神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

夢の話

2025年01月25日 08時16分31秒 | 知人・友人
 昨日は午前2時半に目が覚めて眠れなくなってブログ書きをしたと言ったが、そのあと4時半になって眠気が襲い寝たら、目が覚めたのは8時半であった
睡眠量はばっちりと取り戻した。
昨夜は久しぶりに22時に寝た、今朝は7時に目が覚めた。

ずいぶん夢を見る、このごろは特に夢を見る
この前は以前住んでいた家の真ん前の家と住人が登場した、
今朝は以前住んでいた家の向かえから二軒下がった家の人の夢を見た
もう何十年も前に40代くらいで亡くなった人が登場、私が夜8時ころに電話したら「なんでこんな時間に電話してくるんだ迷惑だ」とすごい剣幕で怒ってきた、私も電話するにはまだ常識的な時間だと反論したが、異様な怒り方だった。
もう一つの夢は、海が見える山の中まで歩いて行って(そこは散歩というにはかなり遠いところらしく、しかし私は軽い足取りでそこにたどり着いていた
人がたった一人しかいない広場に出て、その人はかなりの知識人らしく哲人のようになにか理解できないことを静かにやっている
私もなんだか穏やかな気持ちになっていた
そして帰ろうとしたら、親戚のYさんもどこからか出てきて「おれも帰る」と言って連れ立った
だが少し行くと木枠で囲まれた大きな露店温泉があって、大勢の人が入りに来ていたので、私とYさんも入ることにした
温泉の管理の人が「1300円だが今日は無料だ」と言っていた
入ってみると冷たくはないが水風呂であった
私はYさんに「いい温泉だが、国道から少し遠いし、1300円では人は来ない、600円くらいにすれば大繁盛だよ」などと言っている
「でも、このごろは歩くのが楽しくて、いくら歩いても苦にならないし、どんどん距離も伸びている」などと話した・・・そんな夢をみてから目が覚めた。

昨日は友達に会って3人で二時間ほどお茶を飲みながら時間を過ごした
久しぶりにたくさん喋った
今朝起きたら、いつもと違う感じで、体が軽い気がした。
昨日の夕方からは親戚の通夜に参列した、父の従妹で97歳だった
そこでもう一人の父の従兄の様子も聞いたら今年で102歳になる、しかも自力で歩いているそうだ、おそらく市内の男性で一番の長寿ではないだろうか。

同級生旅行会メンバーは他県にも何人かいるが、その一人が最近亡くなったとラインが入った、女子メンバーである74歳
夫も同級生で、高校時代二人がけんかをすると私が取り持ちに走ったりしたものだった、2年前には一緒に旅行もして思い出話も楽しくしていたんだが
冥福を祈るばかりである。

私が好きな蓼科山












きっかけ

2024年10月04日 06時50分32秒 | 知人・友人
 自分の仕事、結婚相手、趣味、友人、振り返ればそれぞれに出会いのきっかけがある
嘘か本当か知らないが、ニュートンはリンゴの木の下に座っていたから引力を発見するきっかけになったし、豊臣秀吉は家出した子供の時、橋の上で寝ていたから蜂須賀小六に出会い、その後の出世物語のきっかけになった(完全な作りごとだが)

こんな大物のきっかけは別として、我々一般人にもいろいろなきっかけがある
準親友ともいえるMと友達になったきっかけは「ヒッピーヒッピーシェイク」のレコード
高校時代、クラス一の暴れ者、停学の常習だったM、教室にレコードを一枚持ってきて、周りの連中に次々と「この歌を知ってるか」と声をかけるが、誰も知らない、第一Mとは関わりたくない
そんなところに、なぜか私にまで聞いてきた、一度も彼と話したことはなかったが・・・私は、この歌を知っていたから、ワンフレーズだけ歌ってみせた
Mは目を丸くして、初めて手ごたえを感じて喜んだ
あれが現在名古屋に住むMと今でも連絡し合う仲に発展したきっかけだ
それがきっかけで「へたくそバンド」まで結成したのだった
それがまたまたきっかけで、やんちゃ坊主のTMとも未だに付き合っている
初めて告った同級生女子に見事に袖にされて落ち込んだとき、二人は我が家に来て慰めてくれた
一緒に風呂に入って、飲めない酒を飲んで慰めてくれた。

