神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(262) 甲越 川中島血戦 89

2024年11月30日 20時03分57秒 | 甲越軍記
 上杉方、田村兵庫の無類の働きを見て、武田方は内藤勢から八木下総守が出でて槍をしごいて馳来る
兵庫は大太刀にて八木の槍をあしらっていたが、八木が苛立って突き出した槍の穂先を斜切りにして、飛鳥の如く付け入り下総守をどっと切り倒す
青木六郎左衛門は是を見て、同六大夫と共に士卒十二人を率いて兵庫に突きかかる
田村兵庫は、これだけの敵を受けてもものともせず上段に受け、下段に絡みて戦えども、敵多く取り囲まれて危うきと見えるところに、平賀久七、救いに参りて、青木の郎党三人を突き倒す
兵庫は是を見て気を取り戻し、六大夫を馬から切って落とす
六郎左衛門は大いに怒り、槍を捨てて兵庫に組まんと駆け寄るを、兵庫は足をあげて六郎左衛門の脾腹をハタっと蹴る
大兵の兵庫に蹴られて堪らず馬より真っ逆さまに落ちて、五体くだけて死する

そのほか上杉、武田の兵卒、死を顧みず戦いしが北條、本庄に挟み討たれ、さしもの内藤修理の備えも七裂八裁に切り崩され、右往左往に敗走する
飫冨三郎兵衛の勢もしどろになって崩れんとするを、三郎兵衛は一歩も退かず槍にて叩き立てて士卒を励ませば、広瀬郷左衛門、三科肥前守、曲淵庄左衛門、猪子才蔵踏みとどまり死力を尽くして戦う。

武田左馬之助信繁、諸角豊後守昌清の備えには、須田右衛門尉親満、安田上総介順易、山吉玄蕃允親幸の三備えが鬨を作り鉄砲をつるべうちに放ち
黒煙の下より槍衾を作ってどっと喚いて懸かる

武田信繁、諸角らの軍勢も待ち受けて同じく鉄砲を放ち、槍を揃えて討って懸かる
馬も人も、天地が裂けるほどに声を上げ、喚き、刀槍の打ちあう響きは天まで届き、剣の光は電光の如く、戦士は右に左に、東に北に、そこかしこに打ちあう
武田方の名のある勇士は今日を死期と火水になって戦えば、安田、山吉、須田の越後勢も士卒を勇めて命は義の為に忘れ、名を惜しめ、名を後世に残せ、一足も引くなと号すれば、越後の勇士もまた勇み立つ

須田と安田、合しては別れ、別れてはめぐり逢い、ただ一息に攻めつぶさんと攻め寄せれば、従う勇士らも死人、手負いを踏み越えて続々と武田の陣へ斬り入れる
武田勢も七転八倒して戦えども、越後勢の車懸かりは思わぬ方向から次々と寄せては必殺の一撃を与えて去り、去ったと思えば別の方から突如沸き出て切り込んでくる
切れ間なく続く越後勢の攻勢に武田勢は切り崩されていく

武田信繁は、武田信虎の二男であり、信玄の弟であれば高風清節古人に恥じず
勇威武略は兄信玄に劣らぬ大将なれば、一歩も引かず采配を振るって士卒を下知すること霹靂の如く。






人生はプラスマイナスゼロと考えよ

2024年11月30日 12時11分12秒 | ライフスタイル
 閉鎖になったブログ人からgooブログに移って3656日になったから10年が過ぎた
ブログ人も10年くらいやっていたから、ブログ歴は20年になるのか、あの頃はまだ50代前半だったんだなあ
日記の転記も2000年に入った、50歳である、この頃が一番調子に乗っていた、ここで慎重であったら人生は違った展開になっていただろうが、調子に乗った
勇み足どころか観客席の10列目くらいまで吹き飛んだ感じ
そんな50代だった
若いころのうっぷんを全部ここで吐き出したような生活だった
今になっても当時の事は少しも反省していない、あれがないまま今に至っていれば濁りのない川のようではあるが味気ない人生だっただろう
あれはあれで私の人生のうるおいだったのだ。

