神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

台風10号より先に来た「フーテンの寅ネコ」

2024年08月31日 19時18分58秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 昨日は8月に入って初めてと言ってよい一日中降り続いた雨、それでも50ミリくらいだからちょっと降ったかな程度
今日は朝から台風の先触れなのか激しい雨になった、このまま降り続けるかと思ったが、昼からはからりと上がってしまい、夕方には青空と入道雲
久しぶりに散歩してなまった足を動かしてきた。

台風10号も紀州沖に出て、東海道を行くかと思いきや直角に曲がって琵琶湖から若狭湾に抜ける予報円
明日にも熱帯低気圧に変わるとの予想で、わが北陸に到達前に消滅か、ずいぶんと勝手気ままに動いた台風だった。

今日驚いたのは「フーテンの寅ネコ」が5月4日以来、約4か月ぶりに顔を見せたことだ
そして一日中、我が家の玄関先で三食付きで寝たり、くつろいだりして18時過ぎに帰って行った、ふらりと忘れた頃にやってくるのは本当に車寅次郎そっくり
いつも車の下で寝ているから、車下寅太郎とでも名付けようか。

考えてみれば、最後に来たのが5月4日、私が入院したのが5月17日、そして抗がん剤中断が8月20日で、再び来たのが8月31日、なんだか私の体調を気遣いながらやってくるような気がしてならない。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(186) 甲越 川中島血戦 13

2024年08月31日 09時15分51秒 | 甲越軍記
 天下は群雄が割拠して互いに争い、中でも東に北条早雲、今川義元、上杉憲政、織田上総介、西に大内義興、尼子、大友、島津、竜造寺の諸大将武威を轟かして隣国を併呑する。

中にも武田大膳大夫晴信は、智勇兼備の名将なれば甲州一国に満足するわけもなく、諏訪頼茂、村上義清を倒し、残る小笠原長時、木曽義昌を討って信濃を平定し、上州の上杉、相州の北条、駿州の今川らを滅ぼし、関東甲信に根を張り太い幹を作れば、上方に打って上り、四国、九州までも切りしたがえると思えば、天文十七年五月七日、甲州を発ち、信濃国に向かい小笠原長時を攻め滅ぼさんと、諏訪に於いて勢を二つに分け、高遠、松本の抑えとして、士大将、馬場民部少輔、日向大和、小宮山丹後、穴山伊豆、小山田左兵衛尉、長坂左衛門尉を充て
旗本をもって、保科弾正忠政景の砦に攻め寄せれば、砦の大将、岩城五郎左衛門は必死に防戦したが、力及ばず力尽きて砦を捨てて出奔した

続けて山の上の砦を攻めあがる、砦の将、沼大隅が打って出て武田の先兵を打ち崩したが、二陣の春日左衛門に横を突かれて砦の将兵の多くを討たれ、もはやこれまでと砦に火を放ち、主従三十余人煙の中に切腹する

続いて山田喜藤太の砦を攻めれば、喜藤太も討ち死にとなる
武田方は二日の間に三つの砦を攻め落とし、この勢いに乗って次は高遠の城に攻め寄せようとするところ、内山城の守将、飫富兵部少輔より早馬が来て「長尾三景虎が小県に出陣、その勢い盛んなリ、急ぎ兵を返して小県に向かうべし」との知らせが入った
旗本勢は、高遠攻撃をあきらめて、和田峠を越えて、長窪筋より内山城に着いた
此度の越後勢は初戦の手合わせの時より、遥かに大軍勢にて押し寄せ、村上の旧領戸石辺りを放火、狼藉を繰り返し武田勢を挑発した

ここに内山城に集結した武田勢も、大将晴信のもと発進して筑摩川を挟んで睨み合う
まずは越後勢の先陣より北条丹後守、竹俣三河守の足軽、川に押し出して鉄砲を撃ちかける、これに対応して武田方も日向大和守、小幡上総守の足軽勢これに掛けあわせ、一うちのあと急ぎ備えに戻る

越後勢は手を変えて、雑兵どもが甲州勢を「臆病者、腰抜け」と罵って敵を引き出す策に出たが、甲州勢はこれに反応せず、ただひたすらに陣を固めて越後勢川を渡らば、これを討つの姿勢で微動だもせず

武田勢も、ただ守りを固めているばかりではなく、浅利式部丞、長坂左衛門、勝沼入道、市川梅印、真田弾正、山本勘助に命じて敵陣を斥候させ、敵の虚を突こうとすれども、互いに知謀の名将同士であれば少しの隙も無く、互いに睨み合うのみであった。