その後は父が経営していたミニスーパー兼料理店でMは結婚式をして、料理は私が作り、そのまま披露宴にも招かれた
Mの奥さんとのキューピット役も高校時代に何度かやったものだ
二人共、ガンを患った、この点でも私とは気が合う。

星を見ることが好きになったきっかけは、中学生の時、父が東京へ行った時の土産に口径4cmの屈折望遠鏡を買ってきてくれたのがきっかけだ
あれから流星観測、黒点観測、ガリレオ衛星の位置、土星の環、スバル星団の青白い宝石に夢中になった
観測をやめたきっかけもある、近くの友達と望遠鏡もって深夜住宅街の外れの田園地帯に行っては星を見ていたが、その夏、深夜に覗きの不審者が出て、父に「まちがわれるから」と言われて行くのをやめた
家の二階窓から観測していても、それも間違われそうでとうとう観測をやめてしまった
結局、きっかけはあっても縁がなくて続かないこともある

テレビをライブで見るのはドジャースと大相撲くらいで、ドラマやドキュメンタリーは全て録画しておいて、コマーシャルを飛ばしてみる
あまり面白そうでなかったら倍速で見る、なんせ時間が惜しい、くだらない番組に時間は費やせない

だが、テレビ番組の中にもきっかけはおこる
今、ムーミンの本を読みだしたのも、テレビでトーベヤンソンの特集があったからだ、それを見てムーミンを読んでみようと思うきっかけになった
私の人生の中に新たな世界が開けたきっかけだ
もっとすごい人なら、これをきっかけに童話作家になる人もいるだろう
「光るきみへ」がきっかけで、歴史好きの私が唯一興味を持たなかった平安時代を知ろうと思ったきっかけになった
平安時代は天皇と藤原氏の時代でもある、そしてもっとも長い平和な時代でもあった、そして世界初の女流文学者が競い合った時代でもある
この番組をきっかけに「源氏物語」を読んでみようと思うようになった
ムーミンを読み終えたら「源氏物語」だ、最初は漫画であらすじだけでも、と思ったが、漫画をきっかけにするよりも直接原本小説を読んだ方が、時間と費用の節約になる
ということでムーミンの次は源氏物語を読むと言う楽しみが出来た、これは長編なんだろうな、楽しみだ
昔、山岡荘八の「徳川家康」30数巻を読んだこともあるから大丈夫だろう
高校生の時「千夜一夜」を全10数巻買って読み始めたが2巻くらいでくじけたこともあったっけ。

歴史に名を残すような人たちのきっかけも色々聞いている
それは全く思いがけないことがきっかけで、そこから政界、財界、学問の道に入った人も多い
何をするにもきっかけはある、人との偶然の出会い、自然との出会い、小さな昆虫や植物との出会い、一冊の本が人生を変える、どんなきっかけと出会うかで良くも悪くも人生さえ変わってしまう、できればよいきっかけに出会いたいものだ。

地物の水ガレイ、これを塩焼きか、薄醤油と味醂で煮たのが大好物です
コラーゲンとろとろがたまらない





親族と法要のこと

2024年09月22日 11時55分49秒 | 知人・友人
 昨夕は遠い親戚の通夜式に参列した
母の父親の、実家の兄の、次男坊Yさんの妻Hさんが亡くなったのだ、81歳だった。
この亡くなられたHさんの実家は魚屋さんで、Hさんは長女だった
Hさんの父親Kさんは魚市場の番頭だったが、父より6歳くらい年上だった、昭和23年に23歳の父が東京上野の車坂の下宿から、この町に流れ着いたときに初めて親しく声をかけてくれて、仕事が無くて途方に暮れていた父に魚の行商の仕事を斡旋してくれた恩人だった。
父の人生と私の人生はKさんによって、ほぼ決まったと言って良いだろう。