昔話はこれくらいにして何を書こうか
どうも冬だけは調子が違ってくる、行動が雪と寒さで制限されるからだ
関東の友達から「こちらは毎日ぽかぽかとして過ごしやすい」とラインが来る
それを見るたびにますます北国の不便さを感じる
スノータイヤは来月2日に履き替える、昔は自分で2~3台履き替えていたが、今は寒いのと億劫なのと、膝が痛いのとで少しもやる気にならない
金はかかるが仕方あるまい

物価が上がって給料が追い付かず、政府は企業に賃上げを要求して、大企業から中企業へと5%前後の賃上げが実施されている
小企業、零細企業、個人商店、工場はどうなんだろうか
給料があがれば労働者はありがたいが、企業は支払い増加分をペイしなければやっていけない
結局価格転嫁になる確率が高い、給料あがって、更に物価が上がるイタチごっこ
給料が上がらない零細の労働者や日給の派遣労働者、年金生活者はどんどん手取りが減っていく、あきらかに日本の格差社会は韓国や中国レベルに近づきつつある
ここを政府はどう考えているのか、助けるのか、斬り捨てなのか
どうであれ先進国の中では世界一忍耐力がある、あるいは死んだふりがうまい日本国民は知らんふりをして生きていくだろうけどね。

愚痴はもういいわ
今日は少し天候も落ち着いて少し日差しが見えて来た
11月も今日一日で終わる、お歳暮材料も用意できたので今日は加工して荷造り発送をする
いつも盆も暮れも同じで、肉厚、脂いっぱいのトラウトサーモンを厚切りにしてパッケージして贈る
料理人時代に法要の焼き魚に使っていた品質の良い魚、魚屋仲間に頼んで魚市場から卸価格で取り寄せてもらう
70歳近い現役の友達が何人か魚市場に出入りしているので、こんな時は助かる

鮮魚センターで働いていた時は、金沢の大手の水産会社や、三浦三崎には父の従兄弟がマグロ問屋をしていたので貨物列車で送ってもらったりもしていた
あの頃は魚屋の黄金時代だったのだ
鮮魚センターには長野県、山梨県の観光バスが連日押しかけて大繁盛だった
それがバブル崩壊で一気にダメになった
振り返れば人生は面白い、山あって谷あって笑ったり、泣いたり
それは仕事を離れた今だって規模が個人になっただけで少しも変わらない
人生塞翁が馬、幸運が招く不幸、不幸が招いた幸運、いくつもあった
短慮で一喜一憂してはいけない、一定の年月の間に平均のゼロで収まるのが人生だ
悪いことが続いた後には必ず良いことが続く
人生はそんなもんなんだと74年生きてわかった。
















猫も予定が狂って

2024年11月29日 20時19分29秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
  最近の4~5日は地震に強風、冷たい時雨、雷とうんざりする
いくら冬の入り口だと言っても、こんなのは滅多にない、そこに来てカートは病院へ連れて行くための確保に失敗して、あれ以来人間不信、私も危険人物に指定されたようで、近づくと隠れ家に逃げ込むようになった
それも少しストレスになっている、なによりカートは腎臓病からくる口内炎で食欲も細くなり始め、そのためにも2週間に一度注射が必要だが、捕まらないのでどうしようもない
無理やり追い掛け回せば、ますます人間不信がつのるだろう、どうにも手詰まり

野良生活が7~8年(推定)続いて、なかなか家猫にはなれない、これは長期戦になりそうだが、そこまで命が持つかも危うい
保護するのが遅すぎたか・・・
前のぴーちゃんも腎臓病だったし、どうもそんな猫が我が家に集まってくるのも神様の悪戯なのか、それとも神様に託されているのか
しかたあるまい・・・やるところまでやるだけだ。



