神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

平和な時代、動乱の時代

2024年08月26日 19時24分32秒 | 日本史
 日本国の凡そ1500年の歴史を見ていくと、海の波の如く動乱と平和が繰り返されているのがわかる
太古の事は古い書物でしかわからないが、実否あれども、それに従うしかないが、大化の改新までは帝の強権の時代で治まっていたかと思われ、大化の改新は最初の動乱だったのだろう。

以後、藤原氏を中心に300年の平安の時代は、為政者の内部抗争があったとしても平和で文化的な時代だったのだ、そして朝廷に馬牛の如く仕えていた武士が天皇家の血筋に混じってくると動乱の時代の幕開け。

我が世の春を謳歌した平氏も、「奢れるものは久しからず」で源氏の仇討ちによって滅び、続いて源氏も三代で滅び、頼朝の女房方の、前北条氏が仲間内の内部抗争という動乱を勝ち抜いて長期政権を作り上げた
そしてまた、しばし100年余の平和の時代が訪れた

北条は天皇をも島流しにする横暴を行い、それはやがて尊王の武士団の目を覚まさせ、三度動乱の時代に突入して、北条氏を滅ぼして朝廷政治に戻した・・かに見えたが、この乱の最大の功労者、足利尊氏のまさかの反乱で新田義貞、楠木正成ら尊王武士団との間での内部抗争が始まり、南北朝の動乱、天皇政治は束の間に終わる、足利家も兄弟の死闘を経て室町幕府が誕生して、また京都を都とした華やかな室町文化が花開き、今に伝わる金閣、銀閣など多くの寺院が興った
大国、明との貿易も盛んになり足利義満は明に従った形式の中に実をとった。

平和な時代がまた70~80年ほど続き、巨大化した足利幕府の執事、守護大名同士の間で応仁の大乱が始まる、それは戦国時代の引き金となって250年にわたる日本史最大の動乱の時代に突入した。

250年かかって、ついに徳川家康によって永久の平和が訪れた、江戸時代は平安時代にも劣らぬ250年近い平和な時代をもたらした
250年の動乱のあとに、250年の平和が続いたのだから、まさに神の悪戯とも思えてしまう
しかし徳川政治は外国の黒船が砲艦外交に訪れて揺らぐ、またしても平和は破られ動乱の時代へと入る
アメリカ、天皇と公家、徳川家、攘夷と平和外交、尊王と佐幕、尊王大名が複雑に絡み合い、京の都は血で染まり、徳川幕府に引導を渡した鳥羽伏見戦、江戸開城、奥羽越列藩同盟を打ち負かし、北の果てで最後の抵抗を鎮めた函館戦争を経て明治維新を完成させた
これは武士による封建時代の終焉でもあった、帝国日本を誕生させた明治新政府は急いで日本を欧米風に改造を始めた
髷を切り、刀を廃し、幕藩体制を中央主権国家に改め、大名政治は中央政府から送られた県知事が取って代わった
しばし西郷らの内乱が勃発したが、それでも欧米風のモダンな新時代、平和な時代に突入した
明治時代は初めて大規模な外国との戦争(日清、日露)もあったが、外国が戦場でしかも内容は別としても勝ち戦だったから、国内平和は続いていた
国内は平和であったが、東アジアは動乱の時代に突入していた
そこに日本の軍隊も加わり、北京の55日、義和団の乱では日本軍が最大の兵を送って鎮圧に貢献した
これは欧米の軍隊に日本帝国も組しての軍事行動であった、これによって中華大陸に270年根を張った満州族国家、清国は滅びて、中国は欧米、日本帝国によって重要な港や都市を奪われてしまう
清国滅亡後、解放された漢人たちもまた各地で軍閥が誕生して群雄割拠の様相になった
日本国内は平和が続き、周辺の朝鮮、中国は動乱となっていた、そこに日本も加わっていたのだ
第一次世界大戦でも日本は国内は平和なままで、勝利した連合軍に加わっていた日本は、棚ぼた式に南洋諸島の管理権を得る、朝鮮国を1910年に併合して朝鮮半島を手に入れ、日露戦争で樺太半分と千島列島を手に入れ、台湾も統治と日本史上最大の国土を得たのである、まさにわが世の春であった
世界の5大大国に列したと言う錯覚、日本軍は最強という錯覚を軍や政治家だけでなく連日の報道に国民も錯覚したであろう。
そして中国北部で関東軍が動き出す、内容は書かないが満州と言う日本本土の何倍も大きな大地を支配した関東軍は自由奔放に活躍する場を得たと思われる
内地の政府や軍をも小さく感じたのではないだろうか、ジンギス汗の気分?
ついには中国全土を手中にしようという野望もうまれたか?
これが自ら引き起こした、動乱の幕開けだった
今までの動乱は日本人同士によるコップの中の波だったが、今は世界列強を敵に回した大海原の大波となった
昭和16年12月8日、日本帝国は悔いても悔いきれぬ大動乱を自ら引き起こした
得意の絶頂にあった明治維新から今日までの70年ほどの平和を経て、またしても動乱の時代に突入した
この動乱は4年足らずで終わったが、日本は主要都市のほとんどを焼かれ、人類史上最悪の非人道兵器を二発も人体実験的に受け、原爆と東京大空襲だけで非戦闘員の民間人30万人以上が一瞬にして殺された
全体では軍人、民間人あわせて350万人が死んだ、日本史上初めての外国との大がかりな戦争と云う大動乱で、日本国、大和民族2000年の誇り高い姿は消え去った。

だが、あれから70年日本は復興して世界でも稀な平和を謳歌している、一度も内外の戦争に参加せず、軍隊も無くなって徴兵もない
占領軍アメリカをバックにして、自衛隊と言う志願兵だけの組織が国土を守る。

動乱の時代には必ず英雄が雨後のタケノコのように現れ出でる
大化では蘇我氏、中臣氏、中大兄皇子などが
そして源平から徳川家康まで英雄は数多誕生した
明治維新には西郷、勝、坂本、新選組などを始めやはり百を遥かに超える英雄が出た
敗戦直後にも吉田茂、白洲次郎など魅力的な人物が登場する
平和な時代には英雄が出現することは稀だ、だから今日の自民党総裁選と候補をみれば未だ日本は平和なことがわかる
ヒットラーやレーニンのような者が出てくる時代は動乱の始まりなのだ
そう思えば大東亜戦争や太平洋戦争は、さしたる英雄も出てこなかった日本に
於いて、どうして誰が戦争を導いたかわからない?
神、天皇陛下を騙り戦争に導いたものは個人でなく政治家でもなかった、軍人さえもこれという人がみあたらない、世論が米英蘭との戦争を始めさせたのだろうか?
まだ生まれていない私にはわからない。