Yさんは私の母の従弟である、先日のブログに書いた病院で会った大腸がんの先輩がこの人である
父は、このYさんと恩人の娘であるHさんを引き合わせて仲人をした
だから、どちらも縁深いのだ。

私から見ると父方と違って、母方は母の兄(伯父さん)家しか付き合いがない
しいて言えば、このYさんと伯父さんの家の法事で会って話すくらいだ
ましてYさんの家族や兄弟の事は全く知らない、母の場合は伯父さん、伯母さんの家(孫家)だから親しくしていたが・・・

でも昨日、今日と葬儀に参列してみて、ほとんど知らない人だったが、あれこれ話しかけて聞いてみて、誰がどんなつながりなのか、ある程度分かった
Yさんは5人兄弟だった、Yさんは3番目で82歳、一番上は姉で92歳で健在だと言う、一番下は女で私と同年代だそうだ
そして長女の娘(64歳)とも初対面で話したし、Yさんの二人の娘とも話した
この人たちは私と又従兄弟(はとこ)になる

もう、この歳になって親戚を広げる必要もなくなったが、薄いけれども同じ血を引く人たちと会えるのは嬉しい。

人間には、こうした血縁とかに関心がない人と、私のようにこだわりがある人とが半々くらいでいるようだ
私のたった一人の従兄(母の実家の一人息子=同年齢)は関心がない方で、先般の母親の葬儀も、従兄弟である私と妹を呼んだだけで、それ以外の親戚には一切知らせず簡素に葬儀を終わらせた
今度のYさんの奥さんの葬儀に連絡をもらったにもかかわらず来なかったし
一周忌を始め、母親や父親の法要は今後全然やる気がないらしい
これだけさっぱりしていると感心する。

私の父方の方は本家を中心に「はとこ会」とも言うべき鉄壁のつながりがあって、葬式、法事には今でも「はとこ」が集まる、もう一段階上の「いとこ会」はほとんど居なくなった(但し一人だけ101歳で長生きしている=男)
はとこが、まとまって交流を続けているのも珍しいだろう、年齢は60代、70代である、
これが続くのも、それぞれの家が半径2km以内に集中しているからだ
他にも、はとこは居るが、千葉や大阪からもやってくるから、恐るべしである
さすがにこの後の代は交流がない。



この広い野原いっぱい - 森山良子






会津と阿賀野川と阿賀町

2024年09月16日 06時17分46秒 | 知人・友人
 阿賀野川(あがのがわ)は福島・栃木県境の南会津から発して阿賀川となり、福島県を南北に縦断して新潟県に入る
新潟県境からは南東から北西へと流れを変えて阿賀野川となり、広い新潟平野を通って新潟市の東端から日本海に流れ込む。

新潟県には日本一の長さを誇る信濃川も流れている
信濃川は長野県の北アルプスのあちらこちらの谷間から発して、犀川でそれらは集まり、長野市の川中島で千曲川に合流する
千曲川は長野県の最南部、埼玉県の秩父との県境から流れ出す
千曲川は飯山を通り新潟県津南町に入り、そこで信濃川となる
深い渓谷を悠々と流れてやがて小千谷(おじや)市あたりで越後平野に出て、長岡市を通り、新潟市の中心部から日本海にそそぐ。

信濃川は269km、阿賀野川は210kmの長さがあり、いずれも日本を代表する大河だ
阿賀野川の河口は松浜橋あたりから見ると、まことに雄大で広い川幅いっぱいに水をたたえて流れている、その迫力は決して信濃川に劣らない。

阿賀野川は、上流に向かってもその川幅を変えることなく流れている
阿賀野市までが平野部で、そこから南は左右に山が迫り渓谷の景色に変わる
国道49号と磐越道が谷間や、山の上、トンネルで通っている
阿賀野川は、そんな中でも有り余る水量を切り立った大渓谷に送り込んでいる
三川村から津川町までの阿賀野川の風景は圧巻だ、途中国道と川の水面が平行に見えるような景色にも出会う
阿賀野川は深く大きいから阿賀の辺りではめったに氾濫しない、そのかわりじわりじわりと水位が上がって来て国道を覆いつくすことがある