「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(261) 甲越 川中島血戦 88

2024年11月29日 16時18分38秒 | 甲越軍記
 武田信繁(信玄の弟)、穴山信良(一門衆の長)の勧めにより、武田重代の日の丸、武田菱の御旗、将軍の旗を武田太郎義信の備えに立て
大将信玄は、御纏孫子の旗一本を床几の本に立てさせらる
核の如き大合戦の時には、良将が必ず用いる秘法なり

山本道鬼入道は諸士に対して「我ら奇兵をもって敵に当たり、正兵の来るのを待つのは我らの勇戦いかにすべきかにかかっている
我らが勢い敵に勝り、敵が乱れたとて、それを追うことはまかりならぬ
常に備えを第一に考えて、いかに時を稼ぐかに集中せよ
備えが敗れた時が我らの大敗北となるであろう、決して備えを乱すなかれ」
馬を乗り回して道鬼駆けまわるといえども、すでに敵の車懸かりの陣は回り来て
武田の備えに行合う、上杉の先将、柿崎和泉守景家の二千余、飫冨三郎兵衛、内藤修理正の側面よりどっと鬨をあげてただ一揉みに突き崩さんと殺気は天を突き、突きかかれば、飫冨三郎兵衛も、これ戦始めなれば勇気は十倍となり士卒を励まし、槍衾を作って鬨をあげて防戦する

両陣互いに喚き叫んで切れども突けども、頑として譲らず、四方を払い、八面に当たって戦い、乱れに乱れて交わって戦えば百千の雷、一度に落ちたが如し

中にも古畑伯耆、広瀬郷左衛門、三科肥前、曲淵庄左衛門、猪子才蔵、志村宮内、小菅五郎兵衛、奥美作など死などちっとも恐れることなく近づく敵を薙ぎ払い切り倒して戦えば
上杉勢にも、大崎筑前、安井八大夫、唐崎孫一郎、蒲原十郎右衛門、高松内膳、米田備中、大崎三左衛門などが真っ先に進み、敵を麻を薙ぐ如く、さっさと薙ぎ払い勇み進んで戦う

互いに先陣の勇士、高名の働きすれば、いつとも果てるを知らぬ戦と見えたり
飫冨三郎兵衛、一陣に進み、謙信と巡り合い討ち果たさんと勇んで進む
内藤修理正も士卒を励まし面も振らず「敵に当たり、踏み倒して高名せよ、命惜しむな、力弱くば討ち死にせよ、一足も引くな」と罵って、自ら真っ先に敵に乗りかかる

これに勇気づけられて、木部駿河、道寺久助、上泉伊勢守、町野兵庫、寺尾豊後も勇を振るい、一歩も下がらず戦う

上杉の陣将、北條安芸、本庄越前守の二頭、左右より巡りかかり、飫冨、内藤の勢をさし挟み、矢石を飛ばして穂先、矛先を並べて横田大学、平賀久七郎、同久八郎、高野九郎大夫など勢いに乗じて勇に誇り、敵を芥の如く討つ
中にも田村兵庫は、越後に残るべきを、忍んで此度の陣に馳せ参じて北條安芸守の陣を借りて真っ先に大太刀を振るい、当たるを幸いに切りまわればやにわに鎧武者六騎を切り倒し、いよいよ勇んで薙ぎ立てる。



初冬 戸隠高原 鏡池

2024年11月28日 19時36分46秒 | ドライブ
 新潟県は下越地方が大雨警報、土砂崩れの警戒レベルも高い
我が方も一昨日の夜、久しぶりの能登の震度5の地震で揺れた(3強)
やはり夜の地震は怖い、しかも外は寒い、元日の地震では明るかっただけ不安は少なかったが。
もう11か月たつのに、まだこうして揺れる、油断禁物だ。

