないらしい、家中のご家老衆が二つに割れているとか」
「ほう? 聞いてみなければわからぬものよのう」
「そうなれば、これから先の時代、秀頼さまを盛り立てていくのはどなただろうか」
「それは決まっておろう、石田様、増田様、長束様など五奉行じゃ、五大老様は政務、五奉行は豊臣家の防壁じゃ」
「たしかに奉行衆は忠義者がそろうとる、じゃが残念ながら、いずれも小身の大名ばかりじゃ、やはり宇喜多様、毛利秀元様、それに上杉景勝様もさすが謙信公の甥だけあって義に厚いおかたじゃ
毛利秀元様と言えば、立花宗茂様と朝鮮で意気投合して兄弟の契りを結んだとか、どとらも勇敢な猛将だということじゃ
立花様も、秀頼さまにとって心強いお味方であろうよ」
「それに淀殿の周りには大野兄弟がついておる、それと叔父の織田長益様、織田信包様という後見もおられる」
「しかし大野治長殿と淀殿の・・・」「ばかもの! 命が惜しくないか、言って良いことと悪いことがあるぞ」
「すまぬ、忘れてくれ、儂も命が惜しい、口が滑った」
「その口を切り落とせ、命を落とすよりはましじゃ」

 医師全宗は秀吉の病に不審を感じていた、単に神経症(パセドウ氏病)であればここまで急激に痩せることはないはずだ
過去にもこうした病気は見てきた、たいていは痩せて短い年月で亡くなっている、それは大腸や胃の病である、たいていは激痛を伴うが秀吉に限って、そのような痛みは見られない、そこが?なのだ
時々寝込むのは、体力の消耗か気力の衰え、めまい、貧血である
だが、秀吉は3日と寝込むことはない、何事もなかったかのようにケロッと回復して、また人並み以上に精力的に働きだす。
そんなときは、決まって頭がさえわたる、今日もそうだった
「三成、これを見よ」
「なんでござりますか」
「陣立てじゃ」
「・・・朝鮮ですか」
「いかにも、来年には決着をつけねばならん、いよいよ唐入りじゃ、よいか今度こそ一気に北京を攻め落とす、大明国と雌雄を決するのじゃ、奴らが弱いことは此度の戦でようわかった
よいか三成、一年かけて船を作れ、2000、いや3000造れ、一気に25万の軍勢を送り込む、兵糧も南岸の城に20万石送り込め
けっして手を抜くな、秀吉の一世一代の大戦ぞ、これがうまくいけば、そなたには朝鮮の南部2道をあたえてやろうぞ、百万石の大名じゃ
そうじゃ忘れて居った、佐和山19万4千石をそなたにやろう」
「なんと、ありがたき幸せにござります」
「足りなんだら肥前の辺りにもう三郡も与えようか」
「いえ、佐和山でも過分でございます」
「そうか、欲のない奴よのう、土地は力ぞ、多いに越したことはないぞ」
「肝に銘じておきます」
「来年の遠征は宇喜多と福島を大将に命ずる、今から二人に伝えておけ、市(福島正則)の奴め、ずっと虎(加藤清正)が先陣をきっておったから面白くなかったのじゃ、これで満足するであろう」
「はは」
「明を占領したなら、秀家には朝鮮総督として支配してもらおう、そなたは朝鮮総奉行じゃ、秀家を補佐してもらう」
「なんとも壮大なことでござります」
「なあに、まだまだじゃ、天竺を占領するまでは通過点でしかないわ、天竺を占領すればオランダもスペインもみな退散じゃ、そうなればシャムからルソン、高山国までみな我がものじゃ、天竺は誰に任そうか、徳川にでも与えるか
ははっは、秀頼はいよいよ大明国の帝となるか、そうなればそなたも朝鮮二道など狭いところにおられぬぞ、紫禁城の宰相を勤めるか?」
「それはよろしゅうございます、三成、粉骨砕身でお仕え申します」
「そうじゃそうじゃ、その意気じゃ」



