神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

明治維新の整理(19)

2018年01月31日 21時08分49秒 | 明治維新の整理

越後戦線では長岡城がとったりとられたりの攻防が繰り広げられていた

しかし多勢に無勢、長岡城は再び官軍の手に落ちた、そして長岡藩の家老、河井継之助は

重傷を負い、家来に運ばれて越後と会津を結ぶ難所六十里越えを越えて会津に向かって

敗走していった。 しかし只見の村において河井はついに力尽きて亡くなってしまった。

この男も生きながらえば、新しい日本の一翼を担う力量があっただけに惜しい事であった

こうして日本国の人材が志し半ばで倒れていく例はいとま無い。

吉田松蔭、高杉晋作、久坂玄瑞、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、・・・・

だがまだ戦いは続いていた

 

今は只見線と平行して走る国道252号線のルートとなっている六十里越、私も河井と

逆ルートで会津から長岡に行った事がある。 只見川に沿った谷間の道は曲がりくねって

途中、只見ダム、田子倉ダムを経て高度をどんどん上げていく、そして要塞のようなスノーセットが

ひときは高いところに見えてくる、ここまで登ってきてはじめて「どえらいところに来てしまった」という

後悔の念が沸いてくる、だが本当の六十里越えはトンネルの更に上にあるのだから、敗走する

長岡藩士の心中やいかにと思うのであった、また途中の寂しい只見の村で僅かな広がりを見せる

田園、そこに河井継之助終焉の地の文字があった。

しかし小藩ながら官軍の攻撃を4ヶ月も足止めした長岡藩の奮戦は後世に語り継がれている。

 

会津の地は、大軍に攻められると不利な場所だ、なぜなら会津盆地から放射状にいくつもの街道が

広がっている、すなわち完全に守るためには兵を多くの地区に分散しなければならない

仮に兵が4000人いたとして城を空にしても八カ所を守備すれば一カ所あたり500人しか割り当て

出来ない、そこに敵が1000人、2000人と押し寄せてくれば不利は明らかだ

しかも一カ所が破られれば、そこに敵が殺到するから、全ての戦線から城に退却することになる

さもなければ挟み撃ちにあって全滅するからだ。

 

会津を守る重要な地がある、会津若松の南東およそ50km白河口、ここに白河城がある

僅かな官軍が占拠したが会津軍は取り返して、ここに反戦運動をして藩主を困らせた頑固な筆頭家老

西郷頼母が大将となって仙台兵などと守備していた、その数は2000前後だろうか、それがなぜか

浮き足立ち、わずか数百という官軍に追い立てられて、白河城を捨てて会津に敗走してしまった。

会津軍対官軍の緒戦にしては、あまりに不甲斐ない会津軍であった、官軍はここを占領したことで

攻め方のアイテムがいくつも増えたことになる、一方会津軍は守る場所の選択肢が増えてますます不利になった

 

太平洋沿岸、茨城県と福島県の境に北茨城市がある、そこに平潟港という港がある、昔は足の踏み場もないほど

アンコウが獲れた、私も若い頃、真冬にこの町の民宿に泊まってアンコウ料理を満喫したことがある

この平潟に官軍が上陸した、そして磐城平藩をを攻めて降伏させ、三春に進軍すると三春藩は戦わずに官軍に

恭順した、この裏切りで会津藩はますます不利になった、そしてその勢いで主力軍が不在の二本松城を攻めた

老人と女と少年しかいないという二本松城は瞬く間に落城、二本松少年隊の悲劇が会津の白虎隊の悲劇と同じく

今に伝わっている。

ここで官軍は会津か仙台かどちらを先に攻めるか軍議を開いた、結局最初からの目標であった会津を攻めることに

決定した。

会津若松城は猪苗代湖の西、広々とした会津盆地の真ん中にのっぺりと建っている、城の周りは堀が巡らされ

守りは固い。 堀の外側には家臣達の屋敷が四方八方に広がっている

敵がここまで来たときは籠城戦しかないので、会津軍は四方へ兵を出して要所で敵を待ち受けていた

会津は盆地なので、どちらから来ても峠を越えることになる、だから峠の上で守れば有利に展開できる

 

会津藩では国の危機と言うことで15歳から60歳まで藩士を年齢別に編成して、それぞれ白虎隊や朱雀隊

などと名付けた。

そして会津の武家の妻や娘も勇敢にも娘子軍を編成して、敵に気取られぬよう男装をして長刀(なぎなた)を得物に

戦場に出て戦ったのである。

こんな守備体制をひいていたが官軍の攻撃は性急で、しかも会津軍の弱いところを攻めてきたため、守備体制が

整わぬうちに防御線を破られてしまった、そのために橋を落として官軍の進行を遅らせることも間に合わず

みな城に向かって逃げ出した、城下に住む武家の家族にも城内に入るようにと伝えられた

だがそれ以上に官軍の足は速かった、飯森山に陣取っていた白虎隊などは到底間に合わず、そこで待機した

城下も混乱を極めていた、もはや城内に入るには間に合わぬと知った女子供だけの家族(男達は戦場にいる)

は、死後に裾が乱れてはならぬと自ら足を縛り、こどもを短刀で突いて、女達同志で相手の胸や喉を突き合って

自害した。 家老西郷頼母の家族は一家6人だったか互いに突き合って自害したが、有名な話しが残っている

西郷家に官軍の武士が入ると凄惨な状況に思わず目を背けた、が、若い娘が一人死にきれずに、苦しい息の下で

目も見えなくなったのか「そこのお方は敵ですか味方ですか?」と問うたそうだ。

その官軍の兵士は情けある男だった、「安心なさい、味方です」と答えた

すると若い娘は「ああ良かった、どうかお情けを、私を刺して早く楽にしてください」と言ったそうだ

武士は胸に迫るものがあったけれど「わかった」と言って、娘を抱き起こしとどめを刺してやったという。

こんな悲惨な家族は会津城下の武家屋敷のあちらこちらであったと言うことだった。

お城の攻防戦が始まる前から、こうした非戦闘員の犠牲者がたくさん出た、これだけで会津戦争がいかに異常な

戦争であったかわかる、薩長は何が何でも会津を攻め落として松平容保の首を取らなければ維新は終わらないと

考えている、会津藩士にしてみれば、そのようなことをさせるわけにはいかない

他の城の攻防では決してあり得ないことが、絶望した会津藩内では行われたのだった、これは会津魂の教育が

女性にまで浸透していたからだろう、先の大戦での日本軍に「生きて虜囚の辱めを受けるな」という戦陣訓があった

そのことによって玉砕という集団自殺が絶望の島で相次いで行われ、未来ある若者を100万もむざむざ意味なく

殺してしまった、またサイパン島や沖縄では女性達の集団自決もあったのだ、会津でもそれに先駆けること

およそ80年前集団自決は行われていたのだ。

星亮一さんお著書を読むと、会津戦争による会津人の悲惨な末路がこれでもかと書かれている

西郷家に入った善良な官軍兵士ばかりではない、盗人、強姦魔のたぐいの兵がごまんといた

 

戦国時代の戦争と戊辰戦争の違いは何だろう、戦国時代の戦争は略奪戦争だ、敵の国を奪い、手柄をたてた

部下には領地を分け与える、領地には百姓がついている、百姓はモノそのものだ、いや働き蟻か

米を作って取り上げられ、飢え死にしない程度に雑穀や野菜を残してもらうくらいだ。

雑兵は敵の領民や女子供を捕らえてそれを市場で売る、この人達の家族縁者が金を払って引き取りに来る

なんともあきれた話しだが、こんな余録がなければ足軽達は命がけで戦場なんかに来ない。

もし殺されてしまえば防具から刀に衣服、みんなはぎ取られてしまう、それもまた戦利品として売却して

雑兵の稼ぎになる、戦場は一種の経済活動の場なのだ、これが戦国時代の戦。

だが明治に入っておこった戊辰戦争は戦国時代とは違う、敵の土地を奪う戦争でもなく、奴隷を得る戦争でもない

上部の連中には大名政治と封建時代を終わらせて、新政府を作るという大義名分と目的がある

しかし雑兵にはそんな大志はない、そして領地を得るわけでもない、20歳前後の若い身空で

遙々九州や山口県からやってきたのは何のためなのか、褒美と言えば略奪と強姦これしかない

これは戦国時代と何ら変わらない、だが戦国時代のように敵将の首を取っても何の足しにもならない、ひたすら

敵の男どもを殺して、敵方の商家や豪農、武家屋敷、町屋に押し入り、物品や金銭を奪い、若い娘を襲う

襲われて殺された娘や奥方の屍が屋内にも野外にも転がっていたという、敗れた国の民は悲惨である

こんな狼藉も幹部等は見て見ぬふりだ、それが雑兵の唯一の褒美だとわかっているからだ。

この無法ぶりが会津に住む人々に「薩長憎し」という感情となって100年以上経っても許す事が出来なかった

という話しは聞いたことがある、この話しは何かに似ていると感じる人もあるかもしれない。

 

会津軍は若松城に閉じこもり、攻め寄せる官軍に発砲したり、時に打ってでたりを繰り返す

その度に死者は増えていく、城外にうち捨てられた会津兵の遺体はそのまま捨て置かれて腐乱していく

自決したり暴行された女の遺体も同様に晒されている、城外は地獄絵図だった。

「八重の桜」の八重も女だてらに鉄砲を官軍に向けて撃ちまくっていた、鉄砲師範の娘だけはある

時に会津兵が敵の隙を見て城外に突撃する、そこに長刀の男装した娘子軍も加わって切り込んだ、

これは勇ましいことではあるが、飢えた狼の中に子ウサギが飛び込んでいくようなモノで、

薩長土佐の百戦錬磨の足軽達は喜んで「殺すな殺すな、生け捕りにせよ」と言って獲物に向かって行く

こうした娘子軍の婦女子は、会津藩幹部の婦女子が多かった、故に捕らえられた挙げ句自決した者も

あったのだ、哀れと言うほかは無いが、会津武士にとって領内の婦女子を守れないふがいなさに地団駄

踏んだ者も多かったことだろう。

だが会津の武士社会ではこうした結末であったが、会津の領民は会津藩に同情しなかった、会津藩の

政治は領民にとって良い政治ではなかったということだ、また会津武士も(主に雑兵と思うが)官軍同様に

敗退の際にも領民などに乱暴狼藉を働いていたと言うから、どの軍にしても雑兵は常識など通用する

レベルでなかったことがわかる。(無理矢理数あわせに連れてこられた農民やごろつきが多かったのでは?)