この先、この平和がどれだけ続くのかは知らない
明治維新後の平和は70年で終わった、今の平和は80年だ
平安時代、江戸時代は250年の平和が続いた、だが今はグローバルな世界、鎖国的な平和環境にはしてくれない
常に国際関係の天秤の中で生きている、敵も隣の豪族や大名ではない、国家を上げての戦争になる、負ければ国を失い、屈辱的環境で生きていくしかない。
我が国はたった一度の経験で意気消沈している、異民族の集合体で隣に国境線がある欧州は、2000年の間にどれだけ国境が変わり、滅んだ国や民族の数も半端ない、それが欧州人の日常、一度の敗戦で打ちのめされた日本人に、千数百年も国を失い世界を放浪したユダヤ人、イスラエルの事情は分かるはずがない
イスラエルとパレスチナの問題は長い歴史の中から起こっている、ずっと島国に閉じこもって平和だった日本人には理解できないと思う
日本人ももっと強くなるべきだと思うが、これが日本人の良いところかもしれない、世界の中で日本人は特別な歴史を刻んできたのだから
そして日本よりも何倍もゆったりとした時間を過ごしてきたのは中国人だろう
国家の危機にあっても、国を外国に奪われても動じない大国が中国だと思う
日本人は今日明日を思って騒ぐが、中国人は百年、千年で動いているように思える
中国の習近平とロシアのプーチン、日本の岸田総理を比べてみると国民性が見えて面白い、習近平はおっとりとして動かざる風情、プーチンはいつも苛立っているように見える、岸田総理は落ち着きがない。

例え話を大先輩に聞いたことがある、中国人が毎日海に数個ずつ石を投げこんでいるので聞いてみた、「いったい何をしてるのか」と
中国人曰く、「毎日石を投げこんでいれば、いつかあそこに見える島まで陸続きになるだろう」と
勝海舟の「氷川清話」を読むと、勝海舟が見事に中国人と日本人の違いを見抜いて面白い。
「平和よ永遠なれ」は難しい。








戦争に負けて79年が経った

2024年08月13日 19時24分41秒 | 日本史
 日本が有史以来初めて対外国との戦争に負けたのは昭和20年(1945年)
それも軍、民あわせて300万人以上が戦争で死んだ、そして東京を始め主要都市50以上が爆撃、砲撃で壊滅的被害を受けたという悲惨な戦争
我が家の先祖代々の浜松の寺も艦砲射撃で住職ごと破壊(焼失?)されたという
数分で10数万人を殺した原子爆弾投下が2度、2時間で10万人以上を焼き殺した東京大空襲(祖父母が亀戸で犠牲になった)と世界でも例のない大虐殺を5か月で3度も受けた日本はそれ以上戦争継続をすることはできなかった。

もっとも一部軍の上層部では戦争継続を叫び、アメリカ軍を本土に上陸させて一気に殲滅する、あるいは刺し違えるといった考えもあったようだ。
そのために多くの航空機や燃料、武器弾薬を各地に隠しもっていた、父が入隊していた調布の陸軍飛行場にも掩蔽壕の中に戦闘機を隠して数十機が敵の攻撃を免れてあった
(終戦直後の8月末には武装解除の為、調布飛行場の飛行機が整列した、三式戦、四式戦ほか50機弱が残っていた。)

この場合、日本はいかなる被害を受けても降伏せず、一億総国民(一億はいなかったが)玉砕まで視野に入れていたようだ
皇居が爆撃される恐れもあり、天皇陛下を長野県の松代にお迎えするため地下要塞を作った(作っていた)
もし本土決戦が実行されていれば、ベトナム戦争、日中戦争、ヨーロッパ戦線同様に民間人も巻き込まれて日本人の何割数千万人が死ぬ事態が起こっただろう、アメリカ軍の死傷も100万人などと想定されたが、そうなればアメリカだって、のこのこと上陸しない
原爆を更に数発、制空権を握っているから爆撃も更に中小都市まで爆撃、制海権も握っているから日本沿岸から艦砲射撃と徹底的に無人の荒野としてからの上陸作戦となっただろう、軍隊が隠れていそうな最終決戦地、長野や岐阜、東北の山間部、山林は焼き尽くされたかもしれない、なにしろ国土の90%以上が山地山林の日本だから隠れ場所は多い

北からはソ連軍が北海道、東北に上陸してきたかもしれない
ソ連軍は世界初の社会主義国家であり、独裁国家であるからアメリカとは異なる非情な行動に出る恐れがある
事実、戦後日本軍を武装解除した後、日本に帰さず、労働力として極寒のシベリアに60万人以上を捕虜として連行して、強制労働を数年間させて6万人とも言われる病死、過労死、脱走死があった。

勝利国による日本分割案もあったようで、日本をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国で分割統治するという案だ。
北海道、東北はソ連が、中国は四国を、アメリカが関東、中部、沖縄など、イギリスは中国地方、九州を統治、北陸、関西は米中が共同統治
東京市は悲惨で4か国が共同統治となる、ベルリンを見ればわかるがソ連、中国が居留する区は社会主義、その他は自由主義区域となる
恐らくベルリン同様、「東京の壁」が作られただろう。

しかしアメリカは政治体制が異なるソ連の日本統治を恐れ、徹底的にこれを排除する様々な努力をした
日本に原爆投下したのも、ソ連を脅して発言力をけん制するためだったという話もある
あるいは現在の北方領土を含む千島列島、樺太の領有を無条件で黙視したのも懐柔策の一つだったかもしれない。
そもそも終戦まじかなタイミングで満州に突然攻め込んだのも、アメリカとの密約だったという話もある
国土が荒れ果て疲弊し1500万人近い死者が出た中国が日本統治に参加するのは現実的でなかった、しかも共産軍と国民党軍がいまだ内戦状態だった。

イギリスもアメリカに委任した形で、結局ソ連を黙らせたアメリカ一国の占領になったのは日本にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
だが日本の軍備は解体されて日本は素っ裸にされた、明治憲法も焼却されてアメリカ指導の新憲法が作られて天皇の神格化は否定されて人間天皇となり、政治関与も禁じられて「国民の象徴」という?の表現に定められた
この憲法で軍備を持たない、戦争しない平和国家日本となった。
それに日米地位協定というのも作られ、日本はアメリカの言うがままに操られる立場となった、今も新憲法と同じく、その効力は続いている
占領されて支配され国内経済のみの日本国の主権は昭和27年まで消えたのだから、それも仕方ない。