六月四日より、十五日まで睨み合うが、ただいたずらに日を重ねるのみ
景虎は晴信が大軍にも関わらず、一向に誘いに乗らず陣を固めているのは、我を焦らせ、誘い出し一気に押し込める策略であると悟り、一計を謀る
越後勢、十六日朝に、にわかに陣払いをして越後に向かって去る様子に、武田勢の諸将は色めき立ち、いまこそこれを背後から攻めかける時なりと騒ぎ立てる
晴信、越後勢の退陣を見るに、備えは隙が所々に見られ、備えも締まらず追い打ちすればたちまち越後勢四散する様子である
しかし、よくよく探り見ると、館、長尾遠江、新発田尾張を右に、直江山城、黒川備前を左に備える陣構えは、遁甲八陣の備えと見破り、迂闊に攻めかかれば、たちまち屈強の備え取って返し、はやる甲州勢は取りこめられて討たれる陣形なりと晴信は見破った
ざわめく武田勢先陣衆に向けて、むかで衆十二騎を走らせ、さらに真田弾正忠を添えて「決して備えを騒ぐべからず、敵を追うことなかれ」と厳重に申し付ければ、逸る若党らは歯ぎしりして悔しがるが大将の厳命とあれば仕方なし

景虎は、甲州勢が謀りにかかるを待ち受けたが、甲州勢はついに動かず
武田晴信とは軍慮に明るき大将かな、なかなか容易ならぬ敵であると大いに感心した
もはや何をなすこともなく、越後へと去って行った。

晴信も、これを見て陣払いして碓氷峠より松井田に出て、近辺を放火して甲府に帰還した。







幸福な時間

2024年08月30日 18時50分11秒 | ライフスタイル
*朝の目覚めが快適な時
*寝たい時間を寝ていることができるしあわせ
*ドライバーとしてドライブしている時
*時間を自分の思う通りに過ごせること
*友人と楽しく語り過ごすとき
*兄弟、家族と和気あいあいに過ごすとき
*同じ目的の仲間と一緒に行動している時
*家の中を少しずつ改善して行く過程
*一日が終わり湯船にひたっている時
*旅行
*大自然の中にいるとき
*自分が健康に過ごせている時
*書いている時
*瞑想的精神になっている時
*太陽が昇り始め今日一日が良い日になりそうな時間
*特別なイベントがある日のワクワクしている朝
*大谷がホームランを打ってドジャースが勝った日
*テレビでマラソン、駅伝、中長距離走を見ている時
*大相撲を見ている時
*春、秋の季節を感じている時
*美味しい物を食べている時
*朝食を食べながら新聞に目を通している一人の時間
*家族が揃って食事をしている時
*今の生活環境を思う時
*ラッキーや奇跡が続く時
*スケジュール通りに事が運んだ時
*今日一日を無難に過ごせたと思った時
*etc・・・幸福な時間って随分たくさんあるもんだなあ!





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(185) 甲越 川中島血戦 12

2024年08月30日 09時14分24秒 | 甲越軍記
 晴信は越後勢が撤退した後も小室にて陣を構えて滞在した
その陣営に甲州より使者がやって来て申すには、敵対する信濃国伊奈の保科弾正忠の抑えとして置いた、秋山伯耆守晴近勢が保科勢と戦い、騎馬武者十七騎、雑兵二十七人の首を取り、三千貫の土地を切り取ったとの注進であった。

同十八日には中信の小笠原大膳大夫長時、木曽左馬頭義昌の勢と、下諏訪塩尻口に備えを構える武田方、甘利藤蔵、多田淡路守は小笠原勢に夜討ちをかけたが、小笠原勢は手堅く守って、これを退けた
しかし、この時、甘利藤蔵十四歳は、ただ一騎にて先立ち馬を進め、「これほどの敵に進みかねるとは恥を知れ、続けや」と大声にて呼びながら槍を構えて敵陣に駆け込み、たちまち三騎を突き倒しいよいよ進んで戦えば、これを見た武田勢は励まされて討って懸かる

小笠原方からも勇士、風間太郎左衛門が藤蔵をめがけて突きかかり両勇士秘術を尽くして戦えば、甘利は風間の槍を叩き落とし、大喝して飛び込み、風間の胸板を一槍にして貫いた
落馬した風間の首を掻きとれば、小笠原勢はこの勢いに押されて、柵の中に我先に逃げ込んだ

