秀吉の死は秘中の秘として秘匿された、だが秀吉が死んでも朝鮮の戦は続いたままだ、それも明国と朝鮮の連合軍は水陸併せて20万ほどに対して、朝鮮に残った日本軍は加藤清正、小西行長、島津義弘の三軍団と小部隊総勢3万5000ほどだ
海上も封鎖されて撤退もままならない。
石田三成は、秀吉の死後すぐに五大老、五奉行を集めて善後策を練った
まだ朝鮮が不穏な今、決して朝鮮、明に知られてはならない
徳永寿昌らが渡海して、朝鮮に残る大名にのみこれを報せ、家臣にも気づかれぬよう、「和平交渉が整って戦が終了に近いから」という理由で、暫時粛々と帰国するように話した。
それで島津、加藤、小西、黒田、有馬の部隊が最後まで残ったが、そこに敵が攻め寄せてきた
9月20日には加藤清正の蔚山城、10月早々には島津の泗川城、小西の順天城が攻められた
蔚山には加藤、太田の1万が籠り、明・朝鮮軍は3万
泗川には島津が7000、明・朝鮮軍5万
順天には小西ら肥前、肥後勢13000に対して、敵は陸から3万、海上から2万が攻め寄せた
島津と加藤は城門を閉じ、いっさい討って出ず寄せ来る敵に弓鉄砲を放って追い返した、蔚山城もすっかり完成して防御は堅く、兵糧も1年籠城できるだけ用意してある
攻め寄せるたびに明軍は犠牲者を出した、島津の方でも同じで、日増しに明軍は犠牲が出るが、城方はほとんど死者が出ない
結局、蔚山を攻めていた明軍の方が兵糧の心配が出てきて9月末には撤退を開始した、そのまま10月には慶州まで後退した。
加藤隊はこれを見て悠々と釜山までもどり、一足早く名護屋に向かって帰国した、平戸には石田三成らが出迎えたが、加藤清正は三成と目も合わせず名護屋城の陣場に向かった。
明・朝鮮軍は蔚山敗退で早くも足並みが乱れた、蔚山攻めの軍が早すぎたのだ、それが撤退したころようやく泗川と順天の攻撃が開始された
泗川では圧倒的多数にもかかわらず、攻め寄せていた明軍の火薬庫に島津の大砲が偶然命中して大爆発を起こして死傷者が大勢出た
連合軍は大パニックになった、その5万の大軍の中に朝鮮軍と明軍の不協和音を認めると、ついに島津軍は城門を開いて討ってでた
副将、島津忠恒は包囲されていた時でも何度も義弘に夜襲を申し出ては蹴られていたから、「いまこそ」の思いが強い
城内の全てに近い兵が、騎馬を先頭に混乱する連合軍に切り込んだ、日本国内でも強さが秀でている島津軍である、敵はひとたまりもない
押しては切りまくり、引いては左右から島津が得意とする野伏せ鉄砲で追ってきた敵を撃ちとる
大将の義弘まで討って出て、敵将を数名討ち取った
この戦場がもっとも激しく、連合軍の死傷者は総勢5万の半分近くにもなったという
この戦で島津の名は朝鮮から明国まで鳴り響き「鬼島津」と恐れられた
後退した連合軍は、それでもまだ数で勝っていたから遠巻きにして様子を見ていた、だが攻め寄せる勇気は失せていた、そのため島津軍は容易に巨濟島へ撤退することが出来た。
順天城の小西隊も海陸から攻められて、固く門を閉ざした
しかし敵の水軍が潮を誤って座礁や衝突をして自滅しだすと、城兵は小舟を出して敵船に乗り移り、切りまくった、さらには船に火をかけたので、多くの敵水兵が溺死した、もはや水軍は全滅に近くなり満潮を期して逃走した。
その頃には泗川で島津に大敗したとの知らせが敵に伝わると、敵の陸兵も動揺した
これに勢いを得た小西軍は、鉄砲を撃ちこむと城門を開いて打って出た、敵兵は混乱して逃走した、順天も小西軍が大勝利を収めた
敵が敗北に打ちひしがれているうちにと
石田三成からは小西に、「敵に殿下の死が知れる前に和睦してでも撤退せよ」と催促が来ている、大勝利の今こそ撤退するには最適な機会である
明軍も数万と言う戦死者を出して、このまま国に帰ることもできない
小西は停戦を申し出た
「城を明け渡すから、我らの巨濟島への撤退を安全保障してほしい、そのために明軍の副将など10名ほどを人質として出すこと、これ以上戦っても明軍の被害は増えるばかりであろう」
明軍の将軍はこれを受け入れた。
日本軍を朝鮮から追い払ったという実績を得れば大手を振って帰国出来よう
それによって加藤軍は釜山から日本へと帰国していった
島津も立花も巨濟島に渡り釜山へ行こうとしていた
ところが一番遠くの順天の小西が難儀した、李舜臣が秀吉の死を疑い始めたのだ
李将軍は新たに立て直した水軍200艘で順天を包囲した、
