慶長4年春に秀吉の葬儀は執り行われたが、日本国内は不穏な状況になった
4月に秀頼の補佐を任され、豊臣家の重鎮となっていた前田利家が死んだ
すると五大老筆頭の徳川家康が、突如仮面をはがした
秀吉に代り、大坂城で政務を執り始めたのだ、当然石田三成ら五奉行は、秀吉が残した法度を盾にして迫ったが、家康はどこ吹く風で、思い通りに政策を進めた
大名同士の婚姻を秀吉は禁じたが、それにわざと逆らうように家康は、大名と大名の縁組を自ら行った
しかも、それに対抗する石田三成を、加藤清正、福島正則、加藤嘉明ら豊臣恩顧の七将が殺害せんと襲う事件が起きた
三成は仕方なく家康に調停してもらい、大坂城を去って居城の佐和山に蟄居した、しかし静かにしている三成ではない
密かに毛利、宇喜多、上杉、前田などに密使を送って、家康の暴挙を止めようと動いて居た。
それを察した家康は、加賀の前田利長を「豊臣家に対して謀反の疑いあり」と秀頼の名で追討を命じた
これに驚いた利長は母(利家の妻、まつ)芳春院を江戸の徳川家に人質に出して、無実を訴えて許されたが、徳川家康に従属することになる、貫禄の違いであった
翌慶長5年(1600年)これに味を占めた家康は、目の上のたん瘤、会津の上杉景勝を同じく謀反人と決めつけて、秀頼の名を使って「謀反人上杉を征伐する」と諸将を従えて会津を目指した
さすがに上杉景勝は、若い前田利長と違い誇り高き漢(おとこ)である
徳川家康率いる大軍を会津手前で一大野戦をするというのだ。
もし互角以上の戦いになれば、背後から上杉に味方している佐竹義宣が襲う約束もされていた。
7月下旬、下野(栃木県)小山まで来たとき、上方で石田三成が徳川家康に対して兵を挙げたという報せが入った、これで徳川連合軍は反転して戻った。
これも家康の作戦のうちで、石田三成が乗せられたという説もあるが、真実はわからない、これで張り切っていた景勝は、置いてきぼりになってしまう
結局上杉の大軍は徳川方の最上義光、伊達政宗相手に奥羽のローカルな戦に留まる
それから、経過は省略するが9月15日岐阜の関ケ原にて、日本史上最大の大戦が起こった、徳川家康が大将の東軍、毛利輝元が大将の西軍が双方互いに7万ばかりの兵を関ケ原に集めた決戦である。
どちらも豊臣秀頼を「お守りする」聖戦だというところに、この戦の珍妙さがある。
家康が最前線の現場で指揮を執っているのに対し、毛利輝元は大坂城で秀頼と共に居て戦場には現れない、現場指揮官は石田三成がなっている
しかし、僅か17万石の小身官僚であるから、島津、毛利、小早川など大身は無視したに近く、己の戦を自ら考えてやっただけである
それが小早川の裏切りや毛利の戦場離脱と言う形であらわれて、西軍はたった一日で敗れ去った。
朝鮮では豊臣秀吉の名のもとに命がけで戦い、助け合った諸大名も、関ケ原では敵と味方に別れて戦うことになった。
最期に、それら諸主だった将を記して終わりにする。
この戦には日本中の大名二百数十家が、東西いずれかの陣営についた生死のかかった選択であった、約3分の1の88大名が領地没収または減収となり、勝者に与えられた、豊臣秀頼の領地もいつの間にか家康によって減らされていたのである。
太字は朝鮮渡海の武将
東軍 総大将 徳川家康 別動隊大将 徳川秀忠
関ケ原で戦った諸将
福島正則 山内一豊 浅野幸長 黒田長政 藤堂高虎
池田輝政 細川忠興 織田有楽 生駒一正 金森長近
加藤嘉明
徳川家大名 井伊直政 本多忠勝 松平忠吉
秀忠隊 本多正信 真田信之ら3万
各地で戦った徳川方
京極高次 最上義光 伊達政宗 加藤清正 黒田官兵衛
結城秀康 細川幽斎 前田利長
戦後大幅な加増、あるいは大大名となった者
敗れた西軍から取り上げた領地は約400万石あった
結城秀康(越前松平) 10万→67万石
松平忠吉 10万→52万石
