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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

Yさんの思い出

2024年10月30日 08時43分14秒 | 昭和という時代
Yさんの奥さんが亡くなったと新聞の広報で知った
それで夕方、家族だけの通夜式前の一般弔問に行って来た
私は一番乗りだったので、妹と高校で同級生だった喪主さんが一人でいたから声をかけて、焼香のあとで少し話した
彼は富山市で精密機器の町工場を経営しているので、こちらの自宅はもう空き家になっている、だがそれは豪邸で空き家にしておくのが惜しいほどだ

Yさんの奥さんは99歳10か月だったそうだ、ずいぶんと長生きされたものだ
ただ10年くらい前から認知症になって施設に入っていた
Yさんは15年前に89歳でガンで亡くなられた
私の父より4歳年上で地元で魚の卸業を営んでいた、戦後まもなく東京からやって来た父が魚の行商を始めた時にYさんと出会ったのだった
それは険悪な出会いだったのだった
Yさんは27歳、父が23歳の時だ、どちらも負けん気の強い男同士で事あるごとにぶつかったらしい
父は当時、父より6歳ほど年上の魚市場の販売部長に商売のあれこれを助けてもらった恩義があった、一方Yさんは魚市場で販売部長と次期専務争いで対立する人から慕われていたので、アドバイザー的な存在であった

それがある時、たまたま兵隊時代の話になって、父は調布の陸軍航空隊の周囲に展開する高射砲隊所属、Yさんは隣の厚木の航空隊で戦闘機の整備兵だったことを知ってから急展開で仲良くなった
魚市場の義理人情より生死を分かち合った戦友の絆の方が強かったようだ
数十年後に父が戦友会で調布に行った時にはYさんも「おれも連れて行ってくれ」と一緒に戦友会に参加したほどだ。

Yさんは魚屋では結構大きな商売をしていて、土地の親分的な存在だった
地元選出の国会議員や、大病で東京の大病院へ入院した時も本で学んだ知識で大学病院の名医を相手に一理屈も二理屈も言って困らせたような人で、なかなか弁も立つ
見栄を張る、大風呂敷を広げる、人の上でなければ気に入らない人だった
寺の総代を引き受けたりとにかく地元では名物男であった
だから市会議員程度なら説教するくらい朝飯前だ
そんなYさんだが、父には若い時から一目置いていた
「不思議なんだよなあ、なぜか**くんには負けてしまう、いったい何が違うのかなあ」などと時々言っていた

若いころYさんと父と魚屋仲間2人で長野県にドライブしたそうだ
狭い山道で対向車とにらめっこになって、どちらかが下がらなければ動けない状態だった、相手は生意気そうな連中で「下がれ」とクラクションをやかましく鳴らしていたそうだ、Yさんもどうしたものかと躊躇していたら、父がいきなり降りて、対向車に向かって歩いて行って、窓から相手に何か言ったら、すぐに相手が下がったそうだ
それでYさんが驚いて「**くん、何を言ったんだ」と聞いたら、父は「別になにも・・・『クラクション鳴らしてましたが・・なにか?』と聞いただけだよ」と答えたそうだ
Yさんは「おまえの親父は穏やかな人間なんだが、急に薄気味悪い顔をすることがあるんだよなあ」と高校生の私に話したことがあった

ともあれ、そんな父とYさんは、Yさんが89歳亡くなるまで夫婦共々で仲良しで、一緒に旅行や日帰りドライブに行っていた、Yさんの奥さんと母は同い年だった
父が新店舗を開店した時には2m×1mほどの大きな油絵を寄贈してくれたり、村上堆朱の彫り物を贈ってくれたりと人を驚かすのが好きな人だった
父も負けずにYさんが魚屋を辞めると大晦日には氷見の寒ブリをお歳暮に贈っていた、どちらも負けず嫌いの見栄っ張りは一生ものだった
そしてYさんは地域の共同墓地の会長を務めたが、父も影響されて、こちらの地域の共同墓地の発起人になって会長になった

父は生涯、人に心を許さない人であったがYさん夫婦とだけは気が合ったようだ、Yさんの天衣無縫の性格に警戒心が強い父も心をわずかに許していたのだろう、この土地で唯一無二の友だった
これでまた四人があの世で揃った、また大きな声のYさんと冷めた顔の父が楽しく語り合うだろう。





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