 

会津軍の中には城内に入らず、外に出てゲリラ化して官軍を襲う部隊もあった、家老の佐川官兵衛率いる

部隊もその一つだった、彼らは随分と官軍を悩ませた。

「会津若松城が燃えている」飯森山の白虎隊はそう思った、15歳から19歳の少年で編成されている白虎隊

会津藩の中でもっとも年少の軍隊である

浄火が燃えている煙を見て、城が落城したと勘違いした少年達は絶望して、互いの胸を突いて自決した

そんな中、自ら咽を突いたが死にきれず蘇生した隊士、飯沼貞吉は生き残り明治、大正を生き抜き、白虎隊の

最期を語り続けた。

約1ヶ月、城は落城しなかった、しかし同盟軍は次々に降伏した、頼りの仙台藩、隣の米沢藩も降伏した

残るは薩長のターゲットとされていた会津(福島)と庄内(山形)の2藩だけとなった。

会津城は落ちなかったが天守閣にまで官軍の砲弾が命中して穴だらけになって屋根が傾いていた

城中では官軍の砲弾にすっかり慣れて、砲弾の処理が上手くなったという話しさえある、しかし援軍が無くなった

今、最期の一兵まで戦って全滅するか、降伏するかの2つしかなくなった、そして天守閣に白旗が挙がった。

 

会津藩は徳川慶喜が恭順を示したときから同じく恭順の意を官軍に伝えた、だが官軍は許さず、何が何でも

攻め滅ぼすと息巻いた、これは憎しみもあるが見せしめにしようという意図もあったのだろう

だから徹底的に破壊と略奪を行い、城下の婦女子を暴行してそれでも手が出ない会津武士に充分悔しい思いを

させたことで、薩長の腹の虫が治まったと見える、だから降伏を許したのだろう、だが最期の仕上げがある

薩摩長州のかっての下級武士の足下に、徳川親藩の松平の殿様に土下座させ、侘びを入れさせる、これほど

薩長にとって愉快痛快は無いだろう、殿様という絶対権力者に恥をかかせる、悔しい思いをさせる、それで溜飲を

下げる、それがこの戦争の目的でもあったのか。

会津藩は徹底して痛めつけられた、そして再度言うが、この時の悔しさを100年以上持ち続けていた

それでも「チェスト関ヶ原!」、関ヶ原の屈辱を薩長は250年持ち続けた、会津はまだ半分越えたところだ。

 

一方、同じように標的にされた庄内藩は全く別の扱いを受けていた

庄内藩は日本海側有数の湊町を持ち、交易も盛んであったから豪商があり商業が発達していた、そのため

軍隊も長州並みの近代装備を持っていた、近隣の東北大名では太刀打ちできないレベルの差があった

庄内藩は連戦連勝、しかし庄内藩以外の同盟軍は会津も含め全て降伏してしまった

ついに庄内藩も降伏するしか無くなった。 庄内に乗り込んできた官軍は薩摩の西郷隆盛の部下、黒田清隆で

あった、黒田は西郷の意を含んでいた、そして降伏の儀式をかたどおりすませると態度を変えて庄内藩主

酒井忠篤に「酒井殿、此度の貴下の戦ぶりまことに見事でござった、孤軍奮闘とは貴家のことをいうのだろう」

と大いに持ち上げ、「貴家の戦後処分についてはわが薩摩は寛大に臨もうと思っている、じゃとん長州の大村益次郎は

強行な処罰を求めちょる、これさえ押さえてしまえば安泰でござる」と含みを持った言い方をした。

薩摩藩邸を焼き打ちした庄内藩であるから、会津同様の重い処分を覚悟していたので意外な言葉に藩主以下

驚いたのであった。

そして会津、庄内の2藩に官軍の判決が下った

「重罪人松平容保は罪一等を減じて死罪は許す、会津藩取り上げ、奥州斗南にて新領を与える」

「罪人酒井忠篤は、無罪とし庄内藩も安堵いたす」

紆余曲折あったけれど最終的にはこのような処分になった、だが会津藩が得た、斗南は過酷な寒冷地で

作物も育たない貧しい土地だった、そこに武士が農民として開拓しなければならなかった、多くの家族が脱落し

多くの家族が酷寒の地で亡くなったのは大河ドラマ「八重の桜」に詳しい。

庄内藩は最終的にはとがめ無しですんだ、それが西郷隆盛の情に依るものであることが後日知れた

酒井公を始め、藩士皆が西郷に感謝の念を持った、「戦争は江戸で終わったのじゃ、それより北は余分なこと」

と、奥羽の戦争を嫌っていた西郷であった。

西郷に感謝した庄内藩士は藩主や家老が藩士を引き連れて山形から遠く鹿児島まで訪ねて西郷の教えを

乞うたと言うことだった、そして西郷に信服した若い藩士2名が西南戦争で西郷軍に加わって戦死している。

庄内酒田に西郷を祀った「南州神社」があると去年庄内酒田の人と飲む機会があったときにお聞きした。

 

そして庄内鶴岡市と鹿児島市が姉妹都市だとネットで見た。 事実なら山口県萩市と福島県会津若松市の

険悪な関係と正反対になる。

会津攻めの最高責任者が誰かは知らないが、西郷であったなら、あのような惨い仕打ちは無かったのではないかと

思う、誰が会津戦争の指揮をとったのか?、軍の最高司令官は公家であるが、実際の戦闘指揮は武家である

総司令官西郷隆盛のあとを長州人大村益次郎が次いだのは至極当然だと思う、会津憎しは薩摩より長州の方が

遥かに強いからだ、最初から会津戦争は復讐戦だったのだ。

こうして奥羽の戦争は終わり、残るは江戸湾から発した海軍総裁榎本武揚率いる幕府海軍の軍艦数隻

平潟港に行き、そこから仙台に、そこで幕府の敗残兵、大鳥圭介、新撰組副長、土方歳三などを積み込み

宮古湾で嵐に遭い艦隊はバラバラになり、ついに北海道函館まで行き、そこで上陸、五稜郭に立てこもり

官軍と戦闘になった、そんな中で土方歳三は壮烈な戦死を遂げる

残された写真を見るとスマップ並みのハンサムで男らしい長髪のイケメンである

榎本は官軍の黒田清隆に説得されて降伏、生き延びて新政府の大臣なども務めた。

近代日本に欠かせない世界的な視野を持った男であった、もはや日本人同士が戦う時代は終わっていた

だが、その後も職を失った士族が全国各地で蜂起して崩壊していった、それは新政府がで来た後の内紛でもあった

長州では前原一誠(長州藩)、佐賀では江藤新平(佐賀藩)、九州全土を半年にわたって戦った西南戦争では

西郷隆盛(薩摩藩)みな、明治維新の官軍の指導者で、新政府では参議(大臣)になった人たちばかりだった

西南戦争を最期に国内戦争は終わるが大村益次郎、大久保利通、伊藤博文、など新政府の指導者も次々と

暗殺によって命を落とした(伊藤は朝鮮人によって暗殺された)

そして日清戦争、日露戦争、朝鮮併合、ロシアとの局地戦、日中戦争、アジア太平洋戦争へと日本は対外戦争に

はまっていく。                                おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(18)

2018年01月30日 09時17分38秒 | 明治維新の整理

官軍は北陸道、中山道、東海道3つの軍団が京を発して北上している

東海道は西郷隆盛が大将となって進んだが、心配の種だった桑名藩、尾張藩の抵抗もなく

あっさりと駿府(静岡)に達した、そこで箱根という東海道きっての難所が待っていた

ここに幕府方が防御陣地を構築して待ち構えたなら、官軍は負けないまでも手痛い損害を被っただろう

実際、幕臣の主戦派だった小栗上野介は、小田原城から箱根にかけて防御線を構築すべしと主張したが

恭順を示した慶喜によって罷免され、上州の領地に戻った。

その後、官軍に捕らえられた小栗は斬首された、この人は頑固な主戦派で、あったけれども開明的な

思想を持ち、生きていれば新しい日本の役に立てる人物だったと言われている

また、徳川家の埋蔵金伝説には必ず登場する人物でもある、彼が幕府の軍資金を運んで隠したらしい

という噂がある。

かって豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めたときにも北条方は伊豆から箱根、小田原一帯に城や砦を

構えて抵抗したのだった。

関東の僅かな佐幕藩が活動的に戦闘を行ったが、味方の裏切りが続いて退却していった、そんな中で

勝海舟の使者、山岡鉄舟と西郷隆盛が駿府で話し合い、その後難なく品川まで進軍した官軍

品川田町の薩摩藩邸で西郷と勝が膝詰め談判の末、江戸の無血開城がなった。

その時、勝は会談後、外に出ると薩摩藩士の官軍が両脇を取り囲み、憎しみに満ちた目で勝を睨んでいた

そこで勝は「西郷さんと談判が終わった、だがどう転ぶかはわからないよ、もし決裂したら、おまえさん達と

戦場でまた会うことになるよ、そんときゃあ、おまえさん達の銃剣が、オレの胸を刺すだろうよ、いいかい

これがオレの胸だよ、よおく見て覚えておきな」と啖呵を切って、悠々と通っていったという。

 

一方、中山道を進んだ官軍は途中で幕府に忠誠を誓った小藩のささやかな抵抗はあったが、者ともせず

進んだ、そして新撰組より早く、官軍は甲府城に入った、そのため負傷していた近藤勇以下の元新撰組は

野外で戦うことになり、官軍の圧倒的な攻撃に敗れて関東目指して落ちていった、しかし大将の近藤は

捕まり打ち首に処されて首が晒された、京都で多くの勤王浪士を殺戮し続け、鬼と言われた新撰組局長

近藤勇もここに生涯を閉じたのであった。

勝利した官軍は敗走する幕軍の残兵を追って、北関東へと進んで行った

 