甘利、多田の勢これを見て勇み立ち、柵もものともせず力攻めに押し倒して敵陣内に雪崩を打って押し寄せ、首九十三級を得る
多田は、甘利の大手柄を注進した。

同二十一日、上州の上杉民部大夫憲政勢に備え、碓氷峠に構えたる小宮山丹後守昌友、浅利式部丞信音は上杉方の松井田越後守と戦い、敵首三十三を討ち取ったとの注進在り

大将晴信は小室に在りて、次々と入ってくる味方の勝ち戦の報せを聞き、大いに喜ぶ
甘利藤蔵、七、八歳の頃より尋常ならぬ者と思っていたが、流石は甘利備前守の子なりと大いに褒め称えた
それに対して、去る日に討ち死にした板垣信方の嫡子、板垣弥冶郎、今年十九になりしが良き同心、被官を多く持ちながら、親に似ぬ虚気者と機嫌宜しからず

甲州の留守を預かる諸角豊後守や小曽殿など複数より注進があった
去る十九日丑の刻、御旗屋より出火したが別当山下伊勢守が良く働いて消し止めた
不思議なのは、白い大鷹が二羽、御旗屋の上に昼夜三日の間在って、その後飛び去った、これは明神の守護したまうのではないだろうかとの注進あり
その日は、海野平に於いて晴信が景虎と初の手合わせを行った同日同時刻であったので晴信は歓喜して諏訪石清水に拝して武運長久を祈った。
この頃、信濃の領主たちは武田と長尾に挟まれて、いずれに味方するかと大いに迷い天秤にかけ、越後に味方する者あり、また鼠宿の仁科、上田の海野、浦野をはじめとして小見、会田、青柳らは武田に降参して人質を出したので、小室と内山の両城に人質を入れて二十八日に晴信は甲府館に帰還した。

この天文十六年は景虎にとって忙しい年であった、兄、晴景との合戦を勝利し、金津、黒田の兄弟の狼藉が興り、この晴信との初戦の後、越後に戻ってすぐに村松、安田、菅名を攻め落としたことは、すでに前編にて書き記した通り。




病気で変わる心

2024年08月29日 20時48分09秒 | 心 思い
 人生初の手術が74歳とは、それだけ健康に過ごしてこられたと言うことで、ありがたいのだけれど、入院前と入院中と退院後では、ずいぶん心持が変わった。
人生感が変わったともいえるが、入院前の心持が思い出せないくらい遠い過去に思える。

たしか、あの頃は煩悩がどうしたとか、業がどうとか言っていたことが多かったように思える
だが入院していた20日ほどの間に、余計な何かは、かなりきえさったように思う
そうだ、ずいぶんとコンパクトな思考になったと思うのだ
「憑物が落ちた」とかいうけれど、そんな感じ
病院が随分と住み心地が良くて、しかも空気が良いのか? 鼻の通りも良くなり
眠ければ寝るし、目が覚めれば夜中でも起きるし、そんな生活も覚えた
ようは時間感覚が薄くなった気がする、今が何時であってもかまわない、但し予約とか約束時間だけは守る
断捨離なんかよく言っていたけれど、日記を捨てるとか、レコードを始末するとか言っていたが、今はそんなことは、どうでもよくなって無駄な努力はしないことにした。

なんなんだろう時間が見える、時間がとろみの付きすぎた寒天羊羹みたいにまったりして見える
そんな時間の中を私は急ぐ必要もなく、羊羹同様にまったりと動いている
朝食を6時半に食べるとか、22時に寝るとか、そんなことはどうでも良くて、食べる時間は、調理を終えた時間であり、寝るのは眠くなった時間なのだ
もう、そんな贅沢な時間を送ることができるようになり、それが最大の幸せになった。

思いもよらない大腸がんを患って、手術をして、抗がん剤投与が始まって
それは、まるで夢の中の出来事みたいで、自分はSF小説の中を動き回る登場人物みたいな気分で生きている
入院前から、他人が理解できないような人間関係の中で生きてきたが、今は本当の睡眠の中で毎晩そんな夢を見ている
「夢が現実になった」というが、私は現実が夢になったのだ。