一方でわれわれ戦後生まれは今日まで戦争の体験、あるいは軍隊生活を味わうことなく生きてこられた
これは新憲法によるものだ、アメリカは早くも昭和25年には、アメリカの支配下として利用できる日本軍を失くした失敗を感じただろう、それは日本の隣に起きた朝鮮戦争の為だ
韓国軍はあっという間に釜山に追い詰められた、敵は北朝鮮軍とそれを支援する中国共産党軍だった
歴史上初の自由主義陣営と社会主義陣営の戦争が始まった、アメリカは何が何でも朝鮮半島が共産化するのを阻止する必要があり、軍を仁川に上陸させて逆転に成功した。
日本占領軍からも朝鮮に派遣された部隊は多かっただろう、そのため日本の進駐軍が減った、それを補うため苦肉の策で日本人による予備軍を創設させて「警察予備隊」という名を冠した。
航空機や戦車は持たないが軍備は軍隊そのもので警察などと言うレベルではない、しかも5年前までアメリカ相、中国相手に戦争していた現役兵だから戦争の仕方を知っている。  今の自衛隊の前身である、こうして海外派兵しない、戦争に参加しない軍隊が日本に誕生した
ほどなく戦車や航空機、海上艦船も導入される

今や世界でも10本の指に入る軍隊となっているが憲法上、軍隊とはならず敵からの攻撃に対しての反撃にも国会の承認が必要な組織となっているから、現場からも自民党からも憲法を改正して世界各国と同様な軍隊として認め、明記しようという気運がはっきりとでてくるようになった。
一方では日本の再軍国化を懸念する勢力もあり、なかなか難しい問題となっている、平和に慣れた国民に軍隊はピンとこない、だから三島由紀夫が決起した衝撃的な行動にも同調者は少なく、関心を持つた人は僅かであった
国民の間では憲法改正、軍隊の承認などの話はほとんど出てこない
敵国家が攻めてきたらアメリカ軍と自衛隊が何とかしてくれるだろうくらいに思っている
核攻撃をちらつかせる敵国家があっても、アメリカの核の傘に入っていれば攻撃はないだろうと思う人が多い
それに核攻撃があれば「おしまい」と割り切る人も多い、そもそも核シェルターがどこにあるかも知らないし、地方には地下の横断歩道くらいしかないのだから
東京、大阪などには地下街や、地下鉄が発展しているから上野駅の新幹線ホームや大江戸線に逃げ込めば少しは気休めになるかもしれないが、やはり多くの犠牲は出るだろう、だからじたばたしても仕方ないという気分はある。

国民に祖国防衛の思想はまだまだ根付かないようだ、だがオリンピックなどの国家の威信をかけたスポーツには熱くなる人が多い、私もそうだ
日本が勝てば大いに舞い上がり、負けると腹立たしい、どんなに大人しく、穏やかに見えても使命感や恨みが芽生えると人間は一瞬で変わる
日本人が戦争や軍隊を嫌うのは、あの鉄拳制裁と軍体調言葉、粗暴な上官の命令を映画やドラマで見て、あの封建的、前近代的なイメージを持っているからだろう、それと悲惨な戦争フィルムも嫌と言うほど見ている
おそらく世界でもっともそういう映画や写真、本を見ている国民が日本人なのだろう、そのくせウクライナやパレスチナの現実の悲惨な戦争には同情するが、それ以上ではない。

世界から武器が無くなれば戦争も無くなる
戦いたければオリンピックでカタを付ければよいと思うが、そうはいかない
火を噴いて飛び交うミサイル、都市に落下して爆発、吹き上がる炎と煙
あれの代わりに花火を打ちあえば、どれだけみんなが喜ぶだろうかと花火の季節になるといつも思う。










昭和の戦争 たった一度の過ちなのに

2024年08月11日 20時14分46秒 | 日本史
 甲子園球場は大阪府だとずっと思っていたが兵庫県が正解らしい、知らんかった!
さて一昨日は新潟県代表の新潟産業大付属高校が春優勝経験がある埼玉徳栄に2対1の接戦で勝った、新潟代表が初戦突破したのは7年ぶり、
ずっと新潟市、長岡市の高校が代表だった中で、産大付属は中堅都市柏崎市の高校だ、もしかして柏崎市からは初の甲子園代表かもしれない。
石川県代表小松大谷も勝って北信越勢はまず2勝0敗
富山商業は東海大相模との初戦、強豪相手にどんな試合を見せるか。



 局地戦は別として国家間の大戦争はわが大日本帝国は明治以来負け知らず
ついにはアメリカ、中国、イギリス、フランス、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドなど世界の強国相手に戦争を始めた。
中国とは一対一の差しの勝負、精密に言えば一対二、と言うのは中国側は日本とと戦争する前には蒋介石の国民党軍と毛沢東、周恩来率いる共産党軍が内戦状態で覇権を争っていた
そこに日本軍が割って入っていったために、まずは中国人同士休戦をして共同で日本軍を追い払い、改めて戦争をやり直そうと手を結んだ(国共合作)
それだから正確には一対二なのだ。

日本は昭和16年には、すでに中国とは4年近くも戦争状態だった、そこに更にアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの太平洋での戦争を始め
さらにさらにマレー半島を占領していたイギリス、オランダをも攻撃して、一気に三方面戦争という離れ業
しかも16年12月の初戦はどちらにも完勝してしまう。
真珠湾のアメリカ太平洋艦隊は、大被害を被って一年や二年は立ち直れまいと
そしてマレー沖では日本の航空隊がイギリスが世界に誇る戦艦プリンスオブウェールズ、および巡洋戦艦レパルスの二隻を沈没させてしまう
マレー半島ではたちまちイギリスを駆逐、オランダ軍は降伏する、フランスは本国がドイツに占領されて亡命政権となったために戦うことなく日本が占領
これでインドシナ半島と現在のインドネシアの一部は日本軍が大部分を掌握した。 イギリス軍はインドに撤退した。

だが日本の誤算は、清国、ロシアという古代からの大国に勝利したので、新興国家のアメリカの力を過小評価してしまったことだ、おまけに中国での戦争も南京陥落だの、上海爆撃だのと勝利勝利の報道が続いていた
山本五十六などアメリカ通ならばアメリカの巨大な生産力と軍事力を知っていただろうが、多くの日本軍参謀や政治家は初戦勝利によってアメリカなど敵ではない」気分に酔いしれただろう、もちろん国民の多くも大勝利のニュースに提灯行列の大盛り上がりだったらしい。
運動会でもそうだが勝っている時は勇ましい気持ちになり、自分が英雄の気分になる、誇らしくなる。