北陸道を行く官軍は加賀の前田も抵抗せず、むしろ先導役として参加したので越中、そして越後へ進み

佐幕色強い越後でも最初の高田藩が官軍側につき先導、ついに長岡の手前までやってきた

長岡藩牧野氏は徳川家の幕臣であった、藩は傑物と評判の高い家老、河井継之助が率いている

河井の考えは中立であった、そのため官軍の幕舎へやってきて、「城下の通り抜け自由でござるが、お味方

いたしませぬ」と言った

官軍はこれから阿賀野川の深い渓谷を大軍で会津目指して進んで行くことになるので、もし会津の抵抗に

会っているとき、後から長岡兵に襲われれば袋のネズミとなってしまうので、これを恐れ、長岡藩に降伏して

会津への案内をせよと高飛車に言った。

交渉は決裂し、中立を望んだ長岡藩は仙台藩などから協力を求められていた「奥羽越列藩同盟」への参加を

決意した、これによって越後、及び福島以北の20数藩が同盟を結んで、会津藩、庄内藩の処罰撤回を官軍に

求める事になった、同盟軍の中心は東北の大藩、伊達政宗公以来の仙台藩伊達60万石。

最初は会津、庄内を許して欲しいという願いから作った同盟だったのに、あまりにも官軍の参謀達の高圧的な

振る舞い、また東北領内での婦女子への乱暴などが目に余り、官軍参謀を仙台藩が殺害したために、ついに

戦闘状態になってしまったのだった。

会津軍と仙台軍は長岡藩の応援に兵の一部を送った、官軍は苦戦の末に長岡城を占領した、ところが長岡藩は

なんと再び、長岡城を急襲して奪い返した。

奥羽では官軍に味方する久保田藩(秋田)、越後新発田藩などに対して、越後村上藩と連携した庄内藩が攻撃

庄内藩は江戸での戦闘経験もあり実戦向きだった、連戦連勝。

 

江戸では江戸城が官軍に引き渡されて、徳川慶喜は故郷の水戸に戻って恭順謹慎している

勝と西郷の約束は果たされたかに見えたが、上野の山に幕府の旧臣「彰義隊」2000前後が砦を構えて立てこもり

抵抗を示した。 総督の西郷は勝が責任を持って解散させるという約束を信じて、攻撃を踏みとどまっていた

ところが勝や山岡が説得に言っても「腰抜け! 裏切り者! 薩長の犬!」などとののしられ聞く耳をもたない

薩摩が攻撃しないことに不満をもった長州軍は大村益次郎が率いて彰義隊に攻めかかった

「しまった、始まってしもうた、こうなれば我らも攻撃せざるをえまい」後れをとった西郷の薩摩軍は、失態を晴らす

ためにあえて一番守りの固い敵陣に攻めかかった、夕方までには彰義隊は敗れてちりぢりになって水戸方面や

宇都宮方面に敗走していった。

宇都宮城や日光付近でも激しい戦闘があったが、官軍が勝って、旧幕軍や新撰組残兵らは会津目指して落ちて

行った。

官軍は長岡から会津方面、白河口、郡山方面、そして日光口からも攻め上っている 、いよいよ会津城をめぐる

戦闘が始まろうとしている

     つづく

 


明治維新の整理(17)

2018年01月27日 13時57分44秒 | 明治維新の整理

幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)、大男である.

体格、年齢、今で言えば、ダルビッシュ有だと思えばいい

幕臣のダルビッシュ有が、敵方の本陣へ「総大将西郷隆盛閣下にお目通り願いたい!、拙者は

朝敵の徳川家臣山岡鉄太郎である!」と大声を張り上げると、西郷の家来、薩摩武士が

「賊め、殺されに来たか」と色めき立つ、当時としては大男、しかも北辰一刀流の免許皆伝

肝っ玉も据わっている。 ぎょろりと見回せば、さすがの薩摩武士もたじろぎ

その時、ダルビッシュの横にいたサムライが「儂じゃ儂じゃ、西郷どんに取り次いでたもせ」

「なに!、おっ、おぬしはますきゅうではないか、生きておったのか・・・」

以下、薩摩弁、江戸弁ともに標準語に訳す

「総督、たいへんでごわす、ますきゅうが幕臣の山岡とやらをつれてきもした、総督に面会

したいといいとりますが」

「なに、ますきゅうだと、あやつは死んでおらんかったのか、生きておったのか、よし会おう」

西郷が出て行くと、そこに益満休之助、にこにこと笑っていた

「生きておりもした、もうしわけなか」「何を言うか、さすがはますきゅう、よくぞ帰った」

「あっもし・・・」大男が西郷に声をかけた、ダルビッシュ並みの山岡と西郷初対面

「おはんが山岡さんか、なるほど山の如く大きな人じゃ、それで幕臣がなんのようかな」

「まずはこれを、ご覧くだされ」手紙を一通

「おっ、これは勝先生の・・・・・」手紙を食い入るように見入って、一息

「山岡どの、ますきゅう、まずは中で茶など」

誰も中に入れず、3人で密室に入った

 