さて、長野県はわりと晴れ間があるようなので、そちらに向かった
どうせならどこかにまだ紅葉の名残は無いかと、まずは飯綱高原から戸隠高原へ向かった
志賀高原や斑尾高原でも良かったが、まだノーマルタイヤなので2000m近い高原は雪の可能性があるからやめた
戸隠だと平均1100mくらい、それでも行ってみたら雪がちらついて、ときおり多めに降ってくる
道路に(あれ、今も家が揺れている・・・まだ小さな地震が)雪が5cmもたまればノーマルでは走れないから焦った
焦ってはいるが、鏡池くらいは見たいから無理押しで行ってみる
県道から2km山の中に入って行くアップダウンの曲がりくねった細い山道
歩いている人が結構いるので驚いた。

小雪ちらつく高原を信濃町から長野市まで行ったり来たり、坂中峠、浅川ループ峡、戸隠神社、森林植物園、鏡池
アップダウンの曲がりくねった山道を400mから1200mまで繰り返して、さすがに今日は疲れた74歳
暖かな風呂に入って休みます。

植物園入り口付近 戸隠山





鏡池 熊も必死だからねぇ





ザ・ブロードサイド・フォー・・星に祈りを

新潟県のこと 上杉謙信 田中角栄

2024年11月27日 13時28分26秒 | 地理
 新潟県は北の海上には世界遺産になったばかりの金山の島、佐渡島、更に日本海を乗り越えていけば大陸沿海州へと続く
北東の端は村上、胎内で海上には粟島、海沿いに山形県に続き、少し下がって村上市坂町からは荒川の狭くて美しい峡谷に沿って、山形県小国町から山形県最南端の米沢市へと出る

東北東は新潟市、阿賀野を越えて阿賀野川の渓谷を福島県会津地方に続く
東は長岡市から魚沼、湯沢を経て山間の穀倉地帯越後平野を越えて、群馬県に入る

南西には上越市から妙高市を経て長野県長野市へと続く、長野市は近い
西の端の糸魚川市から南の狭い姫川峡谷を下り、長野県北部小谷村、白馬村、大町市へと続き、右手には2900mの峰々、後立山連峰(北アルプス)の白馬三山がそびえる、こここそ日本列島を二分するフォッサマグナの西の端
糸魚川からはもう一路、西に向かい天下の険、親不知(おやしらず)を越えて富山県東部に入る。

新潟県の政治、経済の中心は明治以降は新潟市であるが、戦国時代から江戸時代まで今の上越市が越後国(新潟県)の中心だった
上越市直江津地区には戦国時代よりさらに昔、国分寺があり政治の中心であり
直江津の湊は青苧の交易で大いに栄えた
同じく春日山には武田信玄と共に戦国最強と言われた上杉謙信の居城がある
ここから越後国内の諸豪族を統率したのだった
さらに下れば、越後高田は江戸時代初期には徳川家康の六男、松平忠輝が75万石の大身として信州川中島を含む広大な領地を治めて、名実ともに越後国の中心であった。

新潟県は北東から南西に海岸線が伸びる長い県で、面積は福島、長野に続いて全国5位の広さ、それゆえに高速道路の総延長でも北海道に次いで全国2位である(2021年)
新幹線やJR+三セク鉄道の総延長でも日本トップクラスの長さである
ところがこれでもカバーできない地域が多い、西端の糸魚川地域からは県庁新潟市への直通列車が一本もない
そのため東京には2時間、長野市まで30分足らずで行くのに、新潟市へ直通で行くためには高速道を2時間走る、JRだと3時間かかる、まるでどこの県かわからない状況である
富山県が県内を鉄道路線網でくまなくカバーしているのに比べると不便この上ない新潟県なのだ
上越地域の中心、高田からも新潟市への鉄道路線の利便性は不自由だ
これはJR東日本と西日本が新潟県内で別れているためで、高速道路も同じである
糸魚川から直江津の区間だけが交通網では関西圏に属している
だから三セク線は直江津から富山県の泊駅までと越境しているし、大糸線は糸魚川から長野県大町までだから大糸線なのだが、長野県の南小谷で終点となる
これは電化の関係で、糸魚川から南小谷まではジーゼルカーの為である
これがネックとなって、全国有数の赤字路線となって廃線寸前である。

