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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

僕の一日

2025年03月29日 07時29分34秒 | 小説/詩
「シルク・ドゥ・ソレイユ」の超巨大なテントの中のように、ひと息が充満した活気ある場所だった
その一角の長テーブルに僕は座ってランチ
その卓はすっかり満員であったが気を遣うこともなく食事をした
中には懐かしい顔もあったが、語ることもなく黙々と食べ終えた。

 それから僕は外に出て、長い長い緩やかな道路の真ん中を歩き始めた
と思ったのは束の間で、僕はしごく開放感があるウィンドウの軽自動車を運転していたのだった
 少しも急がず、のんびりと運転していたが、前を走っている乗り物に近づいてきた、それは漕ぎ手がいない自転車であった
ただひたすら長い緩やかな坂をのんびりと自転車だけが登っていく
僕も嬉しくなって、漕ぎ手のいない自転車の後を、ゆっくりとついていった。

 やがて自転車は商店街というにはあまりにも小さい商店街の中に入って止まった
僕も、そのあとから商店街に入って車から降りた
商店街は僕も良く知っているところで、肉屋のおかみさんが揚げたてのコロッケを紙袋に入れて販売していた
お客はみんな顔見知りの近所の人ばかりでにぎわっていた。

 店は一間半しかない狭い店だが、お客はきっちりと並んで顔見知りの客同士で楽しく話して待っているのだった
僕はすぐに、ここが主婦たちの憩いの場なんだと感じて嬉しくなった
僕の番が来て、コロッケを一個買った、熱くて掌が焼けそうだった
紙袋のまま、袋の口を少し下げて「ふ~ふ~」と息を吹きかけて冷ましながら食べた
ジャガイモの甘さが口の中に広がる、少しだけバターの香りがしてじゃがバターを食べている気がした
これだけのおやつだったが胃袋も脳もすっかり満足して、また商店街をぶらりと歩いてみた
どの店も飲食店ばかりで、それぞれに客が並んでいる、(ここなら僕の得意な○○もきっと売れるだろうな)と思うと、急に商売を始めたい衝動にかられた
(そうだ思い出した、僕の店はここから百メートルほど上にあったのだ)。

 肉屋の商店街から、すぐに自分の店に着いた
この店は息子の同級生の櫻井に任せてある飲食店で、かなり長いことここを見に来ることはなかった
かれこれ三年は見に来ていないのだから呑気すぎるだろう
この店が今どんな商売をしているか、またく見当がつかない
店を切り盛りしている櫻井は少しばかり小才が効く男で、呑気な料理人田中を部下にして二人でやっているはずだ、その田中も同級生である
店の戸は閉められていて営業をしている風がない
店の隣には広い空き地があったが、そこは以前は三百坪の草が生えた空き地だったのだ、それが今は整備されて何やらの施設になっていた
掘っ立て小屋よりはましな、平屋物置のような小屋が立っていて、それは十間ほどの奥行きがあった
その左手は、高さ二メートル、長さ三十間ほどのコンクリート製の塀が立っている
入り口には金網の小さな箱があって、その中には何か光っている
よく見ると、それは大きな金色のガマガエルだった
あまりの見事さに見惚れて、これはスマホで写真を撮らなければと思った
(そうか梅雨時だからなあ)などと独り言を言いながら、写真を撮りやすい後ろ側に回った
小さな子供が近寄ってきて「なにするの?」と聞いた
「このカエルを写すんだよ」と言ったら、子供は首を傾げて「カエルなんていないのに」と言う
それで中をもう一度見たら、そこには殻を開いたホタテ貝があった
それはガマガエルに負けないような大きなホタテ貝であった
(そりゃそうだよな、こんなところにガマガエルがいるわけがない)と納得して黄金色のホタテ貝の写真を撮ろうとした
ところが、いつの間にかスマホが無くなっている
仕方がないので小屋の上に登ろうと思って、靴を脱いだ。