だがアメリカは真珠湾で破壊された戦艦を修理して復帰させるのに、長くはかからなかった、しかも航空母艦は真珠湾には居なくて全艦無事だった。
それに気づいて日本軍は世界に誇る航空母艦艦隊をミッドウェーに送って、アメリカ海軍を絶滅する作戦に出た
戦争が始まってまだ6か月後の事である、ここで日本軍は後手に回りアメリカ空軍の先制攻撃を受けて、主力空母4隻を失い、帰る船が無くなった航空機も300機が搭乗員もろとも海の藻屑と消えてしまった。
アメリカ軍は空母1隻が沈んだだけであり、アメリカの大勝利だった。
以後、日本海軍は一進一退の戦いを続けたが次第に劣勢になり、レイテ湾海戦では世界最大の戦艦武蔵が沈められるなどの大敗北を喫し、以後よいところなく海軍は衰退していく。
これで太平洋の制海権、制空権を失い、あちらこちらの島に駐屯していた日本軍は各個撃破されるか、無視されて飢え死に病死するかのいずれかの運命となった。
あの羽柴秀吉が得意とした飢餓作戦をアメリカも南方戦線の島々で使ったのだ
アメリカの南方作戦は①制海権、制空権を奪った後に艦砲射撃、空爆、戦闘機の機銃掃射、それから大軍での上陸という物量作戦で需要な島を占領する
②利用価値の少ない島は包囲するだけで攻撃せず、島の守備隊を餓死、病死に追い込む、だいたいこの二つだった。
アメリカ軍はニューギニア、インドネシア、そしてフィリピンを取り返し、台湾は素通りして沖縄攻撃に向かう
西太平洋ではサイパン、グアム、テニアンの重要拠点の島が玉砕してアメリカ軍のものとなり、そこからB29が日本国土の空襲を始めた
更に硫黄島を攻撃して守備隊が玉砕、ここもアメリカが占領するとB29に護衛戦闘機がつけるようになって、日本の戦闘機も容易にB29のそばに近づけなくなった、そのため爆撃精度が高まり、日本の基地、軍需工場などが次々と破壊された
日本にはまだ軍艦や航空機が多く残っていたが、肝心の燃料が不足して迎え撃つことができない、備蓄した燃料は特攻作戦に優先され、残りも本土決戦に備えて隠された。
軍艦は港につながれたまま米軍航空機の餌食になり、戦艦大和も片道燃料で沖縄へ特攻作戦に使われたが鹿児島沖で敵に攻撃されて沈没した。

マレー半島の日本軍は勝ちに誇って、インドのイギリス軍を叩くためインパール作戦を敢行、しかし無謀な作戦計画で逆襲を受けて5万人以上が犠牲となる大敗北を喫した。
日本軍で健在なのは対中国戦線の軍だけであった、千島列島の先、アリューシャン列島のアッツ島など守備隊も攻撃を受けて玉砕したが、キスカ島では奇跡の脱出作戦が成功して守備隊は無事に脱出できた。

沖縄も占領され、日本近海にはアメリカの潜水艦がわがもの顔で動き回り、通過する日本の輸送船などを次々と沈没させた。
またB29は日本の主要都市を無差別で爆撃して一般市民の多くを殺傷した
日本の空を飛んでいるのは90%以上がアメリカの戦闘機と爆撃機で日本軍の反撃は皆無に等しく、高射砲だけが戦ったが、長距離砲がある場所は避けて通るようになったので解散する高射砲隊も出て来た。
日本軍の抵抗は神風特攻隊など自爆兵器のみとなり、もはや戦争の体は無くなった、それでも戦争は終わらず、無為に月日が過ぎ、その間にも南の島では生き残った兵隊が伝染病や飢えで次々と死んでいった
アメリカ軍は包囲するだけで積極的に相手にせず、飢え死にするくらいならと玉砕戦法に出て来た日本兵を機関銃で打ち殺す作戦
国内では都市爆撃で一般市民が殺害された、そしてなおも降参しない日本に対して悪魔の爆弾、原子爆弾を世界史上初めて人間の頭上で爆発させた
そして広島、長崎の二大都市を一発で焼き尽くして20万とも30万という市民を殺した。
それから一週間後の8月15日、ついに日本は天皇陛下の玉音放送をもって連合軍に対する降伏となった。
民間人の犠牲者80万人、兵隊の死者数230万人と言う、昭19年以降の戦死者は飢え死に、病死の割合がそうとう多く、敵と戦っての戦死とどちらが多かったのだろうか? やりきれない。
飢え死にだろうが戦死だろうが死んだ兵隊の多くは手柄を立てて軍人として出世しようなどと思ったわけではない、一般市民が突然の招集令状一枚で強制的に戦場に送られて命令系統の最下位に置かれて、生死までも命令されるままにするしかなかった。
これは今生きている戦争を知らない世代の考えでしかない、実際に戦場に立った人たちは、こんなセンチメンタルな気持ちだったのか、お国の為に憎き敵を殺すと勇ましく出征していたのかわからない。
私が高校生の頃、父は私が戦争を批判すると「おれたちのことを、どうこういうのはやめてくれ」とだけ言った
戦闘の場面に毎日いた人でなければ本当の戦争はわからない、非難、批判するのは簡単だが、それは同じ立場にあった人だけに許されることではないだろうか。
戦場に立てば私の心もきっと変わるだろう、変わらなければ耐えられないだろう、もちろん戦争はしないにこしたことはない
だが敵が攻めてきたらどうする、「お互い平和に暮らしましょう」などと日本語で言ったところで敵は帰って行かないだろう。

明治になってちょんまげを切り落とした日本人は百戦百勝で外国との戦争に勝ち続け、ついにアメリカなどの連合軍を相手に戦争をした
その結果、みじめに負けてしまった、初めての負けであった
日本軍の責任者の多くが海外で逮捕され現地で裁判を受けて、多くが秘密裏に処刑された、日本国内でも東条首相兼陸軍大将を始め軍事、政治の責任者が絞首刑を執行された。
総理経験者の近衛氏は逮捕前に自殺した
国家指導者でさえこれであるから、一般国民を守って占領軍に物申す政治家など皆無であった、国家は一時的になくなったのだ。
そして昭和27年4月に日本はアメリカ占領から解放されて国家として再び世界から承認されて独立した
だが再軍備はアメリカが作った新憲法で禁止された、しかし朝鮮戦争で軍人不足を補うために日本に命じて警察予備隊という名の軍隊を作らせた。
それが自衛隊の始まりである、いまや自衛隊の軍事力は世界でも上位であるが、人数も少なく、核を持つことはいまだに戦勝国に禁じられてアメリカの安全保障下で守られている状態である
それもアメリカの奉仕の精神で守られているわけではない、アメリカには莫大な用心棒代を請求され、言われるままに支払うしかない、まま値切り交渉はしているようだが。
         つづく
*記憶違い、勘違いがあるかもしれませんがご容赦願います。








8月は日本の対外戦争を考える

2024年08月10日 17時47分33秒 | 日本史
 わが日本国の歴史は第三十三代推古天皇の御代、西暦で言えば590年頃からある程度信頼に足る資料が現れる、推古天皇の時代の有名人と言えば聖徳太子である。
三十一代用明天皇の二子で、皇太子となり推古天皇の片腕として法隆寺建立に寄与し、冠位十ニ階、十七条の憲法、遣隋使など様々な活躍をした。
ライバルは推古天皇の叔父、蘇我馬子、聖徳太子が亡くなると蘇我氏によって聖徳家は滅ぼされてしまう。
これは内乱であるが、この時代は大陸では隋の二代皇帝煬帝の時代(隋は二代で滅び唐に取って代わられる)、日本とは平和外交であったが、朝鮮半島は三国時代で、日本(倭国)と何らかの関わり深い「任那(みまな)」の地を巡って、任那を奪おうとする南東部の「新羅」相手に半島に出兵して戦った。
それ以前にも、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后が男の姿で半島に攻め入った伝説などがあり(四世紀前半の頃らしい)、この神話時代ともいえる頃から、倭国は朝鮮半島に渡って戦をしていたらしい、これが最初の外国との戦争であろう。