上越市直江津、柏崎市も北陸新幹線から外れているし、十日町市も上越新幹線から外れている
県が広く、山間部が多いので交通網が行き届かないのだ

かっては群馬県に行くのに三国峠を越えなければならなかった、冬は雪崩の巣窟で大勢が犠牲になっている、豪雪地帯なのだ。
関東管領になった上杉謙信の越後兵は冬、関東に出るために三国峠を越えることもあったらしい、その苦難はそうとうなものであっただろう

昭和になっても、戦後になっても、三国峠は新潟県から関東平野に出る障害であった
新潟県西山町で生まれた田中角栄も大臣、総理大臣になって三国山脈が新潟県と関東平野を閉ざしていることが新潟県の経済、交通の妨げであることに心を痛めた
そして三国山脈に穴をあけて関東と結ぶという誇大妄想的な考えを持った
当時は確かに、この考えは誇大妄想と言われるほどの難事だったのだ
田中角栄は演説で「三国山脈に穴をあけて、その土砂を日本海に入れて、佐渡島と本土を陸続きにすればいい」と言った
佐渡とはつながらなかったが、三国山脈には現在は新幹線も高速道路も一般道も通り、僅か数分、十数分で新潟県から関東に入ることができる。

謙信が関東へ出るために山脈を越えた。越山である
田中角栄の後援会は「越山会」といって、強固な郷土愛で結ばれた、これこそ京の都から遠く離れた辺鄙な越後で、上杉謙信のもと越後諸将が一致して山を越え関東平野になだれ込んだが如し
上杉謙信、田中角栄の二人の越後の英雄は共に三国山脈に挑んだのであった
そんな新潟県だが、ここ数十年、大臣が一人も出ていない、今度の衆院選では五選挙区すべてで自民党が立憲民主に敗れたパーフェクトディズとなった。
草葉の陰で田中角栄は、だみ声で「なにやってんだか?」とあきれ顔でいることだろう。

北アルプスが日本海に落ち込む親不知、20数キロ続く狭い砂浜を寄せ来る波を岩間に避けて旅をした、子が波にさらわれた悲劇が「親知らず、子知らず」の名の所以
親鸞も流罪になって、この海岸を歩いて直江津に向かった
上杉謙信が越中を攻める時は、山越えか船で渡ったのであろう。
藤式部の父、藤原為時は越後守として国府(直江津)までいかなる方法でここを越えたのだろうか。


街角トワイライト(シャネルズ)


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(260) 甲越 川中島血戦 87

2024年11月27日 06時35分48秒 | 甲越軍記
 時に永禄四年九月十日の東方、すでに明けようとするに、頃は秋の末なれば朝霧深く立ち込めて少しの先も見えず、武田の物見も知ることなく
信玄は正兵の知らせを待てども合戦の是非も未だ届かず、心のうちにいぶり賜う

卯の上刻になり、霧は朝嵐の風に吹き消され四方青々となるところに、遥かに南を見れば、上杉謙信一万三千余人を従えて、忽然と目の前に現れた
姨捨山の東、川中島の広原に大根の折掛けの纏を朝の嵐になびかせて、真っ先に押し立て、戦備え整然として控えるを見て
武田の諸勢これを見て驚き、仰天して「これはいつの間に・・かかる大軍、この地に現れるとは、天から降ったか、地から湧いたかまことに天魔の所業なり」
と、はやる武田の勇将たちも恐怖の色を成す

さすがの信玄入道もしばし目を疑う
謙信の迅速なる手配りに驚きはしたが、ことに動ぜぬ名将なれば、ちっとも騒ぐ景色も無く、信州先方の浦野源之丞という士を召して「謙信の備えを見てまいれ」と命じた
浦野は畏まって馬を馳せだして上杉陣をよくよく見まわして戻って言うに
「謙信はすでに引き取られ候」という
信玄は大いに不審に思い、「謙信ほどの者、宵から川を打ち越して長夜を待ち明かしていたものが、なんぞ一戦も交えずむなしく引き取るか、謙信が引き上げるとは、いかなる証拠をもって言うのか」と糾すと、浦野は
「謙信は味方の備えを回って、断ち切り、断ち切り幾たびも繰り返しながら、犀川の方に去って行ったのであります」