阿賀野市から数キロ、新潟市から約50km南に下ると、阿賀町に到達する
平成の合併で、福島県境の三川村、津川町、鹿瀬町、上川村が合併してできた町で、福島県西会津町と接している、人口は8000人ほどの小さな町だが面積は広い
阿賀野町にしたかったらしいが、先に下流の水原町、安田町などが合併した平野部の町に、阿賀野(市)を先んじられて、阿賀町になったらしい。

阿賀町は明治以降に福島県から新潟県に編入となった
普通、この狭い谷間には国道49号線しかないと思われがちで、みなそれを利用するが、それは津川を経由するメインで、実は鹿瀬を経由する459号が阿賀野川沿いの道路である
多分、江戸時代はこちらがメインだったのではないだろうか?
そのまま西会津の北に入って喜多方、裏磐梯、米沢に抜けていく重要な道路だ。

阿賀町の中心の町は津川町で、江戸時代には新潟津と会津を結ぶ中間点として活気があった、津川の津から新潟までは水運で、会津には陸運で物を輸送する拠点だった。

今の我々には想像もつかぬが、江戸時代前後には川を使った水運が日本のいたるところで活躍していた
海から50km、100kmも内陸に向かい、途切れれば運河を作り、あるいは陸路でつないで物資の輸送に役立てた
馬の背に荷物を積んで行くのとは問題にならない輸送量を誇った
利根川水系、那珂川水系などと同様に信濃川、阿賀野川でも水運は利用されていたのだ。

さて、阿賀町を越後と見るか、会津と見るか
そんなことを考えるのは今どき私くらいのものだろう
何故考えるか、私には切っても切れない阿賀町出身の友人がいた、惜しいことに数年前に71歳で故人となったが、彼の姿はどう見ても越後人ではなく、会津人だった。

新潟県西端と、富山県東端が僅かな距離であっても関東系、関西系に極端な言葉の違いがあるように、ここでも越後系と会津系の違いは明らかだ
今の時代は、もうそんな違いを若い世代に見ることはできないだろう
老人と住む孫世代が核家族化で極端に減ったからだ、そしてテレビなどで東京や大阪の都会言葉が全国の田舎まで流れているから、もはや狭い日本は全て共通語となった。

だが、当時の友人は初めて会ったのが18歳だったが、言葉が聞き取れなくて困った
アクセントはさほどではないが、方言が聞き取れない、無理もない彼と私が育た町とでは300kmも離れているのだから
これが東海道圏に照らし合わせれば、どのくらいかわかるであろう
だから一緒に暮らした数年間(住み込みで板前修業)、深い会話をした記憶がない、彼といる時はほとんど酒を飲んでいる時だったからだ
酒を飲むと、ますます彼のわかりずらい、口にこもったような言葉は度を増してくる、ズーズー弁と言うのではないが、独特の訛りか?

言葉は個人差があるから参考にはならない、そもそも会津の人と話したことが無いから彼の言葉が会津弁かどうかもわからない
ただ、幕末の会津のドラマでは、会津人の愚直、実直な生きざま、主の為に死すという武士道精神が描かれている
あれを参考にしたなら彼が会津人であると思える
常に正義が前に在って、男らしく、そして誇らず、奢らず、目立たず、そして大酒飲みだった(飲みすぎが原因で脳梗塞が命取りだった)
俗物で欲深い私は、何度も彼と比べられて料理長に怒られたものだった
彼は純粋で、若山富三郎みたいな風貌で飲んだくれの料理長のお気に入りだった。