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 163 醍醐の花見

2023年02月22日 17時44分16秒 | 貧乏太閤記
 時間を春先に戻す、朝鮮の戦もひと段落ついて三月、秀吉は京都醍醐寺裏手の山に於いて、お花見を行った、後に「醍醐の花見」と呼ばれる催しである。
招かれたのは、ほとんど女性ばかりであったという、いかにも秀吉らしいが、関白秀次の正室、側室を家柄もなにも関係なく
全て打ち首にしたという秀吉に対して、諸大名や武将らの奥方たちは緊張したであろう。
 身分高い女性らは輿に乗って醍醐寺にやってきたが、その順も決められており、これが秀吉の室の序列でもあった。
一番が正室北政所、二番が淀殿、三番が京極殿、四番が織田信長の娘と言われた三の丸殿、五番目が前田利家の娘、加賀殿、その次が前田利家の奥方で加賀殿の母である「まつ」と続いた。
前田家と豊臣家の間柄は、利家、秀吉がまだ中堅武士である頃からの付き合いで、最初は秀吉が利家の足軽だったのだから、人生はわからない
今では日本一の太閤秀吉と、加賀90万石の太守、前田大納言である
秀吉の側室加賀殿は利家の娘であり、もう一人の娘は秀吉の養女となって、備前中納言宇喜多秀家の正室となっている。
 この花見では盃の順番で淀殿と京極殿が揉めたエピソードは有名である
一番は当然、北政所であったが、二番の淀殿に対して三番の京極殿からクレームがついた、この二人は従姉妹であり京極が年上である
「格式は織田家は京極家の家臣の家であるから、私の方が先に盃をいただくのが当然である」と京極殿が珍しく我を張ったのである
もちろん淀殿も「太閤殿下のお世継ぎを産んだ私が、北政所様に次ぐ立場であるのは明快である、そのため腰の席次もあなたより上なのだ」と言い返す
これを、前田利家の奥方「まつ」が年長の序列を持ち出して、やんわり丸く収めたというエピソードである。
ともあれ1300人も招いたというから、豊臣家の家老や重臣、諸大名家の重臣の奥方までも招かれたのだろう
もちろん皇女、大臣や公家の女房、大商人など名高い町人の妻も招かれたであろう
これが秀吉の最期の花道であった、もともと、こうした祭りごとが大好きだった秀吉であったが、いくさいくさが続く日々でこのような余裕はなかった。
どこで秀吉は間違ったのか、それはあきらかに「朝鮮出兵、唐入り」である
ようやく日本統一と言う大事業を成し遂げたのに、息つく暇もなく今度は海外相手の戦争へと移行したのだから、諸大名も驚いたであろう
やっと訪れた戦の無い平和な日本、勝利した大名たちはこれからの内政に不安と夢を抱えていたに違いない、それなのに・・・

 秀吉の「唐入り案」にまっさきに反対したのは弟の豊臣秀長であり、正親町上皇であった、そのような人たちの言うことさえ聞かなかった秀吉
いったい何がそうさせたのか、晩年の秀吉は豊臣家自滅の自殺行為としか言いようがない、まるで何者かの罠にはまったように思える
一番の相談相手で頼りにしていた秀長が死ぬと、その後を養子の秀保(秀次の弟)が継いだが秀次切腹の半年前に木津川でおぼれ死ぬという不審死がおこる
これによって、秀吉は大和豊臣家を廃家とした。
秀吉にとってもっとも重要な、いわば分家を自ら消し去ったのだ、そのあと甥のナンバーワン関白豊臣家をも滅ぼしてしまう
それに仕えていた家老もことごとく切腹させたが、多くはもともと豊臣家で秀吉に仕えていた重臣ばかりであった
木村や前野は、秀吉がまだ木下藤吉郎だった時からの仲間でもっとも古い家来だったのに、それも殺してしまった。
浅野長政、幸長親子は北政所の妹の夫と子である、幸長にも「秀次接近多し」という理由で切腹を命じたが、
前田利家と徳川家康、北政所の取り成しで前田家預かりの能登流罪で済まされた、だがこれも豊臣家の弱体につながった
この他にも、加藤清正、蜂須賀家政、黒田長政と言った豊臣恩顧の大名たちを謹慎や叱責処分にしている。 島津家なども家久切腹処分を申し付けられている
どういうわけか、秀吉に殺されたのは秀吉と共に豊臣家を築き上げてきた功労大名ばかりである、いったいどういうわけなのだ
徳川家康に縁する大名には、このようなキツイ処分はほとんど行われていない
それどころか疑われながらも加増された山内一豊、田中吉政、池田輝政などをはじめ、秀吉は大盤振る舞いしているのである。
そして同じ豊臣家臣でも、淀殿につながる石田三成ら五奉行は加増など優遇されている
これを見ていくと、秀吉は自分の過去につながって出世を遂げてきた者たちを記憶と共に消し去りたいと思ったのではないかと疑ってしまう。
そして気がつけば、秀吉の過去を知っている者と言えば、前田利家、加藤清正、福島正則くらいになってしまった
いつのまにか老いた秀吉は「裸の王様」であった
その外の世界では、石田三成と淀殿、徳川家康と北政所のあらたな世界が出来ようとしていたのだ、知らぬは秀吉ばかりなり
秀吉は老いた・・・