 屋根に上ってみて、びっくりした
空き地だった草原は大きな池になっていた、それが人工池であることはすぐに分かった
そして、それを作ったのも櫻井であることも感じでわかった
感心する半面、自分には無かった発想を目の前に見て、少し嫉妬も感じた
今までの僕なら櫻井を呼びつけて「誰の許可をもらって、こんなことをしたんだ」と悔し紛れに怒鳴り飛ばすことだったろう
だけど今の僕は、三年の間にすっかり人間ができてしまって、怒りの感情に蓋をして重石を乗せたような人間になった
それでしばし、その池を見ていた
池は100坪くらいもある広い池で、縦長のひょうたんみたいな形だ
ひょうたんのくびれの辺りを境にして、奥の方が緑色の美しい池で、手前側はこれにはびっくりしたが凍った石がびっしり敷き詰められて、ドライアイスのように湯気をあげているのだった
とてもじゃないが僕のセンスでは思いつかない、これだって櫻井のアイデアなんだろう
近所の子供が緑の池で遊んでいる、僕も嬉しくなって池に飛び込んだ
そして思い切り泳いでみた、泳ぐなんて何十年ぶりだろうか
そして思った(これは我が家のプールなんだ)
プールがある家なんて、なんて誇らしいことだろう
そこに櫻井と田中が店の中から出てきて、僕に挨拶した
「おお、櫻井君か、この石は冷蔵庫で冷やしたんだろう」と知った気に僕が言うと、櫻井は「はい、冷凍庫で凍らせてみたんですよ」
少しムカついたがにこやかに「そうなんだな、良いアイデアだ」と誉めておいた。

 また小屋の屋根に上がるとスマホがあった、ホタテの写真を撮ろうと思ったら、もう日没で小屋の中は陰になっていた、もう写真は撮れない
下に降りようと思ったら、靴をどこで脱いだのか忘れてしまった
屋根の上をいたり来たりして探していたら、息子がやってきてこうこうこうだと言ったら、「ここにあるよ」と見つけてくれた

 こうして僕の一日は終わった。


 

 






  根無し草流転日記  戦争(1)

2025年03月10日 07時15分27秒 | 小説/詩

 (除隊 1945.9.17)

 「きみは、当てはあるのかい」竜野が五十(いそ)に問いかけた

「とりあえず上野へ出て春山兵長を訪ねてみようかと」

「そうかい それがいいだろう、だけどもう兵長はないやね」
「そうでした、終わったのでありました」
「そうよ、これからは自由にやりたいことをやれるってわけだ
おれも20日までには家に帰るから尋ねてくるがいいさ」
竜野はいかつい顔にも似合わず人懐こい柔らかな表情で言った
「わかりました、かならず行きます」
「待ってるぜ」
「はい」
「おい、そいつをこっちへ持ってこい」
竜野は五十一真(いそ・かずま)の大きなリュックを指さした、差し出すと
「紐を緩めて広げな」と言って布袋に入った米を幾袋も放り込んだ
さらにアメリカのものらしい砂糖も幾袋も入れた
「こんなに良いのでありますか」
「おいおい、もう軍隊ごっこは終わりだぜ、遠慮すんなよ、どうせ俺のものじゃねえし、陛下からの退職金だと思って、ありがたくもらえばいいのさ」
五十のリュックは一気に膨らんで重くなった、30㎏はありそうだ。

 調布の陸軍高射砲隊も、敗戦とともに武装解除されて兵隊は徐々にわが家に帰っていった
8月後半の頃には調布の陸軍飛行場には三式戦(飛燕)、四式戦(疾風=はやて)など50機あまりが並んでいたのが五十の脳裏に浮かんだ
米軍がやってきて解体される運命の飛行機であった
戦時中は巨大なB29を相手に暴れまわった三式戦も、今は滅びゆく運命
兵隊の姿も大方消えたここは、むなしく寂しい風だけが吹き抜けている。

8月15日に敗戦となったが、炊事班長の竜野や、通信兵の五十などは部隊の戦後処理のために残されて今日9月17日、ようやく五十も除隊の許可が出た
19年の9月17日に東部第1903部隊(調布)すなわち高射砲隊に召集されてちょうど一年後、ついに彼の戦争も終わったのである、とはいえ五十が帰る家は無い、城東区亀戸にあった家は3月10日の東京大空襲で地域ぐるみ焼け野原となって消滅した。