鎌倉時代後半には、世界制覇を狙う大陸の大元国(モンゴル)が、占領した宋や半島の高麗の兵を使って日本占領を企てて2度も九州博多あたりに攻め寄せたが失敗して撤退する戦争があった。
逆に16世紀末には豊臣秀吉が明国を従えようとして、大軍で朝鮮に渡り、抵抗する朝鮮軍や明軍と二度にわたり大戦争を行った
一時は朝鮮半島全域を占領したが、朝鮮戦争同様に大陸国家が出てきて押し戻された。 秀吉は戦争中に亡くなり、この侵略戦争は失敗に終わった。

その後、スペインやポルトガルもメキシコや南米、インドやフィリピン、東南アジアを武力で占領して日本も占領しようと企んだが、二百年以上国内戦争を続けて来た日本は、そのとき信長、秀吉、家康と言う戦国最強の覇者が居た時代で、逆に秀吉は朝鮮を蹂躙し、スペインが占領していたフィリピンにも攻め込むほどの勢いだったので、当時最強のスペインも手が出せずに終わった。

江戸時代になると鎖国が二百年以上続いた、そして明治維新で日本は帝国となり富国強兵に励んで、先進国に追いつけと軍備を拡張した。
そして1894年には「眠れる獅子」と言われた東アジア最強の清国と戦争になり、なんと完勝して多額の賠償金を清から獲った、これにより清国は弱体化して漢民族の蜂起により間もなく滅ぶ。
(清国は漢民族の国家ではなく、中華を占領していた満州人国家)

勢いに乗った明治政府は、こともあろうに1904年満州や朝鮮の権益をロシア帝国と争った、今でいえば今のアメリカ相手に戦争するのとあまり変わらない(核抜きで)、当時のロシアは世界でも五本の指に入る強国、生産力、軍事力、国力すべてにおいて明治政府の10倍以上の力があったという。
ご存じの通り、同盟国イギリスの援助もあり、明治政府は海軍が日本海でバルチック艦隊を100:0で破り、東洋艦隊をも全滅させた
陸軍はロシアの5倍以上の戦死者を出してロシアを追い払った。
(ロシアでは革命の兆しがあり、日本との戦争に集中できない事情があったようだ、結局帝政ロシアは赤色革命で世界初の社会主義国家ソビエトになってしまう)
この二大戦争に勝ったことで日本は1910年朝鮮国を日本に併合して中国進軍の足掛かりとした。

アジア最強と言われた清国、世界最強のロシアとの戦争に勝った明治政府の流れは、昭和に入って第二世代が受け継ぐ
軍備も世界の列強に次ぐ規模となり、精神面では最強国家に二度も勝ち、しかも無敗、日本こそ世界最強との意識をもった軍人は多かったのではないだろうか、ましてや国民は大日本帝国万歳である。
「ぐずぐず言う国は叩き潰してしまえ」くらいの意気込みとプライドが芽生えたのではないだろうか・・・知らんけど。
そして満州に大日本帝国の傀儡政権を誕生させて、二百万ともいう日本人が満州開拓に渡った。
満州の関東軍百万の指導部は満州から中国国内に軍を進めて中国軍と戦争となったのは昭和一桁の時代
日本軍と協力していた満州閥の親分、張作霖を爆死させるなど関東軍の暴走がはじまり、日中戦争は泥沼化していく
そして、それを非難して日本軍の満州及び中国撤退を要求した欧米を相手に一歩も引かず国連を脱退する、今度はイギリスは敵側に回り、ソビエトとは日ソ不可侵条約が結ばれていた
(日本の敗戦が決定的になった20年8月に突如ソビエトは条約を破棄して満州に攻め込んで民間日本人を殺害、兵士は捕虜としてシベリア強制収容所に送る)

日本は欧州占領をもくろむヒトラーのナチスドイツと同盟を結び、いよいよ運命の大東亜戦争、太平洋戦争へと突き進む。
                 つづく



藤原道長と、わが祖先の奇縁

2024年03月30日 18時58分53秒 | 日本史
 約30年にわたって我が家のルーツを調べてきて、ようやく一昨年8月に完成した。 筆書きで137ページ+資料10ページほどの閉じ本で5冊だけ手作りした。
これで骨組みは一応出来上がったので、その後は肉付け作業に入った。

それはネットを中心にして、郷土史のアーカイブ資料、地方の民話や伝説、寺社の縁起とか建立までの言い伝えなどを調べているのです。
そうして得た資料を、これまでの骨組みと照合して、訂正したり、付け加えたりしていく、それをやっているうち点と点が線でつながっていくこともあるし
面にまで広がることも稀にある
これが実に楽しく面白い、そんな中で見つけた藤原道長とわが祖先の関連話。

昔の資料や伝説は多くは推測で書かれたものや、盛った話が多くて年代や人物の前後がつじつまが合わなくなることが多々ある。
郷土資料でさえ、1000年前ともなると結構あやふやなのだ、出典がなにかもわからない、そんな中で寺社の資料はわりと正しいかもしれない
ただし伝説、言い伝えは信用するかどうかは各々の判断と言うことになる。

わが祖先の姓Aは父の代で終わり、今は別の姓Bを名乗っている
昭和19年末まで父は、祖先A家の七つの分家の一つの嫡系だったが父の母が再婚した相手B氏に(子が無かったので)B家を継いでほしいと言われて継いでBの姓になった、もちろん私もBの姓である。
父は一人っ子だったからBになると言うことはA家を廃嫡することでもあった。

そのA家であるが、郷土資料では一番古い人物が登場するのが延喜3年(903年)となっていて、その年に一族の氏神を祀った氏子7軒の神社を創建した、その神社は今も在る。 私も5年くらい前に行って見て来た。
903年は大宰府天満宮、菅原道真公が亡くなった年でもある、更に言えば平将門が生まれた年とも言われる
また三大怨霊の内の二人が将門と道真というのも偶然で不思議である。

藤原道長の六男は歌人として名高い正二位権大納言藤原長家、そして長家の孫が藤原資家、彼は妾腹だったのか?(まひろの息子かも・・それはない!) 官位は従三位だが無役だった