 醍醐の花見以後、まさに花冷えが続き、するとそれに合わせるように秀吉の体は病がちになって行った。
腹痛と下痢が続き、食用が失せ、もともとやせ型の体がますます痩せていった
床に就くことも多くなり、起きたり寝たりの日々が続いた
起きたときには、さすがは天下人と言う気力を見せる、声には張りがあり若々しい。 「耄碌した」などと陰口を叩く大名などは(うかつなことを言って知れれば切腹じゃ)と恐れた
だが当の秀吉は自分の体の変化が、これまでとは違うことに気づいていた
天下一の名医と言われる曲直瀬(まなせ)道三の弟子、全宗に、これまでも健康管理を任せていたがその全宗からいくつか注意事項を言われた。
全宗が見るに、どこと言って秀吉に死病は見えない、だが体が衰弱していくのが目に見えている
もともと胃下垂の傾向があるから食欲が出ないのもわかるが、現在のパセドウ氏病のような症状である。
疲れやすくなり、イラ立ちがしょっちゅう起こるようになった、手足に震えが来たかと思うと指先が反り返る、すると必ず下痢が起こる
そのようなことが起こるので体重の減少も目立ってきた、脂汗が出る、気持ちが落ち着かない
思い返せば、秀次の処刑の半年くらい前から、その症状は出ていた
その原因もストレスからだったのかもしれない、それは誰にもわかる、唐入りが思ったように進まないからだ 
最初は破竹の勢いで漢城どころか、平壌まで占領して、あと一歩で明国侵入と言うところまで行ったが
後方で立ち上がった朝鮮人義勇兵の抵抗により兵糧の運搬がままならなくなり、更に明国から援軍がやってきたため、今では朝鮮南部を守るに精一杯なのだ
 こんな状況に実は秀吉自身が、口ではいうものの実際は唐入りの熱が冷めてしまったのだ
秀頼が産まれたことで、ようやく秀吉にも平和が必要だということがわかって来た、だがそれを口に出すことはできない
結局、戦線の縮小の末に名誉ある撤退が出来れば、それでよいという気持ちになったのだ、そのため諸将の帰国が相次いでいる
 そんな最中の体調不良、秀吉自身はまさか死ぬとは思っていないが、それが近づいてきたことを感じるのであった
(もし儂が死んだら)と言う考えが出てくるこの頃、そうなると。思うのは淀と秀頼の今後のことであった。
「三成、諸大名すべてに豊臣家と秀頼への忠誠の証文を書かせよ」
太閤亡きあとに、そのような物が役立つなど秀吉も信じてはいない、だがそうしないといてもたってもいられないのだった。
それだけではなかった、まだやり残したことがある



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 162  讒言の波紋

2023年02月21日 18時01分14秒 | 貧乏太閤記
 「殿下、朝鮮より使者が参りました」
秀吉は朝鮮から戻って来た福原、熊谷の二人の軍目付に会った、そして戦の概要を聞いた
「まことに危うい戦でありました、あと2日救援が遅れれば、加藤殿は敵に降参したでありましょう」
「ばかな! あの剛直な虎之助は死んでも降参などするわけがない」
「それが、そうでもありませぬ、後詰がつく前から夜に紛れて数名、十数名と敵陣に投降した者がおります、寒さとひもじさに負けた者たちと聞いております」
「それは由々しき問題じゃ、後日虎之助を詰問しよう」
「それから、こちらの書状でありますが、諸将が戦のあとで合議して決めた取り決めでございます」
「なんじゃ」
「此度の戦で、城普請も間に合わず、救援も遅かったので蔚山、梁山、順天の各城を破壊して、防御地域を縮小するという案でございます」
「なに、、これは皆の総意なのか?」
「いえ、われら二人と垣見殿の目付三人は殿下の決められたことを変えてはならぬと申しましたが、加藤殿、蜂須賀殿、黒田殿が押し切りましたのでございます、それも小西様、鍋島様の御到着をまたずに決めたのです、小西様がおられたなら、このようなことは許されなかったでしょう
「何たることだ、蜂須賀と黒田は秀次がことでも疑いがあった者どもだ、いずれも親父たちは儂と共に苦労したというに、倅どもの呆れたことよ」
怒った秀吉は、二人の奉行に命令書を持たせて、釜山に返した
「毛利秀元、小早川秀俊は帰国せよ、また蜂須賀家政には帰国して謹慎を申し付ける」
「黒田長政は梁山城を放棄して、亀浦城へ転出せよ、蔚山城は加藤清正がそのまま残り、急ぎ補強して総曲輪と堀を完成させよ、順天城は小西行長が万全の構えにして放棄することは許さぬ」と命じた。