今でも、二十代の彼と風吹きすさぶ日本海で撮った写真が置かれてある
眉毛が太い男らしい風貌で、爽やかに、にこやかに笑っている。











久しぶりの雨の一日

2024年04月30日 17時58分56秒 | 知人・友人
 朝は6時に起きて早速庭を見たら、物干しざおに雨粒が滴っていた
「これはいけない」慌てて、干しておいた魚を取りこんだ。
昨日はずっと曇りで、寝るまでも降っていなかった、予報を見たら明日の夕方までずっと曇り予報で、降水確率は40%
雨が降らない60%にかけて干物の魚を夕方干したのだけれど、これが大外れ
雨に濡れた魚を洗いなおして、塩水につけて今日の午後に冷凍した。
大好物のヤナギカレイだったのが残念、塩焼きでも美味しいが干物にすればもっと美味しい。

一日中霧雨が降っている、畑の野菜や花はきっと喜んでいるだろう
野菜と言ってもまだスナップエンドウを植えただけで、そのほかの苗は用意してあるが、植えるのは温かくなる5月6日と決めてある。

今日はこれから6名の仲間たちと、電車に1時間半ほど乗って一年ぶりに先輩に会いに行く
先輩はもう77歳くらいになるのだろう、数年前にがん手術をして以来げっそり痩せてしまい、今は歩くこともなかなか大変らしいので、先輩の家で会うことにした。
その昔、奥様が腎臓病になって、その時も自分の腎臓を一つ移植したのだった。
残念ながら奥様は甲斐なく亡くなられた、お気持ちは私にはわからないが、それからも変わることなくお付き合いさせてもらっている。
全員で10名ほど集まる、久しぶりにみんなで笑い合いたいと思っている。


雨に濡れても  [日本語訳付き]   B.J.トーマス

友情と青春と宗教と

2024年04月02日 19時01分44秒 | 知人・友人
 日記の転記整理をやっていて思うのは
人生の季節ごとに友達がやってきて、友達が去っていく
青春の頃は「友情」「恋」「人生」「親友」などの言葉に酔っていて「愛」も「友情」も永遠だと信じていた
高校時代は自分は部員ではなかったが、女子ばかりの文芸部の部長と詩を書いたノートを交換したり、20ページも批評を書いたりして夢を語り合った




今になっても、そんな言葉に酔いしれる時間もあるけれど、「永遠の愛」も「親友」も「恋愛の情」と同じく(いっとき)心を支配した(本気)という幻であった。

「義理」「人情」を認め合った時に「友情は生まれる」、遊びだけの友達には友情は生まれない
どん底に落ち込んだ時、友情を知る、そう言う人に出会えた場合だけであるが
遠く離れて年賀状だけの便り、疎遠になっていくのは友だちではない
それは「ともだちだった」という、ほとんどがそれで、友情は毎日会っていないと持続できない

今の時代は、離れていても友情が続きやすくなった
それはスマホの普及によるもので、24時間いつでも話すことができるし、顔さえ見られるようになった
もはや遠距離は友情や恋の情を妨げる要素ではなくなった
友情でも恋愛でも、語り合うことが長持ちの秘訣だったのだ
しかも会う気になれば飛行機、新幹線、高速道で日本は狭くなった
時代と共に友達や恋人の持続度が変わっていくなんて

高校生の時にはクニッゲ、ボナール、ラ・ブリュイエール、、スタンダール、亀井勝一郎などの友情論、恋愛論、交際論、人生論、愛と無常をむさぼり読んだ
あれから60年近くたった今は、仏教について興味が湧いている
高校時代に読んだ「出家とその弟子」も読み返した、仏教は深い
宗教によっては他の宗教をすべて否定する、また金目当てのエセ新興宗教も多い、私は宗教を読むのは知識への興味からであって、信心の為ではない
私の宗教は、私自身が教祖で私だけの宗教なのだ、誰に強制されることも無い。




昔、一時的に付き合いがあった人が、私の現状を知って手紙をくれた
彼も健康面などで苦しんだ人で、今はある(大手)仏教に帰依して熱心な信者になったらしい、それで私にもそれを進めて来た
最初に書いた通りで、私は自分教の教祖であるから一度だけ返事は出したが、それ以後は互いの道を進めばよい
彼が信じる宗教は邪教ではない、真心と利他の心で私の人生を心配してくれている、そのことについては感謝している。