「勝先生の文では山岡殿の紹介しか書いてありません、子細は本人から聞くようにとのこと、

山岡殿は勝先生の信頼が篤いようですな、ところで、ますきゅう何故生きて居る?」

「西郷どん、そりゃあなか!ははははは!、こうして生きて居るのも、勝先生と山岡くんのおかげじゃ

実は山岡くんとは古くからの友でござるよ、彼は幕臣なれど勤王の志士でござって、早くから、かの

清河八郎くんと共に、我らも攘夷運動に奔走しておった、ところが幕府の中で勤王運動をやるなど無謀なことで、

それが元で清川くんは殺害されてしまうし、山岡くんは蟄居じゃった」

「なるほど、珍奇な御仁ではあるようだ」と西郷は納得する、益満もうなずいて「わしが庄内藩に捕らえられて、

(これでこの世とも、おさらばじゃ)と覚悟を決めたのだが、存外、庄内武士というのが話がわかる連中での、

『武士は相身互いでござる、まして薩摩武士とあれば、我らが処断すべきものではない、とりあえず幕府に

お引き渡しいたす』と言ってすぐに首を切ると言うことはされなんだ、しかも丁寧に扱ってくれての、わしも

ちょっとホロリとしたのじゃった」一息つき

「そして、たまたまこの山岡くんが儂が捕らえられたことを聞きつけて、牢を訪れ『陸軍総裁、勝阿波守の

使者である速やかに罪人、益満某の身柄、お引き渡し願おう』と大声で言うものだから牢番も役人も驚いて

すぐに身柄を引き渡した

外に出てから『陸軍総裁とは大ボラ吹いたものよのう山岡』と言ったら、『何を言うか、それは本当の話じゃ、

今日からおぬしは勝先生宅で居候となるんじゃ』というではないか、これには驚いたが、それは本当であった

勝先生とお会いして、先生の見事な姿に感銘した、また勝先生が西郷どんをひどく信頼していて褒めよるから、

それにも驚いたのじゃ」

「そうして居候をしているうちに、今度の事じゃった、勝先生が『益満殿、いよいよお国のために役に立つときが

きたようだ、おまえさんに案内してもらい、この山岡さんを西郷さんに引き合わせて頂きたい』そう言われて、

訪ねて来たのです」

益満休之助の話しを聞き終えて、西郷が口を開いた

「なるほど事情はよおくわかりもした、では山岡さん、あんたの話しをききもそ、じゃっとん慶喜の助命だけは

勝先生の願いであっても、これだけは聞き入れることは出来もさん、それだけは言っておきますよ」

すると山岡は落胆もせず

「勝先生は、慶喜公一個の助命など考えてもおられません、勝先生は西郷先生に日本国の助命をお願いせよ

と申された」

「日本国の助命?」

「さよう、日本国の助命でござる、そしてそれを出来るのは、西郷先生唯一人だと申された」

「ふ~m・・・・・・」

「江戸を戦場にすることは、即ち日本国の滅亡である、なぜなら落ちぶれたと言え幕臣数万は健在である、

官軍が攻め込めばたとえ慶喜公が停めようとしても、彰義隊を中心に江戸に火をかけ、官軍を大混乱に

陥れようとする輩は必ずいるはずまた大江戸100万の市民も未だ、慶喜公びいきでござる、それに、いろは48組の

江戸火消しの団結は固く、頭の新門辰五郎以下みな勝先生をお慕いしております、勝先生も官軍乱入の折には

、『日本国の滅亡なり!新門、火消しに放火を頼むは筋ではないがその時は是非たのむ、江戸も、徳川も、薩長も

あるものか皆灰燼と帰す、きれいさっぱりとな、日本国滅亡の門出じゃ』と新門におっしゃられたそうです。」

「さすが勝先生じゃ、じゃどん我らも、それくらいは決心してここまでやってきた、江戸が火の海になろうと恐れる

ものではごわはん」

山岡の脅しも西郷には通じそうも無かったが

「西郷先生、勝先生がそれほど浅い考えだとお思いか?」

「なに・・・・?」

「先生、よおくお考えなされよ、勝先生の願いは滅亡にあるのではございませぬよ、今や慶喜公が頼りにされているのは

高橋泥舟殿と勝先生のお二人だけでござる、勝先生は幕府陸軍の総帥を任じられております、いまや形は無いとは言え

フランス国が勝先生に『我らが幕府を支援いたします、武器でも船でもいくらでもお貸ししましょう、まだまだ幕府の力は

朝廷方にひけはとっていません、我が国と力を合わせれば、勝つことも可能です』と言ってきました、だが勝先生は

『ありがたき申し出でありますが日本国のことはいかになろうと日本人同士で処理する所存故、お気になさらず』

と断り申した」

「・・・・・・」

「西郷先生、先生だとて同じでありましょう、エゲレス国からの甘い話しを先生は蹴られたでありましょう」

「うぅ・・・・・・それをどうして知っておる!」

「勝先生が、風の便りに聞いたようでございますよ、『西郷、さすがに希代の愛国者じゃ』と申してもおりました、

西郷先生!国を思うのに幕府も朝廷もありましょうや!、われら日本人が住む国は、この国の他にござらんのでは?、

江戸が火の海になり幕軍の全てが死に絶え、江戸100万市民が流浪の民となる、勝利した官軍は慶喜公の首ひとつとって

有頂天になっても我が国の民と富の多くは失われ、兵力もまた幕軍の減った分だけ日本国としては弱まる。 かって越後の

上杉謙信公の二人の息子が越後一国をかけて国を二分して景勝公が勝ったけれど、謙信公以来の最強軍団も力を失い、

あわや信長公のたかだか一軍団にも押される始末となった、今は信長公どころかメリケン、エゲレス、フランス、オロシア

などが日本国の富を分割して分捕ろうと隙が出来るのを、舌なめずりして見ております、官軍が勝ったとて国は間違いなく

弱まる、官軍勝って国滅ぶのは火を見るより明らかでござる、ずばり申しましょう

勝先生の願いはただ一つであります、江戸城総攻撃をやめてもらいたい、そうすれば勝先生が命をかけて江戸城を

開城させます

幕臣にも抵抗させません、勝先生はそうもうしております、どうかご一考願いたい、この通りでござる」

山岡は大きな体を小さくかがめ、深々とお辞儀をした。

「よーおくわかりもした、この西郷、勝先生のおこころ頂戴いたす、江戸総攻撃は中止いたしましょう、じゃっとん

無条件というわけにはいきもはん、条件を書いてきますからしばし、お待ち願おう」

ついに勝と山岡の熱い心は西郷に響いた、西郷が示した幕府の降伏条件は慶喜公の処遇について修正が必要

であったが、それ以外は問題なく進み、勝と西郷が江戸において確認の為の会談を行い、江戸城は無血開城された

とき1868年4月の事であった、徳川慶喜は寛永寺を出て、故郷の水戸城に戻り蟄居した。     つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(16)

2018年01月25日 19時14分18秒 | 明治維新の整理

官軍主力が江戸攻撃に出かけた後、御三家の動きが気になる

明治維新では特に、尾張徳川家、紀州徳川家をとりあげていない、本来徳川本家を助けるべき

分家が日本史に残る会津戦争のような抵抗戦を繰り広げなかったのはなぜなのだろう

その前に徳川家のおさらい

 

徳川家康は、戦国時代を生きただけに子だくさんだった

子供の半数以上が成人できない時代ゆえ、家系を繋いでいく意識は現代人には想像できぬほど

重要な事である、まして戦国大名ともなれば嫡子をでかしただけでも、あっぱれな手柄で

子を産めぬ女子は実家に帰される封建時代であった。

家康の長男は家康が血気盛んな青年時代の子で、今川家の人質、家臣の時に出来た子で

信康という、たいそうできが良かったらしい、後日、家康ピンチの時に「信康が生きていてくれたら」と

言ったと言うから、よほど頼りになる武将だった。

だが家康の新しい主になった織田信長の命令で殺してしまうことに。

次男は秀康という、家康はこの子がよほど気に入らなかったらしく結城家に養子に出した

豊臣秀吉に可愛がられ、越前松平家の祖となるが病気により死亡

三男秀忠が徳川家康の後を継ぎ2代将軍になった。失敗ばかりの恐妻家、頼りなさそうだがなぜか家康は

秀忠を愛し跡継ぎにしたのだ。 四男は忠吉、勇猛な武将で井伊直政の娘を妻にする

関ヶ原では直政と共に敗走する島津軍の大将島津義弘を追って、副大将の島津豊久を討ち取るが、待ち伏せに遭って

二人とも負傷、それが原因で後日亡くなってしまう

西郷どんの冒頭、「チェスト関ヶ原」レースを子供達が行うシーンがあった、それがこの島津義弘公と豊久公を偲び

徳川に負けた関ヶ原の無念を、いつか晴らすぞという、そんなレースシーンだった。

 

五男信吉は20歳で没、六男忠輝は激しい性格の武将で兄秀忠を見下すような振る舞いが多く、野心家で越後高田

で大きな領土をを得たが、隙あらば天下を望む舅の伊達政宗とのコンビを警戒されて改易されて、生涯孤独に

過ごしたが、92歳の長寿だったという。

七男、八男は子供の時に早世したが、家康が関ヶ原で勝利した後に生まれた三子は家康から見れば孫くらいの

年齢であったから目に入れても痛くないほどであった。

九男義直には尾張62万石を、十男頼宣には紀州55万石を、十一男頼房には水戸25万石を与え、これを

本家を支える徳川御三家とした。

将軍と御三家以外の兄弟は松平姓であったから破格の扱いであり、家康がこの三人に徳川家の未来を託したことが

わかる。

水戸徳川家は他の二藩と異なることがいくつかある、まず領土が半分以下、本家に人材無きときは将軍を紀州家、

尾張家のいずれかから選ぶが、水戸家からは将軍は出せない、そのかわり他の二家が参勤交代の役があるが

水戸家は水戸に常在して永遠に副将軍として本家を補佐し、将軍に誤りがあれば正す役を家康から与えられた。

そして後年、徳川将軍家と天皇が争うようになったら水戸家は天皇(朝廷)に味方せよと家康が遺言したという話しも

あるらしい、だとしたら水戸斉昭は250年後に家康の遺言を守り、実行したことになる。

 

官軍にとって出陣した後、紀州徳川家が軍を出して大坂、京に進出したら、これは安心できないことになる

紀州徳川家といえば、慶喜の前の将軍、家茂の母体、しかも第二次長州征伐では藩主茂承が征討軍の総大将(代理を出す)

だったから、官軍の格好の獲物でもあった

しかし、戦争したくもしないで降伏、官軍の先導役として参戦したのは彦根藩同様だった

一方、尾張徳川家はと言うと、こちらは初代藩主義直が家康同様に「天皇様に従うべし」との家訓を残したとかで、現藩主の

徳川慶勝は、官軍のターゲットである会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と兄弟であるにも関わらず、藩内の佐幕派を

粛正して、官軍が来たときには勤王藩として官軍を迎えた

こうして、頼みの御三家も、西軍押さえの彦根藩もすべて官軍に味方したのだった。

もはや、徳川本家に味方する藩は同罪とされた会津、庄内くらいしか無く、それも各個撃破のターゲットとなっていた。

八方ふさがりになった徳川慶喜は、上野寛永寺にて謹慎、官軍に対して謝罪文を届け「煮ようと焼こうとどうでもしゃがれ」

そんなことをさせたら徳川幕臣の名が廃ると、慶喜の家臣達が彰義隊を結成して、官軍を迎え撃つ構えを見せた

官軍はひたひたと江戸に向かって行く、総大将は西郷隆盛、江戸城を攻め、「逆賊慶喜の首を取って晒してやる」と

勢い込んでの駿府入りであった。

ここに勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟を、西郷に命令されて江戸で大暴れの末、庄内藩に捕らえられた薩摩藩浪人

益満休之助が案内して西郷の本陣を訪ねてきた。              つづく

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(15)

2018年01月24日 13時28分58秒 | 明治維新の整理

慶喜が江戸へ逃げ帰って1ヶ月、いよいよ体勢を万全に整えた官軍は京をたった。

すでに朝廷より全ての官位を剥奪された德川、会津、桑名、それと德川に味方した各藩主は今や

日本国を敵に回した罪人であった。

では、それらの大名は、特に德川家は攻め寄せる官軍に対して迎撃態勢を整えていたのだろうか?

官軍にとって、最初の気がかりは東進していく街道沿いにある諸藩であった、このような時勢であるから

各藩それぞれに天皇に従う勤王派と、德川家には恩義がある佐幕派が存在していた

すでに水戸藩のように、それが形に表れて激しい内戦闘争を繰り返す藩も少なからずある

薩摩藩でも、この革命が起こる前に薩摩の過激勤王派が京に集まり密議をしているところに、藩主島津久光の

命を受けた薩摩藩士が勤王派薩摩藩士を殺傷した「寺田屋事件」が起きている

久光は穏健な公武合体派を主導した殿様だった、ゆえに幕府を倒そうというテロリスト集団を許すわけに

いかなかったのだった。

長州藩だって高杉等の若手勤王藩士が、長州佐幕派の老臣達を殺傷して長州藩の全権を手に入れたのだった。

 

そんなわけでまずは、松平定敬の桑名藩、德川家康が大坂からの敵に備えて配置した彦根藩、

徳川御三家の紀州藩(和歌山)、尾張藩(名古屋)、北陸の大藩、加賀藩前田家100万石

この5つの大藩がどう出るかが第一関門だった、これを突破すれば江戸までは一直線と言ってもいいほどだ

ただ保守的な奥州、東北、越後諸藩の動きは全く不明であった、だが官軍は今はそこまで深く考えていない。

しかし会津藩と庄内藩は德川家同様に德川家退治の後、国賊として始末しなくてはならない。

 

第一関門は近江の彦根藩だった、この藩は前にも書いたとおり井伊直政が藩祖であった、しかも德川四天王

の一人であり、もっと若かったから家康が未来を託すに足る人物だったのだ

そのため四天王の中でも特に石高が高く、そのかわりもっとも畿内以西の敵を最初に引き受ける危険な位置であった

官軍にしても、德川家が最も信頼している藩なので一戦は免れまいと思っただろう、ところが官軍が来た頃には

藩内は勤王で一致していたから驚きだった

なぜこうなったのだろうか、前藩主の井伊直弼は開国派の巨頭で安政の大獄を執行した人物だったが、攘夷派の

水戸浪士に暗殺された、ところがその後、水戸の尊王攘夷派である天狗党が福井の敦賀で降伏したとき

担当した加賀藩では、300名以上の天狗党の斬首命令を断った、 それで水戸浪士に藩主直弼を殺害された

彦根藩が残虐な役目がひき受けたのだ、水戸藩憎しの彦根藩士はそれを執行した。

そんなわけで、今や開国倒幕の薩長に刃向かう理由が無くなっていた彦根藩である

家康と直政の時代であればあり得ぬ事も、260年経つと德川も井伊もすっかり変わっていた、そうして彦根藩は

戦意無く官軍に降った、そして逆に先導役のように官軍に加わったのだ

 