 蜂須賀家政、黒田長政、加藤清正はたいへんな苦労をしたにもかかわらず、秀吉から叱責を受けて腹の虫がおさまらない
自分たちが、このような目に遭ったのは、名護屋に行って秀吉に面会した軍目付の二人であることを知って、殺意さえ覚えた。
福原も熊谷も、石田三成と親戚関係にある、そこに我らを貶めた原因があると考えた。
今までの秀吉は加藤や黒田の父であり主君であった、それが秀頼誕生以来まったく人が変わり、身内であれ功臣であれ疑えば殺してしまう人間になった
こうなると、疑いの目を向けられた大名の受け皿は、おのずと秀吉に次ぐ大大名、徳川家康となる。
 徳川家康は、かって小牧で5倍の軍勢の秀吉と大戦をして、五分以上にわたり合った実績がある、それは諸大名で知らぬ者がない。
ここにきて、その風格は増し、関東で250万石8万人もの軍を動かす実力者
しかも人当たりは良く、かといって他を制する圧力もある
頼ってくる者は拒まず、豊臣恩顧の大名たちも、秀吉から冷たい扱いを受けるうちに自然と家康になびく者が増えてきた。
彼らから見れば、秀吉は石田三成ら五奉行を中心の近江者で身辺を固めているとしかみえない、そしてそれは淀殿、秀頼を守るためのスタッフであった、
もはや加藤、福島、黒田など尾張時代から仕えた者たちは忘れ去られたとしか思えない
そうなると三成に対する、嫉妬や妬み心も出てくる
「困ったら、徳川様を頼りなさい」と言った北の政所も今や秀吉にとっては、存在感が薄れているようであった、政所の心も秀吉から離れ始めていた。
秀吉の家臣団が、秀吉派と政所派に割れようとしている、それを見破れぬ徳川家康や本多正信ではない、しかも秀吉の老化は誰の目にも明らかである
今でいう「認知症」の傾向も見えてきた
一日の中で1~2回、おかしなことを言いだす、だが、それ以外の時間はいつもと変わらぬ鋭いまなざしと、しっかりした口調の秀吉だから、うかつなことはできない。

 徳川家康は自分の方が秀吉より長生きすることを確信した、そうなれば次に何をするべきか自ずと見えてくる。
だが家康は急がない、40年と言う長い年月を今川、織田、豊臣の下で生きてきた男だ、待つことと耐えることが身についている
「棚からボタ餅が落ちてくるまで、口を開けてはなりませぬぞ」
「わかっておるわ、ボタ餅が腐り始めて来ておる、下手に食べると腹痛をするでのう」正信の戯言に、家康も戯言で返した。
どんな王者にも平等に死が訪れる、「まことにありがたきことよ」
信長、秀吉が消え去れば次は家康が浮かび上がるのは、間違いない
「正信よ、忙しくなるぞ、天下は勝手に転がり込んでくるから、戦のことなど若い者に任せて、我らは徳川の天下を1000年続ける段取りをするのじゃ」
「いかにも、織田家も豊臣家も後継ぎで失敗しておりまする、天下を取ったことに満足するからこうなるのです、殿はやはり名君でござる」
「おだてるではないわ正信よ、これからが本当の勝負じゃ」
ついに徳川家康に天下取りがはっきりと見えてきた、目標が定かになれば、こうした天才はぶれずに突き進むことが出来る、しかも長年かけて優れたブレーンを育てた甲斐が、いまようやく実を結ぼうとしている。
「なぜ明を奪うなどと考えたのであろうか」
「耄碌(もうろく)されたのでございましょう」
「耄碌か・・・ふふふ」