その頃(1125年頃)下野国八溝の山の中に、「悪鬼」「蟹の化身」などと呼ばれる人でも獣でもさらって喰らう化け物がいて、周辺の人々を恐れさせていた。「岩嶽丸」という、
都にも、この話は伝わりほおってはおけなくなり、討伐の兵を送ることになった、兵と言っても僅かな人数で、足りない分は現地徴兵と言うことになった。
そして、その大将に選ばれたのが藤原資家だった。
現地で岩嶽丸に詳しい者を雇い、三十人ほどの兵を引き連れて山中に入っていった、その中にわが祖先「Aの治部太郎」と云う者も加わっていた。
岩嶽丸の棲み処を探すのに地元で勢子数百人を雇ったが見つからず、お告げがあってそれで見つけることが出来た

そして洞穴に潜む化け物をついに発見、正体は1000年も生きているカニの化け物、背丈2m足10本で前の足は、ハサミ状、しかし資家と勇士によって退治して首を切った、その首は飛んで行って
「どうこうした」という様々な伝説になって残っている。(平将門の最後にも似ている)
その為、祟りや霊魂を鎮めるためにいくつかの神社が作られた

藤原資家は、この功により名前を須藤権守貞信と改めて、下野国を任されることになった、彼が下野黒羽城を構えた那須氏の祖先である。
源平合戦の那須与一も一族である。

またわが祖先の「Aの治部太郎」も手柄を立てて褒美として、須藤貞信の領地の内、一地方(郡)の地域で最大の集落の郷士として長百姓(のちの地主、庄屋、村地頭)の地位を得た
その後、A家の本家は昭和の戦争が終わるころまでは確実に続いていた
分家の我が家は父が昭和19年に廃家にしたが、それ以前明治の40年代に家運が傾き福島県、栃木県の各地に家族は離散した。
だから今も、それらA家の子孫が住んでいることは確かである。

大した因縁ではないが、道長のひ孫とわが祖先が家来となって一緒に悪鬼を相手に戦ったという伝承は面白い。
九尾の狐を祀った「玉藻稲荷」にも祖先の一人、A又右衛門という人が寛政12年(1800年)に鳥居一基寄進したと資料にある。
我が家の一番古い公の戸籍には文政12年(1829年)生まれのA利右衛門という名がある、間もなく生誕200年か。

岩嶽丸討伐と、九尾の狐狩りでは約150年の差があるから別であろう、狐の方は三浦介、上総介、千葉介が1155年に行ったとあるので違う件なのは確かそうだ。







仁徳天皇の徳政

2024年03月16日 10時04分14秒 | 日本史
 書によれば、人皇第十六代仁徳天皇は、あるとき宮殿から都の家々を眺むるに食事時と云うのに、どの家からも炊飯の煙が上がらぬことに不審を思い調べてみると、民の暮らしは貧困のどん底で、炊飯する雑穀にも事欠く有様であることを知った。

民の暮らしの貧しさを知った天皇は、直ちに課税を三年間にわたってやめることを官吏に伝えて実行した。
天皇も自ら質素倹約を掲げて、宮中の人々にもそれを実行させ、履物、衣服に至るまで新調を控えさせた。
また宮中の屋根から垣根に至るまで、穴が空こうが壊れようが修繕を拒み、そのままにしておいた、食事も民の苦しみを思い、自らも粗末な食事に甘んじたという。
皇后が暮らしの貧困を嘆いても、天皇は「天が朕をここに授けたのは、民の暮らしを護るためなのだ」と諭したという
また「民からの税で豊かな暮らしをさせてもらう者は、まず民が豊かに生きられるように心を砕くべきである、民が豊かになれば、おのずと次にわれらも豊かになるのだ」とおっしゃられたそうだ。

その甲斐あって、諸国は五穀豊穣の恩をたまわり、人々の暮らしは楽になったので官吏たちは、もう課税しても宜しいでしょうと告げたが、天皇は更に三年にわたって課税をしないようにと申し付けた。
民はこの話を聞いて、帝に感謝の心を持って、誰からともなく集まり、宮殿の修築を手弁当で行ったという

また天皇は新田開発に力を注ぎ、決壊する堤防を徹底的に修築して田畑を反乱から守ったという。
仁徳天皇はその名の通り、多くの天皇の中でも聖皇の一人に数えられる。


琵琶湖周航の歌(心にしみる歌)

1945年3月10日

2024年03月10日 08時11分59秒 | 日本史
 毎年、毎年3月10日「東京大空襲」記事を書いている
昭和20年3月10日の東京大空襲は、半年後の広島や長崎への原爆投下の伏線で、降伏しなければ日本人は一般人でも皆殺しにするぞというメッセージだったのだ。 現在進行中のパレスチナ戦争に似ている。

先日、例の如しで映画を見た「戦場の教室」ナチスが占領地のユダヤ人(当時は国家無き放浪の民)を集めて来ては集団虐殺する映画、その中でペルシャ人に成りすまして生き延びた男の話(実際には600万人ものユダヤ人が無抵抗のまま銃や毒ガスで殺されたそうだ)
イスラエルの人々は、こうした皆殺しの危険から生き延びて国を作った
そして地域最大の軍事力を持ち、今やパレスチナ人を虐殺している
人間とは自分の痛みは当然知っているが、人の痛みに置き換えることができない生きものなのか? 考えさせられる

広島、長崎の被爆を知らない人は少ない、若い人でも知っている、けれども東京大空襲も広島、長崎と同じ10万人以上が犠牲になったことを知っている人は割と少ない。
現在の東京23区の東半分、日本橋、上野、浅草、両国、 本所、深川、亀戸、砂町一帯にサイパン、テニアン、グァムから325機のB29爆撃機が1665トンの焼夷弾を投下して焼き尽くした。
焼夷弾とは爆発の破片で破壊や殺人をする爆弾と違い、家を焼き尽くすための油と火の爆弾だ。

1万mを飛べるB29は僅か2000mまで下って、確実な命中精度で爆撃した
日本軍も迎撃機を発進させたが、数も少なく高度が低いのが逆に災いして、高射砲も効果が薄れた、そのため確実に撃墜されたB29は2機だけだったと言われる。(被弾したり、海上に不時着した機は数十機あったようだが)

この時、19歳の父は調布の高射砲陣地から真っ赤に燃えている東京を見ていた
その下には自分の家があり、両親がいるのだ
行くに行けず、ただ見ているしかないその気持ちは、どうだったのだろうか。

翌日、特別休暇をもらって行ったが、亀戸は焼け野原になっていて、いたるところに死体が転がっていた。
十間川では浮いている遺体を竿にひっかけて陸に上げる作業が行われていた
焼け残った浅草松屋近くの防空壕には遺体が折り重なって、苦悶の表情で天を見上げていた
高熱で窒息あるいは蒸し焼きになったようだ、父の生涯で一番怖い光景だったと言っていた。

自宅もわずかに柱が残って、まだくすぶって煙を上げていたという
この空襲で、亀戸両親、浅草の叔母さん、帝劇で働いていた隣家の美人おねえさんも亡くなった
遺体は見つからなかった、たった2時間で10万人以上を殺した空襲
人間とはいったい何者なのだろうか? 
                                                                    合掌





