昨日は一日、そして今朝も冷たい雨が降って、気温は一気に下がっている
とはいえ、まだ冬の寒さから見れば大したことは無く、夏慣れした体感が体温調整に戸惑っているだけなのだ。
気づけば74歳を過ぎていた
人生とはまさにトラベル、一日一日が新しくリセットされて、それもひとそれぞれに、それぞれの価値観、それぞれの目指す方向に動いている
同じ80年を生きても様々な人生があり、それはどれが正解でもなく、どれが間違いでもないのだけれど、不幸せな一生よりは幸せな一生の方が当然良いわけで
誰もがそれを目指して生きて来たのだと思う
それは年齢を重ねた人間の実感で、未来がまだたくさんある若者には実感できぬ事なのだ。
世界ではなく、日本国だけに限って言っても、生まれ落ちた時すでに9000万の日本人がいて、それから毎年300万の日本人が産まれ、今の時代でも70万の日本人が生まれている
常に1億人以上の日本人と同じ一日を生きているのに、74年の人生の中で一言でも言葉を交わした日本人はどれだけいただろうか
随分多くの人と接してきたつもりでも十万人は居ないだろうと思う
一日一人新たな人と話してもここまで365×74=アバウト25000人、そんなもんだ。
1億2000万人の日本人、そして生まれた日から会わないうちに亡くなってしまった人も1億人くらいいるだろう
2億人以上の日本人と同じ日を生きたのに、たった25000人としか言葉を交わしていない
自分にとって最良の相性の日本人が居るはずなのに、出会う確率は天文学的に少ない、究極のベターハーフに会わずに終わってしまうのがいかにも惜しい
身近なところでのベターハーフでお茶を濁して・・・と言えば失礼極まりない
悲しいことに人間は欲望の塊だ、つねに上を目指し、より多くを目指す、そして多くは妥協してそこで終わる
だからこそ、やり遂げた人に嫉妬する、だがやり遂げたと思った人さえ未だやり遂げずにいることは他人にはわからない
やはり、そこそこの満足感で妥協するのが賢明なのだろう、人間の限界など本当にすぐやってくるのだから。
60歳で保証人になれなくなる人が多いが、74歳の私は犬、猫を飼うことが出来なくなった
今度の保護猫のことでも、母子ネコを飼うつもりでいたが、50代家庭の子猫の貰い手がついて、カート(元、フーテンの寅ネコ)と母ネコを我が家で飼うことに決まり、すでにカートは同居しているが、今日から母ネコも来る予定だった
昨日は先駆けて保護会のSさんが来て、お話をしたけれど母ネコと言えども、まだ推定2歳で、この先順調ならば15年くらいは生きそうだ
15年後の私は90歳、父母は93歳、92歳まで生きたが、80代後半には自分の体さえ維持するのがやっとだった
それを思えば、高齢化した猫の面倒を見ることはできないだろう
今の寿命を考えても、男が90まで元気でいることができるのはせいぜい10%くらいではないだろうか、女(女房殿)が猫の介護をできる確率も20%くらいだろう
結局、そんなことで母ネコを飼うことも、Sさんの話を聞いてあきらめることにした
カートは推定7~8歳腎臓病を患っているので、そうそう長生きはできないかもしれない、だからカートだけと暮らすことに決めた
ネコの一件で、自分の年齢、高齢化を再認識した次第である。
思えば遠くに来たもんだ・・・そう思った。