また別の友達も人生の岐路を今体験していて、新天地に移っていった
彼は週一くらいで連絡をくれるが、数日前から禅寺へ行って座禅をするようになったと連絡くれた
「それは新興宗教でもないし、自分を見つめることだから、とても良いことを始めたね、生まれる前は何もなかったのだから、すべてを真っ白にするのは良いだろう」と返事しておいた
「今度こっちへ来たら体験しますか?」というから、あいかわらず「自分は教祖だから」と冗談交じりに言っておいた
一時は世をはかなんだこともあったから、少しでも立ち直れるなら嬉しい。



現役高齢者

2024年03月28日 20時33分29秒 | 知人・友人
 人生の大半を商売に携わってきたので友達はやはり経営者や商売人が多い
サラリーマンの友達と言うと、大半は同級生か女性だ。

昭和の時代はサラリーマンは55歳か60歳前で定年を迎えた、私たちが60歳の時は既に平成の半ばであったから、55,60で定年が来ても再雇用が定着していて一時定年後65歳までは短時間、低賃金で働き、更に70まで伸びること少なくなかった。
町工場や、従業員10名程度の商売だと70になっても人手不足もあって嘱託という名前で再々雇用もあった。
私も同級生を数人雇用したが、一番長かった人は、わが店に45年勤務して店を畳む71歳までいた、まさに「相棒」であり「弥次喜多道中」と言える男だった。今も介護老人施設で働いている。

今は73~74歳だが、同級生は従業員数名の個人経営の場合、未だに経営者として働いている人がいる。
ほとんどが飲食、技術系、昔風に言えば家内職人だが自分が一番の技術と経験があって、離れられないという。
しかし彼らと話すと「辞めたいがやめられない」「あそこが(体)悪い、痛い」と話すことが共通している。
それだけではなくて、金銭的には余裕があっても、後継者がいない、辞めた後何をしてよいかわからない、というのもある。
弁当総菜業、工務店、土木関係、行政書士、司法書士、損保代理店、宅配業者、貴石販売業、スナック経営、美容院、理容業、配管業、不動産、鮮魚商、食料品店、数えだせばキリがないほど70過ぎで現役をつづけている。
これも高齢化率が40%に達した田舎町ならではの特性かもしれない、投資もしない、社員も増やさないから発展もしなければ倒産もしないで自然消滅まで続ける、これが田舎の商人の実態だろう。

関連会社10数社を親から引き継いだ同級生もいるが、ここまでくると各社に優秀な城代家老がいて彼自身は「御名御璽」程度しか関わらないで、ほとんど一日手持無沙汰でいるようだ
去年、たまたま会って30分ほど立ち話をしたが「君は辞めてよかったなあ、俺もやめたいんだけどなあ・・・」というから
「あんたは立派な後継者がいるんだから、いつ辞めてもいいんだろ、もう先は見えて来たから、奥さん孝行で温泉巡りとか、世界一周旅行するとか、ゴルフ三昧でもいいんじゃないか」と言ったが、ヘビースモーカーの彼は「何もしたいと思わないんだよなぁ」とため息交じりに言った
億千万の資産があるのに、私でもできる温泉旅行さえやる気にならないというから、わたしからみたら(勿体ない話、勿体ない人生)に見えた。
もっとも本人はそれで満足なんだろうが?

社員千人以上の地元工場に今も勤務している同級生がいる、早い者は60歳で定年になっているから、これは特殊だ、しかも奥さんに聞いたらフル出勤だそうだ、役付きでもない平社員なので、いったい何をしているのか聞いたら、外国人労働者の教育係なのだという、学生時代はチャラ男で、そんな風に見えなかったが、人の才能とは人生を生きていくうちに備わっていくんだと驚いた。





もらってうれしい年賀状

2023年12月13日 05時47分44秒 | 知人・友人
 そうだ、そうだ! 今年も年賀状書くのを忘れてた
ここ3年間ずっと年賀欠礼が続いていたから、もう存在すら忘れていた