 日本海軍がアメリカのハワイ真珠湾にある海軍基地を奇襲してから半年もたたない昭和17年4月18日には、早くも米軍のノースアメリカンB25爆撃機16機が太平洋上の空母ホーネットから飛び立って東京を空襲した
日本軍は緒戦の勝ち戦の連続に国中が舞い上がっていたから、空襲を受けるなど考えてもいなかった、まったくの無防備、虚を突かれたというやつだ
葛飾区の高等科の生徒が一名機銃掃射で被弾して亡くなった
おそらく日本本土での最初の戦争犠牲者であったろう
結局、この空襲で50名が亡くなり、重軽傷者も含めれば400人ほどの被害者であった
東京攻撃のほかにも3機が太平洋沿いに南下して川崎、横須賀、名古屋、大阪を爆撃して、そのまま中国南部へと逃れた
ただ一機だけはソ連のウラジオストック方面に飛行していった
結局、日本軍は一機のB25も撃墜できなかった
これで日本は一気に国土防衛の必要性を思い知って、南方進出の飛行部隊のいくつかを内地防衛に回すことになった
それだけ前線の攻撃力が少なくなったともいえるだろう、また西太平洋にも敵空母への索敵が必要となって、守備範囲を広げざるを得なくなった
これがケチのつきはじめだった、そしてこれがミッドウェイ海戦の大敗北につながっていったのだ。

(東京大空襲 1945.3.10)
 昭和20年3月10日の東京大空襲は東京市民が寝静まった深夜零時
いつもの爆撃コースである富士山上空から90度右折して、西から東京侵入していたボーイングB29の編隊は、この日は九十九里方面、すなわち東から低空で侵入したという
B29は世界最大の4発の爆撃機、搭乗員11名、機銃座が5、合わせて11丁の12.5ミリ機銃と20ミリ機関砲装備、編隊を組んだB29が仮に一斉に銃を放てば
2200丁の銃弾が放たれる、護衛戦闘機がなくともこれだけの重装備なのだ。

第一弾は深川あるいは日本橋に落とされたという、続いて0時10分過ぎには五十の家がある城東区に落とされた
空襲開始から10数分後には浅草寺方面から隅田川の左右、そして江戸川まで一斉に火の手が上がった
おりしも(計画的であったのか)激しい北風が吹きまくり、あっというまに火の手が上がり燃え広がる

B29はサイパン、テニアン、グアムの基地から飛び立った325機、
小笠原列島沿いに北上して行くと富士山が見えてくる、これを目標に右に旋回して進めば東京西部の八王子方面から東京中心部へと入ることができる
19年から東京空襲と言えば中島飛行機工場が主目的であった
五十が入隊した19年秋から終戦までに10回あまりの爆撃で工場で勤労奉仕していた人々219名が爆撃の犠牲になった
だが3月10日の夜間爆撃進路は予想もしない房総からであった

帝都や工場を守る前線基地は調布に陣取る陸軍航空隊の244戦隊と周囲に展開する高射砲東部第1903部隊
1903部隊を含め、調布飛行場の東に2か所、千歳、久我山、三鷹、大宮、それにレーダー基地、探照灯群を含めて一つの防空大隊を編成していた、大隊本部が五十の調布に置かれていた。
久我山には日本唯一の15センチ高射砲(射程2万m)2門が置かれていてデビューいきなりB29を直撃で2機撃墜したので、B29は以後久我山上空を避けていくようになったという
この防衛網は3月10日には指をくわえて見ているしかなかった
1機も上空を通過しなかったからだ。

 これまで1万mという高高度からの侵入でB29にとっては高射砲弾がほとんど命中せず、日本の戦闘機も到達できないので安全だったが、爆撃精度が悪く命中弾は少なかった
アメリカ軍の新司令官にル・メイが就くと一転、低高度からの夜間爆撃に切り替え3月10日は超低空からの爆撃を命じた
1500m~2500mという危険極まりない超低空爆撃命令
しかし低空ゆえに日本軍は虚を突かれて電探もとらえることができず、しかも真夜中の暗闇、猛烈な北風も吹いて攻撃側には有利であった
爆撃が始まるともうもうたる煙で、飛び立った迎撃戦闘機もB29が見えづらい探照灯が空を照らすが、そこはたちまち攻撃されて、また暗闇となる
一方B29は低空爆撃だから命中精度は格段であった
炎も煙ももうもうと空高く昇って、ある意味、乱気流のようなものが発生した
巨大なB29も、この波に飲み込まれてしばし航空の妨げになるほどだった
搭乗員はみな酸素マスクを着けて熱風と臭気を避け、新鮮な酸素を求めた