こんな病気を患ったことがなんだか人生の刺激になっている、スパイスと云うのかな・・・
けっして嫌な経験ではなかった、むしろ貴重な経験で、いままでであったことがない数十人の病院スタッフと知り合い、話した、話している、そんな状況がたまらなく好きだ
注射は大嫌いなのに、注射をうつ看護師と短い言葉を交わすのが楽しいし、大好物を食べたくても食べてはいけないと我慢するのも何だか誇らしい。

抗がん剤の点滴をやっている2時間が、やたら静かで、あの静けさも好きだ
まるで座禅をおこなっているような心持になる
点滴室の空気が、それは「し~ん」としていて私の他にも数人いるような気が全くしないのだ、それはスマホ会話が時々聞こえる入院時の大部屋ともまったく異なる。
点滴室の静けさは自分を思うには最適で、何を思っていたのかも点滴が終わると同時に忘れてしまう。

今が多分、一番「生きてる」感が大きいのではないか
一日一日、朝が来るのが待ち遠しく、目が覚めれば、まずは外に出てプランタンの花々に水を撒き、ついでに玄関先にも水を撒き、新聞をもって台所に戻り顔を洗い、歯を磨き、神棚を新たに祀り、仏壇を新たに飾る
そして一坪畑を確認して、少しの収穫と整理をして、それから朝のおかずと汁物を作り食べる、ここまでは毎日同じルーティンになった。

抗がん剤治療が規定回数を終えることが、最大の目標になっている
それは2クールで今はストップしている、年内の行事計画も早くから立てていたが、それも狂いだした
やはり計画とは達成が最終目的地なので、ストレスではある
だから一刻も早く4クールを終わらせることが今の自分にとってもっとも大切なことになっている。

春になって、重い冬の外套やセーターを脱いだような気分が今だ
気分とは気持ちであり心である、ずいぶんと軽やかになった
それは知らぬ間に多くのものを捨て去ったからだ、それは構えて捨てる「断捨離」とは全く別物である
無意識のうちに消え去っていくものもたくさんあるのだと、今思っている
ただ自分は、そうしていても知人や家族が持ち込んでくることがある
それを自分が処理するのは小さなストレスだ、ただそんな刺激も無いと、本当に立ったまま寝てしまいそうだ。






「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(184) 甲越 川中島血戦 11

2024年08月29日 08時23分48秒 | 甲越軍記
 翌日、晴信は、加藤駿河守、山本勘助、原美濃守、小幡織部正を呼び、景虎の武勇、軍術の程を尋ねた。
山本勘助は「景虎の昨日の軍立てを見るに、若大将と言えども噂通りの智勇兼備の名将と存じます
此度は六千の兵を率いてわが一万五千より不利なることを察して、丸備えの陣形をもって先陣より無二無三に攻めかけると見せておき、自分は旗本勢のみを率いて、先陣の戦を脇に見てわが本陣に攻め寄せて一気に勝負を付けようと謀った
されどもわが方の備えの堅さを見て、公の軍術の高さを知って荒働きではとうてい太刀打ち出来ぬことを悟り、早々に軍を引き上げたのは、並みの将にはできることではありません
なかなかの知謀の器かと存じました、勇猛はあくまでも逞しく、健やかにして、差し掛かる軍を回さぬ性質かと存じます
今後の景虎は君を挑発して腹を立たせて、備えの乱れを突いて攻め寄せる策を用いるかと思われます、公は、誘いに乗って御腹立ち無きよう備えを堅め給わるべし
景虎は若年故、当家と戦って勝てば誉れ、敗れても君より若年なれば恥辱とならず、景虎の戦法はこれからも旗本対旗本のしゃにむな決戦を挑み続けると思われます、我らはただ陣法を守り、備えを堅くして長尾の武力に崩されぬよう努めて居れば、勝を得るでありましょう」と言えば
原、小幡、加藤も各々、山本の今の言葉を金言なりと讃える。

大将晴信は「いかにも山本が申すはもっともなり、我勝利しても誉とならず、敗れれば恥辱也、彼の軍立ての賢きは末頼もしき男なり
我が相手になりて矛先を争う者は、景虎なり」と申せば、諸将は晴信の名将の軍慮に感じ入る。