小西は明と朝鮮の陸軍からは撤退の約定が結ばれた時点で、副将などを撤退時の安全のために人質として預かっていたので、陸軍が攻め寄せる心配はない
だが、水軍の李将軍は大臣であれ、上官であれ少しも恐れない頑固者で、水軍提督さえ棒に振った硬骨感である
陸軍提督にさえ、「陸軍は好きなようにするがよい、だが水軍への口出しは無用だ、朝鮮は儂が守る、貴官は攻めようと逃げようと勝手にするがよい、儂は日本軍を国には返さぬ、みな海の藻屑としてやろうぞ」
海上を封鎖された小西軍は順天城から出られず、再び籠城となった
これを聞いた巨濟島の島津義弘は、自分たちの帰国の順番が来たにも関わらず
「小西をそのまま置いてゆかれようか、救出する」と言って、立花宗茂の軍と共に船100艘あまりで順天沖の李水軍に挑みかかった
さすがは朝鮮一の水軍大将李舜臣である、巧みな戦術と数に勝る船で、日本軍の船に乗り移り攻め寄せる
だが島津軍も、立花軍も日本最強の九州武士団だ互角に戦っている
しかし日本軍の船は次々に沈んでいく、「いよいよ駄目か」と思った時、船上で指揮を執っていた李舜臣に鉄砲が命中して、どっと倒れた
あえない李将軍の最期であった、これで形勢は逆転した、順天城からも小西軍数千が海に繰り出し、兵の居ない敵船を奪い乗船する、その数60艘にも及び、小西軍は危地を脱した、勝利したとはいえ釜山についてみると、島津の兵の半数が死傷していた、勝利とも敗北とも言えぬ痛み分けであった
しかし、これで日本軍の全てが帰国の途に就いた
日本軍がいなくなった城に、次々と明国兵が入って来た、残された日本軍や朝鮮軍の兵士の遺体の首を掻き切ると、討ち取った日本兵だとして意気揚々と引き上げた、日本兵より朝鮮兵の首の方が多かったが、そんなことは紫禁城の高官や皇帝は知らない、まさに死人に口なしである。
これで大敗を隠す言い訳もなった、日本軍の死者数が上回ったと報告したのである。
実際の足掛け6年に及ぶこの戦の戦死者は朝鮮、明国の連合軍の方が圧倒的に多く、一般国民も含めると数十万人に及んだ
だが日本軍も、戦死行方不明者は出陣した兵数の3割強、10万人にも及んだという、そのくせ明国制圧どころか、朝鮮にも足跡一つ残すことがなかった
いったい、この戦争は何だったのだろうか?
それは徳川家康をはじめ、日本の諸大名にもわからない戦争だった
豊臣秀吉と言う、貧しい百姓から始まった小柄でやせ細った、たった一人の男が、全国数十万の武士や農兵を動かして行ない、そして自らの一族を滅ぼしてしまう意味のない戦争だったのだ。
なぜ人間は、ただ一人の人間に従うのだろう? 昔より世界中に、そんな人間が現れて世界征服を企み、多くの人間を殺した
領土は奪っても奪っても満足せず、奪いつくすか、失敗して滅ぶか、死して終わってしまうかであった、それは21世紀の今でも同じだ
人間は少しも進歩しない。
ようやく朝鮮に静けさが戻ったが、荒らされた半島は疲弊した、多くの捕虜が日本に連行された、朝鮮の人民の悲惨さは目を覆うばかりだった
日本と明と言う大国に挟まれた国の悲劇は今度だけではない、遠い昔から北方の遊牧民族に襲われて数十万の民衆だけでなく王族までも北方に連れ去られたことがある、大陸からは漢民族の圧力を受け、南の日本からもこうして侵略を受けた、国家の政治家や防衛体制の脆弱な朝鮮民族は何度となく悲惨な目に遭っているのだ
自ずと国民は為政者を頼らなくなっていく、そうなると国民意識など無くなってしまう、自分が生きるには国に頼っても無駄だから、自分だけの安全のための方策に没頭する、だからこそ日本軍の中に身を投げて保身に走った者も多かったのだ。
日本軍は朝鮮から消え去ったが、代りに明軍が各地に駐屯するようになった、これはこれで朝鮮人民には苦痛の種となるのであった。
また宮廷では東人派だ西人派だと権力争いが始まるであろう、この国家体質は朝鮮王朝が変わるまで治まらない。
来年には秀吉が三度、朝鮮に上陸するという噂があり、明国は容易に朝鮮から軍を引くことが出来なくなった
朝鮮も明の進駐軍の為の食料や維持費を提供しなくてはならないし、人的な労力も提供しなければならないので、荒れ果てた国内はいつまでももとに戻すことが出来なかった。
しかし、年が明けると秀吉が死んだニュースが伝わり、ようやく一安心する
それならば仕返しに対馬を奪い、九州に攻め込むかなどと勇ましい言葉も出たが、現実的ではなかった。