地元の人なのだろうけど知らない人から「歎異抄を学ぶ会」というチラシが送られてきた。
ほかにも半年前に神奈川の古い知人から「東京の日蓮正宗の寺で学んで今の苦しみから抜け出しませんか」というような手紙とパンフが送られてきた。
誰にせよ、私はあえて宗教の中に身を投じる気持ちは無いので無視という形、ただ後者は良く知っている人で何度も杯を交わし交流した仲だから、「自分は宗教が無くてもやって行けてます」と年賀状に書こうと思っている。
我が家の先祖には建長寺で学んだ臨済宗の高僧もいるのだが、それは遥か大昔の話で、75年前今の田舎に父が移り住んで先祖供養もできないのでは困るから親しい人が檀家になっている寺を紹介してもらったが、それが今の浄土真宗の寺である。
父母の祥月命日には来ていただいて読経してもらっているが、それ以外は寺の様々な行事に参加したこともない。
浄土真宗と言えば親鸞聖人が開祖である、浄土真宗が何であるかも知らなかったが友人が高校卒業記念にくれた「出家とその弟子」を読んでから親鸞さんの一風変わった宗教感に惹かれた。
私の外祖母は50年前に83歳で亡くなったが、寝込む前は毎日仏壇に手を合わせて「なんまんだぶ」と言っていたのを覚えている。
寝込んでから漫画「親鸞」で知ったことを枕元で話してあげたら手を合わせて「ありがたいありがたい」とつぶやいた。
母にも、私のこのことを言ったらしくて感謝された。
親鸞さんは、学歴も知恵も知識も少ない私にいかなる名僧よりも、わかりやすい言葉で現世の生き方を教えてくれる。
禅宗・臨済宗の名僧、夢窓国師と足利直義の禅問答「夢中問答集」のさわりを読んだが、現代訳でもほとんどちんぷんかんぷんで5ページほどでやめた。
「歎異抄」は親鸞さんの言葉を弟子が書き記した部分と、弟子の見解を記した部分で出来ているが、全体で短い。
だからわかりやすいかと言えば、わかるようで奥が深いから人それぞれ様々な解釈をするかもしれない。
そもそも宗教に正解と言える唯一の答えはあるだろうか? 数学や歴史は答えの数字は一つだろうが、国語の漢字は答えが一つだろうが、文学解釈は答える人の生きて来た経験や環境でずいぶんと多くの答えがあるだろう
同じことを言っても幾つもの言い回しもあるだろうし。
宗教も、そんな感じがする。
軒下で濡れて震えている野良猫を見ても、10人が10人様々な考え方をするだろう、親鸞さんはどう思い、どういう感想を述べ、猫に対してどのような行動をするだろうか?
仏教的に考えた場合、猫は人に救われるべきなのか? 自力で生きる道を探すべきなのか? すぐにも飢え死にして阿弥陀様に救われるのが幸せなのか?
人もまた、野良猫は生きている価値はない、とか、家に連れかえって飼ってあげよう、とか保健所に引き渡せとか、そのままにしておこうとか
様々な考えに至る、猫に石を投げる人間は死んでから地獄へ落ちるのか?
親鸞さんは天国も地獄もないという、では死ねば何があるのか、何が残るのか、何もないのか?