越後の大将長尾景虎は、その夜、陣営にて諸将を集め軍評議を行った
長尾越前守政景、柿崎和泉守景家の猛将は声を揃えて「今日、武田家と初めて戦ってみたが互角の戦とは言え、なおしばし戦えば武田勢を一戦にて打ち破るは必定であった、それなのに兵を引き上げたのは返す返す無念でなりません」
と、こともなげに言うのを、宇佐美駿河守定行が進み出て
「両将の仰せはもっともでござる、されども某、武田の備えをつらつら見るに中々知謀優れたる大将と見受けた
当家の諸将の勇は、鋭きと見て、これにまともに当たればたちまち敗れるを察して守りを堅固にして備えに徹した
ここに両将が攻めかかれば必ずや勝利は疑いなしでござる、去れども一時の勝を得たとしても、すべての勝利とはいえぬは明確でありましょう
卒時に軍を出すよりは、何度も対陣を重ねて敵の守るところを少しずつ奪って敵が怠る時こそ一戦にて全勝を得ることが肝要と存じます」と申せば、景虎もこれに賛同して五日の間、ここに陣を敷いて敵の動くのを待ったが、宇佐美が申した通り、敵は固く陣を備えたまま、とうとう攻め寄せてくることはなかった。
「甲州勢、戦を好まず陣を固めて我らが攻め来るを待つならば、先に攻めれば敗れる道理なり」と景虎は陣払いを決めて、越後に戻った。



なぜか時々おかしなのが出来る畑

2024年08月28日 19時48分34秒 | 家庭菜園
 今朝はいつもとは違う秋らしい朝だった
空の色も秋色で、風も涼やか、それはいつもなら畑作業では汗ばむ午前6時半になっても汗もかかず、とうとうキューリとトマトの枝及び、支え棒を処理した
これで畑はナスの二株と地面を這っているスイカの蔓と葉ばかりになった
ナスは9月までしばらく続いていきそうだ、なにしろ今年はいつまでも夏日が続いているうえに、旧暦の秋に入ってから、むしろ真夏日の35度前後が続く異常さ
スイカなどは、お盆過ぎてから2個もリンゴ大の実が見つかるほどで、スイカもすっかり季節を見失っているようだ。

ナスは毎日1個2個と自家消費分ずつ実ってくれるが、半月くらい前から同じ株から新しい枝が逞しく伸びてきて、若々しく大きな葉が何枚も広がった
背丈も伸びてきて今は1mほどになった
おかしいのは、長ナスの木なのに、この新枝からは丸ナスが出来て来た
まだ一個だけだが、間違いなく丸ナスだ、額の形も全く違い、河童の頭のようだ、どこまで大きくなるのか興味津々だ
去年もスイカは小玉スイカなのに、一個だけ2.1㎏という大きなのが出来たり、プリンスメロンなのに一個だけマスクメロンが出来て、時々こうした面白い現象がおこる畑なのだ。

 抗がん剤投与が白血球、好中球の極端な減少で三週間の延期となり、当然ながら副作用もなく体を持て余している
但し、感染症にかかりやすい恐れもあるので外出するには気を遣う
それでも毎日毎日閉じこもっているのも精神学上宜しくないから、勇気を奮って友達の所に出かけた
ボランティア仲間の所ばかりで、しかも女子ばかりのお宅を3軒訪問した
ちょっと脂がある肉厚のサーモンが手に入ったので、それを切り身にして残暑見舞いのお土産とした
残暑と言うけれど、暑中の真っ盛りなのだからなんかおかしな季節感である
台風が北陸にやってくれば、またフェーン現象などで気温が上がるかもしれない
大姐さんの家に行ったら、玄関も窓もすべて開けっ放しで呼べども姿を現さない、それで駐車場から電話をしたら「あら~yottinさんじゃない、久しぶりだね
」と呑気に言うから、「今、お宅の駐車場から電話してるんだけど」と言ったらスマホ片手に急いで出て来た
現役時代は高級着物チェーン店の店長をやっていただけに、ご高齢ながらセンスの良い、しかしカジュアルなお召し物
日舞の教授でもあるから背筋もすっきり、年齢より15歳は若く見える
「ごめんごめん、疲れて寝てたんだわ、上がってお茶でもどう」と言うから、「ありがたいけど、まだ寄るところがあるから残暑見舞いだけ置いていきます」
結局、駐車場で20分くらい立ち話になった
大先輩の彼女は誕生日で86歳、例の大腸がんの先輩でもある、転移して三度手術したが元気でこんどは書道にチャレンジを始めたと言う
「私さ、なんか90まで生きられるような気がしてきたんだよね」
「90どころか、これだけ元気なら100まで行くでしょ」と言ったが、彼女の母親は百いくつかまで長生きしたのであった。