 蔚山城の戦が終結したのは慶長3年(1598)1月のことであったが、1万とも2万ともいう死者を出して大敗した明軍であったが
早くも巻き返しを図って、2月には新たな陣立てをすると続々と国境を越えて、遼東から漢城に集結した
朝鮮軍も、当然ながら軍の再編を行い明軍に合流した、水軍は李舜臣が再び軍船を補強して、海からも日本軍を脅かそうとしている
これに明国水軍も陳璘(チェンリン)提督が広東より北上して朝鮮黄海南陽湾に集結した。
ここで兵糧や装備を集め、兵の訓練などに月日を費やした、明軍にとっても、今度は絶対失敗をしてはならない、
日本軍の強さと、残虐性をいやと言うほど見せつけられた、小国と侮って大失敗したのだったから
じっくりと時間をかけて何度も有効的な作戦を探った。夏に入るころようやく策もまとまり明軍の総大将シンジェは軍団長を集めて作戦会議を行った
シンジェは大敗を喫した前回の蔚山攻を振り返り
「蔚山では数を頼んで一気に攻め落とす予定が、思いのほか加藤清正の抵抗が強く後れを取ってしまった
日本軍も終結させるとすぐに数万が集まるから、此度の作戦は敵を分散して各個撃破する作戦をとる
軍を三つに分けて、それぞれ蔚山、泗川、順天を攻撃する、こうすれば敵は分散せざるをえない、しかも日本軍は半数程度が帰国して今が手薄である
前回の勝利に酔って、我らが立ち直れぬと考えて油断したのであろう、明国の偉大さを今こそ見せてやる
第一軍は麻将軍が3万で蔚山城へ、第二軍は薫将軍が1万5千で泗川城へ、第三軍は劉将軍が2万5千で順天城を攻撃する
さらに水軍とも連携を取って海上からも攻め寄せる、こんどこそじっくり緻密な攻撃計画をたてて9月より開始する」



空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 161 勝利と不安と

2023年02月20日 17時23分05秒 | 貧乏太閤記
 「日本軍が海上から上陸を開始した」と伝令が麻貴将軍に伝えた
「しまった、敵が出そろう前に一気に城を攻め落とすぞ」数万の軍勢は城に向かって攻め込んだ、味方が上陸したことを聞いた城兵は勇気百倍になって、今まで以上の戦いをして、敵を二の丸前に釘付けにした。
城の南の山に、日本軍の旗が雲霞の如く見えてきた、これを見た朝鮮、明軍は浮足立った、
数ではこの救援軍を含めた日本軍の3倍近くも多い、けれども既にこの凍える野外で二週間近く戦を続けた朝鮮・明軍は戦死、戦傷者も多く、さらに過酷な天候の中で疲労と寒さに体力が限界に近づいている
一方、日本軍の新手1万数千は、元気いっぱいの上に、並々ならぬ闘志をたたえて蔚山城の味方を助けるという使命感に燃えている
勢いが違うのだ、それが一斉に山を下って、包囲している連合軍の中に突っ込んだ
その勢いに恐れをなした明兵・朝鮮兵はどっと崩れて軍団の体が失われた
それを見た城方は鉄砲玉のあらん限りを打ち、敵方は1000名もの死者を出して逃げ始めた、しかし城方は勝ったがもはや追いかけるだけの力がなかった。
かわりに新手の日本軍が追撃に向かった、日本と違い犠牲的な殿軍などというのは連合軍にはない、我先に逃げ出し、武器を捨てて逃走する者も少なくない
しかしやみくもに西へ逃げた兵は、川に阻まれて逃げ道を失った、そこへ追いついてきた立花宗茂、毛利秀元の騎馬武者が槍で突きまくる、おおぜいの敵がそこで死んだ、それでも生きたい者は、川に飛び込んだ
凍える流れの中で、すぐに体は凍り付き、心臓が止まった、多くの兵が川の流れに流されていった。
 川の上流へ逃げていく敵には「敵が逃げたぞ、皆のもの追いかけて打ち殺せ、もはや個人の手柄は考えるな、首も鼻も後で良い、まずは殺してしまえ」
鍋島、蜂須賀勢らがまず追い打ちをかけ、その後を毛利勢、(毛利、吉川、小早川)らが追った
逃げ遅れた明軍は次々と討たれた、先陣の騎馬隊は、逃げていく敵の騎馬武者を追った、小早川隊は敵の騎馬隊を追いこして中央から攻め込んだ
たちまち、逃げ腰の敵は討たれ、大将首だけで10個も取った
悲惨なのは敵の歩兵部隊であった、毛利勢に逃げ道を断たれ、後ろから攻め寄せる日本軍の騎馬隊、歩兵隊に一万も討たれた。
兵士の死骸は皆、鼻を削がれ、それが討ち取った敵兵の数であり戦果として名護屋の秀吉のもとに送られた
 朝鮮、明軍の大敗北であった、日本軍にも損害は出たが大将クラスはケガ人はいたものの、戦死者はいなかった、逃げる敵を追う追撃戦はしつこく数十kmも続いた、日本軍の完勝であった。
権慄、麻貴、楊鎬などはようやく慶州まで逃げてひと息ついたが、逃げ足の速い将軍は漢城まで逃げて物笑いになった。