官軍の北陸道方面軍が次に難関とするのは加賀藩100万石

富山など支藩を合わせれば120万石にもなる、德川に次ぐ2番目の石高、最大2万の動員も可能な大藩である

これを敵に回せば強敵だ

加賀藩、国内が黒船にパニクっていた頃の加賀藩は、藩主前田斉泰は德川将軍家斉の娘を妻にしていたから

公武合体を推し進めていた。

ところが嫡子の慶寧は妻が公家の娘でもあり、さらに取り巻きの士達が京で長州藩士らと会合を重ね、がちがちの

勤皇党になっていたので慶寧も影響を受けて勤皇に傾いていった、孝明天皇からも朝廷からも頼りにされて

ますます傾倒していき、将軍家の命令をも無視するようになった。

藩主斉泰はこれを聞きつけて、国許に戻ってきた慶寧の家老や家来を次々と捕らえて切腹や斬首に処した

こうして、官軍が徳川征伐に向かうころには藩主になった慶寧も佐幕派に心変わりしていた、慶喜が長州征伐

したときには応援の兵を出した、ところが今は官軍を迎え撃つどころか、慶喜の応援をして長州征伐に参加した

(直接は戦場に出ていない)ことを詫びて、頭を低くして官軍を迎入れ下風に甘んじたのだった。

大藩でありながら関ヶ原の時も、明治維新の時も主役になれず、常に権力者にひれ伏した加賀藩だった。

これで北陸道の官軍は一気に越後まで進み、会津街道から一気に会津藩へせめ込められると思った

ところが思わぬところに難敵が待ち構えていた、德川幕臣大名、越後長岡藩牧野家であった。

 

東海道では桑名藩の動向が気になったが、藩主が江戸へ行ってしまった今では、残された藩士は途方に暮れて

抵抗せずに開城したのだった。

次のターゲットは御三家、尾張德川家である、どうでてくるのだろうか

中山道では、今や幕臣として取り立てられた近藤勇が新撰組を率いて甲府城で待ち受けていた。

 

ここで明治維新の前半のおさらいです

1.江戸時代は240年以上続いて、外国との戦争も、国内での大名同士の戦争も無くまずは平和であった

2.唯一外国人が出入りする長崎には、オランダや清国人の商人が出入りしていたが平和外交だった

3.ところが欧米人(白人)の侵略勢力、イギリス、フランス、ロシアなどが東南アジア占領後、清国を

攻めて主要な都市に進駐し、不平等条約を結び港を開港させた

4.それらの国の船が日本にもやってくるようになった、特にアメリカは日本との貿易を強く求めた

5.日本では孝明天皇をはじめ白人達を追い払えというムードが高まった(攘夷運動)

6,天皇は直接アメリカなどとの交渉窓口になっている幕府に「追い払え」と命令した

7.ところが幕府は米英に対して、その軍事力を畏れ、強く言えず、しかし天皇にも逆らえず困った

8.そんな弱腰の幕府を排除して、天皇に従い外国船を追い払えと、地方の德川寄りの大名の

家来たちの中から脱藩者が京に集まって運動するようになった(尊皇攘夷)

9.地方の大名にも、これまでどおり幕府についていこうという大名と、天皇に従うべきだという大名の

2種類に分かれるようになった、特に水戸藩主、德川斉昭は御三家でありながら、幕府より天皇に味方する

勤王大名の代表となった。 このあたりから複雑になってくる。

10.そして幕府か天皇かという選択の他に、鎖国を続ける攘夷派と外国とつきあうべきだという開国派という

別の選択肢も出てきた、この時はまだ倒幕思想は表だってでてきていない。

だから幕府の中にも開国派と攘夷派があり、勤王派にも開国を選択する者があった、尊皇派は攘夷に固まっている

11.結局、幕府は断り切れずアメリカやイギリスと通商条約を結んでしまった、天皇の承諾を得ずに

孝明天皇は激怒した、それは尊皇派、勤王派の武士に火をつけた、ここで一部、倒幕の考えを持つ浪士が出てきたのだ

12.勤王思想が浪士のみならず、有力大名にも及ぶと、反幕府勢力が力を持つことを恐れた大老井伊直弼は

勤王大名を取り締まって謹慎あるいは隠居させ、主立った浪士や勤王思想家を切腹、打ち首、遠島などに処した

(安政の大獄)、これで勤王派の勢力は衰えてしまった

13.ところが、これに怒った水戸浪士が井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)

14.見識ある大名(島津、山内、松平など)は、こうなったら朝廷も幕府も一体となって国難に当たろうという提案を

した、そして力の衰えが見えてきた幕府もこの話に乗った(公武合体)

15.そんなさなかに長州藩、薩摩藩が相次いで自分の領内で外国軍艦を砲撃した、孝明天皇は大喜びした

長州藩は第一の勤王藩として信頼を得た。

16,安政の大獄や京の都ででたくさんの犠牲者を出した勤王藩長州は、討幕運動を始めた、すると過激な行動に

危機感をもった薩摩など公武合体派が画策、長州藩を京から追い払った

17,更に幕府は長州を再起不能にしようと薩摩藩を筆頭に長州征伐を行った、だが西郷の機転で長州は軽い処罰で

済んだ

18,坂本龍馬の活躍で薩摩と長州が手を結び、聞きつけて再び長州征伐を行った幕府軍は大敗して逃げ帰る

19,弱腰になった幕府は土佐藩の案を受け入れて、政権を天皇に返上、慶喜は大坂城に入った(大政奉還)

19,体勢を整えた長州、薩摩軍は謀略によって德川方を暴発させて、それを理由に天皇の勅命をもらって錦旗を

先頭に江戸の德川攻めの軍を進めた                            つづく

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(14)

2018年01月23日 08時16分23秒 | 明治維新の整理

西郷どんの罠にまんまと乗せられた庄内藩、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしたために德川家共々

天皇の敵、「朝敵」とされてしまった。  庄内藩は山形県の南西部、日本海沿いの藩である

德川家家臣団の酒井公が経営する中規模なはんである、会津藩同様、情報が少ない奥羽の藩故

江戸の警備などと言う損な役目を名誉と請け負ってしまったのだろう。

それにしても、国のためと思って一生懸命勤めたのに、親の都合で朝敵とは気の毒なばかりであった。

天皇が「**を攻撃せよ」と勅書を出す度に「朝敵」が出現するわけだ、だがこれはそうとう胡散臭い、だって

いま官軍として朝敵德川を攻撃しようとしている長州藩は、ほんの1年か2年前は「朝敵」でしたから。

それが「長州を討て!」と命令した天皇様の軍隊になっている、これってどう思いますか

長州が朝敵になる前は、イギリス船を砲撃して、孝明天皇から「あっぱれ」と賞賛されたのですよ、それが

8.18政変で一気に朝敵にされて、第二次長州征伐軍を追い落としたら、今度は「官軍」です

ようするに、後醍醐天皇のようなリーダーシップを発揮する天皇様以外は、それほど政治には

関心がないということです

だから実際は、天皇様に取り次ぎをする、朝廷の大臣とか、お公家さんと親しい大名などがうまく取り入ると

「勅書」が下りてくるという図式ですね。

今回は三条実美とか岩倉具視などの勤王派公家と友達だった長州が、彼らにお願いしたのはありありと

見えてきますね、まして明治天皇は、まだ子供でしたから、判断などつかなかったでしょうね。

しかし岩倉さんという公家さんは朝廷の歴史の中でもピカイチの策士です、武家も真っ青です

錦旗の偽物を大量生産なんてもうイケイケムード全開です。

さて3倍の德川軍と対峙した薩長の官軍、しかし第二次長州征伐では10倍の幕府軍を木っ端微塵に

打ち砕きましたから、3倍程度はお茶の子さいさい、二手に分かれた薩摩と長州は最新鋭の大砲を

德川軍に打ち込んだ、德川軍の武器などまったく官軍に弾が届かない、瞬く間に打ち崩されて大坂

目指して総崩れで逃げ出した。

その頃、難攻不落の大坂城には徳川慶喜と会津公松平容保、弟の桑名藩主松平定敬がいました

そこに鳥羽街道と伏見での敗北が伝えられます

「慶喜様、いよいよ御出陣ですぞ、将軍の権威ここにありとお見せすれば德川軍も、わが会津、桑名の

兵どもの士気はぐっと上がりましょう、大坂城を背に戦えば勝ち戦必定、そして畿東の諸大名に

号令をかければ、彦根藩などを先頭に大軍か駆けつけてくるでしょう、お味方の勝利間違いなし」

希望的観測を容保が言えば、慶喜も「さよう、これからが本当の戦いだ、見事薩長の奸賊を討ってくれよう」

 

しかし、敗退してくる德川の兵を見るうちに慶喜の心は揺らぎだした、決して今度の戦いは再起不能という

ほどの大敗でもないのに、德川の兵はなぜかうつろだ、あの錦の御旗を見せられて、自分たちが朝敵に

なってしまった絶望感が戦意を無くさせているのだ。

だが、指揮官クラスだけはさすがに強い戦闘意欲を持っていた、そして慶喜に「いよいよ明日は決戦です

殿様には是非ご出馬を願いますぞ」と次々に願い出る

慶喜もいちいちうなずき「わかっておる、明日こそ賊軍どもを全滅させるぞ」と慶喜が景気いい言葉を発する。

ところが夜中になって

「容保、定敬、そっとそっとじゃ」「・・・・・・どうされました」

「船で江戸へ戻るぞ」「・・・・・はあぁ~?」

「家臣たちに気取られぬうちに城を出る」「なんと!、それはあまりでは?」

「よいよい、ここは分が悪い、江戸に帰って軍を立て直す方が有利じゃ、何も言わず一緒に来い」

とうとう大将3人と側近、そして重臣だけが大坂城を脱出、船で江戸目指してまっしぐら逃亡した

慶喜さん、またやっちゃいましたね。 水戸の天狗等が唯一希望の星として慶喜さんを頼りに美濃国境

まで1年がかりでやってきたときも「我が実家の家臣なのは間違いないが、天下を騒がせた凶徒でもある

私には関わりないので、処置をお任せすると尾張藩に言って、結局庇わなかったために天狗党は

500名近い犠牲者を出してしまったのだ。 そしてまたここでも家臣を見捨ててしまった、家臣はこんな

殿様を持ってしまうと悲惨である。

 