続いて中姐さんAさんに、これから伺いますと電話したが一向に出る気配がない、大姐さん曰く「彼女はこの時間だと寝てることがある」
まだ夕方の5時半、でも常識では判断できないAさんだからあり得る、大姐さんも電話してくれたが、やはり出ない
それでもと家に寄って見たら玄関は開く、「ごめんください」と言ったら、すぐに出てきて「あら! どうしたの?」
「顔見世と残暑見舞いのあいさつにね」「あらぁ、寄ってく? コーヒーくらい出すわよ」
「いえいえ、これから家に帰って夕飯なんで、せっかくだけど改めて」
「そうなの・・・うちでも夕飯くらい出せるけど」「いえいえ、お気持ちだけで」
「そう、静養中だもんね引き留めないわ、元気そうで良かった、私ももうすぐ喜寿になるんだよ、嫌になるわね」
積もる話もあるが今日は挨拶まで
最期に中姐さんBの事務所に寄った、まだ開業中だが呼べども誰も出てこない、あきらめかけたが事務室の戸が少し開いているので、明けてみたら旦那さんがスマホで電話中だった
こちらを見たからお構いなしに「奥さんいますか」「ああ、はいいますよ、今呼ぶから」
すぐに彼女出て来た「残暑見舞いです、みなさんいろいろ心配していただいているので元気な顔も見せたくて」
「おやまあ、ほんと元気なんだね、この前見た時少し顎のあたりが痩せていたけど、今は本当に元気そう」
「あの時は抗がん剤始めたばかりだったからね」
「まあ、とりあえず腰かけて話しましょうね」
彼女もA氏と同じ76歳、どこから見ても健康そのものでバイタリティ溢れる姿だ。
いろいろ世間話したが、「私、むかし東京の人から突然『あなたの前世はお坊さんです』と言われたのよねぇ」
彼女はある新興宗教に参加している、人前では一切そのような話はしない
だが彼女の信念の強さや、一切曲がらない性格を見ると本気で宗教をやっている人は強いと思う
言われるがままの宗教ではなく、自らもとめ人に教えるだけの知識と経験を持っている
私は無宗教で自分教の教祖、信者も自分だけだが、彼女と共通する宗教感があるようだ。
なんのかんのと健康や感謝の心などについて30分くらい話し込んでしまたった
それから少し散歩して帰宅したが、皆さんにお会いして、家ごもりのストレスも解消した。

震災前の能登島水族館にて





「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(183) 甲越 川中島血戦 10

2024年08月28日 09時12分39秒 | 甲越軍記
使い番のむかで衆12騎が先陣に 走り去るを見て、本陣の 武者たちはもちろん 使い番の輩も、 今や激しく戦の真っ最中に大将 命によって軍を 多少なりとも 引き上げさせるとは いかなることかと 皆 訝しがった。

 この時 越後の大将 長尾景虎は 旗本を率いて晴信の本陣へ 攻め込み 勝敗を一時に決しようとする 気配を、甲州方の飫富兵部少輔虎正が 気づいた
 そして馬上と歩兵1500人 赤備えにて、大将晴信の 旗本の右を厳重に固めた
これには、さしもの景虎も迂闊に 攻め寄せることならず、 にわかに 引き上げの貝を吹かせた
 景虎は馬周り わずか 45人と宇佐美定行を 伴って、 先備えに 乗り入れて 手軽く勢を切り上げさせた
 先手の大将長尾越前守政景、 大いに怒り 「勝ち戦だというのに にわかに 引き上げるとは どういうことか、今一揉みにて武田勢を 崩して見せ申そう」とはやるのを、 宇佐美駿河守 これを制し「 君の武威を持って この備えを破ることは 誠に簡単であろう されども後陣の敵 各備えを守りなれば 、今日の合戦は黄昏に 至れば 勝負を決すること かなうまい、しかるに今雨の模様を示し、折りからなれば早く兵をあげて 陣営を結び賜え」と 密かに謀りごとを 告げれば 長尾 越前守、ようやく怒りを解いて 軍勢を軽々と引き上げた
 そして殿軍となってしずしずと引ければ、武田勢は 大いに勇み引く敵を食い止めんとするところへ、むかで衆使い番12人 馬を飛ばして来たり
「大将の御下知、敵去るとも 決して追ってはならぬ、 少しでも命に背くものは 厳罰を与える この場にて 踏みとどまること」と下知を伝えた
 山本勘助もまた 先の軍に馳来たって止めれば 小山田 、栗原の諸勢も 命令を守り軍を引き上げる
 敵味方は もの別れとなり 誠に見事に見えたりける
 今日午の刻より、未の刻までの合戦に 武田方の討ち死に 231人、長尾方の討死263人なり。