藤原氏の始まりを調べてみた

2024年02月21日 08時31分36秒 | 日本史
 平安時代については、おぼろげなイメージしかなく、いったいいつからいつまでで、どんな権力者が居たかも知らず、天皇が絶対的な権力を行使していると思っていた。
そして時代は年代の通り「平安な時代」と捕らえていたが、たぶん平安京からとったのではないだろうか。

学校で習ったのは「奈良をなくして(794)平安遷都」だったが最近聞いたのは「泣くよ(794)ウグイス平安京」だった。
でも奈良(平城京)を無くして平安京の方が筋道は通っている。

平安京を意識するまでは江戸時代(約260年)が一番長い平和な時代と思っていたが、実際は平安時代で約390年続いた。
だが藤原氏の繁栄は更に遡り奈良時代の平城京、更に飛鳥時代までさかのぼる
奈良時代を加えれば約470年、藤原鎌足から数えれば540年ほど天皇と貴族が栄えた時代が続いたことになり、これは朝鮮李王朝の520年よりも長い。

藤原氏の絶頂期平安時代は摂政関白、大臣同士の権力争いはあったがほとんどが主流の藤原四家の藤原家同士の争いであり、それは裏工作の連続で、内戦状態まで発展することはほとんどなかった、朝鮮王朝の権力争いに似ていて、その様子は「光る君へ」によく描かれている。
今週の回でも右大臣藤原兼家が道長に「人殺しはいかんぞ、あれは身分賤しき者たちがすることだ」と言ったように、彼らは武士ではなく貴族だったからである。 藤原氏は武士に似て武士でない、平安時代以前には武士はなく、平安時代に入って荘園制が取り入れられて初めて、武士の原型が主に東国で芽生えてくる。

以下の多くは古事記、日本書紀参照

藤原氏の始まりを説明するには、三十三代推古天皇から始めるのが良い
592年に即位された女性初の天皇である、
第三十代敏達天皇の後添えの皇后であった(結婚前は額田部皇女)
その頃は大臣蘇我馬子が権力を握っていて、もう一方の権力者、物部守屋と互いに皇子を頂いての戦になった
蘇我氏は聖徳太子らを旗印に守屋を破って絶対権力を握り、崇峻天皇と対立して天皇を殺害した

推古天皇は父が二十九代欽明天皇で、三十一代用明天皇の妹、崇峻天皇の異母姉、大臣の蘇我稲目の姪というサラブレッド皇女であった。
推古天皇の御代では聖徳太子がその才能と手腕を発揮して天皇を助けた。
また蘇我馬子も太子同様に働いたにちがいない。
この時代は朝鮮半島や大陸との往来が盛んで、朝鮮半島の南端には日本の拠点ともいえる任那があり、ここを巡って新羅と何度も戦を行った
また小野妹子を団長とした遣隋使も送っていた。
聖徳太子、蘇我馬子と朝廷を担う巨頭二人が相次いで亡くなると、推古天皇も後継者を決めずに崩御されたため、天皇の継承者は定まらず大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)にゆだねられた、そして田村皇子を即位させて舒明天皇が誕生したが、政治は蘇我馬子、蘇我入鹿の父子によって独占された。
舒明天皇は宝皇女を皇后として、葛城皇子(中大兄皇子)、大海人皇子を産み、蘇我馬子の娘との間にも古人大兄皇子が生まれた。
いずれも皇位継承権を持つ皇子であるので、朝廷内での継承争いがおこるのは必死であった。

舒明天皇が崩御されると、以前から考えていたのか皇子たちの争いを避けるためなのか皇后は自ら皇極天皇となって即位した。
女性として二人目の天皇である。
三年の後、政治をわがものとしてふるまう蘇我入鹿とその父蝦夷を、中大兄皇子、中臣鎌足が主導して討った、蝦夷の甥にあたる古人大兄皇子も出家して吉野に赴いた
皇極天皇は退位して中大兄皇子を即位させようとしたが、皇子は天皇の弟である軽皇子を推薦して、盟友の中臣鎌足と共に新天皇を支えることとなった。
軽皇子は三十六代孝謙天皇となった
この功労により中臣鎌足は「藤原」の姓を賜り、藤原鎌足となり内大臣に任命された。 ここが藤原の始まりである。
ここまでが平安初期の荒々しい権力争いと藤原氏が誕生するまでの流れである。
「光る君へ」の雅なる平安の黄金時代は、ここから300年後である、ゆえに藤原氏も300年以上栄えたのである。






武士の起源などを調べてみた

2020年05月10日 20時01分28秒 | 日本史

東京の感染数が次第に減ってきている、これがほんとうの数字なら

とても良い兆候だ、全国的にも感染者ゼロが多くなってきた

今日は日曜で、午前の地元ショッピングモールは東京銀座よりも

ずっと人が多かった

優良な県の自粛解除がおこなわれる可能性が出てきた、まずは

集団感染の可能性が少ない小売業などから解除になりそう

当然ながら50名、100名を同時に収容する私のような店は、まだまだ

解除にはならないでしょう・・・一番最初に仕事がなくなり、一番最後に

解除される、「こんな商売もう嫌!」・・・・・と言いたいが

それはじっとこらえて、どうせここまで来たら10日も1ヶ月も同じ事

開き直って楽しくやろう!

深刻に考えて、神経を集中して打開策を考えたって名案なんか

すぐに浮かんでこない・・・・そう言う意味ではもうポンコツ頭

笑うポンポコリンで笑うしかない・・・ならば大声で笑う

家の中で縮こまってばかり居るから、たまたま足を伸ばしたときの

気持ちよさ、そうかストレッチも良いなあ

ファンキーミュージックに合わせて踊るのも良いかも

「ファンキーファンキーブロードウェイ! いぇ!」

どうせバカ頭バカになって踊ろう、カラオケも随分歌ってないなあ

仲間とも飲んでいないなー、 一人で飲んでもつまんねぇや

 

さて暇が出来た日は仕事を忘れて、家を出て、車に乗って

何をしに行こうか・・・・・・

料理作りも面白いけど、毎日毎日これじゃやりきれない

 

朝5時に起きて、ワールドニュースを見たり、撮りだめの映画を見たり

そして6時半に魚市場2カ所をまわり、魚屋仲間と挨拶、情報交換

8時に店に行って、毎日2人ずつ交代出勤の社員が出てくる10時まで

溜まった事務や、営業作戦を考えたり,ブログチェックをしたり

10時から調理場に入り、その日の仕事をする

社員が帰る17時から一人で「ボ~」っとしながら電話番を20時までして

あとは警備会社に任せて帰る

家に戻って晩酌しながら夕飯を食べて、それから愛犬のご機嫌伺いをして

それから部屋でテレビを見ながら眠りに落ちてしまう

22時頃目が覚めて、重い重い体をなんとか起こして、それからお風呂に入ると

今度は覚醒して目がぱっちり空く、それで一杯飲みながらテレビを見る

今は撮り置きの中国歴史ドラマ2本を見る、そして24時、ようやく電気を消す

そんな決まった日常を一日も休まず続けている

 