この2時間数十分に落とされた末端の焼夷弾数は36万とも38万ともいわれる
隅田川西部地域から江戸川までの東京市の半分を焼き尽くした
5月には焼け残った東京市西部に今回以上の機数で攻撃を加えて、東京市のほとんどが焼き尽くされて何も残らなかった
意図的だったのか皇居は一部に爆弾が落ちただけで、消失や被害を免れた
730万人が住む東京市だが、被災家屋27万、被災者101万、死者推定10万以上
の大被害、日本軍が撃墜したB29は12~14機という。

これまでの中島飛行機などの軍需産業工場を爆撃するのではなく、無差別で住宅地を狙っての爆撃だから、家の密集地を(もともと下町は密集している)狙わずとも密集地に行くわけで
それも破壊ではなく焼夷弾で焼き尽くす、大火事を起こす目的だから火が付けば風の吹くままに燃え広がる、しかも突風が吹きまくった夜であった

迎え撃つ戦闘機も20年にはかなり消耗して少ない、燃料も不足がちであったし、なんといっても真夜中
火の手が上がり東京上空は紅蓮の炎に真っ赤に輝いていたであろう
この時間、調布の高台にある基地から五十は燃える故郷の方を見ていた
ここもB29相手の高射砲陣地であるが、今夜は、この上空を奴らは通らず、房総方面からやってきたのだった

亀戸では、この騒ぎで目を覚ました住民が慌てて外に出て、日ごろの訓練通り火災を消そうと、とりあえずはバケツリレーをやったであろう
しかし、焼け石に水どころではないことを知って逃げ始めた
五十の父母は香取神社に逃げた、しかしそこは既に人がもみ合うほど集まっていて、とても入る余地がなく再び通りに出て南の亀戸駅方向に走った
それが隣家で生き残った人が見た二人の最後の姿だった。

人々はてんでに少しでも火勢の弱そうな方に逃げて行ったが、とにかく米軍の狙いは燃やし尽くすことであったから、最初に消滅させる予定範囲の四辺に油を撒いて、そこに火をつけて燃やして逃げ道を塞ぐから、最初から袋のネズミ
どっちへ逃げたって出口はない、隅田川と江戸川に挟まれた火の海の中をみな逃げまどっている
だから隅田川にかかるいくつかの橋はどこも東から西へ、西から東へと逃げる人がぶつかり合って、永代橋など橋から凍えた早春の川に転落して、多くが凍死、溺死して下流の橋げたに引っかかって黒山になっていたとか
それは十間川でも同じことで、誰もが火と言えば水を思い浮かべる、水に入れば助かると思うが、上は大火事、下は氷水の地獄
そのまま力尽きた大勢の人々、浅草では防空壕に入ったまま蒸し焼きになって断末魔の苦悶の表情を見せている人々
それでも人の運の良しあしはあって、城東区の北、向島区には区の中心部にぽっかりと延焼のない空白地帯があった、福神橋を渡って逃げて行った人の多くが助かった
アメリカの当初の爆撃目標地域からは城東区の東部半分ははずれていたが
延焼及び、目標地域に爆弾を落とす場所がなくて目標地域外で燃えていない地域を爆撃したことは考えられる。
ジグソーパズルの空白を埋めるような気分になったのかもしれない、残酷なことだ、乗員はおそらく20代の若者が多くを占めていただろうに、戦争が人間性を失わせることが証明された。

2時間15分の空襲で約10万人の東京市民が爆死、焼死、窒息死、溺死した
一口に10万人と言ってしまうが、10万人の人生、夢、家族家庭すべてがむごたらしく消え去ったのであった。










 

 

 

 