温故知新

2024年08月27日 21時03分16秒 | 雑記

 ずっと酷暑で散歩を中断していたが、今日は夕方すこし涼しかったので17時半に散歩に出かけて1.5kmくらいだが歩いてきた、かなり速足で歩けたので未だ健在と安心した。

 勝海舟(かつかいしゅう=勝麟太郎)と言えば江戸時代末期の動乱期を生き抜いた徳川幕府の軍艦奉行、生粋の江戸っ子だが、代々の幕臣ではない

アメリカ使節団として福沢諭吉らと咸臨丸で太平洋を横断して、アメリカを目で見て来た

世界観を持っていて、尊王攘夷派の坂本龍馬、西郷隆盛などの傑物さえも唸らせる大局観や度胸をもっていて江戸の町を戦火から守った、江戸の町火消の親分、新門辰五郎をも手の内に取り込める侠気も持ち合わせていた、江戸時代の終焉を予測して無血開城を推し進めて成功する。

いつも危険と隣り合わせであったが、坂本龍馬が用心棒にと勝に送った岡田以蔵(人斬りの異名在り=後に刑死)に助けられた。
無事に幕末を生き抜き、明治になると新政府の要職について伯爵となる
中国との交渉などにも同席して中国通でもあった。

勝海舟は明治32年に 77歳で亡くなったが その前年あたり海舟の弟子や知人などが赤坂氷川町の勝海舟の家に集まり海舟語録をまとめたのが 「氷川清話」である、お釈迦様の弟子がお釈迦様の生涯の教えを語り合って仏典を編纂したのに似ていて興味深い

 私の 座右の 愛読書として 時々見ているが、なかなか 現代に通じる 言葉も多くあって予言書のようで面白い

その中から政治や政治家についての考えをいくつか書いてみたい、今に通じる諫言のようなものもあるから興味深い。

〇政治家の秘訣は何もない ただただ「誠心誠意」の四字ばかりだ。
この四字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心腹しないものはないはずだ。 またたとえいかなる無法な国でも、故なく乱暴するものはないはずだ。
ところで見なさい、今の政治家は四千万、五千万のたらずの人心を収攬することのできないのはもちろん、いつも列国の為に、恥辱を受けて、独立国の体面さえ全うすることができないとは、いかに歯がゆいではないか。

〇今も昔も人間万事が金というものがその土台であるから、もしこれが無かった日には、いかなる大政治家がでても、とうていその手腕をほどこすことはできない。(中略)
財政が困難になると、議論ばかりがやかましくなって、何の仕事もできない
そこへ付け込んで種々の魔がさすものだ。(中略)
金はない、力は弱い、そして人心は離反している。 その隙を、見込んで外国の奴らが付け込んでくるという風で、(中略)
しかしながら一時しのぎに外国から金を借りるということは、たとえ死んでもやるまいと決心した。(中略)借金の為に抵当を外国にとられるのが実にたまらない、よしまたそれを耐えるとしたところで、借金を返す見込みがないから仕方ない。 これが一家や個人の事なら、どうなっても大したことは無いが、なにしろ一国の事だから、もし一歩間違えれば、何千万人と言う人が子子孫孫までたいへんなことになってしまうのだ。

〇それから軍備拡張の事だが、それはもとより、できることなら拡張もしなければならないだろうが、しかし法外なことをしてもらっては人民が困るよ。
軍艦が一マイル走ると、もうざっと千両が金がかかるのだからなあ。
日本でも人民が裕福になりさえすれば、一外国について二艘くらいはいいが、いまのような貧乏な時は一外国一艘ぐらいの割合でたくさんだよ。
軍艦というものは、たとえ運転せずにつないでおいても、ただすてておくわけにもいかないから、相応に金がかかるよ。 それに艦数を増せば、それに乗せる人間も増すし、少しの金ではなかなか間に合いはしないよ。(中略)
英国などでもなるべく始末して、軍艦の多い外国の方へは、良い軍艦を向け、少ない外国へは、悪い軍艦を向けておくよ、たいてい皆そういうふうにするよ。

〇日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはないのだ。 とにかく経済の事は経済学者にはわからない。 それは理屈一方から見る故だ。 世の中は、そう理屈通りに行くものではない。
人気というものがあって、何事も勢いだからね。