蒲生秀行 12万→60万石
池田輝政 13万→52万石
前田利長 90万石→120万石
黒田長政 12万→52万石
福島正則 20万→50万石
小早川秀秋 30万→52万石
藤堂高虎 8万→20万石
加藤清正 20万→52万石
最上義光 17万→57万石
伊達政宗 58万→62万石(嫌疑を受けたため少ない)
山内一豊 6万→20万石
加藤嘉明 6万→20万石
細川忠興 12万→30万石
徳川氏 250万→400万石以上
西軍 総大将 毛利輝元 現地司令官 石田三成
関ケ原で戦った諸将
島津義弘 宇喜多秀家 小西行長 大谷吉継 平塚為広
宗義智 島津豊久
西軍なのに関ケ原で裏切って西軍を攻撃した諸将
西軍なのに関ケ原で裏切って西軍を攻撃した諸将
小早川秀秋 脇坂安治 小川祐忠 朽木元綱 赤座直保
関ケ原で戦わず撤退
毛利秀元 吉川広家 長曾我部盛親 安国寺恵瓊
長束正家
各地で戦った石田方
真田昌幸 上杉景勝 佐竹義宣 立花宗茂 織田秀信
毛利勝永 増田長盛 片桐且元 織田信包 九鬼嘉隆
まさに昨日の友は、今日の敵であった
まさに昨日の友は、今日の敵であった
西軍は一日で敗れた
斬首 石田三成 小西行長 安国寺恵瓊 長束正家
遠島 宇喜多秀家 流罪 真田昌幸
改易 長曾我部盛親 小川祐忠 毛利勝永 増田長盛
織田秀信
大幅な減封 毛利輝元120万石→36万石 上杉景勝120万石→30万石
佐竹義宣55万石→20万石 常陸から秋田へ転封 切腹自刃 九鬼嘉隆
大幅な減封 毛利輝元120万石→36万石 上杉景勝120万石→30万石
佐竹義宣55万石→20万石 常陸から秋田へ転封 切腹自刃 九鬼嘉隆
小西行長の婿で朝鮮では一番隊の副将として小西を助けた対馬の大名、宗義智は当然小西に従い、西軍として徳川方を攻撃した、だから斬首、領地召し上げとなっても仕方なかったが、徳川家康は小西を斬首しながら、宗を咎めず、
最悪の関係になった朝鮮との国交回復を命じた。
まさに「芸は身を助ける」の典型であった。
宗は運の良さを喜び、小西の娘である妻を離縁して朝鮮に渡った、そして徳川家康がこれからの日本の支配者になると伝え、徳川家康は秀吉と違い朝鮮とは平和外交をしたい、朝鮮に徳川軍は一度も足を踏み入れなかったことを強調した、それで朝鮮も徳川との交易を許した。
家康は喜んで、宗にも昔から続いている朝鮮との交易を諸大名の中で唯一許した。
豊臣秀頼の立場は微妙であった、関ケ原前は徳川家康の主であったが、関ケ原では家康を攻撃した張本人に祭り上げられている
家康は戦後でも、秀頼を目上として形式的に祭り上げていたが、加藤清正や黒田官兵衛らが死ぬと豊臣家の領地を勝手に処分して 300万石→65万石にしてしまった、それからは次々と淀殿や、その取り巻きに難題を吹きかけてついに戦に持ち込んだ。
1615年、徳川家康はついに豊臣秀頼と淀殿を大坂城に攻め滅ぼして徳川幕府を完全なものにした。
秀頼と淀には最後まで大野治長が付き添って、共に火炎の中で抱き合うようにして自害したという。
家康が豊臣家を滅ぼすまでに関ケ原戦から15年かかったのであった
関ケ原合戦があったのは1600年の秋だが、その年の春、九州に外国の難破船がたどり着いた
既に豊臣政権はポルトガル(スペイン=すでにスペイン王とポルトガル王は統一されていた)と交易をしていたが、この船は、旧教カトリックのスペインと敵対する新教(プロテスタント)国のイギリスの海賊船だった、嵐で遭難して1年以上も漂流した末に流れ着いた。
この航海士ウィリアムアダムスが徳川家康に気に入られて家臣となって、徳川家の通商外交官となり三浦按針と名乗る、家康は独自の貿易ルートを持つことになった。
そこから大砲や鉄砲を大量に仕入れて、大坂城攻めを有利に展開することが出来た。