翌朝、「さあていよいよ決戦の日だ討ち死に覚悟で戦えば、我らの勝利じゃ、殿様もご出馬くださる」

と言っていたのに「たいへんだ、もぬけのからだとよ」「なにが・・・?」

「慶喜様も、会津公も桑名公も、お偉方がみんな消えちまった」「なんだって? そんなばかな」

史上希に見る総大将だけの敵前逃亡、慶喜ならではの隠し技、一万を超える家来たちを置いてきぼりで

逃げ帰るとは、チンチン怪奇なりのお粗末劇場

こうなると家臣達も陸路をせっせと江戸まで逃げ帰るしか無い、そんな中には新撰組の面々もいた

官軍は大坂城を接収、そしていよいよ江戸城総攻めの作戦を練り始めた

東海道、中山道、北陸道と三隊にわけて進軍する、秀吉が小田原征伐に向かった時のパターンに似ている

こちらが天子様の軍隊であるからには、街道沿線の大名達も我も我もと兵を出してくるに違いない

兵を出さない大名からは軍資金をごっそり取り上げる、とにかく德川は江戸に隠れて小さくなっている

我ら官軍に刃向かう大名は全て朝敵になる、叩きつぶすのは造作も無いこと

西郷等、総司令官クラスはさすがに冷静であったが、その下の部隊長クラスには、不届きな輩も混じっていたのだ

既に勝利が確定した時点で、京の町に忍んで遊び呆けた輩もあったと聞く、この先での乱暴狼藉が、心ある士には

懸念された。

德川討伐軍は錦旗をひらめかせ「ミヤサンミヤサン オウマノマエデ ヒラヒラスルノハナンジャイナ トkトンヤレトンヤレナ」

などと楽団付きで意気揚々と進軍していくのだった。

その先頭に立つのは西郷隆盛、そして婚約者だった皇女和宮を德川に奪われた屈辱を濯ごうと燃えている有栖川宮が

征討軍の大総督となった。                         つづく

 

 

 


明治維新の整理(13)

2018年01月22日 10時19分57秒 | 明治維新の整理

薩摩、長州の連合軍が幕府軍を叩きのめした、この結果を見て孝明天皇は長州の底力を知ったはずだ

それは敗戦した幕府に対して長州征伐の撤回を命令したことでわかる

これによって、互いに軍を立て直す猶予が出来た、倒幕をすぐ行うには長州だって準備不足だ、薩長だけで

倒幕は無理なのもわかっている、次の手を考えなくてはならなかった。

そして孝明天皇が崩御されて、新天皇が誕生した、日本がまた一つ動きだした

朝廷の中に薩長よりの公家が息を吹き返して、影響力を持つようになってきた、薩長にとってこれは力強い

倒幕の足がかりが出来たと感じた

そんなとき、土佐藩の山内容堂が「大政奉還」の建白を申し出た、それは15代将軍となった徳川慶喜に

「政権を天皇にお返しして、天皇を中心にした大名会議で日本を運営していこうではないか」という提案だった

実はこの「大政奉還」は坂本龍馬が考えた策であった、日本の近代化を見据えた優れた考え方で「大政奉還」は

龍馬の考えのスタートでしかなく、それがなった後、議会制の導入、優れた人材を登用し、名ばかりの無能の

高官を廃す、新たな国家の方針を立てるなど8つの大要を記したものであった(船中八策)

 

もう時代は明治に近い、西欧との関係が深まり、日本人の頭も封建時代からかなり進んできたようだ

何しろ年度初めには、フランスパリでの万国博覧会に徳川幕府や薩摩藩などからも出品をしたほどである

時代は近代化に向かっている、とうぜん徳川慶喜の頭も近代化してきている

(将軍なんて面倒な事で一人で悩むなんてまっぴらだ、ここは天皇に政権をお返しして楽になり、大名会議を

結成してしまえば結局、一番大藩の德川が主導権を握る事になるだろう、それなら責任は天皇で政治は德川

となって、現状よりも遥かに良いではないか・・・まして天皇は子供だ、どうにでもなるだろう 乗った!この話)

1867年秋、ついに徳川慶喜は天皇に政権を返還して、一大名としてのスタートを切った(大政奉還)

ここに德川家康が1615年、豊臣家を滅ぼして得た、德川将軍家が252年後に終わった。

 

これは、実は薩摩長州の若手指導者にとって計算外の出来事であった、倒すべき将軍家が無くなってしまったのだ

これでは主導権は德川のままで、自分たちの殿様が大名会議で(大臣の一人)として発言するだけで、江戸時代と

何ら変わらない、新しい日本など遠くに霞んでしまう

長州の桂や高杉、薩摩の大久保や西郷、そして龍馬たちが目指す日本には「大名」は無いのだ

欧米風の議会政治、選挙で選ぶ指導者(政治家)、西洋式の軍隊、文明開化、国際貿易と世界進出

そして軍事力強化で植民地を得る、これこそが欧米流の戦略なのだ。

だから、将軍家で無くとも封建時代の象徴「大名德川家」を滅ぼして、大名政治が終わったことを殿様達に知らしめる

ことが必要なのだ、なにがなんでも「德川には死んでもらいます!」

 

坂本龍馬死す!

京の近江屋で、坂本龍馬が盟友の中岡慎太郎と共に暗殺された

龍馬によって作られた「大政奉還」の準備が着々と進んでいる途中でのショッキングなニュースだった

誰が殺したのか、平成が終わろうとする今日まで謎は解明されていない

この時代、龍馬が邪魔なのは誰? どの勢力? 数多くの龍馬殺しの推理本が多く刊行されている

薩摩 西郷と龍馬の関係は良好のはず、薩摩藩とも龍馬は長いつきあいで知古も多い、薩摩人は大らかだ

だが、自由すぎる龍馬を不快に思う保守的な者がいるかも

長州 德川を破り、薩長同盟もでき、今後キーポイントになる公家に人脈がある長州、説教がましい龍馬は

邪魔になるかも

幕府 薩長連盟をとりもち、大政奉還を考えた龍馬は憎い、殺しても殺し足らぬうらみがある

土佐 武市亡き後も一人活躍を続け、土佐を忘れたかのように日本の大物の間を走り回る龍馬に嫉妬する

者がいたかも。

 

德川は政権を天皇にお返しして徳川慶喜は謹慎した。 薩長は德川を討つための策を練った、このときなんと

西郷が打開案を考えたのだった「わしに考えがある、まかせてたもんせ」

益満休之助という薩摩郷士がいる、西郷とは親しい間柄で尊皇攘夷運動に早くからつかり、新撰組結成の

きっかけとなった幕臣清河八郎(浪士隊を結成=その後、暗殺された)とも同志として活躍した人物だ

西郷は益満にたっぷりと軍資金を与えて「おまえさんは江戸に詳しいゆえ、これを軍資金にして江戸で人を集めて

一暴れしてくれ(薩摩弁を標準語に訳した)」

西郷に子細を聞いた益満は江戸の薩摩藩邸に入り、そこで浪人や無頼者を集め、その数、数百にふくれあがった

「さあ、おまえ達!暴れ放題だ、火付け強盗なんでもやれ、但し德川のサムライや新徴組(庄内藩による江戸の治安部隊)

の目に入るところでやるのだ、普通の泥棒などとは反対のことをするのだから簡単だろう、そして薩摩藩の関係者だと

わかるように、薩摩藩邸まで誘導してこい」

ようするに、騒ぎを起こして犯人が薩摩藩士か関係者だとわかるようにしろと言うのだ、承った方もキツネにつままれた

気分だが、益満はそれで良いという。

そうして江戸の町には物騒な事件が相次いだ、幕府の役人も新徴組も犯人を見つけて追いかけると、奴らは薩摩藩邸に

逃げ込む、大名の藩邸は一種治外法権だ、德川の家来だとて手続きを踏まぬ限り踏み込めない、また薩摩藩がしらばくれれば

うやむやになってしまう。

こんな事がしばらく続くと江戸市民から德川家に対して不平不満が続々と出てきた、そして取り締まりが出来ない德川家の

権威はますます地に落ちた。

ついに庄内藩の新徴組が業を煮やして薩摩藩邸を焼き討ちした。、そして多くの浪人を捕らえた、その中には

益満も含まれていた、しかしこれこそ西郷が待っていた瞬間だった

この報が京都に届いた瞬間、薩長は同志の公家を使い、「江戸で薩摩藩邸が德川によって焼き討ちされました

蟄居謹慎の慶喜が、このような暴挙を行うとは天子様への反逆と同じです、どうか德川討伐の勅許をお願いします」

今のように正確な情報など入ってこないし、江戸、京都間では不確かな情報さえ10日はかかる時代だ、西郷は自分たちが

した事は言わず、庄内藩の放火を德川家が朝廷に向けた暴挙と言い立てた。

少年天皇は老獪な勤王公家の言うままに德川討伐の勅許を与えた、これによって薩長土肥の軍勢は天子様の軍隊となった

さらに誰にでもわかるようにと、勤王公家の一人が天皇の旗印である錦旗(錦の御旗)をいくつも偽造して軍列の先頭に立てて

徳川慶喜がいる大坂城を目指して進軍した、堂々とした天軍、日和見的な小大名はみな錦旗にひれ伏して、

「時代に乗り遅れるな」と兵を出す藩、軍資金を出す藩が相次いだ

朝廷軍(薩長軍=官軍)5000は鳥羽に至った、そこに迎え撃つ德川軍15000が待ち受けていた     つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治維新の整理(12)