パンドラの箱

2024年10月29日 07時17分56秒 | 小説/詩
パンドラの箱には一体なにが入っていたのだろう
浦島太郎の玉手箱には止まっていた時間が入っていた
そもそもパンドラの箱って何なんだ? 調べてみたら
なぜいきなりパンドラの箱を思いついたのかと言えば、自分の人生を振り返ったとき(大概は寝起きの時なんだが)煩悩が浮かび上がった
それはおそらくパンドラの箱から逃げ出した多くの煩悩の一つではないかと思ったからだ

誰も彼もが当たり前の顔をして、何もなかったかのような顔をして生きている
それは知らん顔ではなくて、耄碌して忘れただけなのだ
忘れるとは都合の良い言葉だ、耄碌したからとは都合の良い言い訳だ
齢をとるとは、そう言うことに巧みになることなのだ
「年寄りだから」で簡単に片付く場面が多くなった
自動車に黄色いマークをつけておけば「老人だから仕方ない」で大概済んでしまう

耄碌したって煩悩も欲望も消えたわけではない
特に団塊世代の欲望は半端ない
いったい俺はパンドラの箱の中身を幾つ身に着けているのだろうか
指折り数えてみる「いつつ・・・とお・・・」それくらいはありそうだ
今も在るのが怖い 何が怖い 自分の煩悩が怖い
好々爺の顔をしてみても中身は違う ただただ単純に違うのだ
「違うんだ」と叫びたくなる
叫べば、気の触れた老人が一人、そこに居た

浦島太郎の夢だったのに



映画「放浪記」を見た 林芙美子、そして私の祖母の事

2024年10月10日 19時50分45秒 | 小説/詩
 昨日、女流小説家「林芙美子」の生涯を描いた昭和37年の映画「放浪記」主演、高峰秀子を見た
若き日の宝田明、小林桂樹、加藤大介、草笛光子、田中絹代、中谷昇、飯田蝶子など豪華キャスト、舞台では森光子が30年近く2017回まで公演したことで有名。
大正末期から昭和初期にかけて芙美子がその生活を(主にカフェーの女給)赤裸々に綴り、それをもとに書いた小説「放浪記」で昭和5年に刊行された。
これで一躍有名人気作家となって、貧乏暮らしにピリオドをうった。

私の祖母も、離婚して貧しすぎる家計を助けるため、一人息子を祖祖母に任せて鬼怒川温泉に住み込みで出稼ぎに行った
どんな仕事をしていたかはわからないが、その前の仕事が旅館の住み込み女中だったから、温泉旅館で仲居をしていたというのが一番だが、カフェの女給の方が稼ぎが良かったので、わが父は「お袋はカフェの女給をしていたかもしれない」と私に言ったことがある。
「放浪記」を見て、カフェの女給で稼ぐ芙美子の姿と、祖母の姿が重なって見えた、祖母は明治34年生まれで、芙美子は36年生まれだから歳も近い
祖母は、ここで東京日本橋兜町(当時は日本橋区三代町)6歳年上の粋で怪しげな自称「株のブローカ―」と知り合って、東京に出て同棲を始める
こうした生きざまも、「いい男」を見ると夢中になってしまう芙美子に似ている気がする。
同棲を始めた翌年には小学五年生だった父も東京に呼び寄せて、御徒町の一軒家で暮らし始めた。
芙美子は1951年に47歳で東京新宿区下落合で亡くなった、祖母は1945年に44歳で東京亀戸で東京大空襲で夫と共に死んだ、遺体は見つかっていない
芙美子は信州に疎開していて空襲からは逃れている。

子供の時から苦労を重ねた姿も芙美子と祖母は似ている
芙美子は子供の頃から母と行商して歩いたが、志あり、文才ありありの才女だったから、尾道に住み着いてからは女学校に入れた。
祖母も、豊かだった家が破産して一家離散、母、祖母と女三人だけで関東を彷徨い、宇都宮で正体不明の男と母が結婚して、古河に落ち着いた
落ち着いたけれども男運に恵まれず貧乏のどん底を味わいつくした
そして最初に書いた通りの人生。
芙美子と違い、祖母は文才などなかった上に、貧乏どん底で学校もどうだったのだろうか?
ただ非常に気の強い人で、きっぱりさっぱりした男勝りだったようだ、そこも芙美子に似ている。