信玄は、これを聞いてニッコと笑い
「これは浦野とも思えぬ事かな、汝は知らぬのか、それは車懸かりと申して、車の巡るがごとく備えを繰り替えて幾回り目に、敵の旗本と我が旗本を打ち合わせて一戦に勝敗を決する陣法なり、甚だ殊勝の備えなり
謙信いかほどに働けど何ほどの事あるべきや」と言い、諸我入道を今一度物見に送る

大将の一言は誠に大切である、信玄にっことして動ぜぬ姿を見て、諸軍はたちまち生気を取り戻し、敵かからば華々しく戦おうではないかと日頃の勇威を表さんと見えたり。

危うきに挑んで勝つことを制するを智将と言う
武田信玄入道は、上杉の機変に動じず諸我入道を敵陣近くに送り、敵状を探らせれば、駆け戻り「御大将が申す通り相違なし、車懸かりをもって挑み来ること疑いなし、これ必死の表れ也、御思慮あそばされますよう」と申す。

車廻しの陣法とは二備え一組となり、交互に攻め方と補い方とが入れ代わり、正面と思えば脇から攻め寄せ、近きかと思えば離れ、離れたかと思えば逆方向から攻め来る
突如として思いがけぬ方向から一気に突入してきて、一撃のもとに去ったかと思えば、別方向からもう一隊が攻め入り、そらが次々と懸かってくる
これこそ謙信の如き名将ならではの用いりがたい戦法である。

信玄は山本道鬼を側に招き「謙信は既に車懸かりをもって、我が旗本を切り崩そうと謀る
我らの旗本は劣勢なり、西條山に向かった正兵一万二千が駆けつけるまで、いかなる戦法を持ってでも合戦を長引かせるべし、速やかに備えを変えて、あしらいながら時を稼ぐようにすべし」と申す
山本は元来武略神通の者なれば、畏まりましたと申して須臾の備えに陣形を変えさせた。
須臾(しゅゆ)とは「しばしの時」を表し、大奇の備えで大正の備えを待ち受ける時の備えであるが、細密の秘法であれば常人には説明しがたい深い奥義故略す。




そうそう順調ばかり続きはしない ネコのこと

2024年11月26日 13時39分22秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 私が誕生して74年間で我が家で飼った猫はタケ、タマ、ミー、ミー(2)、ジョンソン、チー坊、ぴーちゃん、そして今度のカート
最初の4匹は親が飼った猫で素性は知らない
ジョンソンは魚屋をやっていた時に、店の中に入って来た若い外ねこ、チー坊も同じ、どちらもすぐに慣れて家猫になった

ぴーちゃんは土砂降りの朝、我が料理店の庭先の築山の意思のくぼみで泣いていた生後間もない赤ちゃん猫で、尻尾が骨折していた
家に連れ帰って、ネコ用ミルクを飲ませたりして苦労して育てた猫だった
私に一番なついていたが2~3年目に、私が留守だった夜に家出して、それっきり帰ってこない
そして、ぴーちゃん捜索のチラシを見て連絡来たのがカート
ぴーちゃんは骨折した尻尾を切断したので、尻尾が無いネコということでカートが引っ掛かかってゴルフ場から連絡が来たのだ
似ても似つかぬ野ネコで、警戒心が強かったが空腹で餓死寸前だったから、簡単に籠に入った。