 戦が終わり、蔚山城に次々と大将たちが戻って来た、城下に置き去りにされたおびただしい数千もの敵兵の死骸は、日本兵が川まで運んでは投げ捨てた
首を斬られた敵の大将、武将級の遺骸だけは山中に穴を掘って埋めた。
そして川に投げ込まれた兵士たちの供養塚も隣に建てて、軍僧が弔いの経を詠んだ。
 翌日、再び大将が集まって軍議を開いた、総大将の毛利秀元が議長となり、今度の戦の反省と、今後の防衛方法について話し合われた
加藤清正が「蔚山城が7分しか完成せぬうちに大軍に包囲されて、このような苦労をしたので急ぎ完成させることが必要である、また十重二十重に包囲されて、救援の使者もままならなかった」と言うと、それについて意見が出た
「蔚山城ばかりではない、個々の他にも築城中の城はいくつかある、それも同じことになるやもしれぬ、今回は敵がそれを狙って攻め寄せたと思われる」
「蔚山から全羅道の木浦(モッポ)まではおよそ80里(320km)もあり、そこに10万が展開しても一城あたりの兵は知れている、そこに敵が数万で攻撃してくれば、今回の繰り返しだ」
「いかがかな、蔚山など辺地にある城は破壊して、できるだけ密集した方が良いのではあるまいか、後詰するにも近い程、たやすい」
「そうじゃのう、海に沿て50里ほどであれば、海からの救援も容易だし。内陸部にも10里20里程度なら、どこからでも救援にすぐ間に合う」
西生浦は海路の拠点でもあるから必要だが、蔚山は前に出すぎておる、僅か3里半ほどの間に二城は兵を分割するだけで無駄じゃ、これを破壊して西生浦を最前線としてより多くの兵を駐屯させてはどうじゃ」
「うむ、それが良いかもしれぬ、他にもそのような位置関係のところがあれば、それも二つを一つにした方が良い」
「その通りじゃ、早速洗い出してみよう」こうして諸将は、三つの城を廃棄することの許可をもらうため、名護屋に伝令を渡らせた。
 
 自分の家来たちは朝鮮で激しい戦を続けているが、秀吉自身は戦場の生々しさは、徳川家康、織田信雄と直接戦った小牧山の戦以後味わっていない。
あれからもう14年の年月が経ったのだ、秀吉はいわばその時から社長職を辞して代表権がある会長に一歩下がったと言える。
あれ以来、九州、小田原と戦場へは行ったが、小田原などは側室や芸人を連れて行くなど物見遊山気分で、とても血なまぐさい戦場ではない。
このように生の戦場を離れても、戦場で命がけで働く自分の夢を見る
秀吉は近頃、眠りが浅い、そのため昼となく朝となく夢を見ることが多くなった。
 戦場の夢は、いつも信長の下で命がけで働いている、具体的にどの戦と言うのではないが、常に信長の影が見えているのだ。
「儂がいれば、お屋形様を討たせなんだに」歯噛みする自分がいる
ある時の夢は信長を前にして「お屋形様、どうか儂に何でも命じてくだされ、儂はお屋形様に喜んでもらいたいのじゃ」と涙ながらに懇願している。
信長は「藤吉郎、われは・・・」とだけ言うと姿を消す
夢の中の秀吉はいつでも走り回っている、最初はこわごわゆっくり走るが、少しも息が切れない、全力を出して走ると体が軽い軽い、若さがみなぎっている
 だが時々、秀次がやってくる、秀次の周りには有象無象の人影が数十人従っている、顔はわからないが、感覚的には秀吉が討ち果たした光秀や勝家、浅井長政などのようにも思える
秀次も誰も何も言わず、ただ恨めしそうに秀吉を見つめている
「なんじゃ、なんだと言うのだ、そんな顔で睨もうと少しも怖くはないぞ」
秀吉だけが焦り、叫び続ける、そして喉が渇いて目が覚める
こんな夢を最近は何度か見た。