今日、見つけたのだけれど芙美子も、祖母も母親の名前が「キク」というのも同じで、呆れてしまった次第である。
さて、映画を見て林芙美子の人生にも触れたら今度は「放浪記」も読んでみたくなった、こちらは単発だから「ムーミン」を読み終わったら「源氏物語」の前に読んでしまおう。

栗ご飯のおにぎり
 



ムーミンの戦争と平和と愛

2024年09月08日 19時24分17秒 | 小説/詩
原作者トーベ・ヤンソン(1914-2001)の、ムーミンの本を買った
「ムーミン」と言えば、お子様向けの童話か小学生向けのアニメだと思っていたが、テレビ番組「アナザーストーリーズ」で見て、大人へのメッセージであることを知った。
「ムーミン」のベースがヤンソンの母国「フィンランド」とレーニンのソビエトとの戦争であったことも知った。
全部で9巻あって、1945年の第一巻「小さなトロールと大きな洪水」から1970年発行の第九巻まで25年間かけて書いている。
第二巻(1946年)の彗星衝突の話は、日本では敗戦の翌年昭和21年であり、長崎、広島の原爆投下を、彗星の地球衝突で表しているとのこと
しかも長崎に原爆が落とされた日はヤンソンの誕生日でもあった
1巻、2巻は戦争を非難しているのは明らかで、事実ヒットラーやスターリンの風刺画を何度も書いて発禁処分にもなっている。

因みに、フィンランドとソビエト(現、ロシア)の戦争とは1939年から1940年に起こった3か月間の戦争
ソビエトが国防上のことからフィンランドに領土交換を持ちかけたが、不平等な提案であったからフィンランドは断った
するとソビエトは軍事力をもって力で攻め取ろうと侵略戦争を仕掛けて来た、現在のウクライナ戦争に似ている
軍事力でも人口でもフィンランドはソビエトに対抗できる力はなかったが、国土を守るために戦った。
初戦は楽勝気分のソビエトが、冬でもあり必死のフィンランドに手痛い敗北を喫したが、本気モードになったソビエトは物量作戦で勝利した
しかしフィンランド軍の死傷者約7万に対して、ソビエト軍の死傷者は33万という信じられないものだった。
フィンランドはカレリア地方などをソビエトに奪われた、第二次大戦では、単独で失地回復の為、ソビエトと再び戦い負けたがソビエトに侵攻したドイツとは同盟しなかった
しかし連合軍のソビエトと戦ったために、日本同様枢軸国と見なされた

トーベ・ヤンソンは戦争を憎み続けた、そんな中からムーミンは生まれたから、テレビなどの平和なムーミン谷ではなく、原書は暗くて辛いムーミン谷から始まっている。
これが私が今頃急にムーミンの原本版を読みだした理由だ。

ヤンソンは、近年になってようやく日本で取り上げられている同性愛のマイノリティであり、フィンランド人でありながら一割に満たないスウェーデン系で、人種的マイノリティでもあったと言う
でも彼女は自分の心に従い、自由に生きた
そんな孤独を作品の中で「孤独な冷凍魔物?」として登場させている。

ヤンソンのムーミン作品は、この番組を見た限り人生の教訓や生きざま、愛と孤独、人とのつながりを描き、戦争と独裁者を憎む
私が、すぐにムーミンの原作に飛びついたのはそんなわけだ。

この全9巻を読み終えたら、今度は「源氏物語」を読んでみる
とは言え、古典を読み切ることなど無理なので、あらすじ的な漫画で大筋だけでも知りたいと思っている
源氏物語には795首の和歌が書かれているという、当然ながら登場人物がそれぞれに詠んだことになっているが、登場人物の心情を紫式部がストーリーの一部として一人で書いたのだから恐れ入る。
ちょっと今思ったのだけど、源氏物語を映像化したらミュージカルになるのでは? 大河ドラマで「ミュージカル源氏物語」をやらないだろうか。

詩だけは学生時代に興味をもって書いても見たが、俳句、川柳、和歌、短歌などは全くの無知であるから、源氏物語の訳本全集などとても読む気にはならないだろう
とりあえず、質の良い漫画であらすじだけでも捉えておいて、機会あれば知ったかぶりをしてみようと思う。


寺内タケシ / 霧のカレリア