それから家に連れてきたが、すぐに脱走して数年、野ネコのまま過ごしていたが、餌だけは食べにくる
そしてこの度、3匹の母子ネコを保護したついでに、カートもとうとう保護したのである
それから18日、家で飼っていたが、5日目にゲージから脱走して、以後二階の私の部屋の前でゲージ無しで猫ソファーの中で暮らしている
そして咽喉や背中も少しだけ撫でさせるまでになったが、25日に口内炎注射に病院へ連れて行くためキャリーに入れようとしたが失敗
それ以来、二階の物置の隙間に隠れて出てこない
ちゃっかり餌とトイレは指定場所で利用しているし、夜は知らん顔で猫ソファで寝ている
昼間になると隠れる、病院も連れて行きたいが焦っても結果は良くならないので、しばらくはカートの気が落ち着くまでほおっておくしかない
今まで飼った外猫と違い、カートは7年くらい野ネコだったから、一筋縄ではいかない、警戒心が強く、ビビリだから面倒くさい
かなり警戒心を解かせたが、また一から出直し、膝に抱く日はまだまだ遠い気がする
猫なんてのは犬と違って自分の都合で動く動物、ベタベタされるのと束縛されるのが嫌いだから、知らん顔が良い
そのうち、すり寄ってくるかもしれない。





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(259) 甲越 川中島血戦 86

2024年11月26日 07時16分15秒 | 甲越軍記
 上杉謙信は西條山の陣城にあって、海津城に上がる炊煙がいつもより盛んなるを見て、「今宵、信玄は動く」と宇佐美、柿崎、直江、宇野らを呼んで
「今宵、武田勢は必ず動く、信玄当年四十一歳、我三十二歳、十五年の取りあいもいよいよ明日は信玄死すか、謙信討死かの有無の決戦となろう、
敵は二万の軍勢なれば、それを生奇に二分して正兵は我らの背後を襲い、奇兵は渡しの向こうで我らが戦の末、疲れ果てて降りてくるのを迎え撃つ策であろう
見え透いた信玄の策など恐れること無し、逆に我らが先じて山を下り、信玄の旗本に攻め入り、一気に片を付けて信玄坊主の生首を得るのだ
馬には轡(くつわ)をしばり、舌を巻けよ、兵には枚(ばい)を含ませよ」
これを聞いて上杉の諸将は大いに喜び、名を挙げんと勇み立つ

兵らは順次迅速に支度を整え、謙信は既に放生月毛の馬に打ち乗り、陣中にはわざと大篝を焼かせ、その夜の上刻にしずしずと西條山を討ちたてて、雨宮の渡りは渡らず、遥か川上の八代の渡りを越えて川中島に出る。
謙信、信玄の川中島の決戦と申す美談は、この合戦の事である。

さて謙信は甲州勢についに気づかれることなく八代(屋代)の渡しを乗り越えて、川中島に至り、寅の刻に至って、軍勢の手配りをする

真っ先には柿崎景家、二千余人を押し立てて、二の身には大将上杉入道謙信、左の方は本庄繁長、柴田因幡、
右は山吉玄蕃、北條安芸、次に安田上総、須田親満、北の方には上田景国、古志駿河、宇佐美駿河定行、
右に村上義清、加地安芸、千坂対馬、後備えに甘粕近江景時一千五百余人
次は直江山城守兼続、小荷駄奉行となりて遥か後ろに備えたり
そのほか、高梨播磨、宇野左馬助、新発田尾張、同因幡、上杉壱岐、城織部、本庄孫次郎、鬼小島弥太郎、鐵上野介、色部修理、斉藤下野、長尾遠江、山本寺宮千代、杉原壱岐、中條越前、竹俣三河、上杉弥五郎など一万三千余人

謙信、これらを思うままに手分けして皆、二手組にして双方互いに助け合い、一陰一陽なれば、一備え敵に当たれば、一備え後ろに繰り越し、屈伸往来するをもって車懸かりの要とする