〇外交の極意は「誠心誠意」にあるのだ、ごまかしなどやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点が見抜かれる。
維新前に岩瀬、川路の諸士が、米国と条約を結ぶときなどは、世界の形勢が、諸氏の胸中によくわかっていたわけでなく、ただ知ったことを知ったとして、知らぬことは知らぬとして、誠心誠意でもって、国家のために譲られないことは一歩も譲らず、折れ合うべきことは、なるべく円滑に折れ合たものだから、米国公使ハリスも、つまり、その誠意に感じて、後には向こうから気の毒になり、相欺くに忍びなくなったのさ。

〇世の中は、ますますつまらなくなって、新聞紙も、政論家も、時勢遅れの空論ばかりにて日を暮らしている。
およそ、この空論ほど無益なものは、世の中にまたとない。
いくら新聞記者や国会議員が、毎日がやがやといったところが、軍艦一艘できはすまい。
出来ないのみならず、国はいよいよ貧乏するばかりだ、そして貧乏すればするほど空論は盛んになってくる。 いや実に困ったものさ。









 

 

 


「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(182) 甲越 川中島血戦 9

2024年08月27日 08時28分50秒 | 甲越軍記
両軍の先鋒、死を顧みず 戦うほどに 双方の 手負い 死人 その数を知らず 
中にも 武田方に 塩尻 五郎左衛門 の 弟 塩尻豊後 無双の勇士也
直江山城守の勢の中に 一文字に切りかかり 当たるを幸いに打ち回る
直江の兵 これを取り囲み 四方から 打ちかかるが 塩尻は これをことともせず 大太刀を 振り回し 近寄る武者 四、五人を切り倒す なおも進んで 戦うところに 景虎の旗本、 鬼小島弥太郎、 日の丸の 差し物 は使い番にて 差し掛かったところへ  暴れまわる塩尻を見て 槍をしごき 「小島弥太郎」と名乗り、 塩尻に突いてかかる 
塩尻豊後、大いに叫び打ちかかってくる その切っ先を 丁と受け止め 槍先に火花を散らせ 打ち合うが 弥太郎の勢いが増し 塩尻豊後 受け損じて 眉間を ぐさりと 突き抜かれ 真っ逆さまに 馬より落ちたところに 弥太郎の 従者が 首を取る、弥太郎は なお 敵中に馳いる
直江の勇士 大井大九郎は 先より 敵の中に入り込み 薙刀をひらめかせ 小山田勢を 麻を薙ぐがごとく なぎ回る、 小山田 左京衛の 家臣 相川左衛門 槍を上げて突き来るを大九郎は二打ち、三打ち戦い 一声 叫ぶと左衛門 喉をすくい上げられ ひるむところを大九郎 付け入って 切り倒し 首をかかんとするところへ 小山田小七郎 馳きたり 大九郎の冑の隙を つき通して首を取る 
その他 両家の 勇将 猛将 互いに 命を軽んじて 必死となって 戦う 

越後勢の 直江と 柿崎の 勢いは凄まじく 武田側の小山田勢は勇士が 次々と 討たれ 崩れて2町ほど さっと引く それを見て武田方の 須田 淡路 室賀 井上ら 信濃先方衆が 攻め太鼓を打ち 馬印を立てて 長尾勢の 正面へ 鉄砲を 打ち掛け 喚き叫んで ついて入る 
直江 柿崎 新発田 安田 甘粕 和田 らは 味方を救い 須田 室賀の 備えに突いてかかれば 武田方の 栗原左兵衛 繰り出し いつ 終わるともなき 形成 なり
武田晴信 長尾景虎の 両大将は本陣にあって床几に腰掛け 馬を傍らに引かせ 采配を握り合戦の様を 眺める
晴信の元へ 山本勘助 やってきて 「敵は 魚鱗に備えて無二の一戦を 仕掛けてくると見えます 我が陣の備え 堅ければ これを嫌い 謀り事をもって 逃げるように見せかけ、 追いかける我が軍を誘い込み こっぱみじんに 打ち砕く策略と見えます、 すでに その兆しあり わが軍は 敵陣 深く入り込もうとしております
急ぎ 使者を使わし 我が兵をとどまらせる御下知を」 と言えば、晴信も「まさに我も さように思うところなり」と ムカデの 差し物の 使い番 12人を先陣に 走らせた。