だけどちょっと気持ちが揺れてる、世間の風潮が年賀状廃止の方向に傾いていて、前にも書いたけど同級生辺りから、新年のあいさつはLINE
そんなことを聞いたら「なるほど、それもありかな」って思う

だけどねえ・・・年賀状ってなんなんだろう
子供の頃というか大人になるまでの間は今年は年賀状、何の写真にしようか、どんな挨拶にしようか考えるのが楽しかった。

元日になると、年賀状が届くのが楽しみで、好きなあの子からくるかな?なんてワクワクして待っていた記憶がある

それと切手シートしか当たらんけど、小正月の15日の抽選が楽しみだった
あのワクワク感は、今、年賀状を辞める人には無かったんだろうか
・・・云 そうじゃないな
私も今では、あのワクワク感が薄まっている・・齢のせいなんかわからんけど

それに、そう言う年回りになったのか「年賀欠礼」が多すぎて誰が誰やらわからんようになった
そういう対処にもLINE一斉は便利が良いかも

すべてラインというわけにもいかんし、もう惰性や忖度で書くのはやめて、本当に消息を伝えたい人だけにしよう
そうだ、そうしよう

「会うことがない人には出す意味がない」というのはどうかと思う
なかなか会えないからこそ、年一回の年賀状で消息を伝え合う
そう言うことなんだと思う。
少ない枚数なら丁寧な手書きもできるし、心もこもるだろう

いつまでも手元にとっておきたい知人、友人からの年賀状は今でもアルバムに張り付けてある
そんな年賀状を、私も今年から送りたいと思う。












































同級生でしんみりと語り合った

2023年11月25日 09時46分52秒 | 知人・友人
 昨夜はいつもの仲良しメンバー(男3、女2)で一杯やりながら語り合った。
Y子が亡くなってもう一周忌が終わった。 5人でY子宅を訪れて仏壇にお参りした後、旦那さんと息子さんと30分ほど、あれこれ思い出話をした。
一周忌には40名以上が参列して式場の社員が「最近の葬儀の人数より遥かに多い一周忌参列者は珍しい」と目を丸くしていたそうだ。
Y子は県の体協の幹部もしていたので、そんな広い人脈と人懐こい性格、面倒見の良い親分肌だったから、慕う人も多かったのだろう。

そのあと居酒屋で軽く飲みながら3時間ほど語り合った
最初は70過ぎてからの体の変調を赤裸々に語り合い、自分だけではないと言う年相応の症状にお互い一安心した。
参加者のA子は一度も声を荒げたことが無い優しい旦那様が難病で寝たきりになり、ずっと看病してきたオシドリ夫婦
しかし数年前に若くして旦那様は亡くなって、今は一人暮らし
B子は数十年も病弱な旦那様の介護をしてきたがいよいよ要介護5になり、仕事を辞めて、自分のことは一切あきらめて旦那の面倒をみて忙しく暮らしていたが、Y子の呆気ない最期を見て、ようやく献身的介護だけでなく、自分の楽しみもしなくては悔いが残るとの思いに至った。
旦那を説得してショートスティを利用するようになり、こうして夜でも友達との楽しい時間を持てるようになった。

Cは食品関係の自営業を家族と営んでいるが、働きづくめの生活
腰を痛めて手術してからは歩くのも難儀して、その後には転倒して腕を骨折するなど災難続きだが、商売を辞めるにやめられないと、未練なのかムチ打って家族と頑張っている。
つー君は畑仕事やら、孫の成長を楽しみに暮らしているし、私はと言えばブログに書いた通りの生活をしている。
人間いろいろ、人生いろいろ、たまに集まって近況報告するのも刺激となって良い。

今朝の食事



義兄の田で作られたコシヒカリ みそ汁=妙高産のなめこ、つー君にもらった大根とネギ、豆腐、麴味噌
地元の蕪の甘酢和え  越中黒部の昆布巻かまぼこ 醤油も黒部の甘口刺身醤油