そんな決まり切った時間の中でも読書だけは毎日続けている

一日10ページだけの読書、たった5分だけの読書、それでも2ヶ月で1冊くらいは

読み終わる

この頃は「古代からの日本の内戦の歴史」「武士の起源」についての2冊を併読

している

もう秀吉だ謙信だという戦国戦記は読みあきた、新しいネタは早々出てこない

ずっと前から考えていたのだった、私の血がつながっている祖父(戸籍上は他人)

が調べて書き残した我が家の歴史には、鎌倉時代(北条時賴の時代)に祖という

人物が表れる

三浦三崎の藤原系の武士で、同地の武士の娘と恋愛をして許されず、はるか

下野国(栃木県)の那須まで駆け落ちして、その地を開墾して名をあげたという

その地で8人の男子をもうけて7家の分家と共に栄えて、氏の長者となって

様々な伝説が伝わっている

祖父が大正年間に調べたものだが、地元の歴史ではこの人物は更に300年

遡って900年代早々の延喜年代に確かな名前が表れる

我が家は、その本家から300年ほど前に分家してその分家の嫡流として

私で15代目とか16代目なのだそうだ

祖母が結婚するとき(婿取り)には本家の奥さんが祖母を本家の養女と

して、本家並の結婚式をしてくれたという、これは祖母が、その母(私の祖祖母)

の再婚でママ父の籍に入っていたからで、本家は、本来の籍(分家)に祖母を戻して

いわゆる「お家再興」を助けてくれたのだ、「家」を重視する時代ならではの話しだ

だが父の代で、その由緒ある家を廃して、今の姓の家を受け継いだのだった

 

なぜ「武士の起源」を呼んでいるかと言えば、頼朝と関係が深い三浦一党

から別れて那須で一家を興し、地域の有力者となり地方地頭を務めた先祖が

そのときは既に大地主だったわけだが、果たして身分は武士なのか農民

(小作ではない)なのかを調べたかったのだ

田舎武士はその地から身分低き者どもが荒くれとなって徒党を組み、

やがて朝廷の出張所である管領や公方の用心棒的

役割を与えられて、やがて源平などの武士となった」というのが説が主流だった

だが「武士の起源」を調べてみると、武士の起こりはその元は、朝廷にあり

天皇が多くの子を成し、庶子も多く、それらを京の朝廷で面倒見切れなくなり

各地に食い扶持を与えてあるいは役職を与えて広まったという

だから当時は武士という職業はなかったが、その祖は乗馬と弓射に長けた

身分ある者だったということだ

それが時代と共にその地に永住して一族を増やし在地勢力となり、都からくる

役人(国司など)と手を組んだり,脅したりして税をごまかし、狼藉を働き在地勢力

として強大化していったという、まさに京から遠い地方はやりたい放題だった

それは8世紀から10世紀以前のことで、まだ朝廷に権威があった頃は、前九年の役

後三年の役、あるいは平将門の乱や藤原純友の乱を鎮める事が出来た

けれどこうした反乱を起こすだけの力を持つ豪族や(武士団)がすでに地方にあったのだ

だがそれらは武士とは呼ばれず、最初に武士として呼ばれたのは朝廷をあるいは

天子を守る者たちだった。

いずれにしろ武士は田舎の貧しい階層から発生したのではなく、天皇の子孫から

発生したのであって、天皇家の外戚で栄華を極めた藤原氏、天皇の子孫である

平氏、源氏を武士が名乗るのは当然だった

我が祖も藤原氏というのは、藤原一族だからすごいだろ!という意味ではなく

武士で在るからにはそれらのいずれかの流派なのは当然だったのだ

武士などというが特別なものではなく、人口も少なかった昔では国民の半分武士

、半分農民という位ではなかっただろうか、武士が珍しい特別な存在ではなかった

だろう、現代でも公務員の給与手当年金総額と税収を比べれば、昔の公務員である

武士の数が農民と同数でも不思議ではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥羽越列藩同盟

2020年04月25日 17時54分41秒 | 日本史

爽やかな、ほのぼのした記事を書こうと思うが、朝起きて

市場に行けば、もう「売れない」とか「休業」とか「感染」、そんな話題ばかり

とうとう市内の「道の駅」も全面休業に入った

政府は5月7日迄の自粛というが、そんなものでこのコロナが治まるだろうか?

今日も国道を『ブンブン』と県外のバイク集団が走っている

毎日毎日、こんな事を書き続けている自分がバカに見えてきた

 

幕末、長州、薩摩を中心とした西国大名の官軍が江戸を降伏させて

最後の仕上げと会津征伐にむかった

徳川家康の東軍が会津の上杉征伐にむかって以来、260年ぶりの

会津征伐だ、今度は攻守入れ替わり、德川方が攻められる番となった

すでに会津に戦う意思はなく恭順を示していたが、若い方面軍参謀は

「会津藩主の首を取る」と息巻いて許そうとはしない

奥州最大の仙台伊達藩が仲立ちしても、まったく妥協する気配も無い

あまりの尊大無礼についに業を煮やした仙台藩が官軍参謀、世良修蔵を惨殺した

そして勢いのまま、『奥羽越列藩同盟』を結成した

越後と現在の東北6県が力を合わせて、会津の許しを請おう、そして平和裏に

この戦争を終わらせようというのが目的だったのが決裂した

越後と言っても中立を許さない官軍に「降りかかる火の粉は払う」と開戦した

長岡藩だけが根性を見せただけで、その他はほぼ恭順

官軍は越後から,白河口から、攻め寄せてきた、しかし白河口は伊達藩の援軍も

あったが、いとも簡単に打ち破られてしまった

越後口は、会津藩と長岡藩が官軍相手に激しい戦闘を繰り返し一進一退

ついに長岡城は官軍の手に落ちて、家老河井継之助は会津に落ち延びる途中

絶命した、田舎にあって藩の近代化を推し進めた英傑であった

東北では秋田藩が同盟を裏切って、山形の庄内藩に攻め寄せた

しかし財政豊で近代兵制をいち早く取り入れた庄内藩は強く、越後、東北の

官軍方を撃破し続けた

しかし白河口からの官軍の攻撃は早く、二本松を落とし、仙台藩を降伏させ

三春は裏切り、つい会津藩も降伏したのであった

 

今、コロナに攻め込まれ、江戸も大坂もたいへんな事になっている

比較的感染が少ない東北と越後はGWに向けて、ウィルスの侵入を防ぐために、

新潟県と東北六県及び政令指定都市の新潟市と仙台市が、まさに

「奥羽越列県同盟」を結んだ

広域連携で関東関西からのウィルス侵入を防ごうというのが趣旨のようだ

三度目の会津戦争がいよいよ始まるのか?