2018年01月21日 12時22分45秒 | 明治維新の整理

坂本龍馬が長州のボスである桂小五郎を説得している頃が、日本中の勤王の志士の危機であった

ほぼ壊滅的と言って良い、長州は狭い山口県一国に閉じ込められて京の都に寄りつくことも出来ず

水戸の天狗党は福井において厳しい刑で指導者を失った、朝廷の勤王公家も謹慎させられるし

坂本龍馬の兄貴分でもある武市半平太が台頭してきた土佐藩でも、武市が切腹を申しつけられた

殿様お気に入りの武市がなぜ切腹になったのか、それは武市の暗い闇の部分が露見したからだった

武市が人斬り岡田以蔵を使って、反勤王党や幕府方の人間を暗殺していたのは藩でもうすうすわかっていた

だが、とくにおとがめがなかったのは証拠不十分だったからだ

ところが土佐藩主、山内容堂の懐刀で藩を取り仕切っていた重臣、吉田東洋が何者かに暗殺された

下手人はわからなかった。

ドラマなどによると、武市に使い捨てされた岡田以蔵がつまらぬ罪で京で逮捕された、役人が調べると

土佐藩士だという、それで役人は土佐藩に身柄を引き渡した、拷問などで厳しい取り調べを受けた

土佐藩としては臭い武市の犯罪を公にしたかったのだ、だが武市を信頼しきっている以蔵はどんな

拷問でも口を割らなかった。

ところが武市は以蔵が拷問に耐えられずに自分の悪事全てを白状するのではと、心配になった

武市は牢へ以蔵に会いに行った、牢番に鼻薬を嗅がせて以蔵に見舞いだと励まし、にぎりめしを差し入れた

空腹の以蔵は喜び、武市に感謝してにぎりめしを食べた、そして激しい腹痛で七転八倒、遠のく意識の中で

以蔵は思った(武市先生、口封じで俺を殺すのか・・・信じていなかったのか・・・・絶望感が・・・)

だが以蔵は奇跡的に助かった、今までの尊敬が憎しみに変わったとき、以蔵は全てを役人に白状した

役人が驚いたのは、吉田東洋の暗殺も武市の命令で以蔵が行ったのだった。

武市に切腹が申し渡された、本来なら下士は打ち首、しかしなぜか上士並みの切腹、武市は嬉しかった

武士として死ねることが・・・・武士と認められたことが・・・・・容堂の情けであったかもしれない。

こうして土佐勤王党も壊滅した。

 

土佐を脱藩したおかげで坂本龍馬は生き延びている、完全に彼は一匹狼となって日本中を駆け回っている

行く先々に英雄がいる、その英雄と龍馬は語り合う、とにかく顔が広い

薩摩、長州、を行き来してどちらにも知古がいるなぞ龍馬以外にはいないだろう、さすがの勝も長州だけは

なすすべが無い、だが龍馬は平気だ、まさに天から送られた男だった

日本を一つにするために日本中を走り回り、そのきっかけを完成させたとたんに、天に戻っていった龍馬

だが、まだ龍馬は生きている、まだ薩長同盟が未完成だからだ

ついに桂と西郷は紆余曲折の末に会った、どちらも不信感を持ったまま、だが長州にとって薩摩の武器は

咽から手が出るほど欲しい、薩摩は長州に何を求めたのか・・・・?

もうこの頃には、薩摩も長州も異人を追い払う攘夷などとっくにやめてしまった、それより開国して世界に追いつけ

という気持ちの方が強い、そもそも薩摩は琉球王国(沖縄)を占領して薩摩藩に組み入れたときから、そこを

経由して密貿易をしていたくらいだ、日本で長崎、博多、堺と共に外国慣れしているのだ、但し薩摩だけは幕府に内緒で

長州も外国の連合軍に猛烈に痛めつけられて目が覚めた、外国を追い払うなど無理だと言うことを・・・・

だが両藩共にそれを口外しない、口外すればたちまち異国嫌いの天皇の朝敵とされて、幕府が逆に天子様の

軍となる、だから表向きは尊皇攘夷を唱え続けていた。

そして薩摩と長州が坂本龍馬の仲介で手を結んだ、犬猿の仲であった西国の先進的な大藩が手を結んだ

両藩で100万石を超える、しかも最新鋭の武器と軍艦を持つ薩摩藩、それを幕府に内緒で長州に引き渡す約束が

できた、龍馬が船で運ぶ

両藩の話し合いで一致したのは、開国にせよ攘夷にせよ邪魔な存在の徳川幕府を消滅させること、

公武合体であってもこのままでは徳川幕府が主導権を握ることは明らかである、それでは何ら状況がかわらない

まずは倒幕だ、そして薩長が新しい日本の軸となるのだ、その前に攻め寄せる幕府軍を叩く必要がある、

緻密な作戦が練られた。

そして今や日本最強の鍛えられた長州藩に日本最高の薩摩藩の武器が与えられた、最新銃だけでも数千丁

大砲も幕府軍や他藩のものより威力も射程も遙かに優れている、まさに鬼に金棒の体勢となった

しかも薩摩軍と龍馬の海援隊と軍艦が後方支援する。

そして、吸い寄せられるように10万に及ぶ幕府軍が四方から攻め寄せてきた、即ち山陰、山陽、瀬戸内、九州

まずは長州藩に接する小藩が先陣であるが、連合軍故それぞれに数万の兵士がひしめき合っている

対する長州は全軍でも数千人、数千対数万の戦で明らかに分が悪い、ところが開戦してみると武器の優劣が

顕著だった、西洋式の猛訓練を続けてきた長州藩、軍装も身軽な西洋式、一方幕軍諸藩は250年で初めて

の戦争体験だ、その軍装も260年前の関ヶ原合戦の頃と変わらない重い甲冑に鎧甲、これでは勝負にならぬ

全ての方面で長州が幕府軍を打ち破った、しかも薩摩の軍艦と龍馬の船が海上から幕軍を攻撃

幕府軍は各方面でで逃げ腰になった、特に山陰方面の軍は散々に打ち破られた、そんな折も折14代将軍

家茂が21歳の若さで突然大坂城で死んでしまった。

これで新婚の和宮も篤姫同様、嫁いで間もなく若い身空で寡婦になってしまったのだった

この二人が德川家滅亡の危機を救う活躍をするのは、もう少しあと

結局幕府軍は総崩れとなって引き上げた、時は1866年夏であった、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終わった

そしてその年の暮れ、徳川将軍家茂に続き、孝明天皇までもが崩御された、これには長州びいきの公家が関与した

毒殺ではないかという説もあるらしい

長州藩にとって倒幕を目指す上で長州離れした孝明天皇は何のメリットも無く、むしろ倒幕の障がいにであったろう

あくまで真相はわからない

徳川幕府は当然ながら一橋慶喜が満場一致で推挙されて15代将軍となった、そして孝明天皇の後には祐宮(さちのみや)

睦仁(むつひと)親王が 明治天皇として即位された、まだ14歳の少年天皇であった

長州が息を吹き返して、時代はいよいよ最終章に向けて、大きく動き出す。                 続く

 

 

 

 

 


明治維新の整理(11)

2018年01月20日 12時51分39秒 | 明治維新の整理

時は若干前後して1863年夏から、翌64年春にかけて勤王討幕派は相次いで事を起こした

くり返しになるけれど、イギリス軍艦を砲撃した長州藩は孝明天皇に信頼された、そのため天皇を担ぎ出して

倒幕を容易に出来るという錯覚をもつようになった、そして素早く長州寄りの公家を頼んで、天皇の大和行幸

(天皇の行列が国内を巡行すること)を強く望んだ。

そしてそれは8月に行われるというところまで話しが進んだのだった、長州は小躍りした、これで天皇の権威が

高まり、その供として従う長州藩は天子様の兵となり朝敵德川を打つことが出来る。

ところが話しは早々上手くはいかない、薩摩などの公武合体を推し進める大名が行幸を反対した、さらに朝廷の

宮様(天皇様の身内)に働きかけて過激な長州の話に乗るのは危ういと進言してもらった。

孝明天皇も国内を2分するような戦争が起こるのはのぞまなかったから、行幸を取りやめてさらに不穏な動きがある

長州藩を御所の警備から外すよう指示した。

8月18日、長州藩2000あまりが御所に押し寄せると、臨戦態勢の薩摩、会津など多くの諸藩が数万で御所の警護に

あたって待ち構えていた。

やむなく長州は都を落ちて長州に戻っていった、その時長州寄りの公家7卿もともに長州に落ちていった。

(8.18政変)

ところが、行幸があると思って先走って動いた公家を中心の部隊が幕府方の阻止で壊滅した「天誅組の乱」

それに続く「生野の義挙」など相次い勤王倒幕派が自爆してしまった

これらは比較的小さな騒動だったが、翌年の春、大きな騒ぎが起こった

あの水戸斉昭の御三家水戸藩、水戸藩も尊王攘夷派と佐幕派に別れていたが、斉昭が亡くなって分が悪くなった

尊攘派が筑波山で蜂起した。

同じ水戸藩の佐幕派諸生党と領内各地で一進一退の戦闘を行い、時には近くの村や代官所を襲い、次第に勢力を増やし

千人を超える勢力になった、秋になっても事が思いどおりに行かず、この窮状を一橋慶喜に訴えようと中山道を進み出した。

彼らはいつしか「水戸天狗党」と呼ばれた、一橋慶喜は尊皇攘夷の巨頭だった斉昭の子である、まさに天狗党の

最後の切り札だった。

慶喜は今は大坂、京都を中心に将軍家茂を補佐して活躍しているのだった、信州の大名と戦闘を続け、ようやく

美濃近くまでやってきたけれど、そこで御三家尾張藩の大軍に行く手を阻まれた、しかも頼りにしていた一橋慶喜も

その軍にいた、そして冷たく言い放った「狼藉をやめて解散降伏せよ」

慶喜だけを頼りに、ほぼ1年に及ぶ長い戦闘の旅を続けてきた天狗党の落胆はいかばかりだったろう、慶喜には

そんな薄情さが垣間見える、これからも・・・・。

結局、天狗党の面々は脱落者を出しながら冬の山中を越えて越前に出て、そこで降伏した

およそ1000人の罪人達はフンドシ一枚で寒くて臭いニシン倉に閉じ込められた、その中で死んだ者も居た過酷な扱い

だった、そして幕府の高官によって始末が行われた、およそ600人が罪に問われ、その半数以上が打ち首という

極刑に処された、まことに惨い幕府の仕打ちである、長州藩処罰に次ぐ倒幕派への見せしめだった。

こんなわけで尊皇攘夷倒幕派は一気にその勢力を削がれて、公武合体派が政治を動かすようになった、そして

ついに皇女和宮が德川家茂将軍に降嫁して江戸城に入った、すなわち篤姫が和宮の姑となったわけである

こうして公武合体が一歩進んだわけだが、その影で悔し涙を流す宮様が居た、「有栖川宮」である

このような事態が起こらなければ宮様と和宮は結ばれていたのだった、それが公武合体によって宮様の手から

和宮が将軍家に奪われてしまったのだった。

 