この如く備えて、次第に犀川の方へと近づく
謙信の軍令は厳しく、武田の間者近づくも片端から搦めとられ、武田に名を成す間者二十数名、みな帰ること叶わず
上杉勢の動向は未だ信玄に伝わらず
高坂弾正、いかに索敵に精通していると言えども、未だ謙信が既に犀川に至ること露ほども知らず
謙信の良将たるゆえん、これにても知るべし。




クィーンズ駅伝 トップ選手の熱戦に興奮

2024年11月25日 17時28分18秒 | マラソン/駅伝
 宮城で開催されたクィーンズ駅伝2024
昨年のトップ8(クィーンズエイト)と予選会(プリンセス駅伝)で勝ち上がった16チーム、計4チームで争うクィーンズ駅伝
エース区間の3区(10.6km)5区(10.0km)が面白かった
特に最長区間の3区には佐藤早也伽(セキスイ)廣中璃梨佳(郵政)渡辺みなみ(パナソニック)、五島莉乃(資生堂)、加世田梨花(ダイハツ)、小海遥(第一生命)、川村楓(岩谷産業)、安藤友香(しまむら)というそうそうたるメンバーが勢ぞろい。
特に駅伝で実績ある佐藤、廣中、渡邊、五島、加世田が上位でタスキを受けての直接対決になった

前から佐藤、廣中、安藤、五島(TBSテレビより)


佐藤が1位、廣中2位、安藤3位、五島4位でタスキを受ける、1位と5位の差は17秒という大接戦、安藤は駅伝よりマラソンでトップの選手
今の駅伝界の女子では廣中、新谷、五島、小海の四人が1秒を巡る戦いを繰り広げて全く互角である。

佐藤、廣中、安藤、五島の順で中継所を出たが、途中廣中が佐藤を抜いた、そして五島も安藤、佐藤を抜いて2位に上がり廣中を追う
抜かれたが佐藤も粘って、差はあまりない



ついに五島が廣中をも抜き去る、そのまま五島、廣中、佐藤の順で中継所へ
小海は12位から9位にチームを押し上げた

トップに上がった五島莉乃 石川県出身、今や駅伝界の花形


区間個人記録は区間賞五島、16秒差廣中、3秒差渡邊、3秒差川村、15秒差小海の順

アンカー前の5区には、新谷仁美、鈴木亜由子、一山麻緒、松田瑞生、細田あいがエントリー
一山と松田はマラソン選手、新谷、細田はどちらも来いだ、1万mの日本記録保持者だ
鈴木亜由子はクィーンズのトップ選手だが、ここ2年ほど調子を落としている、東京五輪ではマラソンに出場している。

鈴木が1位でタスキを受け、22秒差の2位で新谷がタスキを受ける、一山は4位で受け、パリ五輪マラソン補欠の細田は5位でタスキを受ける

新谷が先行する鈴木をじわじわと追い上げ、ついに捉えて抜くが、鈴木も差を付けれれることなく、二人は並走を続けて3位以下を引き離していく


二人の並走は中継所まで10km、ずっと続き抜きつ抜かれつ、わずか1秒差で鈴木が6区につなぐ。
細田あいも5位から3位に順位を上げた

息詰まる優勝争いは6区へ


個人区間記録は、区間賞が細田、2位はしまむらの鈴木杏奈13秒差、3位は新谷4秒差、4位は鈴木21秒差、鈴木と同記録でパナソニックの石川桜子

最終区は1位JP日本郵政、1秒差で2位積水化学の一騎打ちに
積水の森智香子がいきなりのダッシュで郵政の太田琴菜を引き離す
しかし太田は慌てず、じわりじわりと追い上げて、ついに捉えて並走
ゴール前数百メートルで太田が一気にスパート、森はついて行かれず最後は27秒差をつけてJP日本郵政が優勝、積水化学の連覇を阻んだ。

私が女子駅伝で一番最初にファンになった鈴木亜由子が復活の兆しで嬉しい。
今は一押しは五島(ごしま)りの、次が細田あい、そして廣中りりか、新谷(にいや)ひとみ、鈴木あゆこ、佐藤さやか、小海(こかい)はるか