天下を統一した家康は、秀吉の失敗を繰り返さないために、まず国内の安定を図った
それは徳川家の政治体制、独裁体制を築くことである
秀吉の失敗は、内政体制を完璧にする前に大陸に対して領土拡大を図ったことだ、南蛮人、キリスト教に対しても対応が中途半端で終わってしまった。
家康は、その点、公家、大名に対して厳しい規則を設けてがんじがらめにした
参勤交代や、徳川家の為の城普請、そして治山治水工事に諸大名を使い、その出費の多くは大名が負うようにした、こうして大名の力を弱めた。
外国人に対しては、秀忠の代でキリスト教を徹底的に弾圧して、国内から追い出した
貿易は続けたが、長崎と平戸だけに限定した。
その利益も徳川幕府が独占したのだ、こうして徳川家は明治維新まで15代260年にわたり日本の独裁者として君臨した。
その徳川を明治維新で退かせたのは、関ケ原で苦汁を飲まされた、薩摩藩島津家と長州藩毛利家だった。
完結
完結
あとがき
よくぞ170日、毎日書き続けたものだ、飽きっぽい人間かと思っていたが案外根気が良い。
「閑だ、やることが無い」と口癖になっているが、実際はなかなか毎日が忙しく、ひと日の経つのが早い
冬であることも続けられた一因だ、外出することもなかなかできないし、プラス、コロナにインフルとなれば家に閉じこもる仕事が進む。
最初は、思い付きの物語を面白おかしく書こうと思ったが、登場人物が多すぎて時間的につじつまが合わなくなってしまう
でたらめを書くことが、真実を書くより難しく、結局ある程度の整合性を持たせないと歴史ものとして滅茶苦茶になってしまう
学生時代にも、これほど勉強をしたことがないほど勉強した、物語が進めば進むほど勉強しないと書けなくなっていく
秀吉の物語は、どこで終わらせるかもポイントだった
天下統一で終わるのが一番ハッピーエンドだが、それは秀吉の人生を半分書いただけで終わるから、それでは面白くないと思った
秀吉の人生を区分けすると①生い立ち~信長の家臣時代 ②本能寺の変~天下統一まで ③天下統一から死まで
ほとんど前半は織田信長の生きざま、後半は豊臣秀吉の生きざまである
既存の「太閤記」に唐入りと朝鮮出兵、オランダ、スペインとの駆け引きは、隣国での出来事なのにあまり書かれることがない そこも知りたかった
朝鮮王朝時代は520年も続いた、遺構、遺跡も多く残っている
日本の英雄ばかり書くが、朝鮮にも英雄や活躍した人物がいくらでもいる
たまには反対の立場からの戦争を考えるのも良いかと思おう
何度か韓国旅行はしたが、その後の日韓関係の悪化で嫌気がさして10数年行っていない、だがもしチャンスがあれば、釜山から木浦までの海岸沿いに300km、今回の小説の痕跡を見て歩きたいと思うようになった
90%は実現しないだろうけど。
人物明細は、さすがに明国まで広げると、わけが分からなくなるから、それは最小限の名前にとどめた
同じ時代の東アジアの出来事や立ち位置がわからなければ、井の中の蛙で終わってしまう気がした、もともと朝鮮半島の歴史と、中国との関りには興味があった、これを書くためにいろいろと知ることが出来た
今から80年くらい前まで、日本は「大東亜戦争」を主に中国相手に大陸で戦った
アメリカと戦った「太平洋戦争」、イギリス、フランス、オランダと戦った「印度支那戦争」と同時に三方向で行った日本の戦争
そのうちの「大東亜戦争」は、既に350年も前の秀吉の時代に行っていたのだから、驚きである、しかも当時の欧州の最強国、スペイン、ポルトガルとまでも戦争する覚悟があったというから二重の驚きである
信長、秀吉は欧州の「大航海時代」に参加しようとしていた進んだ頭脳を持った天才だったと思える、けっして昔の人間ではない、家康も加えて今の日本に現れてトップになれば、どんな日本にしただろうか興味がある。
2023.03.01