今や徳川幕府、大名、孝明天皇にまで嫌われてしまった四面楚歌の長州藩、もがいていた、だが高杉が長州藩の

実権を握り、倒幕の炎を燃やし続けていた

この頃、軍事は高杉と彼の奇兵隊が率いていたが、政治面では桂小五郎という長州藩の幹部が担っていた

この桂もまた「逃げの小五郎」という異名をとるほど京都では新撰組や幕府の京都見回り組などに追いかけ回されて

いただけに、会津と薩摩への復讐心は異常なほどであった、だが高杉同様打つ手がない。

そこにぷらりと風来坊が一匹、話しでは袴に皮のシューズを履いて、懐には連発のペストルを忍ばせていたとか

勝海舟の教えを受けて、今や国際派となった龍馬は、まだまだ小村根性が抜けない高杉や桂を説いた

「こんな姑息な考えでは、新しい日本は開けんぜよ、おまんも幕府ば倒そうちゅ考えがあるんなら、長州一藩ちゃ

無理だちゅのはわかっちょろう、どうじゃここらで薩摩と手打ちせんかい、儂が中に入るけん」

「いいや、薩摩だけは絶対許せん、あの外道めら必ず仇を討ってやる(長州弁を標準語で)」

「じゃがのう、このまえの西郷さんが、おまんら長州にどうしたかおぼえちょろう、あれは西郷さんでなきゃできん腹芸ちゃ

思わんか?、薩摩もおまんら長州と同じようにエゲレスと戦って、その強さに驚いたんじゃ、そんでな

薩摩も、うかうかしちょれん、敵だったエゲレスに頭下げてでも新式の武器ばそろえんと、外国にこの国をとられてしまうっち

ことに気づいたがじゃ、今の薩摩は凄いぞ、軍艦ちゃもっちょるし、鉄砲ちゃエゲレスの最新式、大砲も幕府の

オモチャと比べもんにならん、儂も実は薩摩から船一艘まわしてもろうて商いしちょるのよ、もう藩だのなんだの

いいちょる時代じゃないぜよ、目ばさまさんと倒幕なんちゃ絵に描いた餅で終わってしまうぜよ、幕府もそろそろ、おまんらの

企てに気づきだしちょうぜよ、必ず長州征伐が始まる、薩摩は今度ばっかしは幕府に味方はせんじゃろう、じゃが頭

切り替えんと長州もこれで終わりじゃけ、もう薩摩と手を組むしかなかろう、どうじゃどうじゃどうじゃ????」

「う~~~ん・・・・・・mmm」

「案外長州の天才も頭が固いんじゃのう、古すぎて笑ってしまうぜよ、西郷にもおまんらの肝っ玉の小さいがみられとうよ、

そうじゃろ、さあどうすがじゃ、桂さん?会って見るかい西郷に」      つづく

 

 

 

 


明治維新の整理(10)

2018年01月19日 11時09分55秒 | 明治維新の整理

四国に土佐藩がある、今の高知県全土を領有していて、殿様は山内容堂という人だ

薩摩島津久光、越前松平公、伊予伊達宗城などと並ぶ、幕末の、発言力をもった有力大名である

土佐という国、関ヶ原の合戦で負けた、それも鉄砲一つ撃たないうちに負けてしまった

敵の德川勢と一戦も交えないで山の中で待機しているうちに味方が敗れたので土佐へ逃げ帰った

その時の殿様は長宗我部(ちょうそかべ)という、土佐生まれの土佐育ち、お父上がたいした人で

今で言えば高知市長程度だったのが、あっという間に高知県全域を占領して県知事になり

更に、徳島県、愛媛県、香川県まで攻め込んで占領して、四国の王となったから、当時の

九州の島津とどっこいの強い大名だったのだ。

しかし日本は豊臣秀吉の天下になろうとしていた、秀吉は長宗我部に家来になれと言ってきたが

断った、結局戦争になったけれど、まったく武器も武具も違いすぎて問題にならない

豊臣軍が占領して、長宗我部の兵隊を見たとき、トランプの失言ではないが「おれたちは乞食と

戦争したのか・」というほどお粗末な武具だったという。

それでも秀吉の情けで、土佐一国だけは安堵してもらった、その恩義を感じたのか息子の代でおきた

関ヶ原戦では西軍の石田方に味方して敗れた、そして命は助けられたが領土を全て取り上げられて

殿様が浪人になってしまったのだ。

そして新しく土佐の殿様に赴任してきたのが山内一豊、織田信長の家来だったとき奥方千代がへそくりの

持参金で良馬を買ってくれたおかげで、信長の目に留まり、信長の側近にしてもらったという有名なサムライだ

大河でもありましたよね「功名が辻」、その後、秀吉の家臣となって東海道で5万石の大名に。

その後、関ヶ原の戦いでは東軍の大将、德川家康に「私の城を空けますので、自由にお使いください」作戦

それが、功を奏して、あの長宗我部の出口を見張っていただけで、5倍の領土を得て土佐24万石の大名に

出世したのだ。

そして今の殿様、山内容堂まで移動も無く、ずっと続いてきたのだった。

土佐藩の仕組みは、他の藩とはちょっと違う、それは関ヶ原で負けた長宗我部だが殿様は浪人になって

土佐から出て行った、だが家来はそのまま残って郷士となり百姓半分の生活、けれど一応土佐藩士として

組み込まれていた、山内一豊が連れてきたもともとの山内の家来を「上士(じょうし)」長宗我部の遺臣を

「下士(かし)」と呼んで、明らかな身分の差をつけた、そして様々な差別の制約をもうけて「下士」は人間扱い

されないほど虐げられていた。

幕末、そんな下士の希望の星が現れた、頭脳明晰、腕も立ち、リーダーの資質に恵まれた大男、しかも男前

教養も有り、詩歌に通じる、武市半平太(たけちはんぺいた)という

彼は瞬く間に下士を束ねて、土佐勤王党を結成、その指導者となり藩内でも一目置かれる存在になった

山内容堂も下士といえ西郷同様(使える男)と感じた、但し島津斉彬と西郷のような尊敬し合う間柄では無く

「使い捨ての便利な男」という程度で容堂は武市を見ていた、所詮は卑しき郷士の身分である。

しかし武市はそうは思っていない、自分は殿様に認められたと思って、次々に意見を上申する

それを冷ややかに見ていた仲間が居た、それは一匹狼の坂本龍馬、彼も郷士(下士)だ、親友の中岡慎太郎

ともども土佐を脱藩して京に出た、そして勤王浪士達と交わったが、何かが違う・・・・と感じた

スケールが違ったのだ、坂本もまた世界を見ることが出来る男だった、だが今はまだ勤王の志に燃える若侍だ

武市は優れた志士であるが、暗殺の指示をよくだした、大概は人斬り以蔵の別名をもつ「岡田以蔵」に命じる

だが武市の命令なのかわからないが、ドラマでは坂本龍馬が勝海舟を殺しに、勝の家を訪ねるシーンがあった

龍馬は思想を盲信するような軽い人間でも、岡田以蔵のように命じられたら何も疑問も持たずに実行する

殺人鬼でもない、だから勝の家に行ったときは「ごめん!」と堂々と表玄関から尋ねていっただろう

「はいはい、おや?見慣れぬお人だが、さては俺を切りに来たのかい?」と勝

「事と次第によっては」と龍馬が笑顔で応える、どちらも余裕綽々、もう、互いの人となりにあらまし気づいている

「そうかい、そりゃあごくろうなこった、これじゃおれの首がいくつあってもたりねえな」

「・・・・・・」 「ああ、おれを殺そうってやつあ、いくらでもいらあね、まっ、それもいいが切るめえに話しを聞く

くらいはいいだろ、どうでい」

「急ぐ用事でもありませんから、それでけっこうですよ(土佐弁を標準語に翻訳)」

地球儀を龍馬に見せる、「これはなんですか?」

「これかえ、地球儀といって、オレたちが住んでいる星を小さくした型ってところかな、この大きな島がメリケンだ

こっちがオロシア、ここは清国だ、これが朝鮮」

「朝鮮は小さいですね、われわれの土佐はどこですか」「やはりおまえさんは土佐の人か、そうさなあ土佐はねえよ

この小さな島が日本だから江戸と長崎しかかいてねえな」

「何だって、日本はこんなに小さいのか先生!」「そうさね、こんな小さい島をとったのとられたのとおまえさん達は

毎日忙しく働いているのさ、ごくろな事だよ、世界はこんなに広いのによ」

「見てご覧よ、ごれがエゲレスだ」「これが!・・・・・日本とかわらない小さな島ですね」

「そうよ、その通りさ、だがエゲレス人はてえしたもんさ、こんな小さな島のくせに大船を作って世界の海に乗り出した

この大きな島も、この国もみんな今じゃあエゲレスが占領して自分の国にしてしまった、清国だってエゲレスが占領

したようなもんさ、ちまちました穴蔵住まいの日本人とはおおちげえだろ」

「...........」「おまえさんは土佐人にしては見所がありそうだ、どうでぃ、俺の所で修行してみないかえ」

こうして、勝に出会って世界感を持った坂本龍馬は、勝が創立した海軍操練所に学ぶことになった

ここでみっちりと操船技術や航海術、世界の情勢、先進国の武器や機械、貿易、国際法、天文学まで学んだ

龍馬はそれを活かして活躍して「海援隊」という組織を作り「亀山社中」という商社を後年設立することになる。

海援隊を最初に作ったのは坂本龍馬です、武田鉄矢ではありません、龍馬ファンでまねをしてつけただけです。

(因みに武田鉄矢は「功名が辻」で頑固な古参の家臣役で出ていました)

この操練所が閉校になって、いくところが無くなった龍馬を勝は西郷の所に連れて行く、そして薩摩屋敷でしばし龍馬は

居候した、そこで西郷と日本の未来を語り合ったことだろう。

そして、この勝-西郷-坂本ラインが出来たことで長州を救い、倒幕の起爆剤となるのだった。

                                                  つづく