いろいろ生きることを考えて疑問に思えば、それは自分も「歎異抄」の中に加わっているのではないだろうか。
人の営みのささやかな疑問を一つ一つ明確に答えてもらえるなら、それは本当の宗教だろうか、否 僧侶は教師ではない
1+1は2です は普通の教師ならそれでよいし間違っていない
しかし宗教家なら1とは何か、なぜ1と1で2になるのか、それを問うた人が自ら考えるヒントを与えるにとどめるべきだろう。
「ああしなさい、こうすれば極楽に行ける、こうしないから地獄行き」そんな宗教家は宗教家ではない、交通整理係のようなものだ。
まして迷える人々に恐怖を与えて、「我こそがそれを救う唯一の宗教家だ」などと言って高額な布施を強要するのはまったくいかがわしい。
親鸞さんは弟子の疑問に対して「それは私もわからないのだよ」と素直に言う
それだけなら私でも親鸞さんの代わりが勤まる
しかし、親鸞さんは弟子が自ら道を開くためのヒントを与えてくれる
また親鸞さんの生きざまと、我々と同じような家族に対する苦悩、振り切れない様々な煩悩も、我々が生きていくための問題解決のヒントとなっている。
行動の一つ一つを理屈で正しい、正しくないと議論するのではなく、人が生きていく上に何が足りないのか、何が必要なのか、何が無駄なのかをしることこそ自分だけの正解にたどり着く学びなのだ。
答えが一つだけと思えば議論が起こり、正解から遠のくばかりだ
人100人に100通りの答えと生き方がある、それを戦わしても何の意味もない
ウクライナ戦争や、パレスチナ戦争と同じで答えが出るどころか傷が深まるばかりだ。
僧侶が修行するのは何のためなのか、何を修業するのか、そもそも僧侶の仕事とは何なのか。
大昔、初期の僧は他人を幸せにするために修業したのではない、己の苦しみ、煩悩を無くして平安を求めるために出家して人里を離れて山にこもったのだと思う。
だから生涯、一生修行で弟子を持つなどと言う考えはなかったはずだ
空海、最澄などは修学僧として死と隣り合う遣唐使船で大陸に渡り、本場の仏教を学び、名僧と交流して知識を吸収した。
官費と言うのが純粋ではないが、当時の天皇を始め大きな権力を持つ平安貴族たちは名僧を手中にして死後の世界でも栄華を保てるよう念仏させることを考える。
当然、名僧の元には金銀財宝が集まり、大伽藍が建立され、朝廷貴族の二男三男も出家して僧となり出世する。
名僧と言われるようになると迷える人々は近道として名僧に仕えるようになる
名僧にしても国家の後押しがあれば、より布教が拡大するし、ライバルの他宗教に差をつけることができる
こうして、自分の煩悩との戦いから始まった宗教は国家宗教となり、国家と貴族の永遠の安定のための宗教となった
こうした本来の目的から離れた宗教に対して、救われない貧しい大衆を救うと言う、いままでなかった遅れて来た宗教家が日蓮であり、親鸞だった。
親鸞の宗教は簡単で俗世にありながら修業もいらず、「南無阿弥陀仏」を唱えていれば、いかなる罪人でも阿弥陀様が救ってくれるという簡単なものだ。
権力を持った成功者が救われるのがこれまでの宗教、それなら力を持たない善人、業が深い罪人は尚更救われなければならないと親鸞は言う。
「悪人は死ねば地獄行き」というかっての宗教感とは正反対なのだ。
「悪人」とか「法」の始まりは権力者の命と財産を守るために作られたもの
貧しい人間を救うために作られたのではない。
明日食べる飯もない人間がひもじさから財ある者のそれを盗む、時には傷つけたり殺したりもする、それを防ぐために「悪人は地獄」と宗教的な解釈を加えたのだろう。
善人もわが子が目の前で飢え死にしていく様子を見れば、矢も楯もたまらず一本の大根を盗むだろう、それが人なのだ。
「れ・ミゼラブル」ジャンバルジャンも貧しさ故に罪を犯した、だがそれをかばってくれたのは神父であった。
宗教家とは「手を差し伸べる者」であるべきだ。
ジャンバルジャンにしろ、親鸞の時代の貧しい大衆にしろ、その時代の政治家は大衆を顧みず、飢えている民に冷えた粥の一杯も与えず、わが世の春を満喫していた。
それゆえにその後、フランス革命がおこり王族は怒る民衆によってギロチンにかけられ、日本では戦国乱世へと繋がっていく。
政治家は善政をもって、できる限り人間の平等性を保つ努力をしなくければ国家は不安定になっていく(格差の縮小、最低限の幸福度を持たせる)
宗教家は不安な暮らしの大衆の心の平安を保つために努力する
心と食が安定していれば暮らしも安定して人も国